僕の歓び

晴珂とく

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僕の歓び 第三話

心臓

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 目覚めると、目の前に有一の顔があった。微かに聞こえる寝息と、少しだけ開いた口。寝顔をうっとりと眺めていたのも束の間、唐突に昨晩のことを思い出した。瞬時に、内臓が粟立つような不快な感覚が駆け抜け、息が苦しくなる。うつ伏せに顔をシーツにつけて、肩で息をした。
 口淫をしようと彼の中心に顔を寄せた。だけど出来なかった。道弥のものは力をなくし、仕舞いには泣くという、振り返ると信じられないほどの失態だ。正直、泣きたいのは向こうだろう。逆の立場で想像し、上を向く自分のペニスを目の前に萎えられたらと考えると、しばらく立ち直れなくなりそうだ。そのくらい重大なことをしてしまった。
 シーツを固く握り、感情の渦に巻き込まれていると、有一の手が肩に触れ、抱き寄せられた。髪を梳くように頭を撫でつけられてから、ゆっくりと動きが止まった。再びゆるゆると寝息が聞こえ始める。
 白い画用紙に、ローズマダーの絵の具を溶かした水をぶちまける。
 一瞬にして、甘いピンクが広がるように、愛しさが込み上げる。逆立っていた産毛はなめらかに撫でられていく。掻き回された内臓は、砂糖を溶かした甘くて温かい水分で満ちていく。シーツの下であたる、お互いの太腿。この肌の温かさを知ったのは、ついこの前。一年以上も手を出さずにいてくれた彼の愛情深さを、肌を重ねてからやっと、本当の意味で理解した。
 それだけに飽和した脳みそで考える。この気持ちをどう伝えれば、正確に全部を届けられるだろうか。
 ――愛しい。
 ――愛してる。
 ――大好き。
 言葉は合っているけれど、質量が圧倒的に足りない。一パーセントも伝えられないもどかしさに、眉根を寄せる。
 ――死ぬほど愛しい。
 ――死ぬほど愛してる。
 ――死ぬほど大好き。
 少し近づいた気がするが、売れないラブソングの歌詞みたいで安っぽい感じが否めない。「死ぬほど」というのは、死んでもいいくらいとか、死にそうなほど、というニュアンスで気軽に使われる。死ぬとか、死にたいとか、シリアスな意味でも、人はよく言ったり思ったりするけれど、それを実行に移すまでは千里だか万里ほどの距離があると聞いたことがある。わかると思った。
 だけど、もしこの人に死んでくれと言われたら、千里でも万里でも飛び越えて、本当に死んでもいい。例えば心臓移植が必要なら、喜んで心臓を差し出そう。そんなことをつらつらと考えていたら、
「……心臓は要らないです……」
 と、水の中で揺れているような、輪郭のぼやけた声が聞こえた。考えていたことがいつの間にか口から漏れ出ていたようだ。彼の顔を見上げると、目はまだ閉じていた。恥ずかしい独り言をどこから聞かれていたのか確かめたかったが、この感じだと夢と現の狭間の出来事として忘れてくれるかもしれない。髪の毛を梳く動きで、彼の手が緩やかに上下する。
 今でも夢に見る、暗闇を心細く歩いていたあの頃と、今の薔薇色の毎日が、ひと続きになっていると思えない瞬間がある。もしかしたら、あの踏切で一度死んでいて、新しく生まれ変わったのかもしれない。もしくはずっと、夢を見ているのかもしれない。だとしたらそれでいい。一度死んでいるとしても、あるいはこれが幻だとしても。


「やっぱり、有一さんのご両親に会いたいです」
 朝の日差しが煌々と入る部屋の中で、食パンを齧る有一に申し出た。彼は食パンを皿に置いて、コーヒーを一口飲んだ。
「そうしたいと思った理由を教えて」
「え、理由?」
 てっきり彼は喜んでくれると思ったが、予想外の反応に思考が停止した。
「理由……って言われても」
「あー、理由っていうか、経緯かな」
「経緯?」
 理由よりも難しくなったと思った。視線を外して考えるが、すでに言葉は散らばっていて、何も拾えない。
「最初、自信ないって言ってたのに、何をきっかけに会おうと思ったの」
 彼が言い直したことにより、散り散りの思考はますます形を失っていく。「や、違うよ」と、彼は慌てたように続けた。
