砂の種

晴日青

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 耳に囁く柔らかい水の音、肌を焼く灼熱の太陽の音、風に巻き上げられ体に纏わりつく砂の音。
 あらゆる音を理解したとき、彼は目を覚ましていた。
 緩慢な動きで立ち上がり、体についた砂を払う。髪や服が湿っているせいか、砂は手についたままなかなか離れない。
 眉をひそめつつ視線を動かす。草木は少なく、ひたすらに砂ばかりが目についた。
 と言ってもそれだけではない。
 彼一人くらいあっという間に飲み込んでしまえるであろう深さの河が目に入る。流れは決して速くないが、対岸に渡るのは困難を極めそうだ。
 なんとなしに空を見上げ、だいぶ西に傾いた太陽に目を刺激される。滲んだ涙を払うように頭を振ると、彼は考え始めた。

(僕は、誰だ?)

 驚いたことに、彼には一切の記憶がなかった。
 自分の名前も、何故ここにいるのかも――体が濡れていることから、おそらく河を流されてきたのだろうと思われるが――何もわからない。
 視界に映る自分の体すら自分のものとは思えなかった。自分の顔を確かめようと、側を流れる河に姿を映す。
 揺らぐ水面に映ったのは色のない髪を持った青年の姿だった。
 目の色まではわからない。初めて見る顔だったが、不思議と懐かしさを覚えた。

「……参ったな」

 無意識に発した言葉にぎょっとする。
 全く聞き覚えのない声だった。自分の声だということはわかるが、どうにも落ち着かない。

 彼は河を下った先に目を向ける。遠くに町が見えた。
 今から歩き続ければ夜までには着きそうな距離だ。
 もしかしたらと彼は考える。自分はその町から来た、あるいはこれから向かう予定だったのではないだろうか。
 そう考えて、今思いついたばかりの考えを否定するように首を振る。
 自分がこの河を流されてきたのだと考えるなら、近くに町があるのは全くの偶然でしかないだろう、と。
 少し乾いた体を再び払い、彼は歩き出した。
 軌跡を残すように砂が落ちていく。
 まだ湿っている髪は重かったが、これも町に着くまでには乾くだろう。
 自らが記憶喪失だということすら忘れているのかと思われるほど彼は楽観的だった。
 とりあえず、夜になる前に町に着くことが先決だ。少し歩みを速め、彼は真っ直ぐ町を目指す。

***

 急ぎ足だったおかげか、なんとか夜になる前に町に着くことができた。
 空を見上げると徐々に太陽が地平線に隠れていくところが目に入る。
 間に合ったことに対する安堵の溜め息をついて、彼は町の門をくぐった。

 ――夜とはいえ、町に人影が少な過ぎる。
 明かりが点いている家も多くなく、まるで町全体が夜を恐れ、息を潜めているかのようだった。
 その異様な雰囲気に飲まれながら、彼もまた、無意識に足音を立てないよう町中を歩き始めた。
 砂漠を点在する町々には、それぞれ一つ以上、必ず宿がある。
 旅をする者、砂漠を渡って商売をする者が安全に眠れる場所を提供する必要があるからだ。逆を言えば、宿にすら泊まれない旅人はあっという間に盗賊の餌食となって砂漠の砂に消える。
 常識と呼べる事柄だけは覚えているようだ、と苦笑しながら彼は宿の看板を探す。
 大きい町には見えないが、意外と見つからない。
 もっとも、昼間のうちに部屋をとる者が大半なため、部屋が空いているかどうかはあまり期待できないのだが。
 それでも、宿が休憩所であると同時に情報を交換する場としても機能している以上、向かわないわけにはいかなかった。もしかしたら彼自身を知る者に出会うかもしれないのだから。

 動かし続けていた足が痛み始めた頃、彼は町外れにたどり着いていた。
 目的のものが見つからず、意識が萎え始める。
 水の流れる音が聞こえた。
 惹かれるようにふらりと足を進める。
 幅の広い河が町の中心に向かって流れていた。
 先ほど彼が目を覚ました河はここに繋がっていたらしい。
 涼しげな音と虫の鳴く音が実に涼しげだ。
 歩き続けて火照った足を水に浸そうと近付いたとき、彼は河の側に人影を見た。
 肩までかかる程度の髪――夜のせいで今は黒にしか見えない――と質素そうな服に包まれた華奢な体。風が吹けばそのまま河に落ちてしまいそうだ、と考えて、無意識に走り出していた。
 あまりにも河に近付きすぎてはいないだろうか。
 まるで、そのまま身を投げようとしているかのよう――。
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