僕の痛み

晴珂とく

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僕の痛み 6枚目

愛するひと

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 冬晴れの陽の光が射す部屋の中、有一は掃除に勤しんでいた。フローリングにワイパーをかけ、パキラとガジュマルに水をやる。水回りの掃除に取り掛かる前に、腹の虫が鳴った。時計を見ると、まもなく十一時になるところだった。
 キッチンカウンターに置いたスマホが振動する。画面には「茉里奈まりな」と表示されていた。通話ボタンをスライドする。
「なに。どうした」
『あ、お兄ちゃん、元気? 今大丈夫?』
 妹の快活な声が、少し耳障りだ。
「何か用?」
『今、家にいる?』
「だったら何」
『日曜の、この時間に家にいるってことは、今彼女いないのかと思って』
「キミのそういうとこ、ホント好きじゃない……」
 ため息がこぼれる。相変わらずあざといところが、兄妹で似ていて嫌になる。
「てか、いますけど。付き合ってる人」
『あ、そうなの。どういう人』
「どういう人だっていいだろ」
『あー今回もすぐ別れるパターンか』
「はあ? 別れないし。真剣だから」
『へぇ珍しい。じゃあ、どんな人か教えてくれてもいいでしょ』
「いや、前に言ったことあるじゃん。職場で出会った……」
『えっ! その人と続いてるんだ! 二十いくつの若い子だよね。すごいじゃん! 一年以上経つんじゃない? えー、紹介してよ』
 彼女は息を弾ませ、早口になった。思わず舌打ちしそうになる。深く息を吸って、天井を仰いだ。
「……キミの用事は何なの」
『面倒くさくなるとそうやって……。まあいいや。私結婚決まったから、報告』
「ああそうなんだ、おめでとう」
『軽いなぁ』
「だって、二回目だし。茉里奈が結婚すると、俺の結婚はまだかって散々言われるから、嫌なんだよ」
『あーそれはまあ、大変だよねぇ。でもお兄ちゃんも、今の彼女と結婚考えてるんでしょ』
 茉里奈の問いに、胸の内が僅かに重くなる。
「……わかんない」
『えっ、真剣なんじゃないの』
「もういいかな。報告それだけ? また式とか諸々決まってから教えて」
『え、ちょっとぉ。式はしないし、近々出張で東京行くかもしれないから、会おうよ』
「考えとく。じゃあね」
 彼女からの返答が返ってくる前に、通話を切った。気力を削がれ、ソファに横たわる。差し込む陽射しが眩しく、目を細めた。
 ――コンペの締切に向け、追い込みがあるから今週末は会えない。
 道弥からそう告げられたのは、木曜だ。一年経っても、片想いのようなお付き合い。照明の消えたシーリングライトと、無音の部屋。鳴っていた腹もどうでもよくなる。

 地方都市にある実家は、すごく貧乏でもないが、決して裕福ではない。中古マンションの一室、小学生の頃から変わらない木製の二段ベッドと、学習机が二つ並ぶ子供部屋。
 ひとつ違いの年子の妹の茉里奈は、中学校のセーラー服を着こなし、よく高校生に間違われるくらいには垢抜けていた。
「お兄ちゃんさ、高校に入る前にコンタクトにしなよ」
 茉里奈は回転チェアに腰掛け、腕を組みながら真剣な顔をしている。
「何、なんで」
 ベッドの下段で寝転がり、漫画を読みながらおざなりに対応した。
「あと、そのボサついた髪も切って、いい感じに染めよう。染髪オッケーなとこだよね、高校。美容室紹介するわ」
「いらないんだけど。なに急に」
「や、これはマジな話! 真面目な話。そのよくわかんない、ダサい眼鏡に、髪型も野暮ったくて勿体無いの。今までもさぁ、チャラっとした男子に、変な絡まれ方したり、バカにされたりとか、その眼鏡と髪型のせいだからね」
「意味わからん。高校デビュー?」
「人は見た目が九割っていうでしょ。高校になると、さらに顕著になるって先輩が言ってた。眼鏡と髪型変えるだけで変に絡まれなくなるから。自分を守るために変えるんだよ」
「へぇ……」
 春休みの間に、茉里奈の付き添いで彼女の行きつけの美容室に行き、眼科でコンタクトレンズを処方した。
 高校に入って二ヶ月もする頃には、彼女が出来て、童貞も捨てた。

