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第一話、すず子と三毛猫
(五)
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汗も引き、着る順番を教えて貰いながらたまちゃんとお揃いの装束を「寝巻きだから袴の着付けはまた明日ですね」と説明を受けながら身に纏う。
そこまで難しい着方じゃなかったから、何回か練習をすれば着るのは問題ないとして。
たまちゃんは“下着となる下履き”を用意してくれていた。
下着と言うかこれは腰巻と言う、昔の女性が身に着けていた方の下着。
これを身に付けても今の世の人の子は不安になってしまうの、とにこにこしているたまちゃんには言えなかった。
正直、風通しがいい。
私が着ていた服は洗ってくれるそうで預けたけれど、本当にここで何日も過ごすのなら人間用の下着だけはどうか用立てて欲しいと三条さんに言おう。もちろん、ブラジャーもない。一応、中に着た肌着代わりの襦袢は思ったよりも厚手で大丈夫ではあったけれど上下共にあまりにもシンプルすぎる。
そんなお風呂上り。
こちらですよ、と言われるがままにたまちゃんについて行く。
深い柿渋色の艶のある廊下をするすると歩く子の後ろを歩いていれば、どこに向かっているのかくらい私にも分かった。
近くなるにつれ、あたりに下がっている布地や御簾が豪華になっている。
足を止めたたまちゃんが「玉乃井でございます。奥方様をお連れしました」と中に声を掛ける。いやだから、私はお嫁さんでも奥さんでも……と困ってしまうけれど部屋の中から特に返事はなく。
それでも「どうぞ、中へ」と恭しくたまちゃんが木の引き戸を引く。
「中でお待ちになっていればじきに国芳さまも御出でになられます。ね、お優しい方ですから、大人しく首を差しだしていればすぐに済みます」
またこの子は……もう、腹を括るしかないのだろうか。
一緒に部屋には入ってくれない白い耳の子はそそくさと戸を閉めてしまった。
二十畳くらいはありそうな板張りの広い部屋の奥、重ねられた畳で一段高くなっている場所に布団が用意されているに違いない。
紛れもない、ここは三条さんの寝室、寝所。
四方が豪華な着物のような柄の布……国語と歴史の教科書で学んだから覚えている“几帳”でゆるく仕切られはしているけれどそこがどうなっているかくらいわかるほど、隙間が空いている。
どうしよう、と帰り方も分からない私はその場で立ち尽くしているのもどうかと思い、何となく布団がどんな物なのか気になって几帳の間から覗いてしまった。座布団の刺繍が肉球だったから、つい、出来心で。
「ああ、もう上がっていたのか」
「ひ、」
もう少しで悲鳴を上げそうになった代わりに思い切り肩が跳ねた。
足音が何もない。布を引きずる音も……と振り返れば白い着物姿の三条さんがいた。寝間着、だろうけど。
あの派手な羽織りものも肩に提げていない。だから何も音がしなかったのかな、と猫の習性を思い出す。彼らは足音を立てない。だからさっきたまちゃんも袴の擦れる音だけでなにひとつ、足音を立てていなかった。
「寝るにはまだ早い。お前、酒は飲めるか」
「少し、なら」
それなら付き合え、と言う三条さんはさっさと几帳の中に入って行く。
「寝酒は黒に止せと言われているんだが……どうした、座らないのか」
失礼します、と敷布団ではなく手前の畳の上に膝をつこうとして三条さんの顔が険しくなったのを見た。耳も下がっている。
「……失礼します」
綺麗に整えられている敷布団の上に、三条さんのすぐそばに正座をすると今度は満足そうに耳が立つ。枕元にある猫足の膳台には白い陶器の地に金色の筆文字で『御神酒』と書いてある大きな徳利が一つと二枚の白い盃。三条さんはその徳利を掴むと慣れたように盃に注いでいく。
それ、神様にお供えしたやつでは。
本当に飲んでいるんだ、と思わず凝視してしまった。
「どうした、珍しいか?」
「いえ、あの……私、ここで暮らしては駄目な気がして来て」
