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2巻
2-1
しおりを挟む第一章 神聖国の魔手
幼女の朝は早い。
アウァリティア王国の筆頭公爵家であるフィロソフィ公爵家の庭では、末娘のマリアローゼが朝早くからとことこと歩いていた。清廉な光を含む銀色の髪は、毛先が蜜色に染まり、くるんと巻いている。瞳の色は両親の色を合わせた淡い青紫色で、見る者をハッとさせるほど美しい。今はドレスと言うには簡素な服で庭を闊歩していた。
その横に並び立つのは、元冒険者である護衛騎士のカンナである。母の実家フォルティス公爵家の傍流の出であり、燃えるような赤髪はフォルティス家の所縁のものだ。
後ろには、マリアローゼと同じく動きやすい服に身を包んだ幼い姉弟、ルーナとノクスが続く。孤児だった彼らは、事件に巻き込まれて瀕死の状態だったところをマリアローゼに救われた。今は公爵家に身を寄せ、将来マリアローゼの侍従と侍女になるべく、勤勉に働いている。
仕事が終わった後は、マリアローゼと五人の兄達と共に言語の勉強をしている。更に、マリアローゼの父ジェラルドの侍従であり、スーパー執事のランバートから英才教育も受けていた。
体力作りのための運動が終わると、マリアローゼは軽く湯浴みを済ませてひと眠りした後、朝食に訪れる。
「おはようございます、お父様、お母様」
「おはようローゼ」
「おはよう、わたくしの可愛い天使ちゃん」
大好きな両親に笑顔で迎えられ、マリアローゼも可愛らしい笑みを浮かべる。
父ジェラルドは宰相という激務に就きながらも、朝食と晩餐の席には必ずいて、家族との時間を作っていた。銀の髪はすでに仕事用に後ろに撫でつけられているが、冷たいと称される薄氷色の瞳を優しく細めている。
そんな夫を支えるために、母ミルリーリウムも社交に余念がない。
緩く波打つ黄金色の髪と紫色の神秘的な瞳を持ち、社交界の白薔薇と呼ばれる美しさは本日も健在だ。今日は青銀色のドレスに、銀色の宝飾品を付けている。
「おはよう、ローゼ。今日も可愛らしい笑顔が見られて嬉しいよ」
甘い表情を見せるのは長男のシルヴァイン。母譲りの金髪と父譲りの薄い青の瞳で、王子と言われても遜色のない美しさと精悍さを兼ね揃えている。
(またお兄様は私をからかって……!)
ふんす、とマリアローゼは息を吐いた。
「お兄様、おはようございます。でも、そういった言葉は好きな女性に贈られませ」
「そうかい? じゃあ君に贈っても問題ないね」
(ライクじゃなくてラブという意味なのに!)
だが、にやにやと楽しそうに笑う兄には勝てそうにない。マリアローゼは早々に白旗を上げる。
「遺憾に存じますわ……」
マリアローゼの精一杯の返答に、シルヴァインは軽く笑って肩を竦めた。
「ローゼ、おはよう。よく眠れましたか?」
丁寧に言葉をかけてきたのは、次男のキースだ。父の生き写しと言われるだけあって、銀の髪も薄氷色の瞳も冷たい印象を与えるが、マリアローゼを見る目は優しい。
「はい、キースお兄様。とてもよく眠れましたわ」
キースはマリアローゼの返事に、優しく微笑んで頷く。
「「おはようローゼ!」」
声を揃えて挨拶したのは、三番目と四番目の兄である双子、ミカエルとジブリールだ。母を飛び越えて引き継いだ、フォルティス公爵家を象徴する燃えるような赤髪に、海と同じ鮮やかな青の瞳の少年達である。朝から元気いっぱいに挨拶されて、マリアローゼの顔も綻んだ。
「おはようございます。お兄様達。今日も朝から元気ですのね」
双子は嬉しそうに顔を見合わせて笑う。
「おはよう……ローゼ」
「ノアークお兄様、おはようございます」
最後に声をかけてきたのは、マリアローゼのすぐ上の五番目の兄のノアークである。口下手で寡黙だが、いつも妹を気にかけてくれる優しい兄だ。魔法が使えないことを気にしているが、マリアローゼにとってはそのことは取るに足らない。
