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僕の痛み 3枚目
間違ったこと
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日が短い季節、低いところを移動する太陽は、部屋の奥まで暖かく照らす。暖房をつけた部屋と差し込む日差しが、眠気を誘う。
道弥はインスタントコーヒーを淹れることにした。ケトルに水道水を入れ、スイッチを押す。両腕を思い切り上に伸ばし、体を反らせる。
メールの通知音が聞こえた。パソコンの前に素早く移動し、メールを開く。
『件名 創作絵本コンクール 結果のお知らせ
都築道弥様
この度は、創作絵本コンクールにご参加いただき、誠にありがとうございました。
厳正なる選考の結果、誠に残念ですが落選されましたことをお知らせ致します。弊社の創作絵本コンクールに………』
ケトルがカチッと鳴った。
眠気はどこかへ消え、コーヒーを淹れるのをやめた。内臓が掻き乱されるような感覚に、顔の表面が粟立つ気がした。太腿を拳で叩く。クロッキー帳を広げた。ペンをくるくると回し、真っ白な紙面と睨み合う。
――だから言ったでしょう。
母の姿が脳裏に浮かぶ。ペンを置いて両腕で腹を押さえた。
ベッドサイドの小さなナイトテーブルから、JUNの画集を取り出す。
JUNは、近年頭角を現した新進気鋭の画家だ。初めて目にした瞬間から釘付けになった。独創的な色使いと、ノスタルジックで夢幻的な作風は、どことなく懐かしさを感じた。
昔の作風とは多少ギャップがあるが、これは淳太郎ではないかと推測していた。
顔も出しておらず、年齢も性別も不明な、謎の多い画家の活動を追うようになったのは、きっと焦りを感じているからだ。
スマホの受信音が鳴った。画面を見た瞬間、痛みに近い衝撃が胸に走る。
母からのメッセージを、震える指で確認した。祖母の七回忌があるから帰って来られるか、という内容だった。脂汗が滲み、呼吸が早くなる。背もたれにしていたベッドに頭を凭れて、瞼を固く閉じる。
「はーくそ……。タイミング悪い……」
シーツに顔をうずめて、くぐもった声で呟いた。
学校からの帰り道、チャコールグレーのコンクリートに引かれた路側帯の白線を辿っていく。スニーカーを履いた足が、右、左、右、左、と交互に前に出ていくのを、ぼんやりと目で追いながら歩いた。背中のランドセルは、いつにも増して重く感じる。
「みーくん」
その呼び名で呼ぶ人は、今となっては一人しかいない。振り返ると、淳太郎が駆け寄り隣に並んだ。ブレザーの袖をまくり、肩まである髪を一つに縛っている。
「うわ……」
「うわとか言うなよ。傷つくだろーが。この前はあんなに仲良くしたのにさぁ」
「……うるさい。ついてくんな」
「はー、同じ方向だから無理だろ。機嫌わりぃな。今日もウチ来るだろ」
「行かない」
吐き捨てるように言い、歩く速度を速めた。淳太郎も追いかけるようにペースを速める。
「なんで。今日、塾じゃないだろ。マイメリの欲しいって言ってた色、なんだっけ……。プライマリーイエローと……、なんとかレッド、昨日届いたよ。使いたいだろ」
「いい。もう淳太の家には行かない」
「はぁ? なんで」
「言わなきゃわかんない?」
「はー生意気……。気持ちよさそうにしてたくせに」
「なっ……」
彼の明け透けな物言いに、一気に顔が熱くなり、足を止めた。
「あ、やっとこっち向いた」
「ほんとにやめて……、そういうこと言うの」
「お前さぁ、男が好きなんだろ」
「は……、はあ?」
顔はますます熱を持ち、恥ずかしさで涙が込み上げてくる。
「おい、ちょっと……、泣くなって。俺も同じだって言いたいだけだから」
「……淳太……、ゲイなの?」
「おー、よく知ってんじゃん、ゲイとか。安心した? 身近に同じやつがいて」
「僕は……、よくわかんないよ」
