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本編 (2024 11/13、改稿しました)
2.エプロン
しおりを挟む司とは金曜日の夜にディナーの約束を交わした。
予定が決まった水曜日から支度をどうするか……猶予をくれた司に感謝をしながらも千代子は着て行く物をオシャレ着洗剤で洗濯したり、あれこれ悩んだりしていたのだが気がつけばあっと言う間に約束の金曜日。
待ち合わせの時間が差し迫る夕暮れ時の千代子の部屋。
夜なら比較的はっきりとしたメイクの方が映えるけれど、と必要以上に濃くなり過ぎないよう、それでも薄化粧ばかりになってしまっていた最近の自分の顔にとんとん、とパフでパウダーをはたく。アイシャドウもブラシで丁寧に、慎重に色を乗せてゆく。フォーマル寄りの服装、ディナーと言う事で下品さが無いように仕上げのリップは控えめにほんのりと色づく程度に済ませる。
千代子は司にも、自分にも気を使って支度をする。
丁寧に化粧をしているとどうせ自分なんて、とないがしろにしてきた大きな代償による心の傷が少し、癒えるようだった。
くたびれ、傷ついてしまった心に自分で手当てをするように好きな色をまぶたに乗せ、彩ってゆく。
それに今夜は十年以上、会う事のなかった十代の自分を知る人物と――当時憧れていた人と大人同士、食事が出来るのだ。
持ち物ってこれで良かったっけ、とスプリングコートを羽織る前にお財布やハンカチ、化粧直し用のコンパクトやリップが入っているポーチを確認してクラッチバッグに納める。最後まで手元に置いてあったスマートフォンにはちょうど、仕事が終わったから今から待ち合わせ場所まで迎えに行く、と司からのメッセージが届く。
分かりやすいように最寄りの駅前での待ち合わせ。それは千代子が借りているアパートの詳しい場所が分からない程度の節度を守った距離だった。
二十分もあれば着くと言う司のメッセージ通りにコートを羽織った千代子は久しぶりにヒール履いてアパートから駅に向かう。そしてあまり待つ事も無く、数日前に見た黒塗りの高級車が彼女のすぐそばで静かに停車した。
それと同時に降りて出て来たドライバーが「小倉様、どうぞ」と司から本名を聞かされていたのか丁寧な声色と所作で後部座席の扉を開けて乗り込むよう促してくれた。
「こんばんは、ちよちゃん」
中にいた司が挨拶をしてくれる。
「こ、こんばんは!!」
挨拶にはちゃんと挨拶で言葉を返したものの妙な恥ずかしさから声が少しつかえてしまう千代子に司は優しく笑いながら迎えてくれる。車内に乗り込む為に少しだけスカートの裾を畳んでから千代子はそっと彼の隣のシートに座る。司は仕事帰りのままのようだったが今夜も高そうなスーツの質感が夜の暗い車内でもよく分かった。
話を切り出そうにもどうしたら良いのか、いい大人とは言え長らく会っていなかった憧れを抱いていた人との車内。緊張する千代子に気を利かせてくれたのか、司の方から話を切り出してくれた。
「ちよちゃんもすっかり大人になって」
「司さんも身長が」
「うん、そうだね。今は184くらいだから高校生の時から結構伸びたかも」
「私の目線よりちょっと高いくらいだったような」
記憶の中の司と今の司は別人、とは言わないが素敵な男性に見えるのは間違いなかった。本当に……きっとこんな人が身近にいたら女性たちは絶対に放っておかない。自分だって、もし幼馴染に近いこの関係性じゃなかったら司の事を、とそこまで考えた千代子は思考を止める。
(私には今の司さんは眩しすぎる、かな)
眺めているだけでいい物、と言うのは実際にある。
手に入れたいとかではなく遠巻きに、そこにいてくれるだけでいい、と言うか。会話を途切れさせないように、それでもゆっくりと穏やかに話をしてくれる司から感じ取れるのは昔と変わらない優しさ。
予約の時にコース料理を頼んだんだけど、と言う司に多分――それらの支払いは全て彼が持ってくれるのだと分かってしまう千代子は申し訳なさをぎゅ、と膝の上のクラッチバッグの端を握ってやり過ごす。
