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Episode3

はらぺこ淫魔、隠す。-2

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リオンはヒュッと息を呑んだ。指先が冷えて、石でも詰められたかのように喉が苦しかった。ディナンの表情は変わらない。そのいつもの顔がいっそうリオンを追い詰めていく。
 顔を真っ青にしたリオンを不審に思ったディナンが、リオンの名前を呼ぼうとしたその瞬間、ノックの音が鳴った。
 ハッと意識が引き戻され、思わず音のした方へと顔を向けた。リオンの視線を辿るように、つまらなそうな顔でディナンも同じ方を見やった。
「お話し中、失礼致します」
 この一週間で何度か聞いたことのある、若い男の声だった。リオンは彼の姿を見たことはなかったが、使用人の一人に違いなかった。

「入ってもよろしいでしょうか」
「……まあ、いいだろう」

 ディナンは渋々といった様子で頷く。ガチャ、というノブの音にリオンの肩が小さく揺れた。ディナンと二人きりだとそうでもないが、他の人の存在を感じると途端に心細くなる。リオンは自分がここに居ていい人間ではないことを誰よりも理解していた。
 ドアを開けて入ってきた使用人は高位貴族のそれらしく、素肌にディナンのシャツを羽織ったリオンを横目で捉えても表情一つ変えることなく淡々と一礼し、主人であるディナンに向き直った。ディナンは、居心地が悪そうにそわそわと視線を動かしているリオンの太腿の辺りをぽんぽんと叩くと、面倒くさそうに何? と促した。

「ユリアン様から便りにございます」
「薪と一緒に焚べておいてくれ」
「しかしこれで十三通目にございます」

 取り付く島もないディナンの返事にも臆すことなく、使用人が淡々とした調子で言った。面倒くさそうな顔から一転、ディナンの鼻筋に皺が寄る。その表情が以前どこかで見たような気がして、リオンはどこだっけ、と思考を巡らせた。

「……ユリアンはなんて?」
「どちらをお読み致しますか?」
「どちら?」
「要件だけ書いてある手紙と、いつもの手紙の二つがございます」

 そう言って使用人が手に持った二通の手紙を掲げた。ディナンが小さくため息を吐く。

「どうせ内容は同じでしょう。要件だけの方でいいよ」
「原文そのままお読みしてよろしいですか?」
「……いいだろう」
「この際しばらく帰って来なくてもいいからせめて顔だけ出せ魔石野郎、とのことです」
「その手紙は薪にくべておきなさい」
「かしこまりました」

 使用人のお手本のような一礼。ディナンの口元がひくりと痙攣した。

「……とりあえず、ユリアンの要件は分かった。お前はもう下がりなさい。手紙は必ず燃やしておくように」
「かしこまりました」

 使用人が音もなく下がっていく。洗練されたその振る舞いに見入っていると、ディナンに名前を呼ばれた。

「見苦しいものを見せたね」
「いえ、えっと、その……」

 今しがた聞いた話は多分、普通の庶民であるリオンが聞いたらいけない類のものだ。どう返事をするべきか迷っていると、ディナンが小さく肩を竦めた。

「ユリアンなら古馴染みだよ。ほら、以前私を呼び戻した男が居たでしょう。あれと同じ」
「あ」
「思い出した?」

 思い出したのはディナンの表情の既視感の理由なのだが、訂正するのも違う気がしてリオンは曖昧に頷いた。同時に納得もする。あれは二か月前、王都に戻ると言ったディナンが浮かべていた表情だ。
 そこまで気がついて、リオンはあの、と小さな声をあげた。

「なあに?」
「戻らなくて大丈夫なんですか?」

 使用人が持ってきた手紙の内容からしてどうもディナンの力が必要とされているようだった。また戻るべきなんじゃないだろうか、そんなリオンの疑問に、ディナンはあっさり答えた。

「うん、大丈夫」

 イイ笑顔だ。これはたぶん大丈夫じゃないやつだな、と察したリオンが、はは、と力なく笑った。

「私はここに居たいんだ。なら、他の都合とかどうでもいいでしょう?」

 と、ディナン。頷くこともできなくて曖昧な笑顔で首を傾げておく。素直なリオンをディナンが喉の奥で笑った。
「まあでもあそこまで言われて何もしないのも腹立たしいから顔だけ出してくるよ」
 二時間くらいで済むかな、とディナン。リオンはパシパシと目を瞬かせた。

「戻るんじゃないんですか?」
「魔法を使うんだけど、文字通り顔だけ出すんだ。いつかリオンにも見せてあげる」

 あれは見た方が早いし、というディナンの言葉にリオンはパッと目を輝かせた。ディナンが眩しそうに目を細める。

「それじゃあ行ってくるよ」
「はい」

 ディナンはすくっと立ち上がると、リオンのふわふわの猫っ毛を優しく撫でながら言った。

「戻ったらまた話をしよう」
「はなし……」

 ディナンの言う話とは間違いなく途中で有耶無耶になったあのことだ。リオンはギュッとシーツを握りしめた。したくないと言ったら、しないでいてくれるかな。そんなまさか。
 それでも必死に口角を上げて頷くと、ディナンは満足そうに頷いて部屋を出ていった。
 ドアが閉まるその瞬間まで見届けたリオンは、誰も居なくなった部屋の大きなベッドの上で脚を抱え、その間に顔を埋めた。
 これまでずっとそばに居たディナンが居なくなると、途端に心にぽっかり穴が空いたような虚しさが襲ってくる。たった一週間ですっかりディナンの存在が当たり前になってしまったことを受け入れたくなくて、リオンはふるふると首を横に振った。
 ——もし、ディナン様が王都に戻る選択をとったら、一体僕はどうなるんだろう。

「何考えてるんだ」

 ハッ、と小さく鼻で笑った。どうなるも何も、それ以前の話だ。リオンはディナンに買われたのだ。
 魅了のおかげで彼はまだリオンのことを抱く気はあるようだけど、その効果がずっと続くとは思えない。何より、幸か不幸か淫魔として中途半端なリオンは中途半端な魅了しかかけられなかったようだった。平素のディナンは今までのディナンそのものだ。巷で聞くような淫魔の魅了に狂った男にはとても見えない。だからせいぜい、リオンがかけた魅了は、リオンのことが抱きたくて堪らなくなるとか、その程度なのだろう。
 それでリオンの罪が軽くなるわけではないけれど、魅了にかかっていても、ディナンにとってリオンはその程度の存在なのだ。だってここは本邸ではなく別荘で、ディナンには戻るべき場所がある。つまり、リオンはただ、ディナンの暇つぶしに違いなかった。一回二千リラで体を売っていたリオンにとって、ディナンから渡された金は果てしなく、一生奉仕したって足りないくらいだったけど、彼にとっては大したことのない額であることも、薄々分かっていた。
 じわりと目頭が熱くなって、リオンは咄嗟にキツく目を瞑った。
 僕のことどう思っているんですか、なんてそんな、恋人みたいなこと、聞かなくて本当に良かった。
 ぐぅ、と喉の奥が鳴って、リオンはいっそう体を小さく丸めた。
 どれもこれも、魅了をかけたリオンが悪かった。それは分かってる。でも、それでもだ。
 あの人の指が、唇が、視線が、自分以外の人間に施されるなんて、そんなのあんまりだ。僕はこんなに好きなのに! 
 
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