「何言ってんの。俺のこと、そういう目で見てただろ。バレてないと思った?」
心臓が大きく跳ねた。脈が早くなり、呼吸が乱れる。
「……ちが……、ちがう……」
「俺らみたいのはさぁ、相手を見つけるだけで大変なんだよ。肩身も狭いしさぁ。マイノリティってだけで心細いもんなの。俺のこと切るのは、勿体無いと思うなぁ」
道弥の肩に手が置かれた。
「……るさい……、触るな! 二度と触るな!」
彼の手を払い除ける。叫ぶように吐き捨て、駆け出した。滲む涙も渇くくらいに、背中のランドセルを揺らして走った。
強めの向かい風に、立ち並ぶ家屋の木が揺れる。雲の多い空の、水色と白の濃淡と、頭上で交差する電線。ランドセルを揺らす音と、荒い口呼吸。遠くで電車の音が聞こえた。
第二子をなかなか授かれない状態を、二人目不妊というらしい。治療の末に授かった六歳離れた弟は、大層母に可愛がられた。
広いリビングで、弟の柊弥を膝に乗せソファで絵本を読む母は、声が高い。ほとんど覚えている限り、道弥に向けられたことのない顔をする。なんとなく居心地が悪く、自室で過ごす時間が増えた。
日曜の昼下がり、出かける準備をして図書館で借りていた本を探した。今日が返却期限になっているはずだ。
「え……、ない……。なんで」
階段を降り母の姿を探すと、彼女はキッチンで野菜の皮をピーラーで剥いていた。
「ねぇ、僕の部屋入った? 机の上に置いてた、図書館の本がないんだけど……」
「えぇ、何。知らないわよ。自分でちゃんと管理しなさいよ。部屋の掃除は自分でしなさいって言ってあるでしょ」
母はこちらを見ずに、おざなりに答えた。
「や、だから、部屋に置いてたのに、無いから聞いてる」
「だから、お母さんも知らないって! これから柊くんと出かけるから急いでるの。自分で探して」
声を荒げる母とこれ以上会話しても無駄なことはすぐにわかった。リビングの柊弥に目をやると、紙やクレヨンをラグの上に広げ、何やらハサミで工作のようなことをしている。
「え……、待って、うそ……」
慌てて柊弥に駆け寄り、彼がハサミを入れている本を確認した。
「ちょっと! これ図書館の本だから……!」
彼の手元から本を奪う。すでに何ページもハサミを入れて切り刻まれ、取り返しのつかない状態だった。
「何やってんだよ……! どうすんだよ、これ……!」
大きな声を出すと、柊弥は即座に泣き叫んだ。家中に彼の泣き声が響き渡る。大きな声で泣けば母が飛んでくることを彼は知っているのだ。
「もー何。道弥あんた、何したの」
案の定、エプロンで手を拭きながら母が駆け寄る。彼女の口元は歪み、眉間に皺を寄せていた。
「僕じゃない! 柊弥が! 図書館の本、切ってた……! 借りたやつなのに……、これどうすればいいの……。今日返さないといけないのに!」
「もう……、ここに置いておくほうが悪いんでしょう。人のせいにしないでよ」
「違う! 前に、塗り絵の本……、柊弥にボロボロにされたから、ちゃんと自分の部屋に置いてた! 柊弥が勝手に入って持ってったんだ……」
「そうやって決めつけないよ。だいたい塗り絵って……、あんた、まだ根に持ってたの? あんな……、小さい女の子みたいな……。ちょっとおかしいよ」
「ちが……」
すでに涙が込み上げて、半べそをかいていた。六歳下の柊弥が大袈裟に泣く手前、同じように泣くのは躊躇われた。
母が、切り刻まれた本を片手でめくり確認する。
「ていうか、あんた……、これ何なの。絵の本を借りてたの? 受験生なのに。コソコソ隠れて、こんな本借りてるからバチが当たんのよ」
「……もう、いい……」
立ち上がり、大きな足音を立てて、そのままリビングを後にした。背中から「なんなのよ」と呟く母の声が聞こえたが、無視をして家を出た。
道路を走って渡り、斜向かいの家のインターホンを鳴らす。ほぼ同時にドアが開き、夫婦が出てきた。
「あら道弥くん。いらっしゃい」