黒に近い紅の髪と、黒に近い藍の瞳は、色は違えどフォルティス公爵家でよく見られる色だが、周囲からは異端と思われる容姿だ。魔法が使えない「無能」としての評価も合わさって、陰で出来損ないと揶揄されることがあるという。表向きそう言われないのは、両親が仲睦まじく浮気の可能性がないことと、家門の絶大な権力のおかげだろう。
口さがないのはむしろ、親よりも子供達の方だ。そのことで、従兄である第二王子ロランドに罵倒されたこともある。
だが、マリアローゼにとってはどの兄もそれぞれに魅力的で、大事な存在だ。
王城でロランドの兄である第一王子アルベルトと出会った直後に転び、前世の記憶を思い出してからも、ずっと。
この世界が小説の中の世界だろうとゲームの中の世界だろうと、今は関係ない。最初は破滅ルートを回避するために婚約者となる運命だったアルベルトを避けようと思っていた。けれど、生活を共にしていくうちに何よりも家族が大切になり、ずっと側にいたいから、誰とも婚約したくないと思っている。
改めて幸せを噛みしめつつ、マリアローゼは朝の光が差し込む食堂で、家族団欒の時を過ごした。
● ● ●
その日の執務室では、ジェラルドがうーんと唸っていた。
とうとう、ルクスリア神聖国からマリアローゼ宛に招聘の手紙が届いたのである。ルクスリア神聖国は、各地に顕現した聖女を招く権利を有している。宗主国として全世界に数多くの信者を持つからこその権力だ。表向きの理由は保護だが、聖女は神聖国から出ることを許されない。神聖国がその稀有な能力を管理するためである。
聖女とは奇跡を起こす能力を持つ者とされていて、その治癒力は治癒師のそれを遥かに超える。どんな病でも治し、失った四肢の再生や死人の蘇生にまで及ぶ。故に聖女は貴重な存在となり、各国の王族の危機に見えざる神の恵みを与えていた。
ただし、例外はある。
一つは複数の聖女がいること。もう一つは他国の王族との婚姻、もしくは婚約した場合に際してだ。
現在、神聖国には聖女はいないが、聖女だと噂されている少女はいる。男爵家の庶子であり、現在は養女として引き取られた元は平民の少女だという。
それに、ルクスリア神聖国を無下に扱うことは出来ない。
神聖国では、統治者を王でなく国主と呼んでいる。元を辿れば、その出自はアウァリティア王国の公爵だ。王家ではあるものの、今でも対外的な家格は公爵である。他国の王族より身分が低いとされているが、多くの信者を抱える神聖国の権力は、小国とはいえ絶大だ。それを束ねている教会も同様で、ジェラルドがこの招聘を拒否することは不可能だった。
(それでも手放すことは絶対に考えられない)
ミルリーリウムとジェラルドが切望した娘であり、この世の全ての美しい物を詰め込んだような清らかな子だ。
ジェラルドはマリアローゼを思い浮かべながら、近くに控える執事のランバートに声をかける。
「あの時のローゼを見たかい? あの双子をいとも簡単に手懐けるとは」
「諫めることなく場を収めた手腕には、感銘を受けました」
「神聖国に行かせたくないな……」
「僭越ながら、私も同じ思いにございます」
その時、コンコン、と小さなノックの音がした。ジェラルドが応えた後、マリアローゼが顔を出した。挨拶を終えると、背伸びをして執務机に紙の束をドン、と載せる。
「これは……ん?」
パラパラと捲って確認したところ、キースとシルヴァインの筆跡で書かれている。どうやら、立ち上げようとしている商会の計画書のようだった。
「マリアローゼが何でこんなものを持ってきたんだい?」
「わたくしの商品を売りたいからですわ」
ふんす! と胸を張って主張する娘に、父の目が点になる。
「商品」
マリアローゼの言葉を繰り返した後、ジェラルドは自信ありげな娘を見つめた。
「工房から報告が入っていませんでしたか? ええと、クリスタさんとレノさんに一財産築けると言われまして、マローヴァさんとエミールさんからも保証をいただきましたの」
商会の会頭を代理で務めるマローヴァと、彼の代わりに公爵邸に訪れたエミールは抜け目のない人物だ。それに、王城にも出入り自由な御用商人でもある。その彼らが保証したというのなら、ただのおためごかしではなく、売れる商品なのだろう。