到着したのは料亭の門前。もう少し気軽な場所を予想していた千代子は目を丸くさせ、固まってしまった。そんな千代子にさりげなく体を屈めて視線を合わせた司は「行こう」と言葉を掛ける。
現代で、靴を脱いで上がるようなドラマの中でしか見た事のない料亭そのものが千代子の目の前にあった。
夜と言う時間のせいか厳かさすらある中、客室係に促されるままに千代子の着ていたコートは預けられ、脱いだパンプスも年季のいった靴箱へと回収されてしまう。
畳敷きに直接座るのではなく、テーブルと椅子のスタイル。二人きりの個室は千代子のアパートの部屋より広かった。
慣れない場所どころか料亭で食事、と言う体験をまずした事が無い。どのような作法で食事をしたら良いのかすら分からない千代子にとって通された場所が完全な個室、と言うことで他の者の目が無い事にとりあえず安堵する。多少の粗相も司なら許してくれるに違いない。
出される食前酒の白ワインの多分高そうな銘柄も、何もかもが千代子にとっては初めての経験。終始、目を丸くさせている彼女を前に司も嬉しそうに柔らかな笑顔を向ける。
普段は言葉の少ない司ではあるが千代子が困っているような仕草や目線をしているとすぐに気が付いてフォローに回る。
「ちよちゃんはお酒、強い方?」
「うーん……どうでしょう、そこまで飲んだ事もないんですけどお付き合い程度には飲みます」
「家で、とかは」
「甘いのを少しだけですね。最近はひと缶飲みきれないかも」
口当たりの軽い白ワインのグラスが千代子の指先に摘ままれていたがそっとテーブルに置かれ、そうこうしているうちに和テイストのコース料理が運ばれてきた。
彩りの良い皿に「どうやっていただけば」とつい本音をこぼして凝視している千代子のここ数年の質素な食生活。自分なりに豪華な具材を詰めたおにぎりを頬張っていたつい先日。
しかしながら司が選んでいてくれた料理は華やかさはあれどもそこまで気取らずに、全てがお箸で食べられると知った千代子は胸を撫で下ろしながら食事を始める。
「司さんはいつもこんな感じで」
「そうだな……仕事の延長としての食事会はあるんだけど普段の夕飯はテイクアウトとか買ってきたものを家で食べてるよ」
司の言葉に千代子は意外、の視線を向ける。
「今日はちよちゃんとだから、特別」
「……っ、そ、そんな私は」
たぶん司は無意識に女性の事を翻弄している、と千代子は思ってしまう。なんでもない事のようにさらりと大胆なセリフは千代子の少し寂しかった心に見事、刺さってしまった。それに自分を昔と変わらず『ちよちゃん』と呼び続けてくれる事も三十歳になったばかりの千代子にはここが個室で本当に良かった、と思わせる。
嫌では無くとも、沢山呼ばれると恥ずかしい。
いつもだったら三十分もあれば終わってしまう夕飯もゆっくりと時間を掛けて味わい、ちょっとしたデザートと食後のワインも済ませればそろそろ出ようかと司は言う。呼ばれる客室係からコートを渡されてそのまま二人で……と支払いは、と千代子が心配してしまう頃。一応、ATMで下ろして来てはある。そもそも料亭と言う場所の支払い体系が分からない。
「あの、司さん」
「さ、帰ろ」
うう、と言葉が出なくなってしまっている千代子の戸惑いの表情を軽くいなすように「心配しないで」と頭一つ分低い千代子に司は少し屈んで言う。
「ちよちゃんが心配する事は何もないし、もし気にしてしまうようだったら……私の部屋で少し飲むの、付き合ってくれる?」
「も、もちろんです!!」
それくらいしか出来ませんけど、と困ったように笑う千代子。
先日は流石に司の部屋に訪れるには早過ぎたが少しお酒の入っている千代子は司の提案を飲んでしまった。
「そんな訳で持ち帰りの軽食も頼んでおいたんだ」
帰り際の司に手渡される紙袋。
何もかも、用意が良い。
いつ呼んだのか、それともずっと近くで待機していたのか、すぐに二人の元に到着する車。行きに送って貰った時と同じドライバーが千代子から先に車内へ案内をする。