 共働きの両親は日中ほとんど家を空ける。ベッドの下には、コンドームを常備していた。部屋に招いた一つ年上の女を、狭い二段ベッドの下段で組み敷いた。キスをしながら制服のシャツの中で背中に手を回し、下着のホックを外す。
 玄関の鍵が開けられる音が聞こえ、ドアが開けられた気配がした。
「え、えっ、うそ。誰か帰ってきた?」
 腕の中の彼女の、視線が彷徨う。
「うーん……」
 枕元のスマホを確認すると、茉里奈からメッセージが来ていた。
「たぶん、妹。今日塾のはずだけどサボったかな、あいつ」
 彼女の服を捲り上げ、乳房を揉みながら、顔をうずめる。
「ちょっ、何してんの。妹、帰ってきたんでしょ」
「あー平気。、終わるまで駅前のマックで時間潰してるから」
 次の瞬間、左頬に衝撃と痛みが走る。頭に響くほどの打撃だった。
「……った……」
「サイッテー!」
 彼女はそう叫ぶと、勢いよく立ち上がる。服を素早く整え、大きな足音を立てながら出て行った。
 玄関ドアが閉まる音を聞いて、舌打ちをした。そのままベッドに横たわる。
「お兄ちゃん……、また新しい人だったね……」
 部屋のドアから茉里奈が顔を出す。瞼を半分下ろし、ため息混じりにそう言う彼女と、目は合わなかった。


 パジャマに着替えた茉里奈は、ベッドの梯子を登り倒れ込むように寝転んだ。
「熱あるなら、下で寝る?」
 ベッドの上段の柵に手をかけ、彼女に尋ねる。
「嫌だよ……。さっきまで兄がそういうことしてた布団とか」
「いや、何も出来なかったんだけど」
「ていうか……、お兄ちゃん不潔。彼女変わりすぎ。女の子舐めてると、痛い目見るよ」
「茉里奈のおかげで、入れ食い状態だよ」
「……最悪……」
 彼女の声は掠れて低かった。やがて寝息が聞こえ始める。魚を逃したベッドに横になり、昨日買ったファッション誌に手を伸ばした。