浮世離れした世界。
自分はこの場所にいてはいけない気がする。
これは、生きた人間の本能だろうか。
「帰りたいか」
「え、っと……」
「お前が帰りたくとも三日は無理だろうな」
「な、にを、言って」
「茶を、飲んだだろう」
お風呂上りで温かかった体から、音を立てるように血の気が引いた。
三条さんの言葉の意味を私は知っている。
あちらの世の食べ物を口にしたら“帰れなくなる”と。
どうして私はそんな大切な事を思い出せなかったのだろう。
どうして差し出された物を迂闊に口にしてしまったのだろうか。
「茶を飲んだ程度なら三日も食わねば帰れぬ事もない……」
ぐい、と盃を煽った三条さんが私の白い寝巻きの裾を踏んで、そのまま。
「んぐ、っ」
いや、やめて、と顔を背けても引き下げられた顎と動けない体を驚くような力強さで拘束されて、口の中に日本酒独特の果物のような芳香が流れ込んでくる。
口の端から流れる物を拭う事は許されず、吐き出してしまう事も許されない。飲み込まないなら、と酷くざらついた舌が私の口の中で……清い筈のお酒を擦りつけるかのように、何度も、逃げようとする私の舌先を追いかけて、彼が人ではないのだと分からせられてしまう。
「っと……酒なら一週間、だったか?まあこの程度、飲んだ内には入らんが」
恐怖か、それともお酒とこの行為のせいなのか、力が入らない。
動けずに敷布団の上に横たえさせられる私の体を三条さんは機嫌が良さそうに自らの口の端を舌先で舐め、眺めている。
「もう逃げられないんだよ、お前は」
寝巻きの着物の袖が三条さんの手の下になる。
まるで敷布団に縫いとめられているように、私は何一つ身動きが取れない。
「人の子はなんと迂闊。俺達の大元、猫と言う生き物がどのような性質を持っているか……まあお前は俺の妻になるんだ、観念も何もない。大人しく首を差出し、」
私は、年甲斐もなくまた泣いていた。
本当に怖かったのだ。
こんな勝手な事をされて、もう、帰れないなんて。
上げ膳据え膳の旅館……違う。ここは、生きた人間がいて良い場所じゃない。
でも私はもう、人間が口にしてはいけないものを口にしてしまった。
そこまで難しい着方じゃなかったから、何回か練習をすれば着るのは問題ないとして。
たまちゃんは“下着となる下履き”を用意してくれていた。
下着と言うかこれは腰巻と言う、昔の女性が身に着けていた方の下着。
これを身に付けても今の世の人の子は不安になってしまうの、とにこにこしているたまちゃんには言えなかった。
正直、風通しがいい。
私が着ていた服は洗ってくれるそうで預けたけれど、本当にここで何日も過ごすのなら人間用の下着だけはどうか用立てて欲しいと三条さんに言おう。もちろん、ブラジャーもない。一応、中に着た肌着代わりの襦袢は思ったよりも厚手で大丈夫ではあったけれど上下共にあまりにもシンプルすぎる。
そんなお風呂上り。
こちらですよ、と言われるがままにたまちゃんについて行く。
深い柿渋色の艶のある廊下をするすると歩く子の後ろを歩いていれば、どこに向かっているのかくらい私にも分かった。
近くなるにつれ、あたりに下がっている布地や御簾が豪華になっている。
足を止めたたまちゃんが「玉乃井でございます。奥方様をお連れしました」と中に声を掛ける。いやだから、私はお嫁さんでも奥さんでも……と困ってしまうけれど部屋の中から特に返事はなく。
それでも「どうぞ、中へ」と恭しくたまちゃんが木の引き戸を引く。
「中でお待ちになっていればじきに国芳さまも御出でになられます。ね、お優しい方ですから、大人しく首を差しだしていればすぐに済みます」
またこの子は……もう、腹を括るしかないのだろうか。
一緒に部屋には入ってくれない白い耳の子はそそくさと戸を閉めてしまった。
二十畳くらいはありそうな板張りの広い部屋の奥、重ねられた畳で一段高くなっている場所に布団が用意されているに違いない。
紛れもない、ここは三条さんの寝室、寝所。