司も勝手にもう片方から乗り込めばすぐにドア側に回ったドライバーが扉を閉める。
「ちよちゃんを強引に招いておいて悪いんだけど私の部屋、本当に引っ越して来たばかりで荷物が段ボールに入ったまま置きっぱなしだったりするけど」
「全然、そんな……気にしないです」
「良かった。ちよちゃんならそう言ってくれると思ったよ」
散らかっている、とは言っても司の事ならきっとそれでも綺麗な方に違いない。仕事が忙しいのかな、と自分を夕食に誘ってくれる時間を無理に作らせてしまったのではないかとまたここで千代子は心配してしまう。
・・・
司にエスコートをされるままに見上げてしまう程の高層マンションへとやって来た千代子。エントランスにはコンシェルジュが夜間も常駐しており、さも当たり前のように上階フロア専用の高速エレベーターに乗せられた。
そして通された司の部屋。
まるで借りて来た猫のように丸い瞳で艶消しがされた黒い革張りの大きなソファーで固まっている千代子。お行儀よく、膝と膝をくっつけて「ちよちゃんは座ってて」と言われたままに本当に動けずに座っているだけだった。
そんな動けない千代子の視界には確かに無地の段ボールが数ヵ所に分けられて置いてある。まだ手つかず、と言うように封がされているようだった。
「本当、片付いてなくてごめんね」
段ボールは置きっぱなしになっているが少し見渡してみても家具などは少ない印象。
最新のマンションだから収納が充実しているのかもしれない。それにここは何畳……畳で数えるのもはばかられるような千代子の部屋が軽く五つは入りそうな広々としたリビングダイニング。そう、ここはまだリビングであり他にも部屋があるのは明白だった。
「ちよちゃん今日ずっと目が丸くなってたけど大丈夫?」
驚いたり、自分の許容範囲を越えている時に見られる千代子の癖。
「初めての事ばかりで……こんな広いお部屋も」
明るい紺色の千代子のフレアスカート、膝の上に置かれた指先が動いて僅かに皺が寄る。
頑張って司と釣り合うようにオシャレをしてみたが終始、司に迷惑を掛けまいとしていて今も緊張が解けずにいれば「上着、置いてくるね」と多分司はプライベートな部屋、寝室の方へと行ってしまう。
一人、ぽつんと残された千代子。
どうして今、この場所で急に目元が熱くなってしまうのだろう。
丁寧にメイクをした目元が、滲んでしまう。
ここ最近ずっと一人ぼっちで、心の平穏を優先して静かに暮らしてきた。そんな中で再会した司の、自分の全てに対する気遣いや優しさが今になってどうしようもなく心を揺さぶって、涙が溢れそうになる。
自分はこんなに弱くなかった筈なのに、ずっと、ずっと我慢して、頑張って。
司が与えてくれる優しさに図々しくも甘えてしまいたくなる。そんなの駄目、身勝手すぎる、と千代子の思考は強く、自らを責め始めてしまう。
「ちよちゃん……?」
ネクタイも抜いてカジュアルにワイシャツとスラックスだけになってすぐに戻って来た司の目にあったのは一人、ソファーで申し訳なさそうに小さくなって――まるで涙をこらえているような千代子の姿だった。
手には先ほどまで無かったハンカチが握られて、鼻先が少し赤くなっている。
「ごめ、っ、なさ……いっ」
司の声に途端にぼろぼろと堰を切ったように千代子の双眸から大粒の涙が溢れだし、明るい紺色のフレアスカートに落ちていく。
いくら子供の時からの知り合いとはいえ、いきなり泣き出してしまう女性……食事中とはまるで違う様子に司はそっと隣に腰を下ろす。
自分よりも一回り小さな肩は震え、溢れる涙を堪えようとしている。
「わたし、こんな……司さんに、めいわく」
大丈夫だよ、の言葉の代わりに司の手のひらが千代子の背を撫でようとして……躊躇う。もしかしたら千代子は幼馴染とは言え急に一人暮らしの男の部屋に食事代をカタに呼ばれてしまったのが怖くて、と司は自分の手を千代子の背から離し、様子を伺う。
止まらないのか、目元を押さえるハンカチからも涙は滑り落ちてスカートを濡らしていた。
「私の方がいきなり連れ出して、部屋にまで呼んでしまってあまりにも無神経だった。ちよちゃんに会えたのが嬉しくて……怖かった、よね」
