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僕の痛み 7枚目
愛しいということ
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片付けられて、洗練された、モデルルームのような部屋。かと言って冷たい感じはなく、木製の家具が優しくて温かい。美味しいご飯と、美味しいお酒。大画面で観る映画。ほどよく冷房が効いていて、アルコールで火照った体温を心地よく冷ましてくれる。
有一の部屋で過ごす時間は、贅沢な旅行にでも来たような気分になった。
週末が終わり、自宅へ帰ることを考えると、胸の内が翳る。
道弥はジュート素材のラグに腰を下ろし、背中のソファの座面に頭を乗せ、天井を仰いだ。
「酔った? 水飲む?」
隣に座る有一が、顔を覗き込んでくる。
「……有一さんは、なんでそんなに、完璧なんれすか」
有一のほうに体を向け、座面に肘をついた。彼はこちらを一瞥して、テーブルにグラスを置く。
「あー、キミ酔うと、俺のこと褒め出すよね。悪くないけど……」
「なんで、見返りがないのに、こんなに、よくしてくれるんですか」
「え、見返りって何」
「……ぇっちできないのに……」
「あのねぇ……。だからそれが目的で付き合ってるわけじゃないって、言ってるでしょ」
「でも……、ああごめんなさい」
ソファに顔を伏せた。
「何言ってんだろ僕……」
顔が上げられなかった。ため息が聞こえ、後頭部に彼の手が触れた。
「キミが、セックスできないことに罪悪感を抱いているのは、感じてたんだけど。まあ俺も、したくないわけじゃないし。でも天秤にかけたときにさ、セックスできる他の誰かと付き合うより、キミと一緒にいたいんですよ。ついでに、一緒にいるなら、嫌なことはさせたくないし、楽しくいてほしいし」
顔を上げて彼を見ると、テーブルに肩肘をつき、手のひらで顔を覆っていた。半袖から伸びた腕に血管が浮かんでいる。
「俺もだいぶ酔ってるな……。二杯も飲んでないのに……」
俯いた彼の髪に触れて、前髪を掻き分ける。少し汗をかいていた。
「あの……、ありがとう……」
「ねえ、俺も一個訊いていい?」
「なんですか」
「なんでキスはオッケーなの。けっこうエッチなキスしてるけど、口の性感帯は触っていいんだなと思って」
彼は肘をついた手のひらに顎を乗せ、視線を寄越した。顔が熱くなる。口元に指先をあてた。
「えっ、そうなんですか……」
「なにその反応……。あーくそ。ずるい! ムラムラするじゃんか……」
彼は、項垂れて再び顔を覆った。
「だって……、なんか……、チューはなんか、合法で、大事にされてる感が……、あるというか」
「なんだその偏った恋愛観」
「だってなんか……、好きなんですよ……」
「あーもう……! おいで!」
彼は半ばヤケクソな雰囲気で、道弥の体を引き寄せた。脚の間に招かれて、彼の腕の中に収まりよく抱きかかえられる。
「有一さん……、たっ、てますけど……」
キスもしないうちから、彼の陰部が硬くなっていることを指摘した。
「おー珍しい。いつもは気付いても言ってこないのに」
「……すません……」
「いーの、いーの。もう謝らないで。いつもキミとのキスを、おかずにして抜いてるし」
「おかず……」
「え、ダメだった?」
「いや、光栄です」
「こっ……」
彼が勢いよく吹き出した。天井を仰ぎ、声を出して笑い始めた。
「あははは……、飽きないなあ、道弥くん」
「笑わないでくださいよ……」
「ああごめんね。そしたら、後でおかずにするから、キスさせて」
「そういうこと言わないで」
唇を合わせると、白ワインの葡萄の香りと、ほのかな汗の匂いが、鼻に抜ける。彼の胸板に触れる肩と腕が、熱を持って汗が滲む。
彼の温かさと、愛を、今なら全部受け止められる。
冬至も過ぎ、寒波が押し寄せていた。いつもは背中を丸めて歩く道を、背筋を伸ばして足早に歩いた。オートロックのマンションのエントランスで、渡されていたスペアキーを初めて使い、自動ドアを解錠した。
エレベーターで七階まであがる。エレベーターを出てすぐの扉の鍵を開けて入る。
部屋の電気はついていて、玄関に靴もある。
「有一さん」
声をかけながら靴を脱ぐ。返事はなく、部屋の奥まで進むと、有一はローテーブルに突っ伏し居眠りしていた。
「えっ、てか汚……」
普段は、モデルルームのように片付けられている彼の部屋は、物が散乱していて空き巣が入ったのかと思うくらいだった。ゴミが入ったコンビニの袋に、ソファの上に積まれた衣類。床の上に小さな丘を形成している、大量のタオルのようなもの。
ひとまずコートを脱いで、ハンガーにかけた。ゴミの入った袋の口を縛り、キッチンのゴミ箱に捨てる。キッチンのカウンターには、空のペットボトルが、倒れて置いてある。シンクには使った食器類が放置されていた。