 ホームルームが終わると、途端に教室はざわめき始める。担任の名取なとりが教壇を降り、生徒の間を縫って、教室の後方に来た。
「白川、今から生徒指導室まで来なさい」
 無気力な顔をしている中年というイメージしかない彼が、鋭い視線を刺してくる。数人の男子生徒が、静かにいやらしく笑っていた。
 西陽の射し込む個室に、部屋のサイズに見合わない、大きな白いソファ。向かい合って配置された、二つの対のソファの間には、ローテーブルが置かれ、足がぶつかりそうなほど狭い。
 名取に目で促され、個室の出入り口を背にしたソファへ腰掛ける。彼は向かいに座り、テーブルに何かを置いた。
 タバコと百円ライターだった。
「見覚えある?」
 彼が尋ねる。責めるでもなく、呆れるでもない、感情のない声色だった。嫌な予感がした。
「ないですけど……」
「そう。これが何かはわかる?」
「え……、タバコ、ってことですか」
 彼の質問の意図が読み取れず、尋ね返した。
「今日の持ち物検査で、片桐かたぎりの鞄から出てきた」
「はあ」
「お前、片桐と仲よかったっけ」
「いや……、仲よくはないと思いますけど。何回か喋ったことあるくらいですかね」
「あー……、だよな」
 名取は伸びかけの髭が生えた顎を手で撫でた。
「片桐は、お前から貰ったと言ってる」
「は……、俺はあげてないです」
「そうか……。わかった」
「え?」
 予想に反した彼の反応に、口をついて出た。
「何だ」
「信じるんですか」
「まあ、片桐の言い分が不自然ではあったし。お前は内申に関わるところだけは、素行がいいからな。学校にタバコ持ってくるようなバカなマネはしないだろ」
「そっすか……」
 ため息がこぼれる。ソファの背もたれに凭れかかった。
「ただ、お前の評判というか、噂というか、まあ少し、聞き齧ってるところはある」
「え……、何をですか」
 顔を上げ、名取の顔を見た。
「んー……、白川ね、その見た目だから、モテるのはわかるんだけど、あんまり誠実な付き合い方してないだろ」
「誠実な付き合いって何ですか。浮気とか二股とかしてないですよ」
「いやでもお前……、入学してから一体何人とそういう関係になったよ。次から次と……、っていうのは一般的に、誠実には見えないの」
「でも、向こうから来るんですけど」
「だとしても! 誰彼構わずそういうことしてたら、恨みとか反感とか買いやすくなんの。しかも、男子とは自分から関わろうとしないだろ」
 彼は俯きがちに顔を顰めて、後頭部を雑に掻いた。
「……ダメですか?」
「あのね、見た目のいい奴は、目立つんだよ。その分、ちょっとしたことで不興を買いやすいわけ。今回のことも、お前の知らないところでそういうのが積み重なって、悪意を向けられた可能性はあるんだわ」
 彼は前屈みになり、膝に肘をつく。諭すように言い募るその顔は、眉が歪んでいた。
「理不尽だと思うかもしれんけど、処世術として、対人関係もう少し、改めてみてはいかがですかね」
 遠くで、部活動の掛け声や金管楽器の音が聞こえる。秋は深まり、陽が沈むのが早い。既に外は薄暗くなっていた。

 オフィスの窓は、壁一面がガラス張りになっていて、日当たりがよく開放感がある。デザイン系のベンチャーということもあり、社員が全体的に若い。雰囲気も悪くなく、前職のように殺伐としていない。
 営業はスーツだが、技術職は私服で出社している。
「白川さん、今日もよろしくお願いします」
 教育係の田中たなかは、一つ年下だった。
「はい、よろしくお願いします。新システムの資料と、先に予定している系列の実装イメージの資料もまとめてあります」
「うわ、すごいです。やーもう……、イケメンの上に仕事までできるとかずるいですよ」
「田中さんの教え方がいいからですよ。先週見せていただいた、要点まとめた独自のマニュアル、あれがなかったら出来なかったです」
「先輩も立てるとかどんだけ完璧なんだ……」
 彼は白川の肩に手を置いた。
「じゃあ行こうか。白川さんと挨拶回り行ってきます」
 内勤の社員に声をかけ、二人で席を立つ。
 エントランスで、社内に戻る一人の男性とすれ違う。お互いに「お疲れ様です」と声を掛け合った。私服だから技術職だろう。この会社の社風にしては地味な装いの彼は、色白で、背はおそらく百七十もない。オリエンタルな雰囲気の顔は、大学生くらいにも見える。一瞬目が合ったと思い、再び視線を投げると逸らされた。これが初めてではない。
「今の彼は、どこの部署ですか」
 エレベーターホールで、田中へ尋ねた。
「ああ、彼は社員じゃなくて、フリーのデザイナーの都築さん。デザイン部では、何人かフリーランスの人に業務委託してるんですよ」
「そうなんですね」
 エレベーターが到着し、先に乗り込んで「開」のボタンを押した。
 都築という男の、向ける視線を知っている。これまでも、そういう類の視線を向けられることは少なくなかった。
 ただ今までと違うのは、彼が男性ということだ。
「来週の歓迎会は、デザイン部と合同なんですよ。フリーの人たちにも声かけたらしいんで、話しとくと今後仕事しやすいですよ」
 田中は少しだけ口角を上げた。