「ちがう……ちがうんです、わたし」
ひくり、と口を開いたせいで抑えきれなくなった嗚咽が千代子の肩を強く震わせてしまう。しかし自分の強引な行いで泣かせてしまっているのではないと知った司は「何か、ちよちゃんの中で悲しい事があったのかな」とそのままそっと千代子の震える背に手を添える。
手当て、と言う言葉がそうであるように「今日は話せる事だけでいいから、ちよちゃんが今思っている事を私に話してくれる?」と撫でるでもなく手は添えたまま、優しく声を掛ける。
少し落ち着いた千代子の口から語られたのは最近の暮らしぶりだった。
仕事だけではなく、何もかもを手放してしまいたくなったこと。今はまだ休息の期間だと焦る自分に言い聞かせ、どうにか暮らしていた中で司と再会したこと。こんなにも丁寧に優しくして貰ったのになぜか急に不安になって涙が込み上げて来てしまった、と。途切れ途切れではあったが千代子の声で語られた涙の訳を司は黙って頷きながら聞いていた。
千代子の、この高層マンションの下で出会った日の買い物途中だと言う素朴な姿も可愛かったが今夜の千代子の品よく綺麗にセットアップされている姿は司の目にとても美しく映っていた。
似合っている落ち着いた服も、化粧も、きっとよく考え……しかし千代子の抱えている悩みや心の傷、寂しさなんて司も当然知らなかったし、気付けなかった。
それくらいに今はまだお互いに距離がある。
ただ、今は後ろめたい。
驚きと嬉しさのあまり、自分が今持っている仄暗い権力を振るってしまった。千代子と再会したあの日、あの時。耳打ちをしたドライバーに千代子の居場所を調べさせ、翌日も周辺に張らせた部下に千代子の動向を調査、尾行させた挙句――盗撮を仕向けた。大きな公園の木陰で一人、のんびりと足を伸ばしておにぎりを頬張っている遠巻きの千代子の姿が特に気に入っていた。
そんな千代子は誰にも相談出来ず、ずっと一人ぼっちだったのだ。
未だ堪えようとすすり泣く千代子の背に優しく手をあてながら、司は自分の心の中にどうしても持ち合わせてしまっている黒く澱んでいる欲望がふつふつと音を立てて熱く滾り出すのを感じてしまう。
――ああ、可哀想な千代子。ちよちゃん。
誰にでも公平であった少女だった日の千代子。
不平等さや理不尽に疑問を持つ事が出来た優しい女の子。それはまだ子供がどうこう出来るような事柄ではない、とても難しい話なのだとまだ分からなかった幼過ぎた年頃……。
思春期を迎え、それでもきっと彼女の心は真っ直ぐで、繊細だった。
やっと落ち着いてきた様子を見た司は千代子の背から手を離す。
「お酒はやめて、アイスコーヒーにしよっか」
千代子がハンカチで目元を何度も押さえる姿にソファーから立った司はパウダールームの場所を教える。涙で崩れてしまった化粧など司は何も気にしていなかったが女性にとってはそうも行かない。
ぱた、ぱた、と少し間のあるテンポの悪いルームシューズの音がなんとも頼りなく、千代子に終始、優しい眼差しを向けていた司ですら眉根を緩く寄せてしまう。
千代子がちゃんとたどり着けたのを確認した司はキッチンに回ると普段から出しっぱなしにしていたワイングラスではなく、丸いフォルムのアルコールでもソフトドリンクでも合うグラスを出して千代子と自分の為にアイスコーヒーを用意する。
暫くしてから戻って来た千代子は司に勧められたアイスコーヒーを受け取り、よく冷えたそれをひと口、飲み込む。
司に伝えたおかげか、ずっとわだかまりとして存在していた胸の重さが少し軽くなった気がした。
恥ずかしくも泣いてしまったが司はとても真摯に受け止めてくれた。たとえそれが大人としての社交的な建前だったとしても、確かな安心感が千代子の心に静かに染み入る。
「本当に、ごめんなさい」
「私はちよちゃんがすっきりしたならそれで構わないから」
まだ少しぐすぐすとしている自然な千代子の姿が司の目にはどうしても、彼女に対して不誠実だと分かっていても可愛く見えてしまう。
