僕の痛み

晴珂とく

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僕の痛み 5枚目

絵を描くということ

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 目を開けると、上から覗き込む有一の顔があった。下がった彼の眉と、見慣れた天井が視界に入ると、強張った筋肉が瞬時に緩む。過呼吸症候群が落ち着いたあと、そのまま眠ったことを思い出した。
「大丈夫? うなされてたよ」
 額に柔らかいパイル地の感触を得て、汗を拭われていることに気づく。
「え……、何時……」
 体を起こす。窓の外はすでに明るい。
「七時くらい」
「すみません、迷惑かけて」
「迷惑だなんて、思うわけがないよ。それより体調大丈夫?」
「はい……」
 額の汗を手で拭った。
「昨日お風呂入らなかったし、シャワー浴びてくる?」
「そうします」
 重い体をなんとか動かし、脱衣所へ向かう。汗をかいた肌が、冷えた空気に触れて寒い。全身が粟立つ。
 鏡に映る白い肌と、乱れた髪。胸の奥に、鉛のたまを落とされたように、鈍い衝撃が走る。産毛が逆立ち、呼吸が浅く、早くなる。
 シャワーを終えて出ると、部屋にいい匂いが立ち込めていた。
「テキトーに朝ごはん用意したけど、食べられそう? コーヒーは飲む?」
 有一が狭いキッチンでインスタントコーヒーを開ける。その背中に、抱きついた。
「おっと……、びっくりした……。どうしたの」
 彼の体に回した腕に、手を添えられた。
「有一さん……」
「はい、何でしょう」
「……ぇ…、ちしたい……」
 口に出してみると、顔が忽ち熱くなる。鼓動が早まり、彼の背中に顔をうずめた。
「え……、えっ?」
 手首を掴まれると、腕が剥がされ、彼が体ごと振り向いた。
「……聞き間違いかな」
「じゃないです。えっちしたいって言った」
 目を合わさずに、瞼を伏せた。手首を掴む手が、痛いくらいに力強い。
「……急にどうしたの」
「したくないんですか」
「いや、したいよ。そりゃあ、したいです、正直めちゃくちゃ!」
「じゃあ……」
「でも無理してほしくないの。OKになった理由を教えてよ」
「理由もなにも……。したくなったからじゃダメですか」
 彼の肩を引き寄せ、唇を重ねる。自分のズボンを尻の下まで下ろし、床に落とすと、脚から抜いた。
「……ベッド行こっか」
 彼に手を引かれ、ベッドに腰掛ける。
「無理になったら、早めに言って。すぐやめるから」
 彼が手を握り、確かめるように言った。
「や、むしろ、やめないでください。反射的に抵抗しちゃうかもしれないけど……、続けてください」
「ええ、なにそれ……。そんなこと出来ないよ」
「でも、もう強行突破しちゃったほうがいいと思うんです。じゃないと、いつまでも前に進めないから」
「……何を焦ってるのかわかんないけど、荒療治はよくないよ」
「ほんとに、大丈夫です」
 彼の目をまっすぐに見て伝えた。視線を逸らされ、彼は小さくため息をつく。
「わかった。セーフワード決めよう」
「なんですかそれ」
「本当に無理になったときの、合図の言葉。リスクが伴うエッチには必要なの」
「……必要ないです」
「だめ。使わなくてもいいから、保険として決めて」
「えー……、例えば? ストップ、とか?」
「何でもいいんだけど、普通はエッチするときに到底出てこないような、脈絡のない言葉かな。我に返るみたいな……」
「我に返る……」
 ふと、浮かんだ言葉があった。
「母さん……、とか……」
 口に出すと、一瞬肌が粟立ち、胃が重くなる。
「……ん、わかった。じゃあそれでいこう。心の準備ができたら、キミのほうからキスして」
「えっ、僕から?」
「そうだよ。自分からキスもできないようじゃねぇ……。さっき俺を誘ってくれたみたいな、エッチな積極性を見せてよ」