 会社近くのダイニングバーで開かれた歓迎会は、二十名弱の大所帯となった。都築の姿を探したが、見当たらない。
「都築さんって、来てないんですか」
 隣に座る田中へ尋ねた。
「あー、見当たらないですね。あ、たちばなさん」
 彼は通りがかった女性に声をかけた。
「今日、都築さんは来てないんですか」
「うん。来てないよ」
 ――来てない……。
 田中は彼女に礼を言い、振り返った。
「来てないらしいすね。何か用事あったんですか?」
「あ、いや……、確認しただけです」
 普段は飲まないビールを、喉の奥へ押し流す。口に残った苦味で、食事も楽しめない。

 その後も都築からの視線は感じるものの、変わらずアクションは何もなかった。
 ――男性同士だと、なかなか声をかけられないのか……?
 彼がクローゼットの場合、行動に移すことはリスクが大きい。
 オフィス入り口付近のフリースペース。彼はそこでよく作業をしている。そのそばを横切ると、少しだけ顔を上げる。視線をやると、顔を逸らされる。午後のオフィスに漂うコーヒーの香り。わずかに体温が上がり、目が冴えるほどに頭の中がうるさくなる。

 オフィスの休憩室には、カウンター席と、丸テーブルが二卓に、それぞれ椅子が三脚ずつ。壁際にはベンチソファ。
 自販機でコーヒーを買って、ベンチソファに腰掛ける。前の会社よりも気のいい社員が多いとはいえ、新しい環境に気疲れする。
 一人の女性が休憩室に入ってきた。
「あ、白川さん。ちょうどよかった」
 北見きたみという広報部の社員だった。派手な顔立ちの彼女は社交的で、よく若手を集め、飲み会をしているらしい。
「今週末は空いてますか? 白川さんの返事待ちなんですよぉ」
 彼女はベンチソファの隣に浅く腰掛け、身を乗り出す。
「うーん、若い子の中に、俺みたいなおじさんが混ざるのは気が引けるなあ」
「ぜんぜん! おじさんじゃないですよ、三十四歳なんて。それに田中さんも参加しますよ」
「へぇ、そうなんだぁ」
 笑顔を作りながら、断り文句を考える。休憩室の扉が開く。入ってきたのは都築だった。
「お疲れ様です」と声をかけると、会釈で返された。
「都築さんは参加するの」
 彼女に尋ねる。都築は、自分の名前が出されたことに僅かに目を見開き、こちらを見た。
「あ、いや……、都築さんは……」
「今週末に、若手の親睦会があるみたいですけど、都築さんもどうですか」
 口籠る北見に代わって、彼に声をかけた。
「僕、お酒飲めないんで、遠慮しときます」
「そうなんだ。でも、お酒飲めなくても大丈夫だよね」
 隣の北見に同意を求める。
「あ、はい。ノンアルもありますし……」
「あー……、飲み会苦手なので、ごめんなさい」
 表情を一切変えずに固辞する彼に、一瞬言葉を失う。ひととき流れた沈黙は時間が止まったようだった。
「……し…らかわさんは、参加ってことでいいですか?」
 彼女が沈黙を破り、尋ね直した。
「んー、そうだなぁ」
「まだ入社して短いですし、いろんな部署の子と話してみるのも、いいんじゃないですか」
「まあ、確かにね」
「じゃあ、参加でいいですか」
「ああ、はい……。じゃ、参加します」
 いよいよ観念して参加を表明すると、彼女は嬉々として仕事に戻っていった。彼女とのみっともない応酬を繰り広げる間に、都築は早々に飲み物を買って去っていた。一人になった休憩室で、大きくため息をこぼす。