涙で崩れてしまった所をパウダーで押さえてどうにかしてきたらしい千代子。その頬に触れたらきっと、さらさらと滑らかなのだろうとよこしまな考えが浮かんでしまう程に司は千代子の全てが愛しかった。
だって彼女は私の……と司は置きっぱなしになっていた紙袋に視線を向け、手に取る。
「これ、一人前ずつに分けられているからちよちゃんも一つ持って帰っ、て……」
自分の分を取り出し、紙袋の方を千代子の座っている前に置いた司はまだ涙を堪えているような千代子に眉尻を下げる。
「ちよちゃん大丈夫?タオルなら」
緩く首を横に振った千代子の切なそうな表情に司は息を飲む。あまり、今夜の彼女をここに長居させていてはいけない。
千代子の振り絞るような「大丈夫です」の声が、自分の隠し持つ獰猛さを焚き付けようとも……心の底にある黒い澱みに弱っている千代子を引きずり込むような真似はしたくなかった。
人心掌握のすべを知っているからこそ、それだけは……と司は一人で歩いて帰れると言う千代子を下階まで送り、その日はそれで彼女と別れた。
・・・
司の職は社長業、経営者、と言う名称よりもグループ企業を統括する管理者に近い取締役。上がってきていた書類に目を通す作業を止め、煙草休憩から「ただいまー」と丁度戻って来た細身の男に「お前に任せてある派遣事業の中にハウスキーパーがあっただろう」とおもむろに問いかける。
「ええはい、それなりに需要がある世の中ですからね。そっちの先月の収支ならもう上がって」
「いや……人を一人、雇わせたい」
「兄貴からの紹介なら全然構わないッスけど」
「本人にはまだ話をしていないが多分、条件を飲んでくれると思う」
「へえー……ってもしかしてこの前、兄貴が珍しく晩飯に誘ったオンナ……」
勘ぐる細身の男に「“オンナ”ではなく若の幼馴染の御嬢さんだ」と忠告をするのは中年の恰幅の良い男の方だった。
「幼馴染……こんな気難しさの塊みたいな兄貴に……」
「おい松戸」
「だって芝山さーん」
松戸、と呼ばれた方の細身は「雇うって、あー……っと兄貴の新しい部屋の家政婦さんに?」と問いかける。
「と言う事はその御嬢さんは今、職を探して」
「ああ。少し、社会人生活に疲れたみたいでね……彼女のような気の優しい若い人材を搾取した挙げ句に“飼い殺し”にするなど、私たちよりもよっぽども悪手だ」
「ああ、相当ブラックだったンすね……。ウチは単価ちょっと低い代わりに絶対に明朗会計ッスよー。働き方も支払い体系も個人である程度は選べるし」
そうだったな、と頷く司は話が進められたらまた、と言う。
何故かいつも司の執務室に入り浸っている松戸。彼が社長として管理をしている人材派遣事業の中にあるハウスキーパー、ひと昔前の家政婦業。日常的な掃除機掛けなどの軽いハウスクリーニングのみや食事の用意のみ、拘束時間の長い物から二時間程度の短時間と様々な形で提供されている昨今、人気のサービス業。
司は、千代子を雇用しようと考えていた。
職権乱用、コネ採用……と珍しく他者、しかも女性に関心を寄せている司を兄貴と慕う松戸だが、司より一つ下なだけで歳は離れていない。
そして彼らの話を聞いていた芝山と呼ばれた恰幅の良い中年の男は司が管理しているグループ企業内で社長業をしている松戸とは違い、司の為の秘書や付き人としてオフィスに詰めていた。まだ若い司に付き、会食などで接触する人物についてなども調べ、管理している。
司が持つ表と裏の顔、その両方ともに松戸と芝山の二人は関わっていた。
「若、近ごろの親っさんはどうですか」
「相変わらずだよ。たまにはお前も本家に顔を出してやってくれ。親父も肺を悪くしてから半ば極道から引退しているとは言え、私の魂胆を知っているのか……組長の座を明け渡してくれない」
「何か思う所があったとしても親っさんは昔から強情ですからね。俺が役付きにもなれていない丁稚のペーペーだった頃から、本当に変わらねえ方だ」
昔を懐かしむ芝山に「おっかねえ芝山さんにもぺーぺーだった時期があったんスね」と松戸に言われるが「当たり前だろう」と彼は返す。