 彼は後ろに両手をついて、挑発するように口角と片眉を上げた。
「うぅ、意地悪……」
「だって、いじめて欲しいんでしょ」
「いじめて欲しいわけじゃ……」
「抵抗しても、やめないで欲しいんでしょ。いじめるってことじゃないの」
「う……、はい……、そ…です」
 有一の肩に手を置いて、彼と向かい合う形で、膝の上に跨った。彼に体重を預け、キスをする。
「大胆に来たねぇ」
「や、だって……」
 彼は、道弥の背中に腕を回すと、キスを重ねた。優しく触れるように、何度もキスをする。
「嘘だよ、優しくするから。いじめたりしないから、リラックスして」
 強く抱きしめられ、耳元で告げられた。むき出しの太腿に彼の手が触れる。
「あう……」
 思わず肩を上げる。彼は「リラックス」と言って、服の上から背中を撫でた。背中を支えられ、そっとベッドに寝かされる。
「あの……」
「ん」
「この体勢、ちょっと……、怖いかも……」
「そっか。わかった」
 体を起こされ、再び有一の脚の上に跨って座らされる。お互いの陰部が、布越しに密着する。すでに彼のそれは硬くなっていた。
「上の服、脱がしていい?」
「はい……。や、脱ぎます、自分で……」
 腕を交差し、スウェットの裾を持ち上げ頭と腕を抜く。体を覆うものが下着一枚だけになった。ほとんど裸の状態は、著しく心許ない。
「初めて見た……」
 彼が、確かめるように、肌の表面に手のひらを滑らせる。胸板に幾つもキスをされ、胸の先に唇が触れた。
「あっ、ま……、待って……」
 彼の肩に置いた手に、力が入る。
「んー、待たない。無理だったらセーフワードね」
 固く瞼を閉じ、はあはあと肩で呼吸をした。彼の首に腕を回し、しがみつくように体を密着させた。再び太腿を撫でられ、体が強張る。下着の上から、陰部に指が触れた。
「あっ!」
 大きな声が出て、咄嗟に彼の手首を押し除けた。
「あ……、すません……、つい……」
「大丈夫? すでに汗かいてるけど……」
 額を手のひらで撫でられる。
「大丈夫です……。続けてください」
「うーん……」
 彼は眉を少し下げて、じっと見つめている。その顔を両手で掴んでキスをし、舌を入れた。
 彼の指が、下着の上から陰部をなぞる。切ないような感覚が少しずつ広がり、息があがる。亀頭を親指の腹で掻くように擦られ、声が漏れた。下着をずらされ、陰部が露わになる。
「俺のと合わせて、一緒にしていい?」
 彼がズボンと下着をずらし、勃起した陰茎を開放した。息は荒く、乱れている。瞬時に胸の奥に疾しさが燻る。
「あ……」
 言葉を発する隙もなく、彼は互いの裏筋を合わせ、上下に擦った。込み上げる射精感に、鼓動が早くなる。
「あ、あっ、やっ、待って……、や、やだ……」
 彼の手首に手を添えたが、もう片方の手で手を掴まれる。
「も……、やめ……」
 体に力が入らず、動悸が激しくなる。指先が痺れる。
「ごめ……なさ……。か、ぁ……、さん……」
 喉がつかえて、言葉がうまく出なかった。彼の手が動きを止め、陰部から手を離される。涙が滲み、目元を手で覆った。背中に手を回され、強く抱きしめられる。
「ごめん……!」
「ちが……」
 彼の肩が上下している。
 ほのかに香る汗のにおい。素肌に擦れる、彼のシャツ。太腿に、彼の硬いままのそれがあたっている。涙がさらに込み上げた。
「うっ……、う……、ごめん、なさ……。す…、捨てないで……、捨てな……で……」
「捨てないよ! そんな……、何言ってんの……。最初に言ったよ、俺。できなくてもいいって」
「ごめ…、なさい……」
「大丈夫だよ。謝らないで……」
 彼の掠れた声が、聞こえた。体を包み込む腕が、頭を撫でる手のひらが、温かくて哀しい。

「はい。熱いから気をつけてね」
 有一が湯気の立つマグカップを差し出した。それを受け取ると、甘い匂いが漂ってくる。マグカップを両手で持って、ベッドの上で膝に乗せた。スウェット越しに伝わる熱が、心地よい。彼は床に座り、ベッドに肩肘を乗せて、道弥の顔を見上げている。