 フリースペースでレモンティーをそばに置き、作業をする彼を見つけた。
「ここいいかな」
 彼の隣の椅子に手をかける。是か非かわからないような、薄いリアクションの彼に構わず、椅子を引いて座った。
「さっきはごめんね」
 正直、申し訳ないとは思っていなかったが、形だけの誠意を見せる。
「何がですか」
「や……、だから、さっき、強引に誘ってしまって」
「それは別に、大丈夫です」
 彼は再びディスプレイに視線を落とした。手応えのなさに、顔の筋肉が引き攣るのを感じた。ここまでお膳立てしてやっているにも関わらず、彼は世間話すらしようとしない。
「付き合い悪いとか、言われないの」
「まあ……、そういうことも、なくはないです」
「だよね。それを受けて、改善しようとかは思わないの」
 さすがに、食ってかかりすぎたと後悔が掠めたが、それも次の瞬間には消え去った。
「僕は……、良く見られようとしても、しょうがないっていうか……、自分がどうしたいかだけで考えてます」
 淡々と静かな反撃に、歯を噛み締めた。
「……確かに、人の顔色窺って、乗り気じゃない誘いも断り切らないで、ダッセーって思うけど……、みんながキミみたいに自由な選択ができるわけじゃないよ」
「あ……、いや……」
「俺みたいなのがそうやってたら、敵を作りやすいの。できる限り周りの期待に沿わないと、すぐ敵意向けられんだよ」
 背中を曲げ、片手で目元を擦った。
 失望か、幻滅か。彼の顔に浮かんでいたのなら、耐えられない。
「あの……、気に障ったなら、すみません」
 なぜか彼から謝罪された。顔を上げ、彼の顔を見た。
「僕は…、人の期待に応えようとしても、うまくできないので、最初から諦めてるだけです。白川さんみたいに、人のために努力できるのは尊敬します」
「……努力……、してるわけじゃないんだけど」
「え、あー……、でも合わせてるんですよね。本意じゃないことにも」
「嫌われないようにしてるだけ。ダサいだろ」
「嫌われないように頑張っても……、僕はできないんです。あの、昔の話ですけど……、親を……、裏切るようなことをしたことがあって、まあ嫌われて……、もういいかって」
 彼は机の上で両手を組み、瞼を伏せた。
「えー……、万引きでもした?」
 彼のまつ毛が、少し動いて、視線を少しだけ、こちらに寄せたのがわかった。
「万引きではないですけど……」
「キミみたいな、真面目に見える人がどんなことしたのか気になるなぁ」 
「いろいろですけど……、不登校とか……」
「へぇ……。不登校って、親を裏切るようなことなの? 真面目だねぇ」
 自分の言葉が滑稽だった。
 おしゃれで砕けた雰囲気のオフィスにそぐわない、年配受けを意識した地味なスーツ。飲み会で、顔に貼り付けた笑顔。誘いを断れない苛立ちと、自己嫌悪。正直に生きられないのは、弱さなのか。
「嘘、ごめん。俺も……、不登校だったことあるよ。中学の頃。だから、もうあんなふうにはならないように、どう思われるかを気にしてしまう。キミが羨ましい」
「や……、僕は……、だから、諦めてるだけで……」
 言い淀む彼に、口角をあげて笑顔を作る。彼は、眉毛を少し下げて微笑んだ。


 道弥とキスを交わしたソファの上で、彼とのキスを、瞼の裏に映し出す。彼の唇の柔らかさを思い出しながら、指で唇をなぞった。
 ――普通の恋人同士みたいなこと、ずっとできないかもしれない――。
 最初の宣言通り、二人はキスより先のことを何もしていない。
 だけど、疑問に思うことがある。
 その顔に手を触れると、身を委ねて恍惚とする。唇を合わせると、口を開いて受け入れる。舌を絡めると、徐々にあがる息。体を密着させると、彼も興奮していることは明白だった。
 まだ見ぬ服の下を想像しながら、下着の中に手を入れた。
「……ふ……、うっ」
 白濁の液を手のひらで受け止め、テーブルの上のティッシュ箱へ手を伸ばす。近頃は自分で慰めても、欲求不満に拍車がかかるだけだった。
「ああぁ……、触りたい……。なんでダメなんだよぉ……」
 目元を腕で覆う。嘆きは瞼の裏に消えた。
 体を繋げれば、常にまとわりつく不安も解消されるだろうか。
 スマホのアラームが鳴り、出かける準備を始めた。

