文学少年は闇に消える

東雲 斎

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第一章

6-夜明けへ

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[視点:仙崎千尋]



『ここからは歩いていこう。走ってたら変に怪しまれるから』



 松澤はそう言って俺と二人手を繋いで並ぶようにして一緒に遊歩道を歩いた。


 さっきの問いには答えられていない。



「松澤……」


「これからひとまず俺の家に行こう」


「……いいのか? 殺人者を匿うって、お前まで……!」


「『殺人者』じゃない。俺は『仙崎千尋』を匿うんだ」


「……? なにが違うんだ?」



 俺の素の返しに松澤はフッと吹き出すように微笑んだ。


 そして握っている手をそっと少しだけ掲げる。



「……手の震え、収まってきたな」


「あ……あぁ。松澤のお陰。ありがと」



 今出せる精一杯の笑みで返す。ひきつっていただろうか。



「まだ怖いか?」


「怖いって言うよりも今は……心の中がごちゃまぜになってて何も考えられないかな……むしろ何も考えないようにしてるのかも」


「そうか」


「だから今は、松澤のことと、歩くことだけ考えるようにしてる」


「俺のこと?」


「うん。俺に伝えたいこと、あったって言ってたから」


「そうだったな」


「言ってくれねぇの?」


「ん……大したことでもないから俺の家についてからで」


「そんなに焦らすなよー」


「焦らしているつもりはないけど」



 ――――カチャッ



 俺の鞄の中からそんな音が聞こえた。



「? 大丈夫か? お前の鞄から音聞こえたけど」


「あ、あぁ平気! ヘッドホンだって!」



 俺はすぐさま足元に目を向けたが、隣から刺さる目線がなんとなく痛かった。



 ***



「わぁ……すっげぇ……」



 辿りついたのは高級マンションのような一室。しかも割と高い階層。思ったほど広くはなかったが、所々に高級感がにじみ出ていた。家具は灰色や格式の高そうな茶色とか、落ち着いた色で統一されている。



「お前こんなすごいところに住んでたの?」


「すごくないよ。それに親の金だし」



 目につくのは一際大きな本棚だった。


 それは高さ2メートル以上はあって、綺麗に壁に収まっている。そして本がびっしりだ。



「本もすげぇ……これ留学するとき持ってくの?」


「いや、部屋そのものはもう買ってるし、誰も使わないからこのまま放置していくつもりだったけど」


「……!」



 こいつ今簡単に『部屋そのものは買ってる』って言った……!


 だけど、本棚以外は……


 生活感が、まるでなかった。


 ソファやテレビはあるけど本当に使っているのか分からないほどに。


 もしかしたら松澤にある空虚な何かに関係しているのかもしれない。


 すると、突然。



「……ッ!」


「? どうした、仙崎」


「ごめっ……風呂場、借りていい?」



 尻からコポッと音を立てて垂れてくる気配があった。


 それを察したらしい松澤は速やかに俺を浴室へ誘導し、



「服、脱いで」


「え……」



 突然の言葉に狼狽える。お前の目の前で、服脱ぐの?



「洗濯しとく。乾燥機あるからたぶん早めに乾く」


「いいよ、そんな……!」



 というか、俺の体見られることとか、こんな……汚い俺の服を松澤の家の洗濯機に入れていいのか……?


 いや、ダメだろ……!



「いいから」


「……っじゃあ……俺の体は、見ないで……」


「! ……じゃあこれ」



 なぜか少し顔が赤くなっている松澤が大きなバスタオルをくれた。



「サンキュな……」



 そうして俺は諦めと申し訳ない気持ちでいっぱいのまま服を脱いでそそくさと脱衣所にある洗濯機に入れ、逃げるように浴室へ入り込んだ。


 すると。



「あ」



 と松澤が言ったので俺は背に冷や汗が伝うのを感じながら顔だけ浴室から覗かせた。


 まさか精液ついてた……?


 が、嫌な予想は外れ。



「制服って、普通に洗濯していいんだっけ?」



 真顔で何気なくそう聞かれた。



「えっと……クリーニングって言いたいとこだけど……とりあえずファブリーズ的な何かかけて干してくれれば……」



 俺も洗濯のことはよくわかんねぇし……。


 ってか、松澤でも分からないことあるんだ……。


 そのことに、なんだか今の現状から日常に戻ったように胸が救われる気がした。


 そうして俺はシャワーを浴びるために蛇口を捻ろうとしたとき。



「……!」



 手に血がついているのを忘れていてゾッとした。


 急速に、あの殴ったときのことや、輪姦のことまで思い起こされる。



 洗い流さなきゃ。


 アライナガサナキャ。



 俺はゴシゴシと焦るように手で擦れば、片手の血は簡単に落ちた。


 次は精液を掻きださなくちゃ。


 身体のあらゆるところから『曽我』という存在を排除したかった。


 指を後ろの窄まりに入れようとすると。



「……アァッ!」



 急ぐあまりにゆっくりほぐすことを忘れ、激痛が走った。思わず背が反り返る。


 そのままジクジクと痛むままゆっくりと円を描くように指を沿わせて行くとやがて指が2本3本と簡単に入るようになった。


 そんな呆気ない体になってしまっていることに嫌悪感が湧いて泣きそうになり、切なげな喘ぎ声を押し殺しながら徐々に精液を出していく。



「あっ……あぁ……ん……」



 松澤の家の浴室で、なんてことしてんだろ。普段の俺ならその状況に欲情してとっくに勃ってる。でも今は日常とかけ離れた状況に置かれているからか、ぼんやりと白昼夢のようになっているだけだ。……うん、これが幸せな夢ならよかったのに。