「うーん……」
悩んだ末、寝室からタオルケットを持ち出し、有一の肩にかける。部屋の惨状を片付けるために、腕まくりをした。
「うお。え……」
背中から声が聞こえ、振り返ると有一が起きて顔を上げていた。
「えっ、うそ。どうしたの」
彼は目を見開き、首元を触った。
「すません、起こしちゃいました?」
「なんで……、なんで……」
彼の目が泳いでいた。片足を立て、髪を掻き上げている。彼に目線を合わせ、しゃがみ込む。
「急に来てごめんなさい」
「や、いいんだけど……、言ってくれれば片付けとくというか……。や、好きに来てくれて構わないんだけど……、今まで一度も、一回も、急に来たことないから……、油断するじゃん……」
彼は立てた片膝に額をつけて、項垂れた。
「あー、なんか、すごい散らかってますね」
「……こういうの、見せたくなかったんだけど……」
「僕は、こういうとこ見れたほうが嬉しいですけど。いつも、カッコつけてんなあって思ってたから」
「そんなこと思ってたの?」
彼が勢いよく顔を上げた。
「前に……、ほぼ初めてぐらいに、会社で喋ったとき、僕に突っかかってきたじゃないですか。ああいう、人間らしい有一さんも見たいですよ」
「ちょっとそれ、もう忘れてほしい……。ほんと後悔。黒歴史。俺は好きな子の前では、カッコつけたいんだよぉ」
彼はソファに両肘をついて、顔を伏せた。それを見て「ふ」と吹き出す。彼が眉毛を歪めてこちらを見る。
「笑ったな……」
「ごめんなさい。泣かないで」
「泣いてないよ!」
「僕だって、この前大泣きして、めちゃくちゃカッコ悪いとこ見せてるんだから、おアイコでいいじゃないですか」
「キミは……、かわいいからいいんだよ」
「かわいいとか、思ってたんですか」
「ごめん、思ってたわ」
「や、嬉しいです」
彼に顔を近づけて、キスをした。
「え、えっ、え……? ど…したの」
「あの……、今日、リベンジ、しに来たんですけど……」
「え」
有一の顔は紅潮し、口は半開きになっていた。その視線に耐えられず、瞼を伏せた。顔が熱くなっていく。
「……後ろの準備も……、してきたんで……」
「うそ……」
「もうイヤになっちゃいましたか」
「それはない!」
力強く腕を掴まれた。
「でも、なんで? ちゃんと理由を教えてほしい。無理しないでほしいし、自棄になってほしくないから」
「この前は、正直ちょっと、焦って、ヤケになってたんですけど……、今は違います」
ソファの横に立てかけた鞄から、JUNの画集を取り出し、彼に差し出した。
「今日……、この人のサイン会に行ってきたんです」
「ああ、道弥くんの好きな……。サイン会とかあるんだ」
「いや、この人は初めての開催で……。今まで顔も年齢も公開してなかったので、メディアにけっこう取り上げられて……」
「へぇ」
「この人……、名前とか、色使いも、その……、似てて……。淳太……、例の高校生の……、彼なんじゃないかと、思ってたんです」
「……うん……」
「でも、会ってみたら違いました。そもそも女の人でした」
彼は、掠れた低い声で「そっか」と呟いた。
「もしこの人が……、淳太だったら、僕はずっとこの人を超えられないんだなって、思っちゃってたんだと、思うんです。どうしても、超えられないと先に進めない気がして、辛かったんですけど……、めちゃくちゃ思い込みだったんだなって、気づいたっていうか……」
道弥の告白に、彼は何も言わなかった。ただ、表情に翳りが見えて、その手を握った。
「もう囚われなくていいんだって思えたのは、有一さんのおかげですよ」
彼は少しだけ顔を上げたが、瞼は伏せたままだった。
「僕……、普通の恋人らしいこともできないのに、挙句あんな……、醜態晒して……。普通に考えて、まじで最悪だと思うんですけど、受け止めてくれて……、ほんとに好きでいてくれてるんだって、思ったんです……」
言葉を紡ぐうちに、胸が詰まって声が震えた。彼に腕を引っ張られ、抱き寄せられた。
「まだ信じてなかったの。心外だよ……」
「信じてなかったわけじゃないんですけど……、このままじゃダメだとは、ずっと思ってて……。でも、無理して変わらなくていいんだって、思えたんです」
「そうだよ。そのままの道弥くんが好きなんだから」
二人は、少し体を離すと、目を合わせた。窺うようにゆっくりと、唇を触れ合わせる。
「今まで散々待たせて、ごめんなさい……。まだ、気が変わってなかったら……、僕と、してくれませんか……」
顔が熱くなる。脈が早くなり、心臓の鼓動が聞こえてきそうだった。力強く抱きしめられ、胸が圧迫される。
「あーもう……、嬉し過ぎて死にそう……」
微かに声が、震えていた。
テーブルの上の、三冊の本が目に入る。性被害に関するものだった。うち二冊は、中学の頃市立図書館で読んだことがある。鼻の奥を突く、淡い痛み。
