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僕の痛み 2枚目
愛したいひと
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配信されたばかりの映画を観て、ボジョレー・ヌーボーを空けたら、別のワインが出てきた。有一の作った美味しい料理をつまみながら、気持ちよく酩酊する。
働かなくなった頭の片隅で、ときどき思い返す。今自分がどこにいるのかと。
有一がシャワーから出てきたときには、十二時をまわっていた。
道弥は、ソファの座面に片足を乗せ、脚の上に買った画集を開いていた。有一がソファの背もたれに手をついて覗き込む。
「まだ飲んでるの」
「すません。美味しくてつい……」
グラスに残っていた、僅かなワインを呷り、飲み干した。彼が、道弥の手からグラスを取り、テーブルに置く。
「もうおしまい。さすがに二日酔いになっちゃうよ」
彼はソファに深く座った。開いた画集のサイズの分だけ、距離がある。
その適度な距離から、彼の姿を視界に収め、恍惚と眺める。背もたれに片方の肩を沈め、頭を乗せた。シャワーを浴びたばかりの彼は半袖を着ている。整ったEラインに、視線を巡らせた。顎から首筋にかけての筋張った曲線、半袖から伸びる腕の筋肉。
「なに? なんか、すごい視線感じる……」
はにかんだ顔は片手で隠された。
「や……、このカッコイイ筋肉を、魅力的に描けるかなぁって、考えて……」
「え、かっこいい? やった」
彼は左腕を前に伸ばし、右手でさすった。
「でも道弥くん、あんまり人物描かないよね。描くとしても、挿絵のライトなタッチのやつとか……」
「よく知ってますね」
「まあね」
彼の眉毛が片方あがり、得意げな視線を寄越す。
「ドヤ顔しないで、そんなことで」
彼の肩を、手のひらで軽く叩いた。顔の熱を逃すように手元の画集をめくっていく。
「でも人物描くの、練習したいと思ってて……」
「それ、今日本屋で買ったやつ?」
有一は、画集の右端を持って座り直した。肩が触れそうなほど距離が近づく。画集のサイズだけ、空いていたはずの余裕が一気に詰められ、右半身に意識が集中する。
「あ、そうです……」
「へぇ。こういうの、資料として買うの?」
「資料用に買う本もありますけど、この人のは、ただ単に好きで……」
「あー、JUNだっけ」
彼は、背もたれから体を起こし、画集の表紙を覗き込んだ。
「前にも同じ人の、買ってたよね」
「この人、今回のこれで人物描いてて……。いつも描いてないのに。僕も参考にしよう……」
「いろいろ画集買ってるけど、特にこの人が好きだよね」
「え、あ、わかりますか?」
「うん、わかる」
「どのへんで……」
「えー、なんとなくだけど……、色使いとか、道弥くんっぽいというか、好きそうって思うかな」
喉がつかえ顔に熱が籠る。彼から目を逸らし、手元の画集をそっと閉じた。顔の筋肉が引きつっているのを隠すため、前髪を触った。
「まあ、でも俺は、道弥くんの絵とかデザインのほうが好きだな」
「はは。お世辞でも……、嬉しいです」
「お世辞じゃないよ! 道弥くんの創るものって、なんか優しくて明るくて、翳りがない感じで、俺はそれが好き」
「なにそれ。初めて聞いた」
「そうだっけ。俺が入社したての頃にさ、道弥くんのデザイン見て、キミのこと気になり始めたんだよ」
「知らなかった……」
「この子、見た目おとなしいのに、創るもの弾けてるっていうか、イメージ違うなぁと思って」
「それ、どう受け取ればいいの」
心地よく酔いがまわっていた。視界がちかちかと霞んで、シーリングライトが目に眩しい。
白いTシャツを着た、彼の体のラインと、石鹸の匂い。
みぞおちから胸のあたりまで、焦れるように気持ちが込み上げる。体が熱をもつ。
――キスしたい。
だけど、できない。その先へ進むことができない罪悪感が、ブレーキをかける。
セックスはおろか、触ることさえ満足にできない恋人を、彼はいつまで許容してくれるのか。
更けていく夜と、深まる静けさ。独りの闇に飲み込まれる前に、手を取って欲しい。いつか離されるとしても、今だけは。
全面ガラス張りのオフィスは、自然光がよく入り、夏場は暑い。フリースペースでは冷房の風が当たる場所に座る。木製のテーブルにノートパソコンを広げ、座り心地のよい回転チェアに深く腰を下ろした。午後一時近く、昼休憩から戻った社員たちが、雑談をかわしながら行き交う。午後の業務が始まる前のさざめき。
「都築さん、お疲れさま」
有一が、コーヒーを片手に声をかけてきた。
「え……、お、お疲れ様です……」
「ここ、いい?」