 そして今度は体を洗おうと、松澤の家のボディソープを借りることにした。急ぐようにして体を洗う。


 だけど、悪夢の余韻は俺に痕を残して簡単には消えてくれなかった。



「消えない……消えない……っ!」



 泡を洗い流した後に背中に残っていた鞭の痕が消えなくて、それが俺の罪を連想させて怖くなった。



「消えろ、消えろ、消えろ……っ!」



 泣きながら背中を掻きむしる。せめてこの引っ掻いた痕で罪を埋めたかった。


 その時。



「……仙崎!」



 浴室のドアの向こうから声が聞こえた。俺はハッとする。



「……開けるぞ」


「……いや……やめて……」



 俺の泣きながらの懇願も聞かず、ドアが開け放たれて。



「……!」



 大きなバスタオルで俺の体を包むように松澤が俺を抱きしめた。



「……もういい」


「まつざわ……」



 声が震えた。いや、それ以前に体が震えたままだった。


 そんな俺を落ち着かせるように松澤は俺を優しく抱きしめてくれていた。


 俺も震える手で松澤の背に手を回す。



「うっ……く……うぅ……」



 涙がこぼれてとまらない。


 抱きしめてくれる手が思ったよりも逞しくて、優しかった。その手のぬくもりがくれる優しさは俺に、あの恐ろしい事実を見ないようにと目を覆ってくれているようで。


 松澤は俺の体を見ても何も聞いてはこなかった。あえて聞かないようにしてくれてるんだと思う。


 でも、言わなきゃ。



「俺……こんな身体でさ……イヤになっちゃうよな……男に開発されまくって、弄ばれて……」



 言葉の最後のあたりは涙でかすれた。



「……」


「俺……もう」



『楽になりたい』


 そう言おうとしたが松澤が遮るように。



「このままだと風邪ひくから、一旦あがろう」



 そう言って俺の体を抱えあげた。



「えっ、ちょっ!?」


「嫌?」


「嫌……じゃないけどなんでお姫様だっこ!? はずかしいんだけど! ってか落ちそう! 怖い怖い!」



 泣き声が薄れていつもの調子の声に戻りつつあることに安心したように笑った松澤は「……じゃあこのままで」と俺を恥ずかしい目に遭わせたままリビングへ向かった。



「疲れた? 一旦寝る?」



 耳元でそう囁かれてドキッとした。



「い、いや……疲れてはいるけど、どっちでも……」



 そうだ、俺……松澤に何も話せてない。



「それよりも俺、お前に話さなきゃ」


「……そうか」



 そうして松澤は優しく俺を大きなソファにおろし、改めてバスタオルで体を包んでくれた。



「あの、ソファ濡れる……」


「いいよ、気にしないから」



 そう言って松澤はリビングから見えるキッチンで何か用意して持ってきてくれた。



「これで良ければ、飲んで」



 俺に差し出されたのはココアで、松澤はコーヒーだった。



「あ、ありがと……! 俺、甘いの好きだから嬉しい」


「前に教室で言ってただろ、『甘いの食べたい』って。だからこっちの方が好きかと思って」


「……!」



 そういえば前に甲斐田と飯塚にどこか食べに行くって話になったときに言ってたっけ。覚えててくれたんだ……。ってか聞いてたんだ。


 やべぇ……さっきからドキドキしっぱなしなんですけど……!


 松澤、いい加減気づけよ。俺、お前のこと好きなんだって……。


 でも内心俺が気づいていることもあった。松澤はこうして、俺が本当は語りたくないだろう事実から目を背けさせてくれてるんだって。


 だけど、俺は言うよ。俺と同じものを持ってるお前に、全部。


 だって、もう最後なんだから。


『最後』


 ……そうだ、松澤はもう居なくなるんだ。


 もう最後なんだし、嫌われてもいいから少し甘えてみていいかな。


 身体も見られた。曽我と何をしていたのかも知られてしまった。もう、少しくらい吹っ切れたっていいだろ。



「なぁ、松澤……」


「?」


「寄り添っても……いいかな。嫌だったらイヤって言って」


「構わないけど」



 そう言って松澤は俺の背に片腕を回し、俺を引き寄せた。


 うわぁ……これってマジで恋人みたい……!


 心臓がほんの少し高鳴り始めた。


 ソファの上で、俺は裸にバスタオル一枚で、松澤と寄り添ってる……なんて。夢にも思わなかった。それ以上に恐ろしい、夢であってほしいこともあるけれど。



「こんなことしてさ、俺のこと気持ち悪い?」


「全然」


「そっか。……じゃあ俺のこと、話すね」



 松澤は静かにうなずく。



「まず、いま俺は義理の父親と二人で暮らしてるんだ。暮らしてるって言っても俺はできるだけ関わらないようにしてる。あいつには、中学の頃から……無理やりヤられてた。酒癖が特に悪くてさ」


「……!」


「……顔が、可愛かったんだって。それでそのとき……俺の母さんはもう家を出て行ってて、遊べる女が居ない時の代わりの性欲処理として俺を扱った。それは今でもたまに続いてたよ」



 松澤は複雑そうな表情で押し黙る。それも無理はないよな。



「そして曽我は……高二の最初の家庭訪問のとき家に来て、その時にあいつが……俺の父親が曽我の目の前で俺を押し倒して、誘ったんだ。その時から曽我も……」



 曽我のことを話し始めた途端にさっきの血まみれで倒れていた姿がフラッシュバックする。そうだ、そんな曽我を俺が……


 身体が震えはじめ、松澤がぎゅっと俺を抱き寄せる力を強くした。俺は涙が溢れそうになるが、震える声で話を続ける。



「……この前……俺が休んだ日、あったろ? その前の日に……曽我と他のやつらに……回された。俺、ホントに怖くて……! 苦しくて、痛くて……」


「……仙崎、もういい」



 松澤は制止の声をかけたが俺は畳み掛けるように話し続けた。……止まらなかった。



「その時、ビデオ撮られてたんだ。そして今日、曽我だけかと思ったら後ろに、カメラが……。それに曽我があいつらが来る前に俺とヤれて良かったって……! 俺、また回されるんだって。酷くされるんだって思ったら、怖くて、それで……!」


「もうわかった」



 そう強く言われて言葉が詰まる。知らぬ間に涙はぼろぼろと流れていた。震える身体は止まらない。


 松澤も押し黙ったままだ。


 そうだ、俺はとんでもないことをした。許されないことをした。明日にはきっと警察が俺を捜しにくる。俺は、殺人者。



「ごめんなさい……」



 消え入るように吐いた言葉は誰に向けられたものなのかはわからない。


 言ったところで罪は消せないのに。償いの意味も持たない言葉だった。


 松澤はしばらく何も言わなかったが、突然断固とした口調で言う。



「仙崎」


「……っ」



 何を言われるかが怖くて体がビクンと跳ねた。


 だけど言われた言葉は。



「……常識だとかそういうくだらない考えは無しで俺の考えを言う。――――悪いのは、曽我だ。お前じゃない」


「……!」


「それより……何か食べよう。作ってくる」


「……、……って、え?」



 突然の松澤の切り替えの速さに頭が一瞬ついていけなかった。こいつ、俺が殺人者だってわかってるよな……!? 