「御父上の元から本家に移られた若も、本家今川に入って来たばかりの松も、まだ十八にすらなっていなくて……ああ、私たちももう随分と長い付き合いになりましたね」
「確かに“実父や親父”よりも二人と暮らす時間の方が長くなる、か。芝山も親みたいなものだな」
「えーパパ厳つ過ぎッスよー、俺こんなパパ嫌だ」
「俺がお前の親父?止せよこんな硬派のコの字もねえような細長ぇチャラい息子。それよか松、お前ちゃんとメシ食ってんのか?」
「芝山さんこそなんで五十手前でそんなにガタイ良いンすか。何食ったらそうなるンすか」
軽口を叩く松戸に特に注意するでもなく乗ってやる芝山。そのやり取りを軽く笑って聞き流す司は二人の事だけは心から信頼していた。
かつて寝食を共にし、勝手知ったる仲はもはや“家族”と同等である。
それは千代子の知らない彼らの特殊な……極道者としての親と子の関係性。
事実上の使用者である司の方は芝山より若くとも親たる上座の存在であり、二人はその舎弟であり子にあたる下位の身分。
司が座している若き経営者としての明るい表側の席とは別の――裏側のその席は今、暴力団組織が寄り集まった関東広域連合の会長の座に一番近い物だった。
それは司が親父と呼ぶ“本家今川組”の組長が連合自体の若頭であり組も当然の事ながら連合の直系、大幹部の一人であるからだった。規模は時代の波に押されて縮小されつつあったが今でも“本家今川組”は古参、頂点の格を持っていた。
現在、本家今川組の組長は本来ならば連合の会長となっても良い年齢だったがその席は兄弟分の組長、入谷に譲ってしまった。本家今川組の組長である今川進は栄華を誇ったバブルの時代を過ぎ、暴対法の厳しい強化により暴力団組織としての形態の大きな変化に奔走した結果、長年の無理が祟ったのか肺を悪くしてしまった。今では簡易的ながらも呼吸を補助する機器が常に必要となり、表側の経営者としても引退し、隠居生活をしている。
そしてその人物は司の本来の意味での“親”ではない。
書類上は養子縁組が行われた養親子、義理の親子関係だった。
しかしながら司が現在も名乗る“今川”の名字は千代子が知っているままに、変わっていない。
司にとって義理の父親である本家今川組組長、今川進には連れ添う妻が今もいるが子供がいなかった。
バブル時代に“今川三兄弟”と呼ばれ恐れられていた――司の義父である進が長男、次いで今は鬼籍の次男がおり、そしてその三兄弟の末である三男、今川修が司の本来の父親だった。
つまり元は伯父と甥の関係。
進は司がまだ小さな時から事業が忙しいと言うのによく家に顔を出しに来ては大層、司の事を可愛がっていた人物だった。
・・・
司に自分の現状を打ち明けた日から数日。
相変わらず司は朝の挨拶や手が空いているらしい昼にも気軽なメッセージを千代子に送っていた。
すっかりそれに慣れて来た千代子も他愛のない短い会話を交わす中にもちょっとしたことを――その日に作った料理の写真を添付していた。
今の所、それくらいのごく緩やかな日常を千代子は送っていた。
誰かに見せる訳でもなく、自分だけの記録だった料理の写真。少しはおしゃれに、良く見えるように盛り付けを彼女なりに研究している事は司には秘密だった。
世の中の手料理関連のインフルエンサーのような現実味が薄れているほどの凝った事はしていないが家庭的な、千代子なりの工夫は凝らしている。
そんなやり取りをしている内に司から一つ、依頼をされる。
また週末の、今度は土曜の午前中。
部屋に来て、一緒にあの積み重なっていた段ボールの中の荷物を開封して欲しい、との依頼。もちろん、司には大きな借りがある千代子。
あの料亭でのディナー、そして司の部屋で年甲斐も無く泣いてしまい彼を酷く困らせてしまった挙句に話まで聞いて貰ってしまった。
気まずさはまだある、けれど。
千代子は司からの依頼を了承する。
とんとん、と指先で返信を打っていると司から「ちよちゃん製のランチも一緒にお願いしたいんだけど」と先日送った軽いランチプレートの内容をなぞらえているメッセージが先に届く。