痛みを分かち合うと癒えるのだと、初めて知った。
枕の下に、コンドームの箱と、潤滑剤のボトルを隠す。遠くから聞こえてくるシャワーの音に、口から内臓が出そうだった。
枕に顔をうずめて、耳を塞いだ。
まもなくベッドルームの引き戸が開けられ、背中に有一が降ってきた。「うお」と声が出る。
「お待たせ」
仰向けにされ、頬や耳たぶに幾つもキスを落とされる。彼は腰にバスタオルを巻いているだけだった。髪の雫が、顔に落ちる。
「何も着てないんですか」
「だってすぐ脱ぐし。脱がしていい?」
小さく頷くと、流れるように下着一枚まで剥かれてしまった。露わになった胸や腹の上に、彼の唇が這っていく。
「この体にまた触れるなんて……」
吐息混じりに呟く彼の、頭を撫でた。
「怖くなったら言って。セーフワードは、この前と同じね」
「今日は、大丈夫です……」
頭を少しだけ持ち上げ、枕の下に手を入れ、コンドームと潤滑剤を差し出す。
「……買ってきてくれたの」
小さく頷いた。
「ありがと……。でもゴムのサイズ違う」
「え」
彼は、ナイトテーブルの引き出しを開け、コンドームの箱を取り出した。
「これ一年前のだけど、大丈夫かな。あ、使用期限まだだからいけるわ」
彼は箱の中から、ひとつを取り出して、枕の横に置いた。
「キミを初めて家に呼ぶとき、用意しといたの」
「……サイズとか、あるんですね」
「あーまあ、そうだね」
「どうやって測るんですか」
「測るっていうか、まあ、テキトーに……」
言い淀む有一の口元が、僅かに緩んだ。
「あ、今、バカだなって思いました?」
「思ってないよ、そんなこと。普通に……、可愛すぎる」
彼は覆い被さって、道弥の背中に腕を入れて強く抱きしめた。
「何サイズなんですか」
尋ねると、彼は顔を少しだけ上げて「え」と、聞き返す。
「有一さんは」
「Lかな」
「L……」
「……無理そうだったら、挿入はしなくていいから、構えないで」
彼は、道弥の肩をさすった。
「や、大丈夫です」
「体勢は? 変える?」
「いいです。早く……、触ってください……」
唇に柔らかい感触を得た。口を開け、道弥よりも大きくて厚い舌を追いかける。脇腹を彼の指の腹が這って、くすぐったい。心臓の音と、お互いの息遣いが、耳に響く。
彼の唇が首筋を辿って、胸にキスを落とす。脇腹を這っていた、彼の指が胸の先を掠めた。瞬時に体に緊張が走り、筋肉が硬くなる。
「……触っていいところと、触ってほしくないところ教えて。胸は?」
彼の低い声が、脳みそまで直接届く。
「……いい……」
許可を出すと、指先で先端をつままれ、口に含んで舌先で転がされる。
「う……、ちょっと……、恥ずかしい」
「えー、だって、じっくり味わいたいよ。こっちは? 触っていい?」
下着の上から陰部に触れられる。小さく頷くと、下着の中に手が入り、そのまま下着を足から抜かれた。
「よかった、もう濡れてるね」
「そういうの言わないで……」
「口でしてもいい?」
「え……、えっ」
彼の顔を見る。
「イヤ?」
「嫌とかじゃなくて、有一さんが逆に大丈夫なんですか。もともと……、ストレートなのに……」
「まだそんなこと言うか、キミは……。俺が舐めたいの」
彼はそう言って、亀頭の先端を舌先で小さく舐めた。そして、亀頭の周りを大きな舌で確かめるように回し舐め、口に含んだ。口の中の湿った温度に包まれて、裏筋を舌先で刺激される。
「んぅ……、ん……」
口を片手で塞いで、漏れる声を抑えた。亀頭から口を離した彼は、手のひらで茎を握る。親指で裏筋を擦られ、太腿に唇を這っていく。
「ねえ、気持ちよくなっていいんだよ。俺しか見てないし、俺がぜんぶ見たいの。俺だけに見せて」
彼は再び、亀頭を口に含み、一気に喉の奥まで咥え込んだ。頭を上下に動かして、唇と舌で茎を擦る。
「あっ……、も……、離して……、出る……、出る……!」
「んーん」
彼が陰茎を咥えたまま、声を出した。
「あ、あっ、うあ……」
彼の口の中に射精した。両手で目元を覆う。ティッシュを何枚か取る音が聞こえた。
「ごめんなさい……」
「大丈夫だった? よく頑張ったね」
顔から手のひらが剥がされ、頬や額にキスが降ってきた。
「キスしていい? 気になるなら口濯いでくるけど」
「や、い…です」
彼の肩に手をかけて引き寄せる。キスをすると、苦い味がした。
「僕も舐める……」
「だめ」
彼の返答に「え」と聞き返す。
「今日はもう、爆発しそうだから、今度ね……。それよりこっち、触っていい?」
会陰の下まで手が伸ばされ、指先で揉むように穴の周辺を触られる。
「はい……。準備してきたんで」
「あ、ほんとだ。中にローションまで入れてきてくれてる」
「ほんとそういうの、言わないで」
「……ちょっとごめん。足曲げて」