「ちょっと横になってるか? 寝室はあっちだけど」



 松澤は向こうのドアを指差したが俺は少し呆然としてからすぐさま首を横に振った。



「……あ、いや、いい。ここにいる」


「そうか」



 松澤のいつも通りな声音を聞いていたら、俺もなぜか怯えていることがまるで場違いな気がして、調子を松澤に合わせる。



「……あのっ、俺料理とかできなくて……手伝えなくてごめん」



 キッチンへと向かっていく背中に声をかけると松澤は振り返りながら微笑を返して一言。



「気にするな」


「……!」



 正直、かっこよすぎ。


 俺の心の中は幸せとドキドキと恐怖と後悔でさらにごちゃ混ぜになった。


 今は松澤とのことだけ考えよう。


 そうじゃないと、瞼の裏に焼きついた曽我の死体がすぐに浮かんでくる。俺を追うだろう警察も。


 そうだ、カメラ……!


 俺は松澤が料理をしているのを横目に鞄から曽我が持っていたカメラを取り出し、そっとソファの影に置いてあったごみ箱に捨てて要らないプリントを上から捨てて隠した。これで気づかれない……はず。


 俺が松澤とあの教室から逃げ出すときに、持ってきておいてよかった。


 もしかしたら、後から来た他の先生たちに回収されていたかも。


 あぁダメだ、そのことは考えるな。


 怖くなるから、「松澤」という存在に縋ろう。


 そうだ、俺……松澤の家に初めて入った一人なんだ。学校のやつらで入れたのって担任くらいだろ。


 それに俺、手つないでもらったし、抱きしめられたし……お姫様だっこ(は、ちょっと男としては複雑だけど)もされた。


 しかも今料理まで作ってくれるみたいだ。


 俺があんなにも近づきたい、仲良くなりたいと思っていた存在に、今一番近づけている。


 こんなに幸せなことってあるか?


 すごく不幸なことと、すごく幸せなこと。


 神さまは絶妙なバランスで俺に与えてくる。


 あ、でも不幸なのは俺より曽我か? いや、やめろ、そっちに話を向けるな。


 とにかく。


 俺は今、夢のような地獄と天国を見ている。


 松澤と、まるで恋人のようだ。


 溶けるほど幸せな時間。


 ……それが続くのは、あとどれくらい?



 *



「……できた」



 そう言って松澤はキッチンの近くにあるダイニングテーブルにいくらか皿を並べた。



「松澤……」


「食べよう」



 そう言って俺の傍まで来た松澤は俺の様子をかがんで見つめ。



「歩けるか?」



 そう聞いてくれた。


 俺はなんとか笑顔を繕って、「うん、それくらい全然平気」と言いながら立とうとした途端。



 ――――ガクン。



 え?


 脚が震えて立てなくなっていた。一気に膝から崩れ落ち、バスタオルがはらりと落ちる。



「いやっ……」



 俺の両腕は自分の体を支えるのに必死で松澤に体を晒すハメになった。


 背中のいくつも引っ掻いた跡や消えない鞭の跡。女のように起った乳首。



「仙崎……」


「やだっ……見ないで、みないで……!」



 涙がこぼれた。こんな醜態、これ以上晒したくなかった。


 すると松澤は突発的に俺を抱き起して体を直に抱きしめる、



「……っ!?」


「…………」



 どうして。


 どうして抱きしめてくれるんだろう。こんな穢れた身体を。


 浮かべられるのは、自分に向けての嘲笑しかなかった。



「はは……俺の体、やらしいだろ。男の相手させられまくってさ、気持ち悪いだろ……?」



 そしてこのいやらしい身体は松澤に直に触れられてることで快感さえ伴ってくる。


 あぁ俺、今松澤に触られてるんだ、って。これがこういう状況でなければ、どんなに嬉しかったことだろう。



「……早く離した方がいいよ。俺、たぶんバイだ。お前に触られてると……感じちゃうから」



 最後は冗談めかしく言ったが、真実だった。


 でも松澤は放さない。



「松澤……っ」


「お前のこと、綺麗だと思う」


「……は?」


「こんなに酷い目に遭わされ続けて、それでもみんなの前では明るく笑ってて…充分お前は強いと思うし、綺麗だと思う」


「…………」



 無意識に、一筋涙が流れた。


 今まで隠し続けてきた本当の俺と、みんなの前で見せていた偽りの俺のすべてを肯定してくれているように思えて。


 あぁ、俺はきっとこれでよかったんだって、少しでもそう思えることが嬉しかった。



「他人を悪く言うのは良くないだろうけど、俺は……お前をこんな目に遭わせた曽我とお前の父親を許せない」


「……松澤……、バカだなぁ」



 俺は松澤と顔を合わせて、泣きながら笑った。



「お前は誰も憎まなくていいんだって。苦しく思う必要もない。だけど……、ありがと……」



 そう言って自分から松澤を抱きしめた。


 するとしばらくして。



「……っ仙崎……」


「……ん?」



 松澤は言いにくそうな声音でぼそっと言った。



「確かに俺はそう思うが……、それでもお前の体は……男でも、そそられる」


「え?」



 そして松澤はすぐに床に落ちたバスタオルを俺の体に巻いた。



「……とにかく、食べよう」



 そう言ってそのまま俺の腕を肩にかけて、ダイニングテーブルへと誘導する。


 そそられる?


 つまり松澤が?


 俺の身体で?


 何回も頭の中で今の言葉を繰り返して、そしてようやく理解して。


 嬉しさと興奮で、少し勃ちそうになった。


 こんな絶望的な心理状態だったくせに勃つなんて、そうさせる松澤ってやっぱすごすぎ。


 俺は自然と笑みがこぼれて、冗談めかしく言った。



「惚れるなよ?」


「…………」



 何も答えが無い。これは……もしかして、脈あり?



「……惚れても、いーけど」



 俺はぶっきらぼうに小さくそうこぼすしかできなかった。お願いだから、聞こえてて。


 一瞬でも、「身体だけの関係でも構わないから俺を求めてよ」と思ってしまった自分を殴りたい。


 松澤は無言で俺を運び、連れて行ったダイニングテーブルに並べられていたのは。


 白米にお味噌汁にサラダに豚カツ。まさに夕食。



「すっげぇ……! 美味そう!」


「大したことない」



 そう素っ気なく返す松澤だが、少し嬉しそうだった。


 俺を席に座らせた松澤は反対側の席に着く。



「いただきます」



 そう言って食べ始めた。さすが、礼儀いいんだなぁ。


 俺も見習って、「いただきます」と言って豚カツをほおばった。


 これは……! 美味い!