彼は当然のように、同じテーブルの椅子を引いて着席した。
「仕事、戻らないんですか」
「このコーヒー飲んだら行くよ」
「はあ……」
正解がわからず、パソコンに視線を戻す。
「都築さん、お酒飲めないんだね」
急に転換された話題に、思わず「え」と聞き返した。
「この前、言ってたじゃん」
「ああ、飲み会の……」
「あーもしかして、方便だった?」
「あの、何か用ですか」
「……ごめんね、仕事の邪魔したね」
立ちあがろうと、体を前に傾けた彼の腕を咄嗟に掴む。
「いや、追い払いたいわけではなく……」
「そう? じゃあもう少しだけ」
彼は口元を緩め、座り直した。
「本当は、お酒飲めるの?」
「その話題、続きますか」
「他の人に言ったりしないよ」
「まあ……、嫌いじゃないです」
「へぇ。普段何飲むの。ビールとか?」
「ビールは苦いんであんまり……。チューハイとかリキュールとか、フルーツ系が好きです」
「そうなんだ。俺も同じ。ワインが一番好き」
「あー、ワイン……。ロゼが好きです」
「いいね」
彼は口角を上げた。
「ねえ、一人暮らし?」
「そうです」
「飲み会嫌いなら、宅飲みしようよ。今週の金曜あいてる? おすすめのロゼ、持ってくよ」
「え、嫌ですけど……」
「ええっ」
断られるとは全く予想していなかったのか、彼は目を丸くした。
「なんで」
「逆にこっちがなんでって感じですけど……。それに、今週の金曜は、リアタイで映画観るんで」
「一緒に観ればいいじゃん。今度の金ロー、何やるの」
「いや、うち狭いんで……」
「あっ。もう行かなきゃ。とりあえずライン教えて」
「あの」
「早く、早く。ごめんけど、午後から外出だったんだよね」
言われるがまま、連絡先を交換すると、彼は颯爽と営業部に戻って行った。五分もしないうちに、鞄を持って戻ってくると、片手で手を振って出かけて行った。
高校を卒業してから住んでいる、狭い1Kの部屋に、人が訪れたのは初めてだった。
白く安っぽいローテーブルに広げられた、コンビニのおつまみと、缶ビールに缶チューハイ。ポテトチップスを口に放り込みながら、度数が高めのお酒を缶のまま飲んだ。
「白川さんの、こういう強引なところが、やっぱ苦手だなぁ」
「え、え、本人を目の前にして、苦手とか言っちゃうの?」
有一は慌てた様子で片膝を立て、身を乗り出してきた。
「前から思ってましたけど、とうとう家にまで来られちゃって、いよいよ言っとかないとな、と思いました」
「そんな律儀に言われても……。ひどいじゃん。傷つく……」
手のひらを顔にあて、泣き真似のような仕草をする有一に「酔ってんすか」と言うと、「酔ってないっつの」と返ってくる。
「まあでも、強引だったか。そこはごめん」
「そういう、形だけの謝罪もいらないですし」
「さすがに塩すぎない? まじで傷つくよ?」
「はいはい……」
不機嫌な自覚はあった。無意識のうちに歯を食いしばっていた。頭の中で繰り返すのは、映画の内容だ。
主人公が困難に直面し、心を閉ざしていく。彼女は、自分の中の悲しみと向き合うことで、人生の歓びを知ることができた。
生きていくことで、失うものもある。失って、空いたところに、どんな歓びを築いていくか。それが、自分が自分らしくあるための哲学だ、というストーリー。
鋭利な刃物で何度も胸を刺すようだった。震える手で、服の胸元を掴む。喉が詰まるような感覚を、肩を上下させて腹の底へ沈める。
「白川さんは、その……、どうしても受け入れられない、コンプレックスみたいなものってありますか? その……、絶対に、人に知られたくないレベルの」
「あー、どうだろ。多少あっても、そこまでのはなぁ」
彼は、後ろに手をついて、斜め上に視線を投じた。
「道弥くんは、あるってこと?」
「いや……、いえ、何でもないです。忘れてください」
「コンプレックスってさあ、人に指摘されたり、否定されたりして芽生えるものだから、結局は、人の価値観に左右されてる状態だよね。ありのままの自分を受け入れるっていうことが、大事みたい。それが難しいんだけどね」
「へぇ。なんでそんなこと知ってるんですか」
「俺さぁ、自分で言うのもアレだけど、目立つ外見してるじゃん」
「……はぁ」
「いや真面目な話! 無駄に目立つから、これでも苦労してるんだよ。一時期さ、人心掌握とか、心理学に関する本を読みまくってたの」
「そうですか……」
「そう。でさ、話戻るけど、コンプレックスに支配されてる状態って、人の価値観に支配されてるってことだから、この映画の主人公みたいに、自分の人生の軸というか、歓びを見つけることが出来ないんだよね。さっきの主人公でいうところの、挫折したままの状態」