彼は起き上がり、道弥の脚の間に収まった。
「男の子初めてだから、よくわかんないけど……、もう少し解さないと、痛いんじゃないかな……」
「……大丈夫ですよ、少しくらい痛くても」
「……だめ。指入れるから、痛かったら絶対言って」
随分と長く感じた。茎を片手で擦りながら、後孔に指を抜き差しされる。
「ゆ…いちさん……、もういいから……」
「どんな感じ?」
「また出ちゃいそう……」
「後ろは?」
「わかんな……。じんじんする……」
「これは?」
指で腹の内側を、擦るように圧迫される。
「あっ……、それやだ、そこ押さないで……」
「ここが前立腺か」
押されると、尿意にも似た感覚を伴う場所を擦られ、亀頭の先を指で圧迫される。
「あっ……、うっ……」
精液がこぼれ、彼の指を伝っていく。
「も……、出ちゃった……」
「ん、えらい、えらい」
こぼれた精液を、彼がティッシュで拭う。
「僕ばっかり……。もう挿れてください」
「俺もそろそろそうしたいと思ってたから、言ってくれて嬉しい」
彼は枕元のコンドームを手に取って、陰茎に装着していく。それを見て、鼓動が早まり、全身に力が入っていく。
目が合うと、キスをされる。舌を絡めて、胸の先端を指先で捏ねられる。
「怖かったら言って」
耳元でそう言われ、彼の亀頭が後ろにあてがわれた。
背中に腕が回され、抱きしめられた。彼の陰茎がゆっくりと押し入ってくる。内臓が破けそうなほどに、圧迫される感覚。瞼を固く瞑る。古い記憶が蘇った。あのときと違うのは、受け入れたいと思っていること。
「……大丈夫? ちゃんと息して。はい吸って……、吐いて……」
頬を触られ、呼吸を促される。額に滲む汗を、彼が手のひらで拭う。
「やっぱり痛い……?」
「少し。けど嬉しい……」
彼の頬を触ると、眉が下がり、口元が綻んだ。
「俺も嬉しい……。頑張ったね」
肩の下に腕を入れられ、頬と耳の後ろにキスを落とされる。
「あの……、動いてください。有一さんも気持ちよくなって」
「……なんかもう、泣きそうだよ……」
彼は様子を窺うように、ゆっくりと腰を揺らし始めた。
「あー、もう……! 夢みたい……、好き。好き……」
うわごとのように、何度も繰り返す掠れた声。
「ゆ…、ち、さん……」
「好き……、好きだ……。みち、やく……」
甘く、切なく、脳みそまで響く声に、胸が詰まって涙が溢れた。痛みの奥で、体の芯に感じる熱。触れ合う肌が心地よく、耳にかかる乱れた息で、胸が締め付けられる。
破かれたスケッチブックを、拾い集めて、貼り付けた夜。愛されたいと願っていた。
コーヒーの香りが部屋に漂う朝。キスをすると鼻に抜けるワインの香り。週末の約束が楽しみな平日。職場ですれ違って、目で交わす合図。
欠けたところはいつしか、満たされていた。
有一の匂いがするシーツに、手のひらを滑らせる。目を閉じたまま、彼を探す。ベッドが沈むのを感じて瞼を上げると、彼が上から顔を覗き込んでいた。
「体、平気? 痛いとこある?」
彼が布団の中に潜り込み、足を絡めた。
「だいじょぶです……」
「加減できなくてごめん……。怖くなかった?」
「それも平気……」
「よかった」
彼の手が頬に伸びてきて、唇に触れるだけのキスをした。
「有一さんこそ、ちゃんと気持ちよかったですか」
「……あーもう、くそぉ。にやける……。かわいい、かわいい……」
彼が両手で顔を覆い、嘆くように言った。
「頑張ってくれて、ありがとう……。もうなんか、夢みたいっていうか、信じらんない……。一生大事にする。あー俺、だいぶキモいな。もーやだ。カッコつかない……」
ぶつくさと言い募る彼の、両手を握って顔から外すと、瞳が濡れていた。
「勘弁して……。見ないでください……」
顔をシーツに沈める彼の頬に、キスをした。
「見たいです。カッコつかないとこも、見せてほしい。僕と居るときに、頑張らなくていいです。僕がそう思えたみたいに、有一さんにもそう思って欲しい」
「……それ、俺が言いたかったこと……」
「有一さんが言ってくれたから、僕も同じだって伝えたかった」
彼のこめかみに指で触れると、彼がシーツから顔を離した。
「思い出した……。昨日さ……、例のあいつかもしれない画家の、サイン会に行ったっていうの、正直むかついた、俺……」
「へ?」
「好きな画家のサイン会に行くのは、いいんだよ。けどそれが、そいつかもしれないと思って会いに行くってどういうこと」
「え……、ごめんなさい」
彼が不満をぶつけてきたのは初めてで、反射的に謝った。
「まだ最後まで聞いて」
「あ、はい」
「その画家がさ、ずっとそいつだと思って、画集を眺めてたんでしょ。それもすごい嫌だった」
「はい……」
「……こんな、子供っぽいヤキモチ妬くんだけど、それでもいい?」
上目遣いで問う彼に、「ふっ」と、笑みがこぼれた。
「いいです。僕も……、好きです。ぜんぶ……、愛しい」