 カツのサクサク感と中の肉のやわらかくてジューシーなのがたまらない。どうやってこんなの作れるんだよ……!?


 俺は知らないうちに泣いていた。


 なんだ俺、さっきから泣きっぱなし。いや、最近ずっと。



「どうした?」



 心配そうに松澤が聞いてくるが、俺は涙をこぼしながら笑った。



「人が作ってくれた料理……食べたの何年ぶりかなって……。しかもおいし過ぎて……」


「……そうか」



 松澤の笑みは安堵が見える温かなものだった。



 *



 涙がひとしきり収まったあと、俺は白米を口に入れながらふとした疑問を聞いてみた。



「ところでさ、なんで豚カツ?」



 すると松澤はなんでもないことのように真顔で。



「……験担ぎ」


「げんかつぎ?」


「少しでも何かに勝てるように」


「……はははっ」



 あの松澤が、験担ぎで豚カツ……! すぐにでも甲斐田や飯塚に伝えたかった。



「笑うな、本気だ」



 そして少しふてくされたような、本気の顔でそれを言う……!



「……くくっ……。……ありがと、俺のために」


「……どういたしまして」



 ぶっきらぼうに返されたのは笑われたからか。可愛いところあるんだな。


 ちょっと幸せな気分になった。



「あ、そうだ……わがまま言っていい? 断ってくれてもいいから」


「なんだ?」



 味噌汁をクッと飲み終えた松澤が聞く。



「――――……俺のこと、『千尋』って呼んで。仙崎でも、ヒロでもなく」


「……『千尋』」


「……うん。俺が幸せだった頃なんだ、ちゃんと名前で呼ばれてたのって」


「そうなのか」


「うん、母さんも、俺の本当の父さんも……優しく俺をそう呼んでくれてた。俺の父さんってさ、すっげー優しいんだ。体はそんなに強くなかったけど、それでもちゃんと自分の意志はしっかり貫きとおしてたし、あ、でもたまにとぼけたことやらかしたりするんだけど……大好きな父さんだった」


「……お前に似てるな」


「そうかー?」


「じゃあ俺のことも、『零二』でいいよ」


「……。…………え!?」


「今になっては……めったに呼ばれない名前だから」



 自分なんかがそんな大切なことしていいのかって、ちょっと悩む。


 でも、その反面心は嬉しかった。



「わかったよ、零二」


「……うん」



 俺がそう名前を呼ぶと、少し嬉しそうに微笑みが返ってきた。


 すごく幸せな、時間だった。



 ***



 食事が終わって、俺たちは二人で食器を洗い終えたところだった。


 身体の震えは零二のお陰で自然になくなり、あの恐怖に目を向けないようにしている。


 そうして今度は二人でソファに座っていた。



「ね、零二」


「ん?」


「ご飯のお礼、何かさせて?」



 そこで「体の相手でも……」と口走りそうになった俺。やめてよかった。いい加減おさまれ、俺の性欲。



「そう言われてもな……」


「じゃあ質問。この前の続きな。……零二はなんで消えたいと思うの?」



 そっと何気ないしぐさですり寄る。それでも嫌がらない反応をしてくれることが嬉しかった。



「……」


「話してくれるんでしょ?」


「……嫌味だとか、思わないか?」


「思わないよ。何聞いても」



 すると零二はカーテンが開いたままの夜の空を見上げた。



「知ってると思うが、いわゆる俺は大企業の代表取締役の息子だ」


「うん」


「跡継ぎは兄がいるからいいし、金もある。どうしてか分からないが女からも告白されたりする」



 いや、そのルックスだったらそりゃあな……と思ったが、あえて言わない。



「勉強もできないわけじゃない。むしろあえて地方の普通の高校に入ったから勉強も楽だ。運動もなんだかんだでできてしまう」


「成績いいもんな、お前」


「でもそうなってくると……周りが灰色に見えてくるんだ。寄ってくるやつらも何か裏で企ててんじゃないかと人間不信になることもある」


「なんでもできちゃうからこそ、困難なことがなくて空虚で、なおかつ人間不信……?」


「そうだ。たとえば俺が大企業の社長の息子じゃなかったら、この顔でもなくて、勉強もできなくて運動もできなかったら人がよってくるか? そう考えるんだ」


「ってことは、恋人でも友達でもお前を自分のステータスとして考えてるんじゃないかってことだよな? 『俺はこんなすごいやつの友達なんだぞ!』って」


「あぁ…。実際、俺は友達とまで思ってなかったけど少し会話してただけの男が陰で、俺の名前を掲げて友達だと言って威張ってるのを見て、心底人間が嫌いになった」


「……」


「……聞いてて嫌になる話だろ」



 正直、なんでも出来てしまう人間の気持ちなんてわからなかった。俺はそれこそできないことばかりで、しかも寄ってくるやつらのことを疑ったりなんてしたこともなかったから。ホントのところ俺は酷い人間で、実は周りのやつのことはどうでもよかったのかもしれない。だから考えもしなかったのかも。すべてが真逆だったことに少し悲しくなる。


 でも不思議なのはこんなに正反対の人間なのに俺たちは空虚な何かでつながっているということ。その不安定な繋がりに安らぎを感じる。


 まぁ確かにな……、零二の立場で考えてみれば親の名前や顔立ちの良さだけで勝手に人のステータスにされてるようなら、『自分』ってのがわからなくなるかもしれない。俺が俺である必要ってあるか? ……なんて、俺ならそう考える。


 ここまで考えて、俺はふたつのことに気が付いた。


 じゃあ俺は? 俺は零二のこと、ステータスとかで見てなかったか? ……まずはそれを謝らないと。



「……千尋。すまないな、こんな話で」


「そうじゃない。謝らなきゃなって」


「え?」


「俺……お前が成績いいのとか顔とかお偉いさんの息子とか、そういうのはどうでもよかったけど……みんな一目置いてたお前と仲良くなりたいって思ってた。それって要は自分のステータスにしたいってことだろ? 俺ってお前の嫌いな人間かも」


「違う」


「どこがだよ」


「お前、今日言ってくれただろ。『松澤は俺に似た何かがあるってずっと思ってた』って。俺も同じものを感じてた。図書室でお前を見たときから」


「図書室?」


「ずっと前……それこそ春先だったかに、俺が図書室にいたときになぜかお前が窓から外をぼんやり見てて。本も読まないでヘッドホンで音楽をずっと聞いてた」



 あぁ……あのときは曽我からなんとか逃げられないかと思って図書室にいたんだっけ。


 記憶の隅にほんのわずかに心当たりがあった。



「その目を見たとき……正直驚いた。いつもあんなにクラスで笑ってるお前が、何か抱えてるような空虚な目をしてたから。その時にもしかしたらこいつにも俺に似た何かがあるのかもって思った」


