愛に抗うまで

白樫 猫

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36話

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病院の前にタクシーで乗り付けた来栖は、縺れそうになる足でロビーへ駆け込むと、受付で名を名乗り虎太郎の病室を聞く。
そして小走りでロビーを抜け、階段を駆け上がる。
看護師が来栖の背後で、走らないで!と叫んでいるのに、まったく気が付かず走り去っていく。
病室の前に着くと、来栖は立ち止まる。
ここまで夢中で走ってきたが、どんな顔をして会えばいいんだ‥そう悩んでいると、病室の扉が開き、中から看護師が出てきて、目の前でぶつかりそうになる。

「あっ、すみません‥」

謝罪の言葉を述べると、看護師がニコリと微笑む。

「若奈さんのご家族の方ですか?」
「い‥いえ、私は若奈虎太郎の会社の上司です。病院から連絡を受け参りました。家族には連絡を入れてあるので、後から来られると思うのですが‥」
「あっ、そうですか‥えっと、若奈さんはまだ目を覚ましていないのですが‥」

看護師の言葉に、急に不安になる。

「えっ?あの‥どんな様子なんですか?大丈夫なんですよね?‥若奈は‥」

矢継ぎ早に話す来栖に、看護師がクスッと笑う。

「はい、大丈夫ですよ。入って下さい」

病室の中に促されベッドに近づくと、点滴に繋がれた虎太郎の姿があった。

「‥‥若奈‥」

自分が思っていた以上に弱々しくなっている姿に、来栖はフラフラとベッドに近づきく。
顔色も悪く、まるで血の通ってない人形の様な色をしている。
あの時は、暗闇で良く顔も見えなかったけど、最後にあった時よりもずっと痩せてしまっていた。

「‥なんで‥」

こんな姿を見て、涙が零れそうになり唇を噛み締めた。

「えっと‥会社の方ですよね?」

あまりにも打ちひしがれている来栖の様子を見て、看護師が不思議に思ったのか声を掛けてきた。

「あっ‥すみません、ちょっと感情的になってしまって‥」

慌てて取り繕うように苦笑いをするが、涙目は隠せなかった。

「‥はい。じゃあ、ご家族の方がいらっしゃったら教えてください。先生から病状の説明がありますから。あ~その前に、ご本人が目が覚めたら、そこのブザーを鳴らしてくださいね。お願いしても良いですか?」

看護師の言葉に、来栖は、はいと承諾する。
ニコッと微笑んだ看護師が病室から出て行くと、来栖は虎太郎の傍に寄り、呼吸音が聞こえてくるとホッとした。
それさえも愛おしく感じる自分に驚き、苦笑しながら虎太郎の顔を覗き込むと、唇の端に血液がこびり付いていた。

「‥‥これは‥血?」

病状などは家族でないので教えてくれないだろうと、聞かなかったが、大丈夫だと言う看護師の言葉を信じたい。
虎太郎の手が布団から出ており、その腕から点滴が伸びている。
痛々しい姿に胸が痛むが、その時、ふと気が付いたのは、虎太郎の手にも血液がこびり付いていた。

「‥っ‥‥なんで、こんな所にも‥」

どうして血がこんなに付いているのか分からないが、これが虎太郎の血液だと言う事は分かり、来栖は虎太郎の手をギュッと握り締め、何も出来なかった自分を責めた。
その時、足音がしてまた看護師が入ってきた。

「あっ、失礼しますね‥」

手を握っている来栖の姿を見て、思わず声が出てしまった看護師は、来栖の手に視線を送り、それに気が付いた来栖はハッと手を離す。

「‥あの‥若奈は血を吐いたんですか?」

唇の周辺と両手にこびり付いた血液を見ると、そうじゃないかと推測できる。

「‥そうです‥あっ、まだ取れてませんね‥病院着に着替えさせて頂いた時に、ザっと拭いたんですが‥すみません。今タオルをお持ちしますね」

看護師は申し訳なさそうにそう言って、病室を出て行ったが、来栖は看護師の着替えをさせたという言葉に引っ掛かっていた。
もしかして‥あの身体を、傷付いた身体を見られてしまったのだろうか‥。
改めて虎太郎を見ると、看護師の言う通り病院着を着ており、見える首元には、あの時の様な痛々しい傷は見えなかった。
ただ、あいつが付けたであろう痕が、薄っすらと残っているだけだった。
しばらくすると、看護師が洗面器に温かい湯を張り、タオルと一緒に持って来た。

「少し、綺麗にしますね~」

優しく虎太郎に触れようとした時、来栖が口を開いた。

「あの‥私がやってもいいでしょうか?」

おずおずと申し出た来栖に、看護師は一瞬驚いた顔をしたが、すんなりと湯で絞ったタオルを渡してきた。

「はい、ではお願いします。終わったら、そこに置いておいてください。後で回収しますから」

そう言って看護師は再び退出していく。
来栖は渡されたタオルで、まずは口元を拭う。
温められた血液が鉄の匂いを発し、続いて両手の指を一本ずつ丁寧に拭っていく。
指の間にも爪の間にもこびりついている血液は、なかなか採れず、優しく触れる様に拭う。

「‥‥んっ‥んんっ‥」

拭っている手がピクリと動いたと思ったら、虎太郎の声が漏れる。

「わ‥‥若奈?」

頬に優しく触れると、ピクピクしていた瞼がゆっくりと開かれる。
そして何度も瞬きを繰り返すと、驚いた表情をする。

「‥‥く‥るす‥しゅにん‥」

掠れた声が虎太郎の口から聞こえ、来栖は今にも泣きそうな顔をしていた。

「ああ、お前‥病院で倒れたそうだ‥もう大丈夫」

そう言って、優しく微笑む来栖の顔を、虎太郎はマジマジと眺めている。

「‥どう‥して、ここに‥‥」
「ああ、倒れたって会社に連絡が入った。心配したぞ‥目が覚めて良かった‥」

凝視して見開いていた虎太郎の瞳から、スーッと涙が零れ落ちた。

「‥ご‥ごめん」

自分が虎太郎の頬に触れていた事に気が付き、慌てて手を引っ込める。
来栖は手を伸ばし、ナースコールを押した。
すぐに看護師が来て、虎太郎の傍に寄り、体調はどうだと聞いていた。
そして、その後すぐに白衣を着た医師が到着し、虎太郎の診察を行うと言われ、来栖は廊下に出されてしまった。
来栖は電話が出来る場所まで移動し、市原の携帯に連絡を入れる。

「若奈の意識が戻りました。あまり詳しくは聞けないのですが、大丈夫なようです。今、医師が診察をしています」
「そうか、良かった。そうだ、若奈の家族には連絡を入れたが、今日は病院には行けないそうだ。遠方だからな‥明日には行けると言っていたが‥まぁ、若奈の意識が戻ったのなら、後で自分で連絡を入れる様に、伝えといてくれ」
「分かりました‥課長、いろいろありがとうございました」

自分が迷っている時に、尻を叩いてくれた市原に感謝していた。

「ああ、礼を言うのは、若奈を取り返してからだ‥頼んだぞ、来栖」
「‥はい」

来栖はもう迷わなかった。
ベッドにグッタリと眠っている虎太郎を見て、ようやく気が付いた。
この手を離してはダメだと言う事に‥。

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