唇を合わせた。交わしたキスは、熱く、苦しいくらいに、胸の内が込み上げる。
格好悪いから、愛おしい。少しだけ開いたカーテンから差し込む、月の光。シーツの中で絡めた足は、少し角張っていて、胸板は分厚い。目が合うと、優しく綻ぶ甘い顔。
瞼の裏で傷跡をそっと撫でた。もう痛くない。
有一の部屋で過ごす時間は、贅沢な旅行にでも来たような気分になった。
週末が終わり、自宅へ帰ることを考えると、胸の内が翳る。
道弥はジュート素材のラグに腰を下ろし、背中のソファの座面に頭を乗せ、天井を仰いだ。
「酔った? 水飲む?」
隣に座る有一が、顔を覗き込んでくる。
「……有一さんは、なんでそんなに、完璧なんれすか」
有一のほうに体を向け、座面に肘をついた。彼はこちらを一瞥して、テーブルにグラスを置く。
「あー、キミ酔うと、俺のこと褒め出すよね。悪くないけど……」
「なんで、見返りがないのに、こんなに、よくしてくれるんですか」
「え、見返りって何」
「……ぇっちできないのに……」
「あのねぇ……。だからそれが目的で付き合ってるわけじゃないって、言ってるでしょ」
「でも……、ああごめんなさい」
ソファに顔を伏せた。
「何言ってんだろ僕……」
顔が上げられなかった。ため息が聞こえ、後頭部に彼の手が触れた。
「キミが、セックスできないことに罪悪感を抱いているのは、感じてたんだけど。まあ俺も、したくないわけじゃないし。でも天秤にかけたときにさ、セックスできる他の誰かと付き合うより、キミと一緒にいたいんですよ。ついでに、一緒にいるなら、嫌なことはさせたくないし、楽しくいてほしいし」
顔を上げて彼を見ると、テーブルに肩肘をつき、手のひらで顔を覆っていた。半袖から伸びた腕に血管が浮かんでいる。
「俺もだいぶ酔ってるな……。二杯も飲んでないのに……」
俯いた彼の髪に触れて、前髪を掻き分ける。少し汗をかいていた。
「あの……、ありがとう……」
「ねえ、俺も一個訊いていい?」
「なんですか」
「なんでキスはオッケーなの。けっこうエッチなキスしてるけど、口の性感帯は触っていいんだなと思って」
彼は肘をついた手のひらに顎を乗せ、視線を寄越した。顔が熱くなる。口元に指先をあてた。
「えっ、そうなんですか……」
「なにその反応……。あーくそ。ずるい! ムラムラするじゃんか……」
彼は、項垂れて再び顔を覆った。
「だって……、なんか……、チューはなんか、合法で、大事にされてる感が……、あるというか」
「なんだその偏った恋愛観」
「だってなんか……、好きなんですよ……」
「あーもう……! おいで!」
彼は半ばヤケクソな雰囲気で、道弥の体を引き寄せた。脚の間に招かれて、彼の腕の中に収まりよく抱きかかえられる。
「有一さん……、たっ、てますけど……」
キスもしないうちから、彼の陰部が硬くなっていることを指摘した。
「おー珍しい。いつもは気付いても言ってこないのに」
「……すません……」
「いーの、いーの。もう謝らないで。いつもキミとのキスを、おかずにして抜いてるし」
「おかず……」
「え、ダメだった?」
「いや、光栄です」
「こっ……」
彼が勢いよく吹き出した。天井を仰ぎ、声を出して笑い始めた。
「あははは……、飽きないなあ、道弥くん」
「笑わないでくださいよ……」
「ああごめんね。そしたら、後でおかずにするから、キスさせて」
「そういうこと言わないで」
唇を合わせると、白ワインの葡萄の香りと、ほのかな汗の匂いが、鼻に抜ける。彼の胸板に触れる肩と腕が、熱を持って汗が滲む。
彼の温かさと、愛を、今なら全部受け止められる。
冬至も過ぎ、寒波が押し寄せていた。いつもは背中を丸めて歩く道を、背筋を伸ばして足早に歩いた。オートロックのマンションのエントランスで、渡されていたスペアキーを初めて使い、自動ドアを解錠した。
エレベーターで七階まであがる。エレベーターを出てすぐの扉の鍵を開けて入る。
部屋の電気はついていて、玄関に靴もある。
「有一さん」
声をかけながら靴を脱ぐ。返事はなく、部屋の奥まで進むと、有一はローテーブルに突っ伏し居眠りしていた。
「えっ、てか汚……」
普段は、モデルルームのように片付けられている彼の部屋は、物が散乱していて空き巣が入ったのかと思うくらいだった。ゴミが入ったコンビニの袋に、ソファの上に積まれた衣類。床の上に小さな丘を形成している、大量のタオルのようなもの。
ひとまずコートを脱いで、ハンガーにかけた。ゴミの入った袋の口を縛り、キッチンのゴミ箱に捨てる。キッチンのカウンターには、空のペットボトルが、倒れて置いてある。シンクには使った食器類が放置されていた。
「うーん……」
悩んだ末、寝室からタオルケットを持ち出し、有一の肩にかける。部屋の惨状を片付けるために、腕まくりをした。
「うお。え……」