「そうだったんだ……」


「それに、この前のサッカーボールの件。他に誰もいない公園で小さい子を助けたあとジュース買ってやってただろ。そういう人の見てない所でも優しいお前になら、心開けると思った」


「……!」


「とりあえずそれで、俺は今までどこにいてもずっと空虚で、いつ消えてもいいなって思ってた。夜明け頃に風に吹かれて塵の様に消えたいと思ったし、お前のように雨に打たれてそのまま溶けたいとか、海の底に沈んでしまいたいとか……ずっとそんなこと考えて生きてきた」


「……うん、わかる」



 俺はそう言いながら後ろから零二を抱きしめた。



「でもさ」


「ん?」


「きっと優しいのは俺じゃなくて零二だよ」


「……どうしてだ? 俺は人を信じられてない。お前のことは……別だけど」



 俺はその最後の言葉に零二にとっての『特別』なのだと感じて微笑み、そっとその首元に顔をうずめる。でも俺の目は光を失っていた。



「俺は周りのやつらのことを疑ったりはしないよ。でもそれは、俺がみんなのこと受け入れてるとかそれ以前の問題で、……たぶん、どうでもよかったんだ」


「……!」


「零二の話を聞きながら色々考えてたらさ、本当に俺自身の色んなことに気が付く。俺ってただの自己中な偽善者だったんだよ。自分のことしか考えられない。色んな人に好かれていればそれでよかった。『良い人』に見られればただそれだけでよかった。たとえそれが自己満足であっても。……でも零二はそこが違った。――零二が人を信じられないのは、人を大切にしてるからだよ」


「…………」


「だからね」



 俺は零二の首元にうずめていた顔をあげて、そっと耳元で囁いた。



「――――本当に悪い人間なのは、俺」



 その低めな声音に零二の喉が鳴るのを首に回した腕で感じる。


 あぁ、これで嫌われちゃうかな。なんで良い雰囲気まで行ってたのに自分から壊してしまうんだろう。ほんと俺ってバカ。


 そう思って悲し気に目を伏せてそっと零二から腕を離そうとしたときに、片腕を引かれる。



「……っ」



 その目は意外にも普段通りで、俺が威圧のようなものをかけたとはとても思えないほど冷静だった。



「……じゃあ、そんな悪い人間の色んなことを暴露されても未だに綺麗だと思う俺はなんなんだろうな?」


「…………え?」



 俺は予想もしない言葉に目をパチクリとさせる。すると掴まれていた腕をさらに引かれて今度は正面から抱きしめられる。



「こうやって本当のお前のことを話してくれて、またひとつ俺は安心した」


「は……? え、どういうこと……」


「俺に本当の自分を見せてくれた。お前の、空虚な部分を見せてくれたからこそ、やっぱり俺たちはつながるものがあるって思えたから」


「…………」



 その発想に、言葉が出てこなかった。


 こんな俺を受け入れてくれる。零二はやっぱり、優しい。


 俺は安心したように微笑んで、零二の腕の中でうずくまったままその胸元に手をあてる。



「……何も感じられずに息だけしてるって……つらいよな。生きてる意味、わかんねーもん。でもお前が死ぬ前に会えてホント良かった……」


「……俺もだ」


「俺たちは、一緒……だよな?」


「……あぁ」



 その言葉を聞けてよかったと思った。


 俺は明日、自首しに行こう。


 零二がこうして空虚な世界に生きてるなら、俺も空虚な世界で生きていよう。


 二人で消えれるなら……それもいいけど。



「疲れただろ。そろそろ寝た方がいい」


「はははっ、なんか呑気だな。俺は殺人者なのに」



 すると俺の唇にそっと零二の指が置かれた。



「それは言わない」


「……ん。ごめん」


「……あ」


「ん?」


「悪い……お前の服、洗濯はしたけど乾燥機に入れるの忘れてた」


「はははっ、べつにいいよ、もう体見られちゃったし。バスタオルの替えだけもらえるか? 俺ソファで寝るよ」


「いや、俺のベッドでいい。ちょっと待ってろ」


「え!? ちょっ…」



 そう言う前に零二はバスタオルを取りに行き、戻ってきた。


 そして俺のつけてるものと取り替えて寝室のドアを開ける。



「こっち」



 招かれた先は大きなベッドが置かれた寝室だ。これってダブルベッドってやつ? それ以上?


 すげー、こんな大きなベッド持ってるやつなんて初めて見た。


 でもそれ以外に大した「私物」と呼べるものがなく、やっぱりどことなく空虚だった。



「え、ほんとにいいの……?」


「あぁ」



 零二はベッドの布団をまくり上げて俺を見た。



「千尋」



 名を呼ばれてドキッとする。そしてドクンドクンと脈打つ心臓をおさえながらうなずいて、傍に行く。



「どうぞ」


「あ、ありがと……」



 促されるままに横たわる。


 すると「……っ」と息を詰める音がして、零二の顔が少し赤いことに気が付いた。あぁ……バスタオル一枚でベッドに横たわるって……なんかアレだもんな。


 バスタオルで隠しきれない生脚がシーツの上を艶めかしくすべる。わざとやってみた。



「……欲情した?」


「いいから、寝てくれ」


「うわっ」



 ぼふっとぶっきらぼうに布団をかけられる。照れる零二も可愛かった。



「……零二」


「……なんだ」


「ありがと」


「……、……あぁ」



 そう言われて、零二が寝室を出て行く。


 ベッドは零二のにおいで溢れていて、この上ないほど幸せだった。


 まるで零二に抱かれてるみたいで、その心地良さにひたる。


 そうして俺はすんなりと意識を落とした。



 *



[視点:松澤零二]