彼のよく通る声が、夜中の空気に嫌に浮く。立てた片膝を抱え俯いた。部屋にはアルコールと、おつまみのジャンクなにおいが充満している。
「そういうのってだいたい、身近な人が関係してることが多いらしいけど、自分が何に傷ついたのか、自覚するところから始める。ただよくあるのは……」
「……るっせぇよ……」
彼は瞬時に口を閉じ、え、と小さく漏らした。
「うるっさいって、言ってんの。……んな簡単な話じゃないって話だよ。馬鹿なんじゃないの、あんた」
言ったそばから体が重くなり、背中を丸める。頭の重さを支えるように、立てた膝に額をつけた。感情が昂っているのは、きっとアルコールのせいだ。
体の右側に、気配を感じた。彼がそばに座ったらしく、肩に手を置かれる。
「ごめん。調子に乗って喋りすぎた。無神経だった。ごめんね」
「別に……、あなたが謝ることじゃないです。ちょっと、飲みすぎました……。すみません」
顔を左に逸らし、一応の謝罪をした。右半身に体重をかけられ、バランスを崩す。左手をついた。
「ちょっと……」
「俺のほうこそ飲みすぎたぁ。ごめぇん。嫌わないで……」
「いや重いんですけど。寄りかかんな」
右腕で彼の体を押し戻す。
「一人くらい……、白川さんのことが嫌いな人がいたっていいでしょ」
「え、本当に嫌いになった?」
「全員に好かれないと気が済まないんですか。難儀な人ですね」
「いや違うよ。キミにだけは嫌われたくないんだよ」
「あー、はいはい。それも心理学の手練手管ですか……」
「違うって!」
急に大きな声を出され、反射的に肩を上げ目を固く瞑る。
「いや、ごめん……、大声出して。あーもう……、お酒の勢いで言いたくなかったんだけど……」
膝に置いていた右手に、手を重ねられた。
「好きなんだ、キミのことが……」
真っ直ぐな視線を向ける彼の瞳には、星屑が舞っていた。
酔いがまわった働かない脳みそと、右手に伝わる熱。テレビから流れる淡々としたニュースに、疲れを溜め込んだ週末の重い体。
膝を右側へ倒して、彼のほうへ向き直し、頭をベッドに凭れた。重い瞼を下ろすと、知らないうちに眠りに落ちていた。
この日のことは、今でもときどき詰られる。
外は夏のように暑かった。もう十月も半ばだというのに、日中は未だ半袖がちょうどよい気候だ。
駅で待ち合わせて、有一の部屋までの道を並んで歩く。楽しみを上回る、不安な気持ち。ポートフォリオを、初めて見てもらうときのような落ち着かなさ。
オートロックのマンションの彼の部屋は、道弥の部屋よりも広くて、垢抜けていた。家具は木製で、深みのあるブラウンで統一している。ファブリックの色合いは寒色系でまとめ、キッチン前カウンターに置かれた小さめのパキラとガジュマルは、アクセントカラーだ。調和のとれたトンマナは、隙がない。
「あーなんか、白川さんの部屋って感じの部屋だな」
率直な感想が口から出ていた。
「それ、いい意味で言ってる? それとも貶してるの」
「貶してはないですよ……。隙がないデザインだなぁって、褒めてます」
「えー、なんかあんまり褒められてる感じがしないけど……。隙があるほうが、可愛げがあるって言うんでしょ」
有一はキッチンの戸棚を開けて、何かを取り出す。
「道弥くん、コーヒーでいい?」
はいと答え、彼のそばに寄り、コーヒーメーカーに豆を入れる手元を眺めた。
「何。どした」
「一人暮らしで、コーヒーメーカーがあるっていうのがもう」
「あ、隙がない?」
「ないですね。しかも、ウォーターサーバーに、ワインセラーもあるし……」
振り返り、存在感を放つそれらを一瞥した。
「わ、どうしよ。好感度下がってる?」
「ふっ。いいんじゃないですか。白川さんらしいし」
有一の顔を見上げると、彼は微かに口角を上げた。コーヒーの芳ばしい香りと、コーヒーメーカーの電子音。半袖から伸びた、筋肉のついた腕。大きな手のひらが、頬に触れた。この空気が向かうところを、知っている。
「……あ、あの、白川さん……」
「なあに」
「えっ、と……」
穏やかな表情を浮かべる彼から、目を逸らし、俯いた。
「なんていうか、今言うのもアレですけど……、やでも、今言わないと、アレなんですけど……」
「うん。ゆっくりでいいよ」
彼は、道弥の手をとって、両手で包んだ。その手のひらは滑らかで、柔らかい。
「僕……、付き合うの、初めてで……」
「そうなんだ。意外」
「あの……、白川さんは……、なんで僕と付き合うことにしたんですか」
口に出してから、顔が熱くなる。
「え、好きだからだけど? 俺から告白したじゃん」
「でも今までは、女の人と付き合ってきたんですよね」
「まあ、そうだね……。いや、自分でも想定外だったけど。女性を好きになるのと同じ感覚で、男性も好きになれるんだっていうのは」