「ふむ、商品の説明は彼らから聞くとしよう」
「まだ量産体制も整っていませんし、貴族向けと庶民向けの商品を作るので、両方仕上がりましたら、改めてお父様にお願いに参ります」
にこにこしながら大人顔負けの商魂を見せる、末恐ろしい五歳児である。
「本当は聞かせたくない話だが、今してしまおうか……」
優しい目で娘を見つめていたジェラルドの瞳が悲しげに翳る。
「実は、君が聖女としてルクスリア神聖国に招聘されることになった」
頭がハテナでいっぱいになったのか、不思議そうな表情でマリアローゼは首をこてんと傾げた。
そんな何気ない仕草ですら、ジェラルドの目には何よりも愛くるしく映る。
「でも、わたくし聖女じゃございませんのに?」
「椅子に座ろうか。少し説明するよ」
机から顔をひょっこり出すように立っていたマリアローゼを抱き上げて、ジェラルドは長椅子に座った。そして、マリアローゼを膝に乗せて肩口に顔を埋めたまま呟く。
「リリィを」
「承りました」
ランバートが出ていき、しばらくするとミルリーリウムが部屋に入ってくる。ミルリーリウムはジェラルドの隣に座り、寄り添うように娘と夫を抱きしめた。
「まずはノクスとルーナの話をしよう。彼らを癒したことが、『聖女』だと判断された一番の理由だ。加害者のうちの一人が貧民街の神父だったんだよ。彼らは身寄りのない子供を養子に出す傍ら、奴隷としても売っていたんだ。それを暴こうとした二人を殺そうとした。しかし失敗した神父は、捕まる前に君を聖女として神聖国に推薦したんだ。もし聖女だと認められれば、神父の罪は免除され、地位も上がる。その一方で、聖女として認定された者は神聖国から出られなくなる」
「……分かりました」
マリアローゼはこくりと頷いた。
何が分かったのだろう? と、ジェラルドは顔を上げてマリアローゼを見つめた。マリアローゼは強い意志の宿った目で父を見つめ返す。
「わたくしは聖女ではありませんし、犯罪に手を染めた者が無罪放免になるなんて、絶対に許しませんわ!」
その言葉は自身を案じるものではなく、正義の怒りで溢れている。
意表を突かれたジェラルドは、マリアローゼをまじまじと見つめた。
「叩き潰してみせますわ」
キッと眉を寄せて力強く言う娘に、ジェラルドは悲しみよりも驚きが勝ってしまい……掌を顔に当てて笑い出した。
「さすが、私とリリィの娘だ」
「わたくしも一緒に神聖国に参りますわ」
娘の決意を聞いたミルリーリウムも、ふんす! と胸を張って言う。
「えっ、でも君には予定が――」
「予定は未定と言うではありませんの。ローゼの方が絶対的に優先ですわ。それに、聖女でも聖女じゃなくても、わたくしはローゼを手放しません」
「そうか……そうだな。参ったな、日和っていたのは私だけじゃないか」
泣き笑いのような表情を見せて、ジェラルドは妻ごとマリアローゼを抱きしめる。
「王妃から、マグノリア・フィデーリス神殿騎士の同道を許可されている。直下の部下四名と公爵家の護衛騎士三名、王城からもアケル・フォルティス王宮第一騎士団長とその部下三名が同行する。ノクスとルーナも連れてくるよう神聖国側から要請があったので、彼らも一緒だ。それからカンナにも同行してもらおう」
「承知致しました」
「それから不測の事態に備えて、別途冒険者も雇うことにしよう。神聖国から迎えの護衛も来るので、あまり大所帯では行けないがね」
「十分ですわ、貴方」
「わたくし、絶対にお母様と戻って参りますから、お父様も無理はなさらないで」
ミルリーリウムは問題ないと力強く微笑み、マリアローゼは父の心配までしている。自分が思うよりも強い愛しい女性達に、ジェラルドは穏やかな笑みを浮かべると二人をぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう。ローゼ、リリィ、愛しているよ」
● ● ●
神父の罪と、聖女の嫌疑がかけられたことに憤慨したものの、マリアローゼはその日珍しく父と母の間に寝て、朝にはすっかり機嫌が直っていた。