 ……千尋はたまにああやってからかうように俺を誘う。


 それもまんざらでないから困る。


 別に男が好きだとかそういったことは今までなかった。まぁ女が好きとも言えないが。


 でもやはり、俺も男だ。ああいったものを見せられたら少しそういう気も出る。男相手だったのが意外だが。


 そのことに動揺もしていた。今までこんな感情がなかったからだ。


 ただ千尋は男に強姦されてあんなに怖がって震えていたことを考えると、抱くのは少し気が引けた。


 いや、いざそうなって怖がられたら、その方が恐ろしいからかもしれない。


 でも、じゃあなんで千尋はわざわざああやって誘ってきたのだろう。


 よくわからなかった。


 でも、そんな人の気持ちを考える困難を与えてくれたのが少し新鮮だった。



「さて……と」



 俺はソファに座り、迷いもなく影に置いてあるゴミ箱からカメラを拾いあげた。


 俺が気づかないとでも思ったんだろうか。


 少しためらいもあったが、カメラの電源をつけ、少々いじってテープを再生する。


 そこに映っていたものに、とんでもない苛立ちを覚えることになるとは思いもしなかった。



 *



[視点:筆者]



 カメラが映し出したのはどこにでもある普通の教室だったが、机やイスが後方と前方に追いやられて真ん中のスペースだけ空いていた。



「よーし、カメラ付いたぞー」



 陽気な声がそう言って、あたりにカメラを向けた。



「今日の楽しい『宴』に参加するメンバーは? まず一人目、佐々木先生! 次にー矢野田先生! 次はー」



 そう言ってカメラの主を含めた四人が紹介される。



「おい、そんなふざけるなよ」



 と、ふざけた口調で茶々を入れたりしている、その楽しい雰囲気が逆に不気味だった。



「そろそろ曽我先生来るかな? 仙崎くん連れてきて」


「だな。大丈夫だ、片側の鍵はもうかけてあるし、警備員の鈴木さんにも今日は見回りしないように言ってある」


「あーはやく来ないかなぁ。仙崎くんって可愛いもんなー」


「正直男相手にヤるとかありえないって思ってたけどあの曽我先生があんなに推すからなぁ」



 そうしてそこに。



「おい、なんだよ、ここ教室……――――っ!?」



 連れてこられた千尋が乱暴に教室内に投げ込まれる。


 一人の教師は鞄を近くにあった机の上に置き、開いていた方のドアの鍵もかけた。


 連れてきたのはもちろん曽我である。



「ようこそー仙崎くん!」


「え……なんで佐々木先生……他の先生まで……」



 明らかに怯えたような千尋がドア目がけて逃げようとするがすぐに複数の人間に捕らわれて服を脱がされ始めた。



「やだっ! やめろよ、なんで……!」



 そして無理やりTシャツをまくり上げられた時。



「うわぁ仙崎くんニップレスつけてんの!? 卑猥だなぁ」


「!」



 千尋の顔が羞恥で赤くなる。


 すると曽我が我が物顔で。



「この子はね、これをつけてないといけないんですよ。……ほら」



 ペリッと音を立ててニップレスをはがすと、乳首がむくむくと立ち上がってくる。


 その光景に教師たちは息を飲み、千尋は羞恥で泣きそうになっていた。


 そうしてもう一方のニップレスもはがされ、下の服もすべてはぎとられる。


 そこからは地獄のありさまだった。



「仙崎くんっ……すごいね、すげー締まって気持ちい……!」


「んんっ、んぅ……っ!」



 千尋は挿入されたまま口では別の男のモノを咥え、両手ではそれぞれ他の男のモノをしごかされていた。



「ね? なかなか良いでしょ?」



 曽我が高揚としたように言うと欲情で理性のかけらもない男たちはさらに千尋を弄んだ。



「最高っすよ、曽我先生……! こんなの初めてだ!」



 千尋はあらゆるところに精液をかけられたり飲まされて息が出来なくなったり、無理やりみんなの前でオナニーをさせられたりしていた。


 そして次々と色んな男のモノを挿入されたり、次は卑猥な言葉を言わされたり、アダルトグッズで遊ばれたりしている最中、ずっと泣いていた。



「助けて」


「もうやめて」


「お願いだから」



 すべて、それらは却下された。


 それから数時間ずっと狂乱の宴は続き、ようやく男たちの性欲が収まってきたころには。


 千尋はほとんど空虚な瞳でどこかを見つめていた。


 もう抗う力も気力も奪われ、人形のように揺さぶられた。


 涙だけが、ずっと流れていた。


 その様子を舐めるようなアングルで映すカメラ。



「あー……すっかり仙崎くんぐったりですねー」



 そう言う男の息もあがっていた。



「そろそろ後片付けでもしますか。曽我先生、あとやっときますんで、仙崎くん送っておいてもらえます?」


「はい、もちろん」


「いやー、最高だったな。また次も、誘ってくださいよ」


「ええ、楽しみにしていてください」


「以上! 今日の最高の宴はこれにて終了でーす!」



 ――――プツッ



 そこでカメラの映像は途切れた。



 *



「…………」



 その映像を見終えた零二はひどく怒りの形相をしていた。


 千尋が、泣いていた。泣き喚いてた。いくら懇願しても、呼吸困難にさせるほどに精液を無理やり飲ませたりしても、やめなかった。


 許せない。ここに映ってたやつら全員が許せなかった。


 最後に映されていた疲れ果ててぐったりとしていた千尋の姿が頭から離れない。


 これなら恐怖を感じて曽我を殺すのも無理は無いと思った。


 周りの人間を『どうでもいい』と言った千尋を思い出す。普段の笑顔に似合わずひどく空虚で無機質な声音だった。人間に対して、自分の人生に対してまで諦めてるようにも思えた。


 零二はすぐにそのカセットテープを抜き取り、カメラだけを元にあったようにゴミ箱に捨て、プリントを隠すように被せる。これで元通りだろう。


 そしてすぐさま、ある宛先をノートパソコンで調べてその住所を封筒に書く。……警察署の宛先だった。


 その中にカセットテープを入れて、封をする。いれるときはもちろん手袋をした。そしてそのまま、私用の鞄に入れる。そこに凶器となった顕微鏡も中が見えない袋に入れて鞄に詰め込む。


 次に本棚に目をむけて、迷わず数冊の本をさらに鞄にいれた。


 学校用の鞄からは、しわくちゃになった千尋の教科書のみを取り出して、鞄にいれる。


 ――――頭にある選択肢は、ひとつだった。


 そしてある場所へ電話をかける。内容を簡潔に伝えれば相手に怒鳴られたが、それでも自分の意志を貫き通したら、意外にも理解してくれたようだ。



「……ご迷惑をおかけしてすみません、父さん。配慮の方、ありがとうございます。お元気で」



『待ってくれ』と最後に切り出されたが、聞かずに電話を切ってケータイの電源を落とした。


 その直後だろうか。


 寝室から泣き叫ぶ声が聞こえたのは。



 *



[視点:仙崎千尋]