彼はあまりにも、フラットに言ってのける。
「それって……、抵抗とか、葛藤はなかったんですか?」
「ああ、同性同士ってことに?」
「そうです。僕は……、この歳になるまで、自分が、ゲ、ゲイってことに……、抵抗があったというか……」
汗が、脇の下を流れる感覚があった。顔の熱は増すばかりで、鼓動が早くなる。
「そっか。俺はむしろ……、ぜんぜん抵抗はなかったかな。性別って関係ないんだなって思ったけど。逆にキミはなんでOKしてくれたの」
彼の質問で思い出す、温かい気持ち。深く、ゆっくりと呼吸する。
「白川さんが……、僕はそのままでいいって言ってくれたからですよ」
顔をあげると、目が合った。ただそれだけで、空気が甘い。彼の顔が近づく。
「あ、の……、白川さん」
「うん?」
「なので、僕……、付き合うの、初めてで……」
「うん、わかった。いいよ」
「い、いいっていうのは……」
「セックスが怖いなら、待つから大丈夫。ゆっくりでいいよってこと」
「あ……」
セックス、という直接的なワードが突然出てきたことに視線が泳いだ。再び顔が熱を持つ。
「え、うそ。違った? そういうことじゃなくて……?」
「違くないです……」
瞼を伏せて、彼の首元に額を預けた。顔の熱が収まらず手が震える。
「……ねぇ、顔見せて」
「イヤですけど……」
「じゃあ、キスは? していい? それも抵抗ある?」
「……して、いいです……」
頬に、手のひらが触れた。彼の胸元から顔を離し、僅かに顔をあげると、彼の顔が近づいた。鼻が触れそうなくらいの距離で、様子を窺うように、少しずつ近づく。ゆっくりと、優しく触れるキスをした。何度も柔らかく、唇を重ねると、自分の存在が肯定されるような気がしてくる。
「……ねぇ、舌は? 入れていいでしょうか……」
律儀に確認を取る彼に、「どうぞ」と許可を出す。
口を開け、舌を絡める。お互いの口内を、弄るように、柔らかく、大きな舌を追いかけた。記憶の中のキスよりも、優しくて、官能的だった。
「触るのはどう。いい?」
「触る……」
忽ち我に返る。胸の高鳴りとは別の動悸がしてきた。
「えっと……、ど、どこ……、どこを……」
言葉を探していたら、不意に抱きしめられた。
「ごめん……、また調子乗ったわ。ゆっくりでいいって言っといて……」
「いや……、こっちこそ、すみません……。二十四にもなって、え…えっ、ち、できないとか……」
「いいんだよ。人それぞれだから。付き合うって、エッチだけじゃないでしょ」
「……でも」
密着した体に、彼の硬くなった陰部があたる。肩を掴まれ、体が離された。
「ごめん、勃ってるけど! これはしょうがないって……。ほっとけばそのうち収まるから、気にしないで」
彼は、頬にキスをした。道弥の肩を掴んでいた手を離すと、マグカップを取り出す。
「ミルクと砂糖は入れる?」
ブラウンのローテーブルに、コーヒーの入ったマグが二つ。洒落たシーリングライトの下で、ソファに並んで座る二つの体。日曜の昼下がりの、どことなく気怠い、アトモスフィア。
「あ、道弥くんが観たいって言ってた映画、もう配信されてるよ。観る?」
「あの、白川さん」
「なに」
「さっきの話の続きなんですけど……」
「うん」
彼はリモコンをテーブルに置き、体を僅かにこちらへ傾けた。
「僕……、自分で触ったりとかも……、あんまりしなくて……」
「オナ……、自慰をしないってこと?」
黙って頷いた。
「それって、でも……、不健康じゃない? 夢精とかしないの」
「しないように、最低限だけ出してる感じです」
「そうなんだ。そういう、性的なこと全般が苦手…なのかな。それは……、どうしてって聞いてもいいの」
「……なんていうか、抵抗感が強くて……、悪いことしてる感覚が、耐えられなくなってくるというか……。上手く言えないんですけど……」
涼しい部屋の中で、顔だけがやたら熱く、額に汗をかく。
「だから……、普通の、恋人同士……、みたいなこと、ずっとできないかもしれない……。最初に言わなくてごめんなさい。無理だったら……、今フってください」
両腕を交差させ、体を抱えるように背中を少し丸めた。鼓動が早くなるのを抑え込むように、唇を固く結ぶ。大きなため息が聞こえ、心臓が小さく跳ねた。
「…見縊らないでよ。エッチできないくらいで別れるとか……、その程度だと思ってた?」
顔を上げ、彼のほうを見ると、手を取られ両手で握られた。
「それが目的で、付き合ってって言ったわけじゃないよ。そういうのって、お互い同じ気持ちでしたいと思ってなきゃ意味ないと思うから。一緒にいられるだけでいいよ」
真っ直ぐに向けられた眼差しは、柔らかい。
