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第五章
65 赴くまま
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「今の僕は、エデル公爵家の一員です」
ユリアンは自由になった手でもう一度ロドリックの頬に触れた。
どうしてか触れていたくなったのだ。
「たとえ契約結婚でも、今の僕はロドリック様の妻なんですよ」
ロドリックはすると、強張っていた顔を僅かに緩める。
ユリアンは手を離し、少しだけ微笑んで言った。
「貴方の選択に従います」
たとえそれが何であろうとユリアンが拒絶することはない。
不意に閉じた瞼の裏に滲むのは、たった今し方この目にした光景だ。
階段の半ばでこちらに背を向けて立っているアルノー。『俺は……』と続けた彼は、最後の最後までユリアンを兄弟だと認めなかった。
きっと家族でいたことなど、一度もなかったのだ。
「そうか」
ロドリックが頷き、また甲斐甲斐しくユリアンの頬を拭いはじめる。数日間牢に監禁されていたのでこの体はとても汚れている。
加えて、ヒートを誘発する薬のせいで体も熱くなっていた。腹の奥が疼くような息苦しさはあるが、なぜか、ロドリックに触れられていると、自分の体の異常への恐怖心は和らぐ。
思考がぼんやりとして、吐き出す息もほてっている。漠然と考えていたのは、アルノーやマルトリッツ家との終わりについて。
馬車はあの塔から離れて、邸宅も通り過ぎていった。元々帰ってくることは禁じられていたがもう二度と、自分はこの地に戻らないのだろうと確信する。
塔の中で騎士たちが火を持って調査しているせいか、あの塔が夜の中で光っている。それが今、どんどん小さくなっていく。
悪夢が遠ざかっていくような、不思議な気持ちになって、ユリアンは今度こそ脱力した。
ロドリックの肩に寄りかかるも、ロドリックは喋りはじめている。
「分かった。俺の好きにさせてもらうぞ。言質を取れてよかった」
「……」
「これから奪うものは全てユリアンに送ろう」
「そう、ですか」
「腹が減っただろう? すぐにホテルに着くから頑張ってくれ。体は痛いか? 医者も呼んでいる。安心してくれ」
「僕はもう、大丈夫ですよ」
あんまりにも心配し続けるのでそう言うと、ロドリックはやはり心配そうではあるが、そっと微笑んだ。
つい数十分前まで凍えるような寒さで倒れていたのに、今は何もかもが温かい。ロドリックが慌てて巻き付けてきたブランケットや、ロドリックが今必死に飲ませてくるお湯のせいもあるけれど、それよりもきっとヒートだ。
それほど薬を含まなかったから以前経験したほど酷くはないが、全身に広がった熱が強くなっていく。ユリアンはお湯を飲み下してから、「あつい」と呟いた。
「熱かったか!? 火傷したか!? すまないユリアン!」
「ちが、お湯ではなく」
「お湯ではないのか!?」
「ヒートです」
ロドリックは唇を引き結んでから、微かに眉間の皺を寄せる。
「誘発剤を使われたんだな。ユリアン、苦しいか?」
「なんというか……」
「うん」
「こう、お湯に浸かっている感じです」
「なんだそれは」
「凍え死にそうなほど寒いところにいたのに、こんなに熱いのは、ヒートのせいですね。むしろ良かったのかな。凍傷にならずに済んで」
極寒の沈没船からの生還者でアルコールを事前に摂取した者が生き残った例は有名だ。ヒートでも、生き延びるかもしれない。凍りそうなほど冷たかった体が、ヒートの熱もあって溶けていくようだ。
そんなことを考えながら告げると、ロドリックは戸惑った顔をする。ユリアンは彼の肩にもたれながら、その顔を見上げている。
すると馬車が緩やかに停止した。マルトリッツ男爵邸から一番近くにある比較的大きな町の、ホテルに到着したらしい。ロドリックは速やかにユリアンを抱き起こすと、馬車を降りて、豪勢なホテルの一室へと向かった。