 あれ、なんでだろう。


 理科室で、血を垂らした顕微鏡を持っていた。裸だった。


 足元には曽我が倒れている。


 そうだ、零二は。


 零二に助けを求めなきゃ。


 その時。



「……ヨクモ」



 ……ゾクッと背が震えた。


 恐る恐る足元を見れば血だらけの形相の曽我が立ち上がりはじめ、俺に掴みかかってきた。



「うわああああああああぁぁあああ!」


「許サナイゾ! オ前ヲ逃ガサナイカラナ!」



 そして警察が数人やってきて手錠をかけられる。



「仙崎千尋、君を逮捕する」



 するとその瞬間にその顔がニイッと不気味に笑い、



「その身体で罪を償ってもらおう」



 と言いながら体を蹂躙してきた。



「嫌だっ……いやだ、助けて! 零二! れいじぃぃぃっ!」



 …………。



「――――ひろ……千尋!」


「ああああ、ああああぁぁああ!」


「しっかりしろ、千尋!」



 零二の声でハッとして辺りを見回す。寝室だ。零二の。



「零二……、零二……っ」



 両手を彷徨わせると零二がしっかりと手を握ってくれた。



「大丈夫か」



 その言葉を聞いた瞬間、涙があふれ出た。



「ごめっ……嫌な夢、見た……怖かった……」



 俺の身体は汗でびっしょりと濡れていた。



「……そうか。一旦、シャワー浴びよう」



 そう言って零二が俺を抱きかかえてくれて、浴室に連れて行ってくれる。



「れ、零二……ここから先はいいからっ……」


「いいからほら、汗流すぞ」



 そのままシャワーで優しく汗を流してくれた。


 そしてシャワーからあがったらバスタオルを手渡されて体をふき、その間に零二がスポーツドリンクを持ってきてくれた。



「飲めるか」


「……うん……ありがと……」



 声に覇気がなかった。気力がほとんど持って行かれてる。



「ホントに……怖かった……」


「……うん」


「あ、ごめん……ベッド、汗で濡らしたかも……」


「いいよ。無駄に広いから空いてる所使えば。あと……」


「……?」


「嫌じゃなければ、添い寝する」


「!」



 えっ……えぇっ!?



「あと、悪いんだが……替えのタオルがもうない」



 ……ってことは、裸の俺に零二が添い寝するってこと!?


 俺は全然いいっていうかそんな夢みたいなことあっていいのかって感じだけど、零二は本当にいいのか……!? だって俺バイかもって言ったし、悪い人間だとも言ったし、なんで……?


 とはいえ、嬉しい誘いをキッパリ断れるような俺じゃない。


 零二はそのまま俺を寝室に連れて行く。



「……い、いいの……?」


「ただ……」



 その顔は少し気まずそうな顔をしていた。



「……もし仮に俺が欲情したら、お前を傷つけてしまうかもしれない」


「……」



 むしろ俺はそうして欲しいくらいだって! なんで気づかねーのかな、こいつは……!


 俺はベッドサイドに腰掛けている零二に裸のまま抱きついて、首元でわざと熱っぽく答えた。



「零二なら、いいよ……」


「……っ」



 ……俺がここまでしてるんだからいい加減気づきやがれっつーの。もう。


 でも、意外にも鈍感な零二もそれはそれで好きだ。



「あ、あと…」



 俺はもうひとつの願いを儚げに笑って言った。



「最後だから、思う存分甘えていい?」



『最後だから』


 それは俺の決意を表した言葉だった。


 すると零二は何も答えず、俺を掻き抱くようにしてベッドに身を横たえた。


 俺は嬉しくて、零二の首に両腕を回してさらに密着する。


 気づかれないように首元に唇を押し当てた。


 唇にはできなかったけど、これが俺のファーストキス。……に、なるのかな?


 いくら男に犯されてもこれだけは守ってきた。


 あぁ……幸せだ……。


 たぶん夜明けになればこの幸せな時間は終わるだろう。


 それまでは、どうか幸せなままでいさせて。



 *



[視点:松澤零二]



 しばらくして、千尋は俺の腕の中で眠りについた。


 その寝顔はあどけなく可愛くて、まだ良い夢を見ているのかもしれない。


 こうして抱き合ってわかった。


 俺は今、幸せだ。


 もう一つの片割れのような人間と共に、息をしている。


 ようやく、『生きている』感じがした。


 ……もう離れたくない。放したくない。


『千尋』という人間を知れば知るほど、その想いは強くなっていく。


 初めての感情に動揺もしたが、抗うことはできない。


 俺は吸い込まれるように、千尋の唇に――――



 ***



[視点:仙崎千尋]



 目を覚ますと傍らの存在はなく、寝室のドアが開け放たれていた。


 俺は外気を感じて裸の体をさすりながら一歩一歩とリビングへ向かうと。


 夜明けの空の向こうの方に朝焼けが差しているのをベランダから眺めている零二の姿がある。


 俺は寝起きのおぼつかない頭でその姿を綺麗だと感じた。


 今にも夜明けの空に溶けていきそうだった。


 俺は気づかれないようにと足音をしのばせて静かに乾燥機に入っていた服を着て、制服も着る。


 そして深く深呼吸をしてリビングから開け放たれているベランダに佇むその後ろ姿に声をかけた。



「……零二、今までありがとう。俺……行ってくる。自首してくるよ」



 すると、返ってきた言葉は意外なものだった。



「……そんなことしてどうなる」


「え……?」



 零二はゆっくりと夜明けの空を見納めるようにしてからリビングに入ってきて、俺を抱きしめた。



「お前の感じてきた苦痛も、苦しさも、つらさも、何も分からないような警察やつらにお前を引き渡したくない」


「零二……? 何言って……」


「俺がお前を連れ去る。誰も知らない場所へ、俺が連れて行く。だから……逃げよう」



 ――逃げる? 信じられない言葉だった。



「そんな……俺、悪いことしたのに……零二まで巻き込みたくない!」



 すると零二は優しい表情で諭すように言った。



「いいか。『悪いこと』っていうのは世間的にはってことだろ。そんな考えはいらない。それに俺はお前を誰にも引き渡したくない、一緒にいたい。ただそれだけなんだ。――――俺もお前と同じ、悪い人間」