淳太郎の母親に、笑顔で対応される。イタリア系ミックスの彼女と淳太郎はよく似ている。すぐ後ろにいた彼の父親も若く男前で、しかも背が高い。
「……こ…にちは……」
「淳くん! 道弥くん来たよー」
彼の母親が家の中に向かって声を張った。
「これから私たち出かけるんだけど、キッチンに頂き物のモナカがあるから、よかったら食べてね」
彼女は笑顔で言って、夫の腕を取り駅のほうへ向かって歩いて行った。
開け放たれた玄関の中で、淳太郎が腕を組み、こちらを見ていた。
「とりあえず入れば」
おずおずと中に入ると、彼は黙って玄関の鍵を閉めた。
「なに。もう来ないんじゃなかったの」
素っ気ない口ぶりの彼に、我慢していたものが決壊した。
「……うっ、うぅ……」
「えーなに……。なんで泣いてんの」
「……や……、やさしくしてよ……」
「えー……、もう……。触るなっつったり、優しくしろっつったり、意味わかんないんだけど……。俺はどうすればいいわけ」
「も…、触っていい……。好きにすればいいからぁ……、やさっ……、優しくしてほしい……」
俯いて、両手の拳で目を覆った。その手首を掴まれ、顔から外される。覗き込むように身を屈めた彼の顔が、目の前にあった。
「またおばさんに怒られた? 嫌なこと言われたの」
彼の口調はわかりやすく穏やかになった。
「どうして欲しいのか、言ってみ」
「……あたま撫でて……、抱っこして……」
「ははは。赤ちゃんみたいなこと言ってら」
茶化して笑う彼に、何も答えなかった。
「おいで。俺の部屋行こ」
手を引かれ、階段を上る。徐々に重くなる体と、不快に早まる鼓動。胃が締め付けられる感覚を、深呼吸をして腹の底に沈めた。それよりも今は安心したい。
「母さんたち、今日は月イチのデートで夜まで帰ってこないから。存分に甘やかしてやるよ」
彼はベッドに腰掛け、両手を広げた。どうすればいいかわからず立ち竦んでいると、腕を引っ張られ抱き寄せられた。耳元で「抱っこだろ」と言われ、向かい合う形で彼の膝の上に跨いで座る。力強く抱きしめられ、大きな手のひらが後頭部を上下に撫でつけた。体重を預け、彼の首元に顔をうずめる。
「お前さぁ、こんなに泣き虫だったっけ」
「泣き虫じゃない」
「あーさては、受験勉強のストレスだな?」
「……わからん」
「好きに触っていいってほんと?」
「……」
「おいおい、そんなすぐに、発言を撤回していいと思ってるわけ。女々しいなぁ」
「……ぃい…ら……」
「え、なに。聞こえなぁい」
「だからいいって! 触ればいい!」
わざとらしく聞き返した彼に、投げやりに叫んだ。
「怒んなよ……。ほら、ちゅーしよ」
優しく啄むように、唇が触れるだけのキスを重ねた。息のかかる距離で目が合うと、彼は口角を上げた。
「ふ。かわいい、みーくん」
胸の奥で燻っていた疾しい火種は、水に溶けて消えていく。
遠くで階段を上る足音が聞こえ、瞼を開けた。部屋のドアが開く。
「あ、起きた? 目ぇ腫れてるから、あっためるよ。ほらこれ、目にあてて」
ホットタオルを寝転んだまま受け取り、瞼に乗せた。
「紅茶淹れたし、おやつあるよ。なんか高級そうなやつ。ほら服着て、下おいで」
ベッドの上に、衣類が雑に拾い上げられた。
体を起こしそれらに手を伸ばすと、下半身に強烈な違和感が走る。
「……淳太! 待って!」
部屋を出ていく背中に叫ぶと、淳太郎は「何」と振り返った。
「なんか……、なんか、お尻がヘン……!」
「あー、最初は引き攣れる感じがあるかもな。最初だけだから」
「でも……、なんか……、中に何か入ってるかも……。何か入れた? 中に残ってる……」
尻の割れ目に指をそっとあてる。それ以上は触れなかった。
「だから最初は、そういう変な感じすんの」
「でも……、これ大丈夫なの? 普通にウンチできるの?」
「大丈夫だってば。すげぇ時間かけて解しただろ。大丈夫なようにしたんだよ」
「でも……! すっごく痛かった! 死ぬかと思った!」