「責めてるわけじゃなくて。キミってときどき、俺に忖度というか、気を遣って無理することがあるでしょ。ほんとに、いいんだ。そういうの。俺との関係の中で、プレッシャーを感じてほしくない。それだけ」
 目を細めて笑う彼の、瞳の色は柔らかい茶色。
 奥に引っ込んだ言葉が形を成していく。
「愛してる」
「えっ、あ、うん。俺も」
 彼は、弾かれたように背筋を伸ばした。それを見て、ふっとできて口元が緩む。
「死ぬほど、好きなんです」
「うん」
 テーブルの上に置いた手のひらに、彼の手が重ねられた。
「死ぬほどナントカって、けっこうライトに使われるけど、僕は比喩じゃなくて、本当に臓器をあげてもいいです」
「えぇ、なに、何の話」
「心臓をあげてもいい」
「なんだっけ、その話……」
「そのくらい思っているのに、有一さんのしたいことを叶えられないのは矛盾してるかなって」
「ああ、それでさっきの話に戻るわけか」
「はい」
 彼は、視線を空に上げて、うーんと小さく声を出した。形のよい目元と、弧を描く二重のライン、まっすぐな鼻が美しくて、ずっと見ていられる。
「うん。わかった。じゃあ紹介したい」
「はい」
「まあ、うちの親なんて庶民的でテキトーな感じの親だから、気楽な感じでいいよ」
「泊まりで行きますか?」
「あーいや、なんか茉里奈たちの新居に遊びに来るんだって、今度。そのときに被せようかなあ」
 予定聞いておくねと言って、彼は朝食を再開した。

 金曜の夜、最寄駅で降りてから自宅までの道を、そわそわと落ち着かない心持ちで歩いた。週末に浮かれる人波にあてられ、地に足がついていないような気分だった。有一の親との対面を、明日に控えている。
 最近はずっと、金曜の夜から日曜まで有一の部屋で過ごしていたが、明日のために買った服を着ていくので、今夜は自宅に帰ってきた。
 花が舞うような浮つき。肌の表面を筆先で撫でられるみたいな感覚。それが嫌じゃない。
 だけど沸き上がるような光の粒は、自宅前の角を曲がったところで突如として散った。二階建ての古いアパートの、外階段の下から上を見上げている女性がいた。道弥は努めて自然な感じを装い、回れ右をして来た道を戻る。口から心臓が出そうなほどに、早くなる鼓動と、背中に虫が走るような焦燥感。曲がり角を過ぎ、他の古い家の影になって、アパートからこちらが見えなくなったあたりで足を止めた。胸の辺りの服を掴んで、うるさい動悸と真っ黒な頭の中を落ち着かせようとする。
 母がいた。
 高校を卒業して、逃げるように東京に戻って来てからは、家族と会っていない。祖母の葬式で少し顔を合わせて以来で、この住所も教えていないはずだ。なのに、どうして――。
 足元から得も言われぬ恐怖が迫り上がってくる。今すぐ走ってここから離れたいのに、足が震えてうまく動かない。そのとき「道弥」と、背後から声が聞こえた。うわっ、とどこから出しているのかわからない間の抜けた声が出る。反射的に右腕を上げたら、おぼつかない足元がぐらついて、尻餅をついた。
「痛……」
「あんた……、何やってんのよ」
 母の蔑むような声音に、胸の底が瞬時に冷えた。母は「相変わらず鈍臭いわね」と続けた。静かに立ち上がり、一歩下がって彼女と距離を取る。
「なに……。なんで……」
 何の用事なのか。なぜここにいるのか。うまく言葉を紡げないことがもどかしく、眩暈を感じた。だけどすぐに、母と意思疎通を図ろうとしても無駄だという認識が頭をもたげる。
「何じゃないわよ。あんた、いつまでそうしてるつもりなの。連絡も返さないで、電話も無視して、この先ずっとそうしてるつもり? 法事のたびにあんたがいないこと聞かれて、毎回恥ずかしい思いしてるのよ。連絡も取れないなんてこと、口が裂けても言えないじゃない」
 ひたすら鬱憤の乗った身勝手な罵声を浴びていると、忽ち古い記憶に絡め取られる。子供の頃の、無力で母に逆らえない、嫌いな自分へ引き戻される。
「……何か言うことないの」
 苛立ちの滲む、上擦った声。母がこう言うときは、謝れという意味だ。
「なんで……、家……」
「何。はっきり言って」
「家、教えてない」
「あんたね、息子が手紙一つでいなくなって、そのままにしておけるわけないでしょ。探したわよ、興信所使って」
 興信所という言葉に背筋が凍る。逃げていたつもりが、とうに居場所を知られていたということだ。足元のスニーカーだけを見つめていた暗い視界が、朧げに歪んでいく。