 その顔を一度見て、手元に視線を戻した。
「僕……、小六の夏休みに、祖母の家に引き取られて、それから親と離れて暮らしてて……」
「そうなんだ」
 彼の腕が伸びてきて、手のひらで背中をさすられる。
「その……、なんでかって言うと……、近所に、高校生が住んでたんですけど……」
「それは……、男の子? 女の子?」
「男です。……絵が上手くて、美大を目指してて……、画材もたくさんあって……。うちでは絵を描いてると怒られたから、そいつの家で描いてたんです。絵の具とか、何でも貸してくれて、描き方も教えてくれて……」
「うん」
「だから……、その、勉強教わるって親に嘘ついて、よく行ってたんです……。その……、そいつの家に……。それで……」
 深呼吸をして、息を整える。手に汗をかいて、片手でカップを持ち、手のひらをズボンで拭いた。彼がカップを受け取り、テーブルに置く。
「あ……、それで、いつもみたいに、家に行ったんです。……けど……、えっと……、お……、押し倒され、て……」
 背中を丸め、目元を両手で覆った。有一の顔を見るのが怖かった。
「……触られたり……、とか……、して……」
 そこまで言って、言葉に詰まった。そこから先を、どう言えばいいのかわからない。
 次の言葉を待っているのか、引いているのか、沈黙が続く。息が浅くなる。
「……つらかったね。小学生ってことだよね……。そんなの……、怖かったよね」
「違うんです……! 最初は……、強引にされたけど、二回目は自分で、向こうの家に行った! ご、合意だった……。僕が……、受け入れた。だから、そういう関係になって……」
「道弥くん。そうだとしても、最初に手を出したその高校生が悪いよ。法律の細かいことはわかんないけど、キミに落ち度はないよ」
 彼の手が、道弥の膝に置かれた。
「それは……、わかってます。あいつは、性犯罪者で……、僕が被害者です。今ならわかります。高校生が、小学生にとか……、頭おかしい……。優しくされたのも、ただのグルーミングだったのかもって……、わかってます」
 胸が痛んで涙が滲む。
「でも……、あの頃の僕にとっては、必要だった……。家族とうまくいってなくて……、辛くて……、淳太がいたから、頑張れた……。なのに、示談金払わせて、被害者ヅラして……、気持ち悪い、自分が」
 胸を突き刺す痛みが強くなり、涙が止まらなくなった。スウェットの袖に染みて、息が震える。有一が、静かにベッドに腰掛けた。彼の両腕で、肩を強く抱き寄せられた。
「僕が……、悪いことしてたから……、親に、見捨てられたんです……。今でも……、怖くなる……。悪いことをしてるんじゃないかって……」
「キミは一つも悪くない。何も悪くないよ……。悪いことなんて、何もしてない。自分を責めないで。いい子だよ……、いい子だから……」
 彼の腕が力強く、道弥の体を包む。肩をさする手が熱い。喉の奥が痛むようにつかえる。
 あの部屋の中で、一人で過ごした梅雨。土足で踏み込む大人たちは、憐れみの目を向けてきた。
 今も覚えている。舌に触れた亀頭の味と、口内を埋めつくされる、僅かな息苦しさ。確かに感じた、体の奥の熱は、誰にも言えない。

 川沿いの並木道、木々の葉っぱはほとんど落ちて、水色の空に根っこを伸ばす。枝には電飾が巻きつけられ、夜になるとそこは恋人たちのデートスポットになる予定だ。アパレルやコスメなどの洒落た路面店に、ガラス戸の洒落たカフェが並ぶ。通りを一本入った道に、それはあった。
 白い外壁のその会場は、入り口から人が溢れていた。混み合っているのが離れた場所からでもわかる。
 画家のJUNの個展の開催を知ったのは、SNSだった。新しい画集の発売を記念して、絵画の展示販売とサイン会を行う。今まで一度もメディアや公の場に顔を出していないJUNの、初の大イベントだ。