「大袈裟だな。そりゃ最初は多少痛いっての」
「なんで……、なんでこんなこと……」
「あのさぁ。指入れてるときは、ヨかっただろ。そのうち、ちんこでもヨくなってくんの。つか、そもそも、みーくんが誘ったんだからな」
「誘ってない! 触るだけだと思うじゃん……! ちんちん入れるなんて……、思わないよ!」
涙声で息巻いた。淳太郎は眉を顰め、ため息をつく。
「もう……、喚くなよ。泣いたらまた目ぇ腫れる。どれ、見してみ。大丈夫か確認するから」
彼は、ベッドに勢いよく腰を下ろし、片手をついた。
「ひどい……、ひどいよ、淳太……」
「もー、早く見せろって」
彼がブランケットをめくり、何も着ていない道弥の体が露わになった。すかさずブランケットを取り返し、胸から下を隠す。彼に背中を向け、ベッドのヘッドボードを片手で掴み、少し腰を浮かせる。
「ぜんぜん見えねぇよ。もっとケツあげて。四つん這いになって」
「え、やだ」
「じゃあ、見なくていいのかよ」
「うぅ……」
仕方なく両肘をついて、彼に向けて尻を上げた。枕に顔をうずめる。両手で左右の尻の肉を掴まれ、外側に引っ張られた。顔を上げて振り向き「ひろげないで!」と叫ぶ。
「拡げないとよく見えないだろ。……まあこのお尻は、大丈夫でしょう。一日、二日くらいで違和感も痛みもなくなるんじゃない。おまじないしといてやるよ」
肛門に、ぬめった感触を得た。慌てて体を起こし、体ごと振り返る。
「やめて! 汚いよ!」
「はは、汚くないよ。みーくんのどこも、汚いとこなんてないよ」
彼は顔を近づけてきた。その口元を手のひらで塞ぐ。
「嫌だ。お尻舐めた口で、チューしないで」
「おい、お前そういうこと言うわけぇ。までも、また勃っちゃうからやめとくか」
「たたないし!」
「いや、俺がね。じゃあ行ってるから、早く服着ておりてきな。紅茶冷めちゃうぞ」
彼は道弥の頭を雑に撫でてから、部屋を後にした。
階段を下りリビングへ入ると、開け放たれた和室の水平イーゼルが視界に入った。そこに置かれた、一枚のキャンバスに目を奪われる。黄色や赤の暖色のグラデーションに、吸い込まれるように近づいた。
「あ、それ、この前届いたマイメリの黄色と朱色も使ったよ」
「……夕日?」
「そう、夕焼け模様」
「きれい……」
「サンキュー。後でみーくんも使ってみれば」
「うん……」
「先にさぁ、おやつ食おうぜ。あんこ好きだっけ」
彼はダイニングの椅子を引き、腰掛けた。
「うん……、やっぱり……、やっぱ好きだ……」
喉がつかえ、胸の内に温かいものが込み上げる。
「そんなに? じゃあいっぱい食いな」
「僕……、淳太の絵が好き」
「あー、そっち? 改めて言われると、照れるわぁ」
「淳太の絵を見て、また絵を描いてみたいって思ったんだもん」
彼のほうを見ると、「そうなの」と口元を緩め、髪を撫でていた。
「やっぱり僕……、絵の道に進みたいな……」
「いいじゃん。そうしなよ」
「いや、無理だよ」
彼の向かいの椅子に腰掛け、テーブルの上の菓子に手を伸ばす。
「淳太の家と違って、理解ないから。小さい頃そんなようなこと言ったら、無理だとか、ダメだとか言われたし」
「昔の話だろ。まだ小学生なんだしさ、これから時間かけて説得すればいいんだよ」
「そんな簡単な話じゃない」
「やる前から諦めんなよ。大丈夫だって、なんとかなるよ」
彼は身を乗り出して、道弥の髪を乱すように撫でつけた。
「……淳太が、僕の兄ちゃんだったらよかったのに」
「えー、それ兄弟ってこと? やだよ、兄弟じゃエロいこと出来ないだろうが」
「……今そういう話じゃないから……」
ため息がこぼれた。目の前の彼は、どこまでも欲求に忠実だ。
「この家の子供に生まれたかったな……」
「あのなぁ。ウチはウチで、お前んちとは違った大変さがあるかもしんねぇじゃん」
「だとしてもいいよ、絵が描けるなら」