「都築さん」
 顔をあげると、スーツ姿の有一がいた。
「お話し中すみません。私、急ぎの書類を届けに来たんですけど……、あのこちらのかたは」
 営業である有一と、フリーで業務受託をしているデザイナーの道弥との間に、仕事上の関わりはない。ナチュラルに吐き出された嘘に感心する。その間に「都築の母です」と、母が答えた。
「どうも、いつも息子がお世話になっております」
 母はよそ行きの顔で、折り目正しくお辞儀をした。
「お母さまでしたか。こちらこそ都築さんには大変お世話になっております。白川と申します。ご挨拶遅れて失礼しました」
「いえ。お仕事の書類ですっけ。待ってますからどうぞ」
「あ、それがですね、クライアントの都合でかなり切羽詰まった状況でして……」
 有一は、道弥と母の顔を交互に見ながら、困ったように眉毛を曲げている。
「今日このあと、都築さんの家で早急に打ち合わせができればと思って寄ったのですが……」
「……そうですか。長くかかるんですか」
 暗に帰れと伝えている有一の行間を読んだのか、母の声が低くなった。
「もしかしたら夜中くらいまでかかってしまうかと……」
「泊まるということですか」
 母の視線が鋭くなる。有一は「いえいえ」と穏やかに答えた。
「私はタクシーで帰れる距離なので、終わり次第帰ります。ただ、機密事項なので、どこかお店で打ち合わせするわけにもいかないんですよね。何時になるかわからないので、お母さまをお待たせするのは……」
 下手したてに出つつも、こちらの要求を通すための誘導に、さすが営業だなと他人事のように見ていた。頭の中は冷静で、体は地面にめり込むかのように重かった。
「わかりました。こちらは電車で帰れる距離ですので、出直します」
 母はこちらに向き直して「あんた、今予定わかるの」と詰めてくる。
「どうせ連絡返さないんだから、日にちだけ決めてまた来るわ」
「……あとで連絡……」
「あとでって、連絡来ないからわざわざ来てるんでしょう。言っとくけど、今日が初めてじゃないのよ。土日いつ来ても家空けてるし、何回も無駄足になってるんだから。どこほっつき歩いてんのか知らないけど、何回も来させてるのよ。少しは譲歩して、せめて日程だけでも今すぐ決めてちょうだい」
 あの頃の母のままだった。何も答えずに俯いていると、「ねえったら」と、すでに怒りを隠しきれない母の声が追い打ちをかける。
「もう、あんたは……」
「ああ、そういえば、来週の土曜は、会社全体が休みで、何しようかなって、都築さん言ってましたよね。まだ空いてたら、そこがいいんじゃないですか」
「そうなの。道弥」
「……い、大丈夫です……」と小さく答えると、母は「次の土曜にまた来るわ」と立ち去ろうとした。それを有一が引き止める。
「お母さま、隣の古石河駅の西口すぐのところにあるコマダ珈琲店、あそこの席、広々としてて話しやすいので、そこにしましょう」
「……あなた、関係ないじゃないですか」
「すみませんね。都築さんの家は機密性の高い案件の原稿も置いてあるので、なるべく人を家に入れないように、会社からお願いしてるんです。ご家族のかたでも」
 さすがに無理があるだろうと思える言い分だったが、母は「わかりました」と受け入れた。
「道弥、古石河駅西口ですっけ。そこのお店で」
「お母さま、今夜はこちらの都合ですみませんでした」
 有一が真っ直ぐにきれいなお辞儀をすると、母は、「いえ。失礼します」と軽く頭を下げて、駅までの道を戻って行った。
 母の後ろ姿がだいぶ小さくなってから、二人はやっと道弥の部屋へ向かう。無言のまま階段を上る道弥のあとを、同じペースで有一がついてくる。玄関の鍵を開けて、鞄を雑に置き、ベッドに倒れ込むように突っ伏した。ベッドのそばに、有一が座った気配がした。
「……いつから」
 彼に尋ねた。質問の意図が伝わらなかったらしく、え、と聞き返される。
「どこから聞いてましたか。会話を……」
「話してる内容は、あんまり聞こえなかったんだけど、遠目から見て、暴力振るわれてたし、お母さんとは思わなかった」
 暴力、が何を指すのか最初わからなかったが、尻餅をついたことだとすぐに気づいた。押されたか何かされたように見えたのか。訂正するのも嫌だったが、「大丈夫だった?」と尋ねられ、さらに答えようが無くなっていく。