背中から声が聞こえ、振り返ると有一が起きて顔を上げていた。
「えっ、うそ。どうしたの」
彼は目を見開き、首元を触った。
「すません、起こしちゃいました?」
「なんで……、なんで……」
彼の目が泳いでいた。片足を立て、髪を掻き上げている。彼に目線を合わせ、しゃがみ込む。
「急に来てごめんなさい」
「や、いいんだけど……、言ってくれれば片付けとくというか……。や、好きに来てくれて構わないんだけど……、今まで一度も、一回も、急に来たことないから……、油断するじゃん……」
彼は立てた片膝に額をつけて、項垂れた。
「あー、なんか、すごい散らかってますね」
「……こういうの、見せたくなかったんだけど……」
「僕は、こういうとこ見れたほうが嬉しいですけど。いつも、カッコつけてんなあって思ってたから」
「そんなこと思ってたの?」
彼が勢いよく顔を上げた。
「前に……、ほぼ初めてぐらいに、会社で喋ったとき、僕に突っかかってきたじゃないですか。ああいう、人間らしい有一さんも見たいですよ」
「ちょっとそれ、もう忘れてほしい……。ほんと後悔。黒歴史。俺は好きな子の前では、カッコつけたいんだよぉ」
彼はソファに両肘をついて、顔を伏せた。それを見て「ふ」と吹き出す。彼が眉毛を歪めてこちらを見る。
「笑ったな……」
「ごめんなさい。泣かないで」
「泣いてないよ!」
「僕だって、この前大泣きして、めちゃくちゃカッコ悪いとこ見せてるんだから、おアイコでいいじゃないですか」
「キミは……、かわいいからいいんだよ」
「かわいいとか、思ってたんですか」
「ごめん、思ってたわ」
「や、嬉しいです」
彼に顔を近づけて、キスをした。
「え、えっ、え……? ど…したの」
「あの……、今日、リベンジ、しに来たんですけど……」
「え」
有一の顔は紅潮し、口は半開きになっていた。その視線に耐えられず、瞼を伏せた。顔が熱くなっていく。
「……後ろの準備も……、してきたんで……」
「うそ……」
「もうイヤになっちゃいましたか」
「それはない!」
力強く腕を掴まれた。
「でも、なんで? ちゃんと理由を教えてほしい。無理しないでほしいし、自棄になってほしくないから」
「この前は、正直ちょっと、焦って、ヤケになってたんですけど……、今は違います」
ソファの横に立てかけた鞄から、JUNの画集を取り出し、彼に差し出した。
「今日……、この人のサイン会に行ってきたんです」
「ああ、道弥くんの好きな……。サイン会とかあるんだ」
「いや、この人は初めての開催で……。今まで顔も年齢も公開してなかったので、メディアにけっこう取り上げられて……」
「へぇ」
「この人……、名前とか、色使いも、その……、似てて……。淳太……、例の高校生の……、彼なんじゃないかと、思ってたんです」
「……うん……」
「でも、会ってみたら違いました。そもそも女の人でした」
彼は、掠れた低い声で「そっか」と呟いた。
「もしこの人が……、淳太だったら、僕はずっとこの人を超えられないんだなって、思っちゃってたんだと、思うんです。どうしても、超えられないと先に進めない気がして、辛かったんですけど……、めちゃくちゃ思い込みだったんだなって、気づいたっていうか……」
道弥の告白に、彼は何も言わなかった。ただ、表情に翳りが見えて、その手を握った。
「もう囚われなくていいんだって思えたのは、有一さんのおかげですよ」
彼は少しだけ顔を上げたが、瞼は伏せたままだった。
「僕……、普通の恋人らしいこともできないのに、挙句あんな……、醜態晒して……。普通に考えて、まじで最悪だと思うんですけど、受け止めてくれて……、ほんとに好きでいてくれてるんだって、思ったんです……」
言葉を紡ぐうちに、胸が詰まって声が震えた。彼に腕を引っ張られ、抱き寄せられた。
「まだ信じてなかったの。心外だよ……」
「信じてなかったわけじゃないんですけど……、このままじゃダメだとは、ずっと思ってて……。でも、無理して変わらなくていいんだって、思えたんです」
「そうだよ。そのままの道弥くんが好きなんだから」
二人は、少し体を離すと、目を合わせた。窺うようにゆっくりと、唇を触れ合わせる。
「今まで散々待たせて、ごめんなさい……。まだ、気が変わってなかったら……、僕と、してくれませんか……」
顔が熱くなる。脈が早くなり、心臓の鼓動が聞こえてきそうだった。力強く抱きしめられ、胸が圧迫される。
「あーもう……、嬉し過ぎて死にそう……」
微かに声が、震えていた。
テーブルの上の、三冊の本が目に入る。性被害に関するものだった。うち二冊は、中学の頃市立図書館で読んだことがある。鼻の奥を突く、淡い痛み。
痛みを分かち合うと癒えるのだと、初めて知った。
枕の下に、コンドームの箱と、潤滑剤のボトルを隠す。遠くから聞こえてくるシャワーの音に、口から内臓が出そうだった。