口の中に広がる、重たい甘さと、紅茶の温かさ。花が生けられた花瓶と、開け放たれた和室のカラフルなキャンバスたち。だるい体に、糖分が染み渡る。
この家の中では、息ができる。
道弥はインスタントコーヒーを淹れることにした。ケトルに水道水を入れ、スイッチを押す。両腕を思い切り上に伸ばし、体を反らせる。
メールの通知音が聞こえた。パソコンの前に素早く移動し、メールを開く。
『件名 創作絵本コンクール 結果のお知らせ
都築道弥様
この度は、創作絵本コンクールにご参加いただき、誠にありがとうございました。
厳正なる選考の結果、誠に残念ですが落選されましたことをお知らせ致します。弊社の創作絵本コンクールに………』
ケトルがカチッと鳴った。
眠気はどこかへ消え、コーヒーを淹れるのをやめた。内臓が掻き乱されるような感覚に、顔の表面が粟立つ気がした。太腿を拳で叩く。クロッキー帳を広げた。ペンをくるくると回し、真っ白な紙面と睨み合う。
――だから言ったでしょう。
母の姿が脳裏に浮かぶ。ペンを置いて両腕で腹を押さえた。
ベッドサイドの小さなナイトテーブルから、JUNの画集を取り出す。
JUNは、近年頭角を現した新進気鋭の画家だ。初めて目にした瞬間から釘付けになった。独創的な色使いと、ノスタルジックで夢幻的な作風は、どことなく懐かしさを感じた。
昔の作風とは多少ギャップがあるが、これは淳太郎ではないかと推測していた。
顔も出しておらず、年齢も性別も不明な、謎の多い画家の活動を追うようになったのは、きっと焦りを感じているからだ。
スマホの受信音が鳴った。画面を見た瞬間、痛みに近い衝撃が胸に走る。
母からのメッセージを、震える指で確認した。祖母の七回忌があるから帰って来られるか、という内容だった。脂汗が滲み、呼吸が早くなる。背もたれにしていたベッドに頭を凭れて、瞼を固く閉じる。
「はーくそ……。タイミング悪い……」
シーツに顔をうずめて、くぐもった声で呟いた。
学校からの帰り道、チャコールグレーのコンクリートに引かれた路側帯の白線を辿っていく。スニーカーを履いた足が、右、左、右、左、と交互に前に出ていくのを、ぼんやりと目で追いながら歩いた。背中のランドセルは、いつにも増して重く感じる。
「みーくん」
その呼び名で呼ぶ人は、今となっては一人しかいない。振り返ると、淳太郎が駆け寄り隣に並んだ。ブレザーの袖をまくり、肩まである髪を一つに縛っている。
「うわ……」
「うわとか言うなよ。傷つくだろーが。この前はあんなに仲良くしたのにさぁ」
「……うるさい。ついてくんな」
「はー、同じ方向だから無理だろ。機嫌わりぃな。今日もウチ来るだろ」
「行かない」
吐き捨てるように言い、歩く速度を速めた。淳太郎も追いかけるようにペースを速める。
「なんで。今日、塾じゃないだろ。マイメリの欲しいって言ってた色、なんだっけ……。プライマリーイエローと……、なんとかレッド、昨日届いたよ。使いたいだろ」
「いい。もう淳太の家には行かない」
「はぁ? なんで」
「言わなきゃわかんない?」
「はー生意気……。気持ちよさそうにしてたくせに」
「なっ……」
彼の明け透けな物言いに、一気に顔が熱くなり、足を止めた。
「あ、やっとこっち向いた」
「ほんとにやめて……、そういうこと言うの」
「お前さぁ、男が好きなんだろ」
「は……、はあ?」
顔はますます熱を持ち、恥ずかしさで涙が込み上げてくる。
「おい、ちょっと……、泣くなって。俺も同じだって言いたいだけだから」
「……淳太……、ゲイなの?」
「おー、よく知ってんじゃん、ゲイとか。安心した? 身近に同じやつがいて」
「僕は……、よくわかんないよ」
「何言ってんの。俺のこと、そういう目で見てただろ。バレてないと思った?」
心臓が大きく跳ねた。脈が早くなり、呼吸が乱れる。
「……ちが……、ちがう……」
「俺らみたいのはさぁ、相手を見つけるだけで大変なんだよ。肩身も狭いしさぁ。マイノリティってだけで心細いもんなの。俺のこと切るのは、勿体無いと思うなぁ」