二、三日中にはルクスリア神聖国の護衛が到着するという。今日の午後には、公爵家が準備した随行人が別邸へと集まる手筈になっていた。理由をつけて招聘を引き延ばすことは出来るらしいが、面倒事は早く済ませてしまいたいのもある。
だが、準備に時間もかけたい。マリアローゼにとって、これから向かうのは一大宗教の総本山。戦うにしても知識が足りなければ、足下を掬われてしまう。
「お父様、準備に一週間くださいませ。わたくし、神聖国について徹底的に勉強しなくては。家の図書館にない資料が王宮にありましたら、出来ればお借りしたいです」
「分かった。全て君の気の済むようにしなさい」
「ありがとうございます」
朝食の時に神聖国への招聘を聞かされた兄達もまた、突然の事態に驚いているようだった。説明を黙って聞いていたシルヴァインが、父上、と呼びかけた。
「俺もローゼの手伝いをします」
「僕も手伝いましょう」
シルヴァインの申し出にキースも続き、父は重々しく頷いた。双子は二人でうんうんと頭を悩ませていたが、今まで勉強から逃げ回ってきた自分達は調べ物には役に立たないと思ったようだ。ノアークも同じく、しょんぼりとしている。
「手伝ってほしいことが出来ましたら、お兄様方にもご助力をお願い致しますわ」
マリアローゼの言葉に、三人はやる気に満ちた顔でうんうんと頷いた。一件落着である。
朝食後は図書館へ、二人の兄を伴ってマリアローゼは急いだ。あらかじめ連絡を受けていたのか、公爵家の図書館の司書であるヴァローナの出迎えで、神聖国関連の大量の書籍の載った机に案内される。ヴァローナは銀灰色の髪を緩く後ろで括った美青年で、以前もマリアローゼを助けてくれた。
「お爺様にも話を聞きたいけれど、これを読むのが先ですわね」
腕まくりをしたマリアローゼに、紫水晶の理知的な眼差しを向けたヴァローナが申し出る。
「アノス老には私が話を聞いておきましょう」
「ありがとう、助かります。では、神聖国と聖女について本に載っていない知識があればお聞きしてね」
マリアローゼの言葉に、ヴァローナは静かに頷く。彼が立ち去るのを見送って、マリアローゼは手早く蔵書をより分けた。
基本的な知識がなければ、質問したいことすら分からないのだ。この図書館の長であるアノス老――フィスィアノスは、賢者とも呼ばれる老爺である。頭に毛がない代わりに山羊のように白くて長い髭が生えていて、歳のせいか日がな一日うつらうつらと眠っていることが多い。起きている時間が僅かなので、それを無駄には出来ないのだ。
(まずは焦らずに、基本的な情報を調べましょう)
「わたくしは聖女関連の書籍を中心に調べます。お兄様達は、わたくしが見た方がいい資料があれば教えてください」
「僕は神聖国の歴史を調べましょう」
「じゃあ俺はそれ以外を担当しよう」
てきぱきと用意をして、三人は本を読み始めた。合間に昼食を済ませ、また読書に戻る。本当なら昼寝もするのだが、出来るだけ詰め込みたいので、限界までマリアローゼは頑張った。
そして、晩餐の時に父から驚くべき話を聞いた。
神聖国にはすでに聖女候補が一人いるが、あくまで候補でしかない。もしマリアローゼが聖女だと認定されてしまえば、終わりなのだ。それを覆すために王家が提案したのは、第一王子アルベルトの婚約者として連れ帰るという策だった。
「マリアローゼが無事聖女ではないと判定されれば問題ないが、そうならなかった場合は婚約を盾にして連れ帰れるよう、第一王子殿下が同行する」
「でしたら、俺も行きます」
ジェラルドの言葉に、シルヴァインがすかさず名乗りを上げた。
「護衛騎士ほどとは言えませんが戦えますし、ローゼの兄でもあります」
(それは嘘)
マリアローゼはジト目でシルヴァインを見た。兄が騎士達と互角に戦ったのを、つい先日目にしている。公爵家の騎士達は、身分が上だからといって負けてあげるような鍛錬はしないのだ。
「分かった。リリィとローゼを頼むぞ」
「はい。お任せください」
マリアローゼにとって、アルベルトは関わり合いたくない相手No.1であったが、少し考えを改めた。だが、第一王子とはそこまで交流もない上に、彼にとってのメリットがあまりに少ない。