枕に顔をうずめて、耳を塞いだ。
まもなくベッドルームの引き戸が開けられ、背中に有一が降ってきた。「うお」と声が出る。
「お待たせ」
仰向けにされ、頬や耳たぶに幾つもキスを落とされる。彼は腰にバスタオルを巻いているだけだった。髪の雫が、顔に落ちる。
「何も着てないんですか」
「だってすぐ脱ぐし。脱がしていい?」
小さく頷くと、流れるように下着一枚まで剥かれてしまった。露わになった胸や腹の上に、彼の唇が這っていく。
「この体にまた触れるなんて……」
吐息混じりに呟く彼の、頭を撫でた。
「怖くなったら言って。セーフワードは、この前と同じね」
「今日は、大丈夫です……」
頭を少しだけ持ち上げ、枕の下に手を入れ、コンドームと潤滑剤を差し出す。
「……買ってきてくれたの」
小さく頷いた。
「ありがと……。でもゴムのサイズ違う」
「え」
彼は、ナイトテーブルの引き出しを開け、コンドームの箱を取り出した。
「これ一年前のだけど、大丈夫かな。あ、使用期限まだだからいけるわ」
彼は箱の中から、ひとつを取り出して、枕の横に置いた。
「キミを初めて家に呼ぶとき、用意しといたの」
「……サイズとか、あるんですね」
「あーまあ、そうだね」
「どうやって測るんですか」
「測るっていうか、まあ、テキトーに……」
言い淀む有一の口元が、僅かに緩んだ。
「あ、今、バカだなって思いました?」
「思ってないよ、そんなこと。普通に……、可愛すぎる」
彼は覆い被さって、道弥の背中に腕を入れて強く抱きしめた。
「何サイズなんですか」
尋ねると、彼は顔を少しだけ上げて「え」と、聞き返す。
「有一さんは」
「Lかな」
「L……」
「……無理そうだったら、挿入はしなくていいから、構えないで」
彼は、道弥の肩をさすった。
「や、大丈夫です」
「体勢は? 変える?」
「いいです。早く……、触ってください……」
唇に柔らかい感触を得た。口を開け、道弥よりも大きくて厚い舌を追いかける。脇腹を彼の指の腹が這って、くすぐったい。心臓の音と、お互いの息遣いが、耳に響く。
彼の唇が首筋を辿って、胸にキスを落とす。脇腹を這っていた、彼の指が胸の先を掠めた。瞬時に体に緊張が走り、筋肉が硬くなる。
「……触っていいところと、触ってほしくないところ教えて。胸は?」
彼の低い声が、脳みそまで直接届く。
「……いい……」
許可を出すと、指先で先端をつままれ、口に含んで舌先で転がされる。
「う……、ちょっと……、恥ずかしい」
「えー、だって、じっくり味わいたいよ。こっちは? 触っていい?」
下着の上から陰部に触れられる。小さく頷くと、下着の中に手が入り、そのまま下着を足から抜かれた。
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「え……、えっ」
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「んぅ……、ん……」
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「ねえ、気持ちよくなっていいんだよ。俺しか見てないし、俺がぜんぶ見たいの。俺だけに見せて」
彼は再び、亀頭を口に含み、一気に喉の奥まで咥え込んだ。頭を上下に動かして、唇と舌で茎を擦る。
「あっ……、も……、離して……、出る……、出る……!」
「んーん」
彼が陰茎を咥えたまま、声を出した。
「あ、あっ、うあ……」
彼の口の中に射精した。両手で目元を覆う。ティッシュを何枚か取る音が聞こえた。
「ごめんなさい……」
「大丈夫だった? よく頑張ったね」
顔から手のひらが剥がされ、頬や額にキスが降ってきた。
「キスしていい? 気になるなら口濯いでくるけど」
「や、い…です」
彼の肩に手をかけて引き寄せる。キスをすると、苦い味がした。
「僕も舐める……」
「だめ」
彼の返答に「え」と聞き返す。
「今日はもう、爆発しそうだから、今度ね……。それよりこっち、触っていい?」
会陰の下まで手が伸ばされ、指先で揉むように穴の周辺を触られる。
「はい……。準備してきたんで」
「あ、ほんとだ。中にローションまで入れてきてくれてる」
「ほんとそういうの、言わないで」
「……ちょっとごめん。足曲げて」
彼は起き上がり、道弥の脚の間に収まった。
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「……大丈夫ですよ、少しくらい痛くても」
「……だめ。指入れるから、痛かったら絶対言って」
随分と長く感じた。茎を片手で擦りながら、後孔に指を抜き差しされる。
「ゆ…いちさん……、もういいから……」
「どんな感じ?」
「また出ちゃいそう……」
「後ろは?」
「わかんな……。じんじんする……」