道弥の肩に手が置かれた。
「……るさい……、触るな! 二度と触るな!」
彼の手を払い除ける。叫ぶように吐き捨て、駆け出した。滲む涙も渇くくらいに、背中のランドセルを揺らして走った。
強めの向かい風に、立ち並ぶ家屋の木が揺れる。雲の多い空の、水色と白の濃淡と、頭上で交差する電線。ランドセルを揺らす音と、荒い口呼吸。遠くで電車の音が聞こえた。
第二子をなかなか授かれない状態を、二人目不妊というらしい。治療の末に授かった六歳離れた弟は、大層母に可愛がられた。
広いリビングで、弟の柊弥を膝に乗せソファで絵本を読む母は、声が高い。ほとんど覚えている限り、道弥に向けられたことのない顔をする。なんとなく居心地が悪く、自室で過ごす時間が増えた。
日曜の昼下がり、出かける準備をして図書館で借りていた本を探した。今日が返却期限になっているはずだ。
「え……、ない……。なんで」
階段を降り母の姿を探すと、彼女はキッチンで野菜の皮をピーラーで剥いていた。
「ねぇ、僕の部屋入った? 机の上に置いてた、図書館の本がないんだけど……」
「えぇ、何。知らないわよ。自分でちゃんと管理しなさいよ。部屋の掃除は自分でしなさいって言ってあるでしょ」
母はこちらを見ずに、おざなりに答えた。
「や、だから、部屋に置いてたのに、無いから聞いてる」
「だから、お母さんも知らないって! これから柊くんと出かけるから急いでるの。自分で探して」
声を荒げる母とこれ以上会話しても無駄なことはすぐにわかった。リビングの柊弥に目をやると、紙やクレヨンをラグの上に広げ、何やらハサミで工作のようなことをしている。
「え……、待って、うそ……」
慌てて柊弥に駆け寄り、彼がハサミを入れている本を確認した。
「ちょっと! これ図書館の本だから……!」
彼の手元から本を奪う。すでに何ページもハサミを入れて切り刻まれ、取り返しのつかない状態だった。
「何やってんだよ……! どうすんだよ、これ……!」
大きな声を出すと、柊弥は即座に泣き叫んだ。家中に彼の泣き声が響き渡る。大きな声で泣けば母が飛んでくることを彼は知っているのだ。
「もー何。道弥あんた、何したの」
案の定、エプロンで手を拭きながら母が駆け寄る。彼女の口元は歪み、眉間に皺を寄せていた。
「僕じゃない! 柊弥が! 図書館の本、切ってた……! 借りたやつなのに……、これどうすればいいの……。今日返さないといけないのに!」
「もう……、ここに置いておくほうが悪いんでしょう。人のせいにしないでよ」
「違う! 前に、塗り絵の本……、柊弥にボロボロにされたから、ちゃんと自分の部屋に置いてた! 柊弥が勝手に入って持ってったんだ……」
「そうやって決めつけないよ。だいたい塗り絵って……、あんた、まだ根に持ってたの? あんな……、小さい女の子みたいな……。ちょっとおかしいよ」
「ちが……」
すでに涙が込み上げて、半べそをかいていた。六歳下の柊弥が大袈裟に泣く手前、同じように泣くのは躊躇われた。
母が、切り刻まれた本を片手でめくり確認する。
「ていうか、あんた……、これ何なの。絵の本を借りてたの? 受験生なのに。コソコソ隠れて、こんな本借りてるからバチが当たんのよ」
「……もう、いい……」
立ち上がり、大きな足音を立てて、そのままリビングを後にした。背中から「なんなのよ」と呟く母の声が聞こえたが、無視をして家を出た。
道路を走って渡り、斜向かいの家のインターホンを鳴らす。ほぼ同時にドアが開き、夫婦が出てきた。
「あら道弥くん。いらっしゃい」
淳太郎の母親に、笑顔で対応される。イタリア系ミックスの彼女と淳太郎はよく似ている。すぐ後ろにいた彼の父親も若く男前で、しかも背が高い。
「……こ…にちは……」
「淳くん! 道弥くん来たよー」
彼の母親が家の中に向かって声を張った。