「……!」



 零二は傍らに置いてあった私用の大き目な鞄を背負った。



「もう準備はできてる。夜が明ける頃に街を出た方がいい。……行こう」


「で、でも、留学は……」


「大丈夫だ、すべて話は通してある」



 零二が俺の鞄を渡してきて、部屋の中を一通り見回してから玄関のドアを開け放つ。


 俺はその姿にどうしていいのか分からなくなるが、零二は柔らかく笑って手を差し伸べた。



「……千尋」



 その優しい呼び声に、身を委ねたくなる。


 俺は引き寄せられるようにその手を掴むと、ぎゅっと握られて引き寄せられた。



「……もう戻れないぞ」



 こんなに強引に話を進めて最後に同意を求めるなんてずるいと思ったが、その握られた手のぬくもりを放したくはない。



「……うん」



 ――――そうして俺たちは警察から逃げることになった。



 これから行く先が幸せに包まれているのか、それとも地獄か。見当もつかなかった。


 でも縋るのはこの手しかなくて。


 浅ましい俺はまだ、この時から零二の人生を狂わせてしまっていることに気づきもしなかった。



 ***



[視点:筆者]



 外の空気は昨日の夜の纏わりつくようなものから、静かに澄んだものへと変わっていた。


 風は程よく涼しく吹いている。朝露に濡れた木々の澄んだ匂いがした。その匂いにどこかで誰かが吸っている煙草のにおいが微かに交わる。


 夜明けの街は車も人影もまったくなかった。


 それがあまりに空虚で、まるで自分たちの生き方を進み始めた二人のようだ。


 零二はあえてなのか、複雑な道を行く。


 公共団地の中をくぐり抜け、趣のある細道を歩いたりもした。


 そのうち、後ろを歩く千尋は「これが零二の好きな道だったんだ」と勘づく。



「すまない、あの古書店に寄ってもいいか」


「え、うん。でもこんな朝早くやってるのか?」


「やってる。夜締めるのは早いけど。ちょっと外で待ってて」


「わかった」



 そうして千尋を残して古書店に入った零二は店主に挨拶をする。



「おやおや、今日は早いんだね」


「おはようございます。今日は、お別れを言いに来ました。それとお願いが」



 そうして差し出したのは、ひとつの封筒だった。わざと分かりやすいように自分のYシャツの裾に挟めて差し出したことに店主は目を細め、それから薄い革の手袋を履いて封筒を受け取りながら零二を見つめる。



「詳しいことは何も聞かないでください。でもこれは俺が自分で決めたことだということだけは、知っておいてください」



 零二の真剣な様子に何かを察した店主は深く二度うなずいた。



「……上手くやっていきなさい」



 そうして握らせてくれたのはこの古書店の電話番号が書かれた紙と、いくらかの電車の切符だった。



「飯島さん、これ……!」


「さぁ、夜が明けるよ。行きなさい」


「……ありがとうございます」



 零二は店主に深々と頭を下げ、古書店をあとにした。


 千尋は歩き出す零二に「もういいのか?」と聞くと、「あぁ、大丈夫だ」と悲しげな笑みが返ってくる。


 その笑みを見て千尋は一瞬「やっぱり止めたほうが」と思うが、『もう戻れない』と言った零二の覚悟を決めたあの瞳を思い出して、あえて口を噤む。


 二人はその後も歩き続けた。


 薄暗かった空はやがて夜明けから朝焼けに包まれ始める。


 流れの早い川の上を渡る橋を歩いているときに、零二は思い出したように鞄の中から青緑の袋を取り出した。何か重量感を感じたことで、千尋は中のものを察して息を呑む。


 零二は橋から川の下をのぞく。やることは見当がついた。



「それは……俺にやらせて」



 千尋の言葉に零二は少しの無言の後にうなずいてその袋を渡すと、千尋の手には夢の中で握ったあの感覚が蘇る。一瞬辛そうに唇をかみしめる様子を見て零二は「大丈夫か?」と問うが、千尋は「これは俺がやったことだから」と儚げに笑った。


 そうして橋の上で目を閉じてひとつ深呼吸をした千尋は光のない空虚な目を開き、凶器をふりかざした一瞬に今までの忌まわしかった過去を殺す勢いを込めて川に投げ捨てた。


 ドボンッと音を上げて落ちたのと同時に千尋はフラッと後方にふらつくのを零二に抱き留められる。



「……行こう」


「……あぁ」



 振り返りは、しなかった。


 その後、跨線橋の上を歩いているときにわずかに上り始めた朝陽を見つめ、千尋がそっと「このまま塵になって消えれたら楽になれるんだろうな」と呟いた。


 零二はうなずく。



「そうだな」



 それでもこれからは二人で息をしていく。


 でも……二人なら、いずれ死んでも構わない。


 何も怖くなかった。千尋さえいれば、何も。


 千尋がもう生きていけないというなら、いつでも死ねる。


 それほどに、不思議と意思は固かった。


 ある意味、生きることに消極的なのは変わらないのかもしれない。



 ***



 ようやくついた隣町の古びた駅。


 そこからは海が見え、潮の香りが鼻腔をくすぐる。


 そして二人分の電車の切符を見せ、誰も乗らない始発電車に乗った。


 電車が動き出す。


 零二と千尋は朝焼けを背に、並んで席に座っていた。


 背には朝日が昇り輝く海が、目前には自分たちがいた街が見える。



「これでこの街とはお別れだな」



 千尋が茫然と言った。


 零二はそれに対し頷く。



「あぁ、もう戻れない」



 出発前に言ったあの言葉をもう一度、言い聞かせるように言った。


 千尋はケータイを取り出して、電話をかけた。



「……あぁ飯塚? ごめん、朝早くに。ははは、悪かったってー。あのさ……今までありがとな。お前らといて俺楽しかった。甲斐田や紗代たちにもこっそり伝えといて。……うん、そのうち分かるから。……じゃあな」



 そしてそのままケータイの電源を切る。



「これ、もう使えないな」


「……あぁ」



 千尋は、列車の窓を開ける。ぶわっと音を立てて少し冷たい風が入ってきた。


 そして。



 ――――――ブンッ!



 窓の外の海へと思いっきり投げ捨てた。


 そしてそれが落ちていくのを見送ってから窓を閉め、「あー、スッキリした!」と、震えた声で言った。


 零二の手をそっと握った手も、震えていた。


 零二は千尋の顔を見ずに目薬を差しだす。



「……目薬、使うか」


「……? ……、……あぁ、使う使う!」



 その意味が、ようやくわかった。



「あーやべぇ、これめっちゃ効くわ。涙とまんねぇし鼻水まで出てきたー」



 涙を隠し切れないことに気付いていたが、自分は泣いていないのだと何度も嘘をついた。




 第一章 -終-
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