ウォールナットで揃えた家具に、ブルー系の色でまとめたソファやラグ。目の端には、控えめなパキラとガジュマル。一見、隙がないまでに、統一されたトンマナは、ただ丁寧に、手を入れているだけ。
愛が深いだけだ。
働かなくなった頭の片隅で、ときどき思い返す。今自分がどこにいるのかと。
有一がシャワーから出てきたときには、十二時をまわっていた。
道弥は、ソファの座面に片足を乗せ、脚の上に買った画集を開いていた。有一がソファの背もたれに手をついて覗き込む。
「まだ飲んでるの」
「すません。美味しくてつい……」
グラスに残っていた、僅かなワインを呷り、飲み干した。彼が、道弥の手からグラスを取り、テーブルに置く。
「もうおしまい。さすがに二日酔いになっちゃうよ」
彼はソファに深く座った。開いた画集のサイズの分だけ、距離がある。
その適度な距離から、彼の姿を視界に収め、恍惚と眺める。背もたれに片方の肩を沈め、頭を乗せた。シャワーを浴びたばかりの彼は半袖を着ている。整ったEラインに、視線を巡らせた。顎から首筋にかけての筋張った曲線、半袖から伸びる腕の筋肉。
「なに? なんか、すごい視線感じる……」
はにかんだ顔は片手で隠された。
「や……、このカッコイイ筋肉を、魅力的に描けるかなぁって、考えて……」
「え、かっこいい? やった」
彼は左腕を前に伸ばし、右手でさすった。
「でも道弥くん、あんまり人物描かないよね。描くとしても、挿絵のライトなタッチのやつとか……」
「よく知ってますね」
「まあね」
彼の眉毛が片方あがり、得意げな視線を寄越す。
「ドヤ顔しないで、そんなことで」
彼の肩を、手のひらで軽く叩いた。顔の熱を逃すように手元の画集をめくっていく。
「でも人物描くの、練習したいと思ってて……」
「それ、今日本屋で買ったやつ?」
有一は、画集の右端を持って座り直した。肩が触れそうなほど距離が近づく。画集のサイズだけ、空いていたはずの余裕が一気に詰められ、右半身に意識が集中する。
「あ、そうです……」
「へぇ。こういうの、資料として買うの?」
「資料用に買う本もありますけど、この人のは、ただ単に好きで……」
「あー、JUNだっけ」
彼は、背もたれから体を起こし、画集の表紙を覗き込んだ。
「前にも同じ人の、買ってたよね」
「この人、今回のこれで人物描いてて……。いつも描いてないのに。僕も参考にしよう……」
「いろいろ画集買ってるけど、特にこの人が好きだよね」
「え、あ、わかりますか?」
「うん、わかる」
「どのへんで……」
「えー、なんとなくだけど……、色使いとか、道弥くんっぽいというか、好きそうって思うかな」
喉がつかえ顔に熱が籠る。彼から目を逸らし、手元の画集をそっと閉じた。顔の筋肉が引きつっているのを隠すため、前髪を触った。
「まあ、でも俺は、道弥くんの絵とかデザインのほうが好きだな」
「はは。お世辞でも……、嬉しいです」
「お世辞じゃないよ! 道弥くんの創るものって、なんか優しくて明るくて、翳りがない感じで、俺はそれが好き」
「なにそれ。初めて聞いた」
「そうだっけ。俺が入社したての頃にさ、道弥くんのデザイン見て、キミのこと気になり始めたんだよ」
「知らなかった……」
「この子、見た目おとなしいのに、創るもの弾けてるっていうか、イメージ違うなぁと思って」
「それ、どう受け取ればいいの」
心地よく酔いがまわっていた。視界がちかちかと霞んで、シーリングライトが目に眩しい。
白いTシャツを着た、彼の体のラインと、石鹸の匂い。
みぞおちから胸のあたりまで、焦れるように気持ちが込み上げる。体が熱をもつ。
――キスしたい。
だけど、できない。その先へ進むことができない罪悪感が、ブレーキをかける。
セックスはおろか、触ることさえ満足にできない恋人を、彼はいつまで許容してくれるのか。
更けていく夜と、深まる静けさ。独りの闇に飲み込まれる前に、手を取って欲しい。いつか離されるとしても、今だけは。
全面ガラス張りのオフィスは、自然光がよく入り、夏場は暑い。フリースペースでは冷房の風が当たる場所に座る。木製のテーブルにノートパソコンを広げ、座り心地のよい回転チェアに深く腰を下ろした。午後一時近く、昼休憩から戻った社員たちが、雑談をかわしながら行き交う。午後の業務が始まる前のさざめき。
「都築さん、お疲れさま」
有一が、コーヒーを片手に声をかけてきた。
「え……、お、お疲れ様です……」
「ここ、いい?」
彼は当然のように、同じテーブルの椅子を引いて着席した。
「仕事、戻らないんですか」
「このコーヒー飲んだら行くよ」
「はあ……」
正解がわからず、パソコンに視線を戻す。
「都築さん、お酒飲めないんだね」
急に転換された話題に、思わず「え」と聞き返した。
「この前、言ってたじゃん」