「これから私たち出かけるんだけど、キッチンに頂き物のモナカがあるから、よかったら食べてね」
彼女は笑顔で言って、夫の腕を取り駅のほうへ向かって歩いて行った。
開け放たれた玄関の中で、淳太郎が腕を組み、こちらを見ていた。
「とりあえず入れば」
おずおずと中に入ると、彼は黙って玄関の鍵を閉めた。
「なに。もう来ないんじゃなかったの」
素っ気ない口ぶりの彼に、我慢していたものが決壊した。
「……うっ、うぅ……」
「えーなに……。なんで泣いてんの」
「……や……、やさしくしてよ……」
「えー……、もう……。触るなっつったり、優しくしろっつったり、意味わかんないんだけど……。俺はどうすればいいわけ」
「も…、触っていい……。好きにすればいいからぁ……、やさっ……、優しくしてほしい……」
俯いて、両手の拳で目を覆った。その手首を掴まれ、顔から外される。覗き込むように身を屈めた彼の顔が、目の前にあった。
「またおばさんに怒られた? 嫌なこと言われたの」
彼の口調はわかりやすく穏やかになった。
「どうして欲しいのか、言ってみ」
「……あたま撫でて……、抱っこして……」
「ははは。赤ちゃんみたいなこと言ってら」
茶化して笑う彼に、何も答えなかった。
「おいで。俺の部屋行こ」
手を引かれ、階段を上る。徐々に重くなる体と、不快に早まる鼓動。胃が締め付けられる感覚を、深呼吸をして腹の底に沈めた。それよりも今は安心したい。
「母さんたち、今日は月イチのデートで夜まで帰ってこないから。存分に甘やかしてやるよ」
彼はベッドに腰掛け、両手を広げた。どうすればいいかわからず立ち竦んでいると、腕を引っ張られ抱き寄せられた。耳元で「抱っこだろ」と言われ、向かい合う形で彼の膝の上に跨いで座る。力強く抱きしめられ、大きな手のひらが後頭部を上下に撫でつけた。体重を預け、彼の首元に顔をうずめる。
「お前さぁ、こんなに泣き虫だったっけ」
「泣き虫じゃない」
「あーさては、受験勉強のストレスだな?」
「……わからん」
「好きに触っていいってほんと?」
「……」
「おいおい、そんなすぐに、発言を撤回していいと思ってるわけ。女々しいなぁ」
「……ぃい…ら……」
「え、なに。聞こえなぁい」
「だからいいって! 触ればいい!」
わざとらしく聞き返した彼に、投げやりに叫んだ。
「怒んなよ……。ほら、ちゅーしよ」
優しく啄むように、唇が触れるだけのキスを重ねた。息のかかる距離で目が合うと、彼は口角を上げた。
「ふ。かわいい、みーくん」
胸の奥で燻っていた疾しい火種は、水に溶けて消えていく。
遠くで階段を上る足音が聞こえ、瞼を開けた。部屋のドアが開く。
「あ、起きた? 目ぇ腫れてるから、あっためるよ。ほらこれ、目にあてて」
ホットタオルを寝転んだまま受け取り、瞼に乗せた。
「紅茶淹れたし、おやつあるよ。なんか高級そうなやつ。ほら服着て、下おいで」
ベッドの上に、衣類が雑に拾い上げられた。
体を起こしそれらに手を伸ばすと、下半身に強烈な違和感が走る。
「……淳太! 待って!」
部屋を出ていく背中に叫ぶと、淳太郎は「何」と振り返った。
「なんか……、なんか、お尻がヘン……!」
「あー、最初は引き攣れる感じがあるかもな。最初だけだから」
「でも……、なんか……、中に何か入ってるかも……。何か入れた? 中に残ってる……」
尻の割れ目に指をそっとあてる。それ以上は触れなかった。
「だから最初は、そういう変な感じすんの」
「でも……、これ大丈夫なの? 普通にウンチできるの?」
「大丈夫だってば。すげぇ時間かけて解しただろ。大丈夫なようにしたんだよ」
「でも……! すっごく痛かった! 死ぬかと思った!」
「大袈裟だな。そりゃ最初は多少痛いっての」
「なんで……、なんでこんなこと……」
「あのさぁ。指入れてるときは、ヨかっただろ。そのうち、ちんこでもヨくなってくんの。つか、そもそも、みーくんが誘ったんだからな」