 素性のわからない彼のことを、淳太郎ではないかと思っている。ノスタルジックで、独創的な色彩の彼の絵と、JUNという名前――。
 今もなお、到底追いつけないような場所を、彼は走っているのか。
 会場の入り口に入ると、先日本屋で購入した画集が平積みされていた。スタッフの腕章をつけたカメラマンが、会場内の様子を撮っている。
 展示された原画を眺めた。リビングに面した畳張りの和室の、彼の小さなアトリエを思い出す。あの頃から少し変わった作風の、今の実力に圧倒される。
「本日は、ご来場ありがとうございます」
 マイクを持った女性が、来場者へアナウンスを始めた。
「サイン会をお申し込みの方は、まもなくご案内となります。こちらへ並んでお待ちください」
 会場の奥に設置された衝立の前に、人が集まり始める。先ほどの女性が、集まった人々に改めてアナウンスをする。写真撮影がNGだとか、画集を手元に準備しておくだとか、そんなようなことが伝えられた。
 やがて、前方の列から衝立の中に案内され、サイン会が始まった。一人ずつ、だけどスムーズに、白い衝立の中に案内されては吐き出されていく。憧憬の対象にまみえた人たちは、興奮収まらず、さざめきを作り出していた。
 画集を抱える手のひらが汗ばんで、服で拭いた。
「次の方どうぞ」
 女性に声をかけられ、中に入る。心臓が口から出そうとはこのことだと思った。俯いて息を整える。
 前に進みたい。もう一度会えれば、過去の捉え方が変わるかもしれない。
「こんにちは」
 女性の声だった。顔をあげると、道弥と変わらないくらいの背丈の綺麗な女性が微笑んでいた。
 横に並んだ男性スタッフに「画集を……」と促され、手に持っていたそれを差し出す。女性が画集を受け取り、ハードカバーをめくって、滑らかに油性ペンを走らせた。
「来ていただき、ありがとうございます」
 彼女は感じよく微笑んで、サインの入った画集は戻された。スタッフに退場を促され、一言も発しないまま衝立の外へ流される。そのまま会場を後にし、来た並木道を駅へ戻った。


 玄関のドアを閉め、冷えた空気の部屋の中、コートも脱がずにベッド脇に座り込む。トートバッグから画集を取り出し、表紙を指の腹で撫でた。ハードカバーをめくると、先ほど施されたサイン。
 淳太郎じゃなかった。
「はは……。バカだな……」
 昔の面影を探したカラフルな絵の数々は、別人のものだった。
 ナイトテーブルの下段に立てかけたクロッキー帳を手に取った。中に挟んだ一枚の絵は、破られた箇所をセロハンテープでつなぎ合わせてある。
 淳太郎と一緒に、リビングに飾られた花瓶の花を描いた。その一枚だけが、彼と共同で描いた絵だった。遊び感覚で描いたそれは、明らかに世界観の異なる花が混ざっている。
 だけど、楽しく描いた。
 ――淳太が描いた花、僕が描いたのと、ぜんぜん違うんですけど。
 彼に文句を言った。
 ――仕方ないだろ。みーくんと俺の作風がぜんぜん違うんだから。
 ――そっちが僕に合わせてよ。僕はそんなん、真似できないんだから。
 ――やだよ。俺はこういうふうに描きたいの。
 ――はー、やれやれ……。
 ――あんだぁ? しょの、にゃまいきなおクチは。このクチか?
 彼が片手で両頬を掴んできた。
 ――ふふ……。あー淳太ぐらい、おちゃらけてたら、うちの母さんのことも軽くさ、あしらえそうだよね。
 ――おちゃらけてるって何だよ。聞き捨てならねぇぞ。
 ――好きなことやってても、こいつはしょうがないか、って諦められそうだし。
 ――おい、ディスってんのかぁ? お仕置きするぞ。
 彼が道弥の陰部を服の上から掴む。その手を掴んで、やめてと払い除けた。
 ――つうかさ、お前の母ちゃんは、なんでそんなに絵を描くことに目くじら立てるわけ? やることやってりゃ趣味で何しててもよくない?