「ああ、飲み会の……」
「あーもしかして、方便だった?」
「あの、何か用ですか」
「……ごめんね、仕事の邪魔したね」
立ちあがろうと、体を前に傾けた彼の腕を咄嗟に掴む。
「いや、追い払いたいわけではなく……」
「そう? じゃあもう少しだけ」
彼は口元を緩め、座り直した。
「本当は、お酒飲めるの?」
「その話題、続きますか」
「他の人に言ったりしないよ」
「まあ……、嫌いじゃないです」
「へぇ。普段何飲むの。ビールとか?」
「ビールは苦いんであんまり……。チューハイとかリキュールとか、フルーツ系が好きです」
「そうなんだ。俺も同じ。ワインが一番好き」
「あー、ワイン……。ロゼが好きです」
「いいね」
彼は口角を上げた。
「ねえ、一人暮らし?」
「そうです」
「飲み会嫌いなら、宅飲みしようよ。今週の金曜あいてる? おすすめのロゼ、持ってくよ」
「え、嫌ですけど……」
「ええっ」
断られるとは全く予想していなかったのか、彼は目を丸くした。
「なんで」
「逆にこっちがなんでって感じですけど……。それに、今週の金曜は、リアタイで映画観るんで」
「一緒に観ればいいじゃん。今度の金ロー、何やるの」
「いや、うち狭いんで……」
「あっ。もう行かなきゃ。とりあえずライン教えて」
「あの」
「早く、早く。ごめんけど、午後から外出だったんだよね」
言われるがまま、連絡先を交換すると、彼は颯爽と営業部に戻って行った。五分もしないうちに、鞄を持って戻ってくると、片手で手を振って出かけて行った。
高校を卒業してから住んでいる、狭い1Kの部屋に、人が訪れたのは初めてだった。
白く安っぽいローテーブルに広げられた、コンビニのおつまみと、缶ビールに缶チューハイ。ポテトチップスを口に放り込みながら、度数が高めのお酒を缶のまま飲んだ。
「白川さんの、こういう強引なところが、やっぱ苦手だなぁ」
「え、え、本人を目の前にして、苦手とか言っちゃうの?」
有一は慌てた様子で片膝を立て、身を乗り出してきた。
「前から思ってましたけど、とうとう家にまで来られちゃって、いよいよ言っとかないとな、と思いました」
「そんな律儀に言われても……。ひどいじゃん。傷つく……」
手のひらを顔にあて、泣き真似のような仕草をする有一に「酔ってんすか」と言うと、「酔ってないっつの」と返ってくる。
「まあでも、強引だったか。そこはごめん」
「そういう、形だけの謝罪もいらないですし」
「さすがに塩すぎない? まじで傷つくよ?」
「はいはい……」
不機嫌な自覚はあった。無意識のうちに歯を食いしばっていた。頭の中で繰り返すのは、映画の内容だ。
主人公が困難に直面し、心を閉ざしていく。彼女は、自分の中の悲しみと向き合うことで、人生の歓びを知ることができた。
生きていくことで、失うものもある。失って、空いたところに、どんな歓びを築いていくか。それが、自分が自分らしくあるための哲学だ、というストーリー。
鋭利な刃物で何度も胸を刺すようだった。震える手で、服の胸元を掴む。喉が詰まるような感覚を、肩を上下させて腹の底へ沈める。
「白川さんは、その……、どうしても受け入れられない、コンプレックスみたいなものってありますか? その……、絶対に、人に知られたくないレベルの」
「あー、どうだろ。多少あっても、そこまでのはなぁ」
彼は、後ろに手をついて、斜め上に視線を投じた。
「道弥くんは、あるってこと?」
「いや……、いえ、何でもないです。忘れてください」
「コンプレックスってさあ、人に指摘されたり、否定されたりして芽生えるものだから、結局は、人の価値観に左右されてる状態だよね。ありのままの自分を受け入れるっていうことが、大事みたい。それが難しいんだけどね」
「へぇ。なんでそんなこと知ってるんですか」
「俺さぁ、自分で言うのもアレだけど、目立つ外見してるじゃん」
「……はぁ」
「いや真面目な話! 無駄に目立つから、これでも苦労してるんだよ。一時期さ、人心掌握とか、心理学に関する本を読みまくってたの」
「そうですか……」
「そう。でさ、話戻るけど、コンプレックスに支配されてる状態って、人の価値観に支配されてるってことだから、この映画の主人公みたいに、自分の人生の軸というか、歓びを見つけることが出来ないんだよね。さっきの主人公でいうところの、挫折したままの状態」
彼のよく通る声が、夜中の空気に嫌に浮く。立てた片膝を抱え俯いた。部屋にはアルコールと、おつまみのジャンクなにおいが充満している。
「そういうのってだいたい、身近な人が関係してることが多いらしいけど、自分が何に傷ついたのか、自覚するところから始める。ただよくあるのは……」
「……るっせぇよ……」