「これは?」
指で腹の内側を、擦るように圧迫される。
「あっ……、それやだ、そこ押さないで……」
「ここが前立腺か」
押されると、尿意にも似た感覚を伴う場所を擦られ、亀頭の先を指で圧迫される。
「あっ……、うっ……」
精液がこぼれ、彼の指を伝っていく。
「も……、出ちゃった……」
「ん、えらい、えらい」
こぼれた精液を、彼がティッシュで拭う。
「僕ばっかり……。もう挿れてください」
「俺もそろそろそうしたいと思ってたから、言ってくれて嬉しい」
彼は枕元のコンドームを手に取って、陰茎に装着していく。それを見て、鼓動が早まり、全身に力が入っていく。
目が合うと、キスをされる。舌を絡めて、胸の先端を指先で捏ねられる。
「怖かったら言って」
耳元でそう言われ、彼の亀頭が後ろにあてがわれた。
背中に腕が回され、抱きしめられた。彼の陰茎がゆっくりと押し入ってくる。内臓が破けそうなほどに、圧迫される感覚。瞼を固く瞑る。古い記憶が蘇った。あのときと違うのは、受け入れたいと思っていること。
「……大丈夫? ちゃんと息して。はい吸って……、吐いて……」
頬を触られ、呼吸を促される。額に滲む汗を、彼が手のひらで拭う。
「やっぱり痛い……?」
「少し。けど嬉しい……」
彼の頬を触ると、眉が下がり、口元が綻んだ。
「俺も嬉しい……。頑張ったね」
肩の下に腕を入れられ、頬と耳の後ろにキスを落とされる。
「あの……、動いてください。有一さんも気持ちよくなって」
「……なんかもう、泣きそうだよ……」
彼は様子を窺うように、ゆっくりと腰を揺らし始めた。
「あー、もう……! 夢みたい……、好き。好き……」
うわごとのように、何度も繰り返す掠れた声。
「ゆ…、ち、さん……」
「好き……、好きだ……。みち、やく……」
甘く、切なく、脳みそまで響く声に、胸が詰まって涙が溢れた。痛みの奥で、体の芯に感じる熱。触れ合う肌が心地よく、耳にかかる乱れた息で、胸が締め付けられる。
破かれたスケッチブックを、拾い集めて、貼り付けた夜。愛されたいと願っていた。
コーヒーの香りが部屋に漂う朝。キスをすると鼻に抜けるワインの香り。週末の約束が楽しみな平日。職場ですれ違って、目で交わす合図。
欠けたところはいつしか、満たされていた。
有一の匂いがするシーツに、手のひらを滑らせる。目を閉じたまま、彼を探す。ベッドが沈むのを感じて瞼を上げると、彼が上から顔を覗き込んでいた。
「体、平気? 痛いとこある?」
彼が布団の中に潜り込み、足を絡めた。
「だいじょぶです……」
「加減できなくてごめん……。怖くなかった?」
「それも平気……」
「よかった」
彼の手が頬に伸びてきて、唇に触れるだけのキスをした。
「有一さんこそ、ちゃんと気持ちよかったですか」
「……あーもう、くそぉ。にやける……。かわいい、かわいい……」
彼が両手で顔を覆い、嘆くように言った。
「頑張ってくれて、ありがとう……。もうなんか、夢みたいっていうか、信じらんない……。一生大事にする。あー俺、だいぶキモいな。もーやだ。カッコつかない……」
ぶつくさと言い募る彼の、両手を握って顔から外すと、瞳が濡れていた。
「勘弁して……。見ないでください……」
顔をシーツに沈める彼の頬に、キスをした。
「見たいです。カッコつかないとこも、見せてほしい。僕と居るときに、頑張らなくていいです。僕がそう思えたみたいに、有一さんにもそう思って欲しい」
「……それ、俺が言いたかったこと……」
「有一さんが言ってくれたから、僕も同じだって伝えたかった」
彼のこめかみに指で触れると、彼がシーツから顔を離した。
「思い出した……。昨日さ……、例のあいつかもしれない画家の、サイン会に行ったっていうの、正直むかついた、俺……」
「へ?」
「好きな画家のサイン会に行くのは、いいんだよ。けどそれが、そいつかもしれないと思って会いに行くってどういうこと」
「え……、ごめんなさい」
彼が不満をぶつけてきたのは初めてで、反射的に謝った。
「まだ最後まで聞いて」
「あ、はい」
「その画家がさ、ずっとそいつだと思って、画集を眺めてたんでしょ。それもすごい嫌だった」
「はい……」
「……こんな、子供っぽいヤキモチ妬くんだけど、それでもいい?」
上目遣いで問う彼に、「ふっ」と、笑みがこぼれた。
「いいです。僕も……、好きです。ぜんぶ……、愛しい」
唇を合わせた。交わしたキスは、熱く、苦しいくらいに、胸の内が込み上げる。
格好悪いから、愛おしい。少しだけ開いたカーテンから差し込む、月の光。シーツの中で絡めた足は、少し角張っていて、胸板は分厚い。目が合うと、優しく綻ぶ甘い顔。
瞼の裏で傷跡をそっと撫でた。もう痛くない。
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