 栓が外れたみたいに、遠い記憶が流れ込んでくる。母の前に引き出されると、みっともなくて惨めになる。あの頃の自分へ、いとも簡単に退化する。それを見られたくなかった。
「あの……、ごめん。勝手に約束して」
 彼は悪くないのに、突然来たことにも、母から道弥を守るように介入してきたことにも、怒りを覚えている。口を開いたら最低なことを言いそうで、何も答えなかった。
 沈黙の針に息が苦しくなってきた頃、有一が「一人になりたい?」と訊いてきた。問いかけるようにしているが、彼の中で流れが決まっているパターンだとすぐに悟った。
「明日の朝、また迎えにくるね」
 有一は道弥の手を握るように触れてから出て行った。

 ほとんど眠れずに朝を迎えた。土曜の起床にはまだ早い時間だが、すでに諦めている。朝晩は冷えるので暖房をつけた。朝の色が透けるカーテンを眺めながら、部屋が暖まるのを待つ。部屋が暖かくなってから、ベッドを這い出て豆乳を温めた。インスタントコーヒーと砂糖を入れて作ったカフェオレを、ベッドにもたれかかってゆっくり飲む。ミルクベースの優しい味が、眠れなかった悔しさを溶かしていく。
 玄関の鍵が開けられる音がした。静かに入ってきた有一が顔を出し、目が合った。
「あ、もう起きてたの。早いね」
「有一さんこそ、めちゃくちゃ早いじゃないですか」
「明け方に目が覚めちゃって……、来ちゃった。ごめん」
「僕はいいですけど……」
 ジャケットも脱がない彼に、抱きしめられた。力強い腕と、厚い胸板に挟まれて、心地よく内臓が圧迫される。離れた分の隙間を埋めるように、抱きしめ返した。包み込まれるというより、甘えられているような感じが嬉しくて、目を閉じた。
「……ごめん。昨日はごめんなさい、余計なことして」
 有一の思い詰めた謝罪に、空っぽのはずの胃が沈んでいく。彼の胸を押し返して、体を離す。
「謝らないでください。僕のほうが悪かったです。助けられたのに、自分が情けなくて八つ当たりしました。謝られると立場ないです」
「や、違うんだ。助けたとかじゃない」
 彼は目元に手を当てて、顔を擦ってから、観念したような目をして顔を上げた。
「そういう善意の行動じゃなくて、俺の個人的な感情で動いただけ。元々お母さんのこと、いい印象はなかったけど、昨日のキミへの態度とか見てちょっと我慢できなかった。さっさと失せろって思ったね。早くこの場から去って欲しいとしか、あのときは考えられなくて、出しゃばってごめん」
 低い声で、粘度のある黒い感情を吐露する彼は珍しく、新鮮だった。網膜に焼き付けようと凝視していると、こちらの様子を伺うように視線を上げた彼と見つめ合う。
「俺が勝手なことしといてアレだけど、バックれてもいいと思ってる。無理して会ってほしくない。ここの住所も割れてるし、部屋解約してウチに来なよ」
 有一は子供みたいな顔をしていた。いつもと立場が逆なのが可笑しくて、口元を緩めると、彼はますます眉毛を下げた。
「僕、この家の住所教えてないんですよね。何で知ってるのか聞いたら、興信所使ったって」
 有一が、嫌悪の滲んだ声で、うわ、と言った。
「約束無視して、ここからも引っ越しても、同じ手を使われたら有一さんにも迷惑かけるかも」
「迷惑なんて思わない」
「大袈裟かもしれないけど、ずっと、逃亡犯みたいな気分だったんです。母から連絡が来る度に、パニックみたいになって……、いい加減疲れました」
 彼の手を取って握った。強く握り返される。
「高校生の頃、僕のことを好きだと言ってくれた人がいたんです。僕も、好きだと思ってたはずなのに、近づかれるのも無理で、そのとき、一生恋愛できないかもしれないって思いました。今、こんなに幸せになれるなんて、思ってなかった。なのに、すごく幸せなのに、昔のことを思い出すと全部持ってかれる……。それが嫌なんです。だから、過去を清算したい」
 言い切ると、彼に肩を抱き寄せられた。
「それ、俺もついて行っていい?」
「え、同席するってことですか」
 有一の顔を見上げた。それはパートナーであることを紹介するようなものだ。
「同席したいけど、嫌だったら近くの席で話聞くだけでもいい。見つからないようにするから」
 彼は首を傾げて甘えるような視線を送ってきた。その可愛さに、まんまと絆されそうになる。