廊下までは騎士たちがついてきたが、寝室に運ばれると、ロドリックと二人きりになる。ホテルで待ち構えていたらしい使用人の姿も複数目に入ったが、この部屋には呼びつける気はないようで、ロドリック自らの手でベッドに座らせられる。
「体を拭いて清潔にしたら、すぐ食事を取ろう。服を脱がせてもいいか?」
ロドリックは眉尻を下げて、丁寧にこちらの了承を取ろうとする。こんなに表情豊かな人になったのはいつからだろう。初めは仏頂面しか見たことがなかったのに。きっと薬の量のせいだけではなく、ロドリックの匂いに包まれているからか、そんなことを考えるほどには今度のヒートは余裕があって、
「いいんですか?」
と問いかけることすらできた。
「は?」
「僕を脱がせて……」
「……」
「僕がヒートだと、貴方も大変なのでは?」
「……」
「フェロモン、ロドリック様にも影響するんじゃないかって」
「もう影響してる。だから気にするな」
言いながらロドリックはコートと汚れた服を取り払ってくる。公爵と言えど戦場で過ごした時間が長いせいか、タオルでユリアンの体を拭いてくる手つきは慣れたものだった。
しかしユリアンの体を目にした時の表情は凄まじかった。ロドリックに裸を晒すのは初めてだ。体に残る傷跡を確認したロドリックは、明らかに怒りを滲ませた。
何か言い訳をしたかったが、ロドリックが想像したようにこれらはマルトリッツで過ごしていた頃に刻まれた傷だ。素直に認めようものならロドリックが爆発しそうなので口を噤む。
ロドリックの顔や耳、首元は赤く染まり、大量の汗を垂れ流していた。表情も固く、何かを堪えるように力が入り、血管が浮き出ている。「殺してやる……」と無意識なのかぼやきながら服を着せ直してくる力んだ手つきを眺め下ろし、ユリアンは呟いた。
「大丈夫ですか?」
「何が」
「色々と。顔も赤いし」
「気にするな」
「あんまり僕に近いと、ロドリック様も苦しくなりますよ」
「君はよく喋るくらいには余裕があるんだな」
「ロドリック様は余裕がなさそうですね」
「ユリアンは気にしなくていい」
ロドリックはテーブルの上に用意されていたスープを手にする。力が入りすぎているせいで、こちらに運んでくるときに僅かにこぼしていた。
余裕がないことは否定しないロドリックに、思わず笑みが溢れる。彼は真っ赤な顔で、スプーンをこちらに差し出してきた。
一度くらいは素直に口にしたが、スープくらい自分で飲めるので皿を奪う。ロドリックは限界みたいに呼吸が荒くなっていた。明らかに発情しているので退室するかと思ったのに、ロドリックはまるで、取り憑かれたかのようにユリアンの世話を続けた。
「手当をしよう。手首に拘束の跡が残っている。細かい傷も、消毒しなければ」
最早無意識の行動に近づいているのかもしれない。ユリアンのうなじに傷がないことを確認すると、次は跪いて、ユリアンの足を掬い上げた。
足首の傷を消毒しようとしているのだ。本能的な行動なのか理性的な行動なのか、判別がつかない。そのどちらもが爆発しているようだった。
ユリアンはスプーンをテーブルの上に放り投げ、皿を両手に持つと、縁に口をつけて一気に飲み干す。皿はテーブルの上に置いた。ロドリックは足元にいる。
ユリアンは、足のつま先まで丁寧に拭うロドリックの硬い腹を軽く蹴った。
「? はっ……?」
「ロドリック様」
心底驚いた様子でぽすんと尻餅をついたロドリック。
首元を掴み、一気に引き上げると、膝立ちになった彼は唖然と目を瞠った。
「苦しいのは貴方の方じゃないですか?」
ロドリックの首元には汗で濡れた黒髪が張り付いている。まん丸に見開いた黄金の目が、ユリアンを凝視している。
思い出すのは、初めてまともに会話を交わした夜のことだ。ハチに怯えたロドリックは、駆除して帰ってきたユリアンを、今みたいに驚いて見つめていた。
あの時はロドリックのためというより、ハチを手に入れたいがために取った行動だった。今は、どうだろう。
「僕が助けてあげます」
これは誰のため?