 木製の格子と、磨りガラスがレトロな引き戸を開けると、中はやや照明を落としていて、居酒屋にしては洒落ていた。カウンター席に座る茉里奈が、すぐに目に入った。
「あ、お兄ちゃん」
 近づいて声をかける前に、彼女が気づいた。
 ワインで乾杯を済ませて早々に、茉里奈は肘をついて身を寄せてきた。
「ねぇ、写真ないの」
「写真見てどうすんの。値踏みでもするの」
「あーあー、捻くれた性格……。兄が結婚するかもしれない彼女をさ、見たいと思うのは普通でしょ」
「だから結婚はわかんないっての。まじでうるさいわ」
「機嫌悪いなぁ。まあいつもだけど。彼女とうまくいってないの」
「別に……。はあ……」
 両肘をカウンターに突き項垂れた。
「明らかに悩んでるじゃん。まあ飲みなよ。お兄の好きなワインが豊富だよ、このお店」
 ドリンクメニューを手渡される。ワインをボトルでオーダーした。
 酩酊するほど飲んだのは、いつぶりだろうか。
「だからぁ、ずっと一緒にいたいの、俺は。でも、向こうがそう思ってるかわかんないって話」
 目が霞んで、頭の中は心地よい浮遊感に支配されていた。
「んー……、それとなく、結婚の意思は確認してみたりしたの」
「そういう段階じゃあ、ないんだって……。プレッシャーかけらんないの」
「え、それ、ほんとに付き合ってるよね」
「くっ……」
 痛いところを突かれ、涙が滲みそうになった。
「俺が聞きたいよ……。そう思ってんのか……」
 顔を上げると、彼女は「とりあえず鼻水拭きな」と言い、おしぼりを顔に押し付けてきた。それを受け取り、鼻を拭う。
「……なんか、付き合うとか、そういうこと自体に、トラウマというか、抵抗というか、あるみたいなんだよね……」
「えー、そっかぁ」
「……うん……」
「今は気長に付き合うしかないんじゃない? それに向こうはまだ若いんでしょ。結婚とか、まだ身近に感じられないかもね」
「二十五歳……」
「若いね……。十個も歳下だっけ。よくそんな若い子捕まえられたね」
 彼女は半ば呆れ混じりに言った。
 二十五歳の頃といえば、深く考えずに女性と付き合っていた。遊びたい盛りだったはずだ。
 彼は、あまり多くの人と関わろうとせず、ひたすら仕事に向き合っている。まるで何かに、追われるかのように。何が彼をそうさせるのか。
「わかんないけど……、悲しくなってきた……」
 訳もなく、涙があふれ出る。アルコールがかなり回っていることは自覚していた。
「だーもう……、めんどくさ。タクシー呼ぶから、もう帰るよ」
 冷たくなったおしぼりを、顔に押し付けられる。胸を突く痛みと、口の中に残る白ワインの香り。
 中学の頃、軽いいじめに遭って、それからなんとなく不登校になった。今でもその痛みは確かに、どこかにある。
 彼の痛みに、触れさせてほしい。

 道弥の部屋のベッドの上で、彼を脚の上に乗せて、キスをする。朝七時過ぎ、外は明るいが、日差しはまだ部屋の中まで届かない。甘い空気と、微かに震える彼の手足。
 彼の突然の申し出は、明らかに昨夜の母親からの着信が原因だろう。おそらく、挿入までは到達しない。
 それでも初めて触れる彼の躰に、泣きそうだった。
 ――僕が……、悪いことしてたから……、親に、見捨てられたんです……。
 震える声で紡がれる傷の正体に、言葉をなくした。男性にしては小柄な体躯の肩を丸め、一層小さく見える。
 その肩を抱く手が震える。目元の筋肉が小刻みに痙攣した。
 体さえ繋げられればと、浅はかに考えていた。喉がつかえて視界がぼやける。腕の中で震える肩を、強く抱きかかえた。
 いつかの夜、この部屋で吐露された彼の弱さ。受け入れられないと言ったコンプレックスが、セクシャリティのことだとしたら――。
 ――キミは、どんな気持ちで生きてきたのか。
 うまく息ができず、頭を殴られたかのように眩暈がする。手足の末端は冷たくなり、心臓の音が耳まで聞こえてくる。
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