「……いや、昨日みたいに、母に怒られるところを僕は見られたくないんですよ。カッコ悪いし、恥ずかしいし」
「俺だって、昨日の自分がカッコ悪くて、すげぇ嫌だよ。でもさ、勇者が魔王を倒すまでの過程でも、泥臭いシーンとかあるじゃん。そういうところに読者は胸を打たれるだろ」
 急に次元がワープして、「え、なに」と目をすがめた。
「だから、頑張ってる主人公道弥くんを、カッコ悪いなんて思わないってこと。この前読んだ漫画も、そうだったよ。ほら、ここにあるやつ」
 有一はベッド下に手を入れて、奥まった収納の引き出しを引いた。そこには漫画や小説を隠している。コアなジャンルの本も多く、見られたことに抵抗があった。
「え、よ、読んだんですか? いつ?」
「いつっていうか、道弥くん風呂長いから、その時間に」
 顔が急速に熱を持つ。彼はいたずらっぽく含み笑いを浮かべた。
「なにその顔。赤くなる要素あった? もしかしてこれで抜いてるとか」
 とんでもなく下品なことを言われ、食い気味に「ちがいます!」と声を張った。
「オタクだと思われたくなくて隠してたのに……。ひどいじゃないですか」
「え、ごめん。でも俺も、こういう異世界モノとか読むよ。BLも昔読んだことあるし」
「そうなんですか。陽キャなのに」
「陽キャとか関係ある? てか陽キャでもないよ。俺、中高あんまり友達いなかったし、大学デビューだから。高校でもプチデビューしたけど、友達あんまりできなかったなぁ」
「ふっ。プチデビュー……」
「あ、このやろ。笑ったな」
 彼の腕が伸びてきて、頬を抓られた。「ふいまへん」と、引っ張られた分舌足らずな言い方で、形だけの謝罪をした。


 待ち合わせの店がある最寄り駅で降りた。約束の時間までは一時間弱ほど。早起きしたので、手持ち無沙汰で早めに出てきた。有一は、もう少し後でいいと言ったが、面接を控えた受験生のように浮き足立ってしまい、早く行こうとせがんだのだ。
「とりあえず、どっか入って休んでおこうか」
 チェーンのコーヒーショップの大型店舗に入って、ホットのカフェラテを頼んだ。席に座ってカップに手を伸ばしたが、手が震えて食器がかたかたと小刻みに音を立てる。
「ちょ、大丈夫? そんな緊張するような会じゃないから、リラックスして」
 有一に背中をさすられ「は、はい」と答えたものの、緊張しないなどできるわけがないと考えていた。こめかみあたりの血管が、脈の速さを伝えるほどに耳骨に響く。
「顔色悪くなってない? やっぱり今日やめとく?」
 よかれと思っての提案だろうが、当日キャンセルなんてとんでもない。
「茉里奈のときみたいに、気軽な感じでいいから」
 兄弟姉妹に紹介されるのと、親に紹介されるのとでは、だいぶ意味合いが違うだろう。言いたいことは色々あったが、喋る余裕がなく「大丈夫です」とだけ伝えた。手汗をスラックスでしきりに拭く。一応、襟付きのシャツを着てきたが、一番上まで留めたボタンが息苦しい。吐き気に近いものを微かに催し、「トイレ……」とだけ言い残して席を立った。
 トイレの鏡に映った自分の顔を二度見した。有一の言う通り、顔色が信じられないくらい悪い。死体のようだと思った。一睡もできなかったからだろうか。男というだけでも、よく思われていない可能性がある。加えて現れたのがこんな気味の悪い奴だったら――。
「……どうしよう……」
 何の策もないまま、ひとまずトイレを後にしたときだった。トイレ前の食器返却口で誰かがグラスを落とし、派手な音を立てて割れた。グラスが床で割れる高い音が耳をつんざく。
「もう、何やってんのよ」
 心底うんざりしたような女性の声が聞こえた。グラスを落とした女性は「ご、ごめん。どうしよう」と落としたグラスと、そばにいた女性の顔を交互に見ている。
「お客様、お怪我はないですか」
 と、駆けつけたスタッフが片付けに取りかかり、女性たちは頭を下げ、謝罪しながら立ち去っていった。
「道弥くん」
 呼ばれると同時に、背中に触れられ、肩が小さく跳ねた。
「どんどん顔色悪くなってる。やっぱり今日は止めよう」
 ――やめる? 何を? そんなこと――。
 全身が粟立ち、体が中から引き裂かれる。胃の内容物が込み上げ、即座にトイレに引き返した。
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