彼は瞬時に口を閉じ、え、と小さく漏らした。
「うるっさいって、言ってんの。……んな簡単な話じゃないって話だよ。馬鹿なんじゃないの、あんた」
言ったそばから体が重くなり、背中を丸める。頭の重さを支えるように、立てた膝に額をつけた。感情が昂っているのは、きっとアルコールのせいだ。
体の右側に、気配を感じた。彼がそばに座ったらしく、肩に手を置かれる。
「ごめん。調子に乗って喋りすぎた。無神経だった。ごめんね」
「別に……、あなたが謝ることじゃないです。ちょっと、飲みすぎました……。すみません」
顔を左に逸らし、一応の謝罪をした。右半身に体重をかけられ、バランスを崩す。左手をついた。
「ちょっと……」
「俺のほうこそ飲みすぎたぁ。ごめぇん。嫌わないで……」
「いや重いんですけど。寄りかかんな」
右腕で彼の体を押し戻す。
「一人くらい……、白川さんのことが嫌いな人がいたっていいでしょ」
「え、本当に嫌いになった?」
「全員に好かれないと気が済まないんですか。難儀な人ですね」
「いや違うよ。キミにだけは嫌われたくないんだよ」
「あー、はいはい。それも心理学の手練手管ですか……」
「違うって!」
急に大きな声を出され、反射的に肩を上げ目を固く瞑る。
「いや、ごめん……、大声出して。あーもう……、お酒の勢いで言いたくなかったんだけど……」
膝に置いていた右手に、手を重ねられた。
「好きなんだ、キミのことが……」
真っ直ぐな視線を向ける彼の瞳には、星屑が舞っていた。
酔いがまわった働かない脳みそと、右手に伝わる熱。テレビから流れる淡々としたニュースに、疲れを溜め込んだ週末の重い体。
膝を右側へ倒して、彼のほうへ向き直し、頭をベッドに凭れた。重い瞼を下ろすと、知らないうちに眠りに落ちていた。
この日のことは、今でもときどき詰られる。
外は夏のように暑かった。もう十月も半ばだというのに、日中は未だ半袖がちょうどよい気候だ。
駅で待ち合わせて、有一の部屋までの道を並んで歩く。楽しみを上回る、不安な気持ち。ポートフォリオを、初めて見てもらうときのような落ち着かなさ。
オートロックのマンションの彼の部屋は、道弥の部屋よりも広くて、垢抜けていた。家具は木製で、深みのあるブラウンで統一している。ファブリックの色合いは寒色系でまとめ、キッチン前カウンターに置かれた小さめのパキラとガジュマルは、アクセントカラーだ。調和のとれたトンマナは、隙がない。
「あーなんか、白川さんの部屋って感じの部屋だな」
率直な感想が口から出ていた。
「それ、いい意味で言ってる? それとも貶してるの」
「貶してはないですよ……。隙がないデザインだなぁって、褒めてます」
「えー、なんかあんまり褒められてる感じがしないけど……。隙があるほうが、可愛げがあるって言うんでしょ」
有一はキッチンの戸棚を開けて、何かを取り出す。
「道弥くん、コーヒーでいい?」
はいと答え、彼のそばに寄り、コーヒーメーカーに豆を入れる手元を眺めた。
「何。どした」
「一人暮らしで、コーヒーメーカーがあるっていうのがもう」
「あ、隙がない?」
「ないですね。しかも、ウォーターサーバーに、ワインセラーもあるし……」
振り返り、存在感を放つそれらを一瞥した。
「わ、どうしよ。好感度下がってる?」
「ふっ。いいんじゃないですか。白川さんらしいし」
有一の顔を見上げると、彼は微かに口角を上げた。コーヒーの芳ばしい香りと、コーヒーメーカーの電子音。半袖から伸びた、筋肉のついた腕。大きな手のひらが、頬に触れた。この空気が向かうところを、知っている。
「……あ、あの、白川さん……」
「なあに」
「えっ、と……」
穏やかな表情を浮かべる彼から、目を逸らし、俯いた。
「なんていうか、今言うのもアレですけど……、やでも、今言わないと、アレなんですけど……」
「うん。ゆっくりでいいよ」
彼は、道弥の手をとって、両手で包んだ。その手のひらは滑らかで、柔らかい。
「僕……、付き合うの、初めてで……」
「そうなんだ。意外」
「あの……、白川さんは……、なんで僕と付き合うことにしたんですか」
口に出してから、顔が熱くなる。
「え、好きだからだけど? 俺から告白したじゃん」
「でも今までは、女の人と付き合ってきたんですよね」
「まあ、そうだね……。いや、自分でも想定外だったけど。女性を好きになるのと同じ感覚で、男性も好きになれるんだっていうのは」
彼はあまりにも、フラットに言ってのける。
「それって……、抵抗とか、葛藤はなかったんですか?」
「ああ、同性同士ってことに?」
「そうです。僕は……、この歳になるまで、自分が、ゲ、ゲイってことに……、抵抗があったというか……」