四方が豪華な着物のような柄の布……国語と歴史の教科書で学んだから覚えている“几帳”でゆるく仕切られはしているけれどそこがどうなっているかくらいわかるほど、隙間が空いている。
どうしよう、と帰り方も分からない私はその場で立ち尽くしているのもどうかと思い、何となく布団がどんな物なのか気になって几帳の間から覗いてしまった。座布団の刺繍が肉球だったから、つい、出来心で。
「ああ、もう上がっていたのか」
「ひ、」
もう少しで悲鳴を上げそうになった代わりに思い切り肩が跳ねた。
足音が何もない。布を引きずる音も……と振り返れば白い着物姿の三条さんがいた。寝間着、だろうけど。
あの派手な羽織りものも肩に提げていない。だから何も音がしなかったのかな、と猫の習性を思い出す。彼らは足音を立てない。だからさっきたまちゃんも袴の擦れる音だけでなにひとつ、足音を立てていなかった。
「寝るにはまだ早い。お前、酒は飲めるか」
「少し、なら」
それなら付き合え、と言う三条さんはさっさと几帳の中に入って行く。
「寝酒は黒に止せと言われているんだが……どうした、座らないのか」
失礼します、と敷布団ではなく手前の畳の上に膝をつこうとして三条さんの顔が険しくなったのを見た。耳も下がっている。
「……失礼します」
綺麗に整えられている敷布団の上に、三条さんのすぐそばに正座をすると今度は満足そうに耳が立つ。枕元にある猫足の膳台には白い陶器の地に金色の筆文字で『御神酒』と書いてある大きな徳利が一つと二枚の白い盃。三条さんはその徳利を掴むと慣れたように盃に注いでいく。
それ、神様にお供えしたやつでは。
本当に飲んでいるんだ、と思わず凝視してしまった。
「どうした、珍しいか?」
「いえ、あの……私、ここで暮らしては駄目な気がして来て」
浮世離れした世界。
自分はこの場所にいてはいけない気がする。
これは、生きた人間の本能だろうか。
「帰りたいか」
「え、っと……」
「お前が帰りたくとも三日は無理だろうな」
「な、にを、言って」
「茶を、飲んだだろう」
お風呂上りで温かかった体から、音を立てるように血の気が引いた。
三条さんの言葉の意味を私は知っている。
あちらの世の食べ物を口にしたら“帰れなくなる”と。
どうして私はそんな大切な事を思い出せなかったのだろう。
どうして差し出された物を迂闊に口にしてしまったのだろうか。
「茶を飲んだ程度なら三日も食わねば帰れぬ事もない……」
ぐい、と盃を煽った三条さんが私の白い寝巻きの裾を踏んで、そのまま。
「んぐ、っ」
いや、やめて、と顔を背けても引き下げられた顎と動けない体を驚くような力強さで拘束されて、口の中に日本酒独特の果物のような芳香が流れ込んでくる。
口の端から流れる物を拭う事は許されず、吐き出してしまう事も許されない。飲み込まないなら、と酷くざらついた舌が私の口の中で……清い筈のお酒を擦りつけるかのように、何度も、逃げようとする私の舌先を追いかけて、彼が人ではないのだと分からせられてしまう。
「っと……酒なら一週間、だったか?まあこの程度、飲んだ内には入らんが」
恐怖か、それともお酒とこの行為のせいなのか、力が入らない。
動けずに敷布団の上に横たえさせられる私の体を三条さんは機嫌が良さそうに自らの口の端を舌先で舐め、眺めている。
「もう逃げられないんだよ、お前は」
寝巻きの着物の袖が三条さんの手の下になる。
まるで敷布団に縫いとめられているように、私は何一つ身動きが取れない。
「人の子はなんと迂闊。俺達の大元、猫と言う生き物がどのような性質を持っているか……まあお前は俺の妻になるんだ、観念も何もない。大人しく首を差出し、」
私は、年甲斐もなくまた泣いていた。
本当に怖かったのだ。
こんな勝手な事をされて、もう、帰れないなんて。
上げ膳据え膳の旅館……違う。ここは、生きた人間がいて良い場所じゃない。
でも私はもう、人間が口にしてはいけないものを口にしてしまった。
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