それくらいなら千代子もそこまで気後れせずに用意が出来る。
供にしたディナーの席で普段の司はテイクアウトが多いと言っていたのできっと濃い味付けに疲れているのかもしれない。千代子も働いていた時分、既製品にうんざりしてしまっていた時期があったのでその申し出にも納得するが本当に司はそれで良いのだろうか、と疑問がわく。
自分が作る家庭料理を誰かにしっかりと振る舞った事はない。
この生活になって冷蔵庫の中にある物を余らせないよう、無駄にしないようにやりくりはしてきていたが……司のような人に振る舞っていいのだろうか、とまた悶々と悩み始めそうになる。
それでも既製品の濃さよりは、と千代子は自分の経験を思い出すと気を持ち直して何か他にも食べたい物はあるか司に問いかけたがそこで返信が途絶えてしまった。
また司の手が空いている時にでも返って来るだろう、と千代子は軽く考えてどんなランチにするか幾つか頭の中で候補をあげる。司に送った写真の通りのレシピにするなら主食は洋風炊き込みご飯――しかし、あのまっさらな部屋にはたして炊飯器はあるのだろうか。自炊をしていないようだった司の話を冷静に思い返せばそこは近所の老舗パン屋さんで美味しいバゲットを一本、調達してきた方が良いかもしれない。
一応、ご飯そのものは食べているだろうが炊いたご飯を丸ごと持って行くのはちょっと、どうなんだろうか。
それに司は身長が高く、筋肉もありそう。
184センチ、と聞いているのでごく平均的な身長と体重の自分とは一日で消費するカロリーも違うだろうからいったい、どれくらい食べるのか。司については知らない事ばかりだった。
(そう言えば司さんってやっぱり会社勤めなのかな)
そう言った所も聞けていないがまあ、号泣しながら打ち明けた自分とは全然違うしっかりした男性にあまりずけずけと踏み込んだプライベートを聞くのも良くない。司が教えてくれる気になったら、でいい。
とりあえず週末の予定がまた出来てしまった千代子。
調理となると司の前とは言えエプロンをした方が良い。普段自分一人だとそう言った事もしていないので一枚も持っていなかった。
(エプロン、か……)
部屋にこもりがちでいた千代子はふと、雑貨屋さんも久しく覗いていないな、と思い立って壁に掛かっている時計を確認する。
今からメイクをして、近所のいつものスーパーじゃない場所へ出掛けてみようか。
(そうだ。あの日もピクニックに持って行くおにぎりの具材と、いつもとは違う新しいスーパーへ気になっていたオリジナルのホットケーキミックスを買いに行って、それで)
出掛ける度に、自分を取り巻く環境が変わってゆく。
思いがけない司との再会、久しぶりのオシャレ。びっくりするような料亭での食事、そして司に胸の内を打ち明けて……ひとつひとつが確かに数えられるくらい、変化がある。
今日もまた、ひとつ。
それは自分の為でもあり――司の為にも。
支度を済ませた千代子は小さなアパートから出ると駅のある方へ、足取りはまだゆっくりでも外の空気を体に感じながら前を向いて歩き出す。
片や、まだ仕事中である筈の司は自分が作って貰いたい手料理があまりにも多過ぎて考えがまとめられず、大きなデスクに両肘をついて緩く組んだ手で額を軽く支えながら思い悩んでいた。
自分から頼んでおいて、他に食べたい物は無いかと問われただけなのに全くもってどう返事をしたら良いかが分からない。
「若、頭痛なら薬を出しましょうか」
「さっきからめっちゃ痛そうに見えますけど」
「いや……違う。松戸、お前何か食べたい物はあるか」
「え、兄貴の奢り?久しぶりッスね!!肉が良いッス!!」
そうではない。
ならば芝山は、と問いかければ「俺は焼き鯖定食ですかね」と返されてしまう。
ああ、とさらに項垂れるように頭を下げてしまった姿に芝山と松戸も本当に珍しいモノでも見るような表情で、ひどく思い悩んでいる司の様子を黙って見守るしかなかった。
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