汗が、脇の下を流れる感覚があった。顔の熱は増すばかりで、鼓動が早くなる。
「そっか。俺はむしろ……、ぜんぜん抵抗はなかったかな。性別って関係ないんだなって思ったけど。逆にキミはなんでOKしてくれたの」
彼の質問で思い出す、温かい気持ち。深く、ゆっくりと呼吸する。
「白川さんが……、僕はそのままでいいって言ってくれたからですよ」
顔をあげると、目が合った。ただそれだけで、空気が甘い。彼の顔が近づく。
「あ、の……、白川さん」
「うん?」
「なので、僕……、付き合うの、初めてで……」
「うん、わかった。いいよ」
「い、いいっていうのは……」
「セックスが怖いなら、待つから大丈夫。ゆっくりでいいよってこと」
「あ……」
セックス、という直接的なワードが突然出てきたことに視線が泳いだ。再び顔が熱を持つ。
「え、うそ。違った? そういうことじゃなくて……?」
「違くないです……」
瞼を伏せて、彼の首元に額を預けた。顔の熱が収まらず手が震える。
「……ねぇ、顔見せて」
「イヤですけど……」
「じゃあ、キスは? していい? それも抵抗ある?」
「……して、いいです……」
頬に、手のひらが触れた。彼の胸元から顔を離し、僅かに顔をあげると、彼の顔が近づいた。鼻が触れそうなくらいの距離で、様子を窺うように、少しずつ近づく。ゆっくりと、優しく触れるキスをした。何度も柔らかく、唇を重ねると、自分の存在が肯定されるような気がしてくる。
「……ねぇ、舌は? 入れていいでしょうか……」
律儀に確認を取る彼に、「どうぞ」と許可を出す。
口を開け、舌を絡める。お互いの口内を、弄るように、柔らかく、大きな舌を追いかけた。記憶の中のキスよりも、優しくて、官能的だった。
「触るのはどう。いい?」
「触る……」
忽ち我に返る。胸の高鳴りとは別の動悸がしてきた。
「えっと……、ど、どこ……、どこを……」
言葉を探していたら、不意に抱きしめられた。
「ごめん……、また調子乗ったわ。ゆっくりでいいって言っといて……」
「いや……、こっちこそ、すみません……。二十四にもなって、え…えっ、ち、できないとか……」
「いいんだよ。人それぞれだから。付き合うって、エッチだけじゃないでしょ」
「……でも」
密着した体に、彼の硬くなった陰部があたる。肩を掴まれ、体が離された。
「ごめん、勃ってるけど! これはしょうがないって……。ほっとけばそのうち収まるから、気にしないで」
彼は、頬にキスをした。道弥の肩を掴んでいた手を離すと、マグカップを取り出す。
「ミルクと砂糖は入れる?」
ブラウンのローテーブルに、コーヒーの入ったマグが二つ。洒落たシーリングライトの下で、ソファに並んで座る二つの体。日曜の昼下がりの、どことなく気怠い、アトモスフィア。
「あ、道弥くんが観たいって言ってた映画、もう配信されてるよ。観る?」
「あの、白川さん」
「なに」
「さっきの話の続きなんですけど……」
「うん」
彼はリモコンをテーブルに置き、体を僅かにこちらへ傾けた。
「僕……、自分で触ったりとかも……、あんまりしなくて……」
「オナ……、自慰をしないってこと?」
黙って頷いた。
「それって、でも……、不健康じゃない? 夢精とかしないの」
「しないように、最低限だけ出してる感じです」
「そうなんだ。そういう、性的なこと全般が苦手…なのかな。それは……、どうしてって聞いてもいいの」
「……なんていうか、抵抗感が強くて……、悪いことしてる感覚が、耐えられなくなってくるというか……。上手く言えないんですけど……」
涼しい部屋の中で、顔だけがやたら熱く、額に汗をかく。
「だから……、普通の、恋人同士……、みたいなこと、ずっとできないかもしれない……。最初に言わなくてごめんなさい。無理だったら……、今フってください」
両腕を交差させ、体を抱えるように背中を少し丸めた。鼓動が早くなるのを抑え込むように、唇を固く結ぶ。大きなため息が聞こえ、心臓が小さく跳ねた。
「…見縊らないでよ。エッチできないくらいで別れるとか……、その程度だと思ってた?」
顔を上げ、彼のほうを見ると、手を取られ両手で握られた。
「それが目的で、付き合ってって言ったわけじゃないよ。そういうのって、お互い同じ気持ちでしたいと思ってなきゃ意味ないと思うから。一緒にいられるだけでいいよ」
真っ直ぐに向けられた眼差しは、柔らかい。
ウォールナットで揃えた家具に、ブルー系の色でまとめたソファやラグ。目の端には、控えめなパキラとガジュマル。一見、隙がないまでに、統一されたトンマナは、ただ丁寧に、手を入れているだけ。
愛が深いだけだ。
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