「誘ってない! 触るだけだと思うじゃん……! ちんちん入れるなんて……、思わないよ!」
涙声で息巻いた。淳太郎は眉を顰め、ため息をつく。
「もう……、喚くなよ。泣いたらまた目ぇ腫れる。どれ、見してみ。大丈夫か確認するから」
彼は、ベッドに勢いよく腰を下ろし、片手をついた。
「ひどい……、ひどいよ、淳太……」
「もー、早く見せろって」
彼がブランケットをめくり、何も着ていない道弥の体が露わになった。すかさずブランケットを取り返し、胸から下を隠す。彼に背中を向け、ベッドのヘッドボードを片手で掴み、少し腰を浮かせる。
「ぜんぜん見えねぇよ。もっとケツあげて。四つん這いになって」
「え、やだ」
「じゃあ、見なくていいのかよ」
「うぅ……」
仕方なく両肘をついて、彼に向けて尻を上げた。枕に顔をうずめる。両手で左右の尻の肉を掴まれ、外側に引っ張られた。顔を上げて振り向き「ひろげないで!」と叫ぶ。
「拡げないとよく見えないだろ。……まあこのお尻は、大丈夫でしょう。一日、二日くらいで違和感も痛みもなくなるんじゃない。おまじないしといてやるよ」
肛門に、ぬめった感触を得た。慌てて体を起こし、体ごと振り返る。
「やめて! 汚いよ!」
「はは、汚くないよ。みーくんのどこも、汚いとこなんてないよ」
彼は顔を近づけてきた。その口元を手のひらで塞ぐ。
「嫌だ。お尻舐めた口で、チューしないで」
「おい、お前そういうこと言うわけぇ。までも、また勃っちゃうからやめとくか」
「たたないし!」
「いや、俺がね。じゃあ行ってるから、早く服着ておりてきな。紅茶冷めちゃうぞ」
彼は道弥の頭を雑に撫でてから、部屋を後にした。
階段を下りリビングへ入ると、開け放たれた和室の水平イーゼルが視界に入った。そこに置かれた、一枚のキャンバスに目を奪われる。黄色や赤の暖色のグラデーションに、吸い込まれるように近づいた。
「あ、それ、この前届いたマイメリの黄色と朱色も使ったよ」
「……夕日?」
「そう、夕焼け模様」
「きれい……」
「サンキュー。後でみーくんも使ってみれば」
「うん……」
「先にさぁ、おやつ食おうぜ。あんこ好きだっけ」
彼はダイニングの椅子を引き、腰掛けた。
「うん……、やっぱり……、やっぱ好きだ……」
喉がつかえ、胸の内に温かいものが込み上げる。
「そんなに? じゃあいっぱい食いな」
「僕……、淳太の絵が好き」
「あー、そっち? 改めて言われると、照れるわぁ」
「淳太の絵を見て、また絵を描いてみたいって思ったんだもん」
彼のほうを見ると、「そうなの」と口元を緩め、髪を撫でていた。
「やっぱり僕……、絵の道に進みたいな……」
「いいじゃん。そうしなよ」
「いや、無理だよ」
彼の向かいの椅子に腰掛け、テーブルの上の菓子に手を伸ばす。
「淳太の家と違って、理解ないから。小さい頃そんなようなこと言ったら、無理だとか、ダメだとか言われたし」
「昔の話だろ。まだ小学生なんだしさ、これから時間かけて説得すればいいんだよ」
「そんな簡単な話じゃない」
「やる前から諦めんなよ。大丈夫だって、なんとかなるよ」
彼は身を乗り出して、道弥の髪を乱すように撫でつけた。
「……淳太が、僕の兄ちゃんだったらよかったのに」
「えー、それ兄弟ってこと? やだよ、兄弟じゃエロいこと出来ないだろうが」
「……今そういう話じゃないから……」
ため息がこぼれた。目の前の彼は、どこまでも欲求に忠実だ。
「この家の子供に生まれたかったな……」
「あのなぁ。ウチはウチで、お前んちとは違った大変さがあるかもしんねぇじゃん」
「だとしてもいいよ、絵が描けるなら」
口の中に広がる、重たい甘さと、紅茶の温かさ。花が生けられた花瓶と、開け放たれた和室のカラフルなキャンバスたち。だるい体に、糖分が染み渡る。
この家の中では、息ができる。
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