ロドリックは発情の影響で目を潤ませている。そのせいで彼の綺麗な黄金の目には、光が目一杯に詰め込まれていた。
ユリアンは、笑みをこぼした。
「僕はまだ、貴方の妻ですよ」
誰のためも何もない。
理屈などない、感情の赴くまま。
ロドリックは言葉を寄越す前にユリアンの頭を両手で掴んだ。しかし顔を近づけてきたのはロドリックの方で、次にはもう、唇が重なっている。
その口付けは互いの荒い息に塗れていた。みるみる深くなるキスと共に、ベッドに押し倒される。反射的に瞑ってしまった目を開くと、ロドリックが苦しそうに熱のこもった目を細めて、ユリアンを見下ろしていた。
ユリアンは自由になった手でもう一度ロドリックの頬に触れた。
どうしてか触れていたくなったのだ。
「たとえ契約結婚でも、今の僕はロドリック様の妻なんですよ」
ロドリックはすると、強張っていた顔を僅かに緩める。
ユリアンは手を離し、少しだけ微笑んで言った。
「貴方の選択に従います」
たとえそれが何であろうとユリアンが拒絶することはない。
不意に閉じた瞼の裏に滲むのは、たった今し方この目にした光景だ。
階段の半ばでこちらに背を向けて立っているアルノー。『俺は……』と続けた彼は、最後の最後までユリアンを兄弟だと認めなかった。
きっと家族でいたことなど、一度もなかったのだ。
「そうか」
ロドリックが頷き、また甲斐甲斐しくユリアンの頬を拭いはじめる。数日間牢に監禁されていたのでこの体はとても汚れている。
加えて、ヒートを誘発する薬のせいで体も熱くなっていた。腹の奥が疼くような息苦しさはあるが、なぜか、ロドリックに触れられていると、自分の体の異常への恐怖心は和らぐ。
思考がぼんやりとして、吐き出す息もほてっている。漠然と考えていたのは、アルノーやマルトリッツ家との終わりについて。
馬車はあの塔から離れて、邸宅も通り過ぎていった。元々帰ってくることは禁じられていたがもう二度と、自分はこの地に戻らないのだろうと確信する。
塔の中で騎士たちが火を持って調査しているせいか、あの塔が夜の中で光っている。それが今、どんどん小さくなっていく。
悪夢が遠ざかっていくような、不思議な気持ちになって、ユリアンは今度こそ脱力した。
ロドリックの肩に寄りかかるも、ロドリックは喋りはじめている。
「分かった。俺の好きにさせてもらうぞ。言質を取れてよかった」
「……」
「これから奪うものは全てユリアンに送ろう」
「そう、ですか」
「腹が減っただろう? すぐにホテルに着くから頑張ってくれ。体は痛いか? 医者も呼んでいる。安心してくれ」
「僕はもう、大丈夫ですよ」
あんまりにも心配し続けるのでそう言うと、ロドリックはやはり心配そうではあるが、そっと微笑んだ。
つい数十分前まで凍えるような寒さで倒れていたのに、今は何もかもが温かい。ロドリックが慌てて巻き付けてきたブランケットや、ロドリックが今必死に飲ませてくるお湯のせいもあるけれど、それよりもきっとヒートだ。
それほど薬を含まなかったから以前経験したほど酷くはないが、全身に広がった熱が強くなっていく。ユリアンはお湯を飲み下してから、「あつい」と呟いた。
「熱かったか!? 火傷したか!? すまないユリアン!」
「ちが、お湯ではなく」
「お湯ではないのか!?」
「ヒートです」
ロドリックは唇を引き結んでから、微かに眉間の皺を寄せる。
「誘発剤を使われたんだな。ユリアン、苦しいか?」
「なんというか……」
「うん」
「こう、お湯に浸かっている感じです」
「なんだそれは」
「凍え死にそうなほど寒いところにいたのに、こんなに熱いのは、ヒートのせいですね。むしろ良かったのかな。凍傷にならずに済んで」
極寒の沈没船からの生還者でアルコールを事前に摂取した者が生き残った例は有名だ。ヒートでも、生き延びるかもしれない。凍りそうなほど冷たかった体が、ヒートの熱もあって溶けていくようだ。
そんなことを考えながら告げると、ロドリックは戸惑った顔をする。ユリアンは彼の肩にもたれながら、その顔を見上げている。
すると馬車が緩やかに停止した。マルトリッツ男爵邸から一番近くにある比較的大きな町の、ホテルに到着したらしい。ロドリックは速やかにユリアンを抱き起こすと、馬車を降りて、豪勢なホテルの一室へと向かった。
廊下までは騎士たちがついてきたが、寝室に運ばれると、ロドリックと二人きりになる。ホテルで待ち構えていたらしい使用人の姿も複数目に入ったが、この部屋には呼びつける気はないようで、ロドリック自らの手でベッドに座らせられる。
「体を拭いて清潔にしたら、すぐ食事を取ろう。服を脱がせてもいいか?」