 ――んー、なんていうか、平凡な実力だから……、将来性がなくて意味ない……、というようなことを言われた。
 ――うわ、きつ……。
 ――はは、だよね。
 ――お前の母ちゃんは、わかってないね。子供はさ、親のために生きてるわけじゃないのによ。
 いつもより真剣なトーンだった。彼のほうを見ると、視線はスケッチブックに落としたまま、筆を動かしている。
 ――自分の将来は自分で決めるって、言ってやりな。
 ――だから言えないって、そんなこと。言えてたら苦労しない。
 ――はー……、なっさけねぇなぁ! みーくんも男だろ。ビシッとしろよなぁ。
 彼は肘で脇腹を突いてきた。
 ――……淳太にはわかんないよ。
 ――そうやってすぐいじけてたら、前に進めないぞ。自分でなんとかしなきゃ、やりたいことなんてやれねぇよ。誰も助けてくんねぇの。
 ――……なんだよ、それぇ……。
 視界が滲み、吐息混じりにぼやいた。
 ――もう……、すぐ泣くじゃん……。
 彼はティッシュを数枚、雑に取って顔に押し付けてきた。それを受け取り、目元を拭う。
 ――みーくんはさ、何のために生まれてきたと思ってる?
 ――は……、何その壮大な話……。
 ――ぜんぜん壮大じゃねぇよ。等身大の話。あのさ、好きなことするために生きてんだよ、俺らは。みんなそうなの。
 彼は手を止めて、目を合わせてきた。
 ――そういう人生を選ぶかどうかは、本人次第だけどな。
 ――じゃあ、どうすればいいの。好きなことをやるには……。
 ――んー……、言い訳しない。諦めない。
 ――……めっちゃ根性論……。
 ――いや、根性大事よ。スポーツ選手だって、メンタルトレーナーつけたりするの、知ってる? つまり、そういうことなんだよ。
 彼は絵の具チューブに手を伸ばし、黄色をパレットに出した。
 ――え、結局どうすればいいの。
 ――みーくんバカなの? だからぁ、やりたいことがあるなら、それを選び続けるの。わかったかな、泣き虫おバカちゃん。んーま。
 頬にキスをされた。
 ――え、じゃあつまり、どうやって……。
 ――もう、わかんだろうが。この話はおしまい。
 ――なに面倒くさくなってんの。
 ――面倒くせぇよ! こういう……、絵の描き方とか、えっちの仕方とかは教えられるけど、こういうのは教えられるもんじゃねぇの。
 ――サイテー、スケベじじい。
 ――誰がジジイだって? ピチピチの高校生だわ。
 彼が、痛いくらいに頬をつねってきた。彼の手を払い除けて、痛いと文句を言う。彼がパレットに出したプライマリーイエローを、筆に取った。
 内臓から軽くなって、浮遊するような、気持ちがかす感じがした。明るい夕方、い草と絵の具の匂い。胸が詰まって、また泣きそうになった。


 秘密が発覚すると、彼は簡単に手を離し、積み重ねたカラフルな時間は黒く塗りつぶされた。
 ゴミ箱に捨てられたスケッチブックの残骸から、このときの絵だけを探し出し、夜中に泣きながら貼り合わせた。
 祖母の住む田舎へ移り住んでから、市立図書館で漁った性犯罪関連の本。
 ――淫行、レイプ、児童虐待、グルーミング、ストックホルム症候群……。
 どんな言葉も、前例も、人ごとのようにしっくり溶けなかった。
 僕だけの愛しい傷は、型に嵌められない。名前をつけられない。どこにもない、ただひとつの絵。
 追いかけた偶像も、到底追いつけないと思い込んでいた存在も、過去に描いた絵と同じ。
 新しい絵を、描いていく――。
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