ロドリックは眉尻を下げて、丁寧にこちらの了承を取ろうとする。こんなに表情豊かな人になったのはいつからだろう。初めは仏頂面しか見たことがなかったのに。きっと薬の量のせいだけではなく、ロドリックの匂いに包まれているからか、そんなことを考えるほどには今度のヒートは余裕があって、
「いいんですか?」
と問いかけることすらできた。
「は?」
「僕を脱がせて……」
「……」
「僕がヒートだと、貴方も大変なのでは?」
「……」
「フェロモン、ロドリック様にも影響するんじゃないかって」
「もう影響してる。だから気にするな」
言いながらロドリックはコートと汚れた服を取り払ってくる。公爵と言えど戦場で過ごした時間が長いせいか、タオルでユリアンの体を拭いてくる手つきは慣れたものだった。
しかしユリアンの体を目にした時の表情は凄まじかった。ロドリックに裸を晒すのは初めてだ。体に残る傷跡を確認したロドリックは、明らかに怒りを滲ませた。
何か言い訳をしたかったが、ロドリックが想像したようにこれらはマルトリッツで過ごしていた頃に刻まれた傷だ。素直に認めようものならロドリックが爆発しそうなので口を噤む。
ロドリックの顔や耳、首元は赤く染まり、大量の汗を垂れ流していた。表情も固く、何かを堪えるように力が入り、血管が浮き出ている。「殺してやる……」と無意識なのかぼやきながら服を着せ直してくる力んだ手つきを眺め下ろし、ユリアンは呟いた。
「大丈夫ですか?」
「何が」
「色々と。顔も赤いし」
「気にするな」
「あんまり僕に近いと、ロドリック様も苦しくなりますよ」
「君はよく喋るくらいには余裕があるんだな」
「ロドリック様は余裕がなさそうですね」
「ユリアンは気にしなくていい」
ロドリックはテーブルの上に用意されていたスープを手にする。力が入りすぎているせいで、こちらに運んでくるときに僅かにこぼしていた。
余裕がないことは否定しないロドリックに、思わず笑みが溢れる。彼は真っ赤な顔で、スプーンをこちらに差し出してきた。
一度くらいは素直に口にしたが、スープくらい自分で飲めるので皿を奪う。ロドリックは限界みたいに呼吸が荒くなっていた。明らかに発情しているので退室するかと思ったのに、ロドリックはまるで、取り憑かれたかのようにユリアンの世話を続けた。
「手当をしよう。手首に拘束の跡が残っている。細かい傷も、消毒しなければ」
最早無意識の行動に近づいているのかもしれない。ユリアンのうなじに傷がないことを確認すると、次は跪いて、ユリアンの足を掬い上げた。
足首の傷を消毒しようとしているのだ。本能的な行動なのか理性的な行動なのか、判別がつかない。そのどちらもが爆発しているようだった。
ユリアンはスプーンをテーブルの上に放り投げ、皿を両手に持つと、縁に口をつけて一気に飲み干す。皿はテーブルの上に置いた。ロドリックは足元にいる。
ユリアンは、足のつま先まで丁寧に拭うロドリックの硬い腹を軽く蹴った。
「? はっ……?」
「ロドリック様」
心底驚いた様子でぽすんと尻餅をついたロドリック。
首元を掴み、一気に引き上げると、膝立ちになった彼は唖然と目を瞠った。
「苦しいのは貴方の方じゃないですか?」
ロドリックの首元には汗で濡れた黒髪が張り付いている。まん丸に見開いた黄金の目が、ユリアンを凝視している。
思い出すのは、初めてまともに会話を交わした夜のことだ。ハチに怯えたロドリックは、駆除して帰ってきたユリアンを、今みたいに驚いて見つめていた。
あの時はロドリックのためというより、ハチを手に入れたいがために取った行動だった。今は、どうだろう。
「僕が助けてあげます」
これは誰のため?
ロドリックは発情の影響で目を潤ませている。そのせいで彼の綺麗な黄金の目には、光が目一杯に詰め込まれていた。
ユリアンは、笑みをこぼした。
「僕はまだ、貴方の妻ですよ」
誰のためも何もない。
理屈などない、感情の赴くまま。
ロドリックは言葉を寄越す前にユリアンの頭を両手で掴んだ。しかし顔を近づけてきたのはロドリックの方で、次にはもう、唇が重なっている。
その口付けは互いの荒い息に塗れていた。みるみる深くなるキスと共に、ベッドに押し倒される。反射的に瞑ってしまった目を開くと、ロドリックが苦しそうに熱のこもった目を細めて、ユリアンを見下ろしていた。
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・もふもふ獣人化
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