むう、とマリアローゼは口を尖らせた。
恋だの愛だのという間柄ではない。会ったのはたった二回。手紙を返したのもまた二回。これだけで恋愛に発展することなどないし、もしそうだったとしても何か幻影を見ているとしか思えないので、今のところはその要素は却下しておく。
(王国にとっても貴重な公爵令嬢だから? 帝国にも他の国にも生粋の公爵令嬢がいないっていう影響は大きいのね)
さて、今日も早く寝よう、とマリアローゼは早々に眠りについたのだった。
翌朝気持ちよく目覚めると、枕元にまあるい贈答用の箱が置いてあった。
丁寧にリボンもかかっているが、帽子を入れるには小さい。手に持ってみると、重さはそれなりにある。
「あの、お嬢様、そちらの箱は双子のお兄様方が置いていかれました……」
「そうなのですね。開けてみますわ」
遠慮がちに言ったナーヴァは止めようとして、丸め込まれたのだろう。ナーヴァはマリアローゼの不寝番の一人で、寝ている間も近くに控えている小間使いだ。双子の攻勢に耐えられる人はそうそういない。それに夜中だったので、よほどの緊急事態でない限り、父に伝えることも難しい。
リボンをしゅるしゅる解いてパカリと蓋を開けると、そこにいたのは……
「まあ! これは、スライム!?」
箱の中には、ぷるぷると揺れるスライムがいた。薄い青色のそれを突いてみるが、逃げるように身体を動かすだけで攻撃はしてこない。
(幼体なのかしら?)
掌サイズで、まるっとして可愛らしい。
(そうだ、あれを試してみよう!)
マリアローゼが思い出したのは、以前、従魔師のウルラートゥスと交わした会話である。従魔を使役するウルラートゥスのところに捕獲の方法を教わりに行った時、彼が言っていた言葉。
『血は全身を巡る道みたいなもんだ。そこに魔力を乗せて、相手に送り込む。必要なら相手からも取り込む。その方法で俺はこいつらと絆を結んでるってわけだ』
マリアローゼは箱の中の可愛い生き物を見ていた顔を上げて、恐々と遠巻きにしているナーヴァに声をかけた。
「針を持ってきてくださる? あとクッキーと飲み物を」
「は、はい、ただいま」
慌てたように飛び上がって、パタパタとナーヴァが走り出す。箪笥の中から取り出した裁縫セットの針を渡されたマリアローゼは、ナーヴァが部屋を出ていった隙を見てそれを指に突き立てる。痛いのは嫌だけど、捕獲するためには仕方ない。指で押し出すようにして、やっと一滴、スライムに血を落とした。
(どうか、仲良くして)
祈るような思いを込めて、傷をつけた指で、マリアローゼはスライムの表面を優しく撫でる。
表面に落ちた血の雫は、やがてスライムの表面で溶け始めた。しばらく見つめて、何もないか……と思った瞬間、僅かに光を帯びる。気づけばスライムの色がピンクになっていた。
「まあ、なんて可愛らしいの!」
思わずもう一度、今度は掌で撫でると、スライムが嬉しそうに手にまとわりついてくる。
「貴方に名前を付けてあげるわね。……そうだ、わたくしと同じ名前にしましょう。今日から貴方はロサよ」
ローゼは古い呼び名でロサと言う。それをスライムに与えたのだ。
ロサは幸せそうに、くねくねと身を動かした。
「あら、嬉しいのね? これからクッキーもあげますからね」
ナーヴァが戻ってくると、マリアローゼは早速クッキーを半分に割り、スライムの横にちょこんと置いた。ロサが身体を伸ばしてクッキーを覆うと、クッキーが身体の中で溶け始めた。それを見ながらマリアローゼも、さく、さくとクッキーを齧る。
「もっと欲しい?」
問いかけると、ロサは背伸びをするように縦に伸び縮みした。マリアローゼは今度はクッキーをそのまま、ロサの上に載せてみる。するとロサの上に置かれたクッキーは、ゆっくりと身体の中に沈み込むように溶けていく。
(さて、隠蔽工作をしなくてはいけないわね。ナーヴァはいいとしても、エイラはこの状況を許してはくれなさそう)
「ナーヴァ、この箱を片づけてくださる?」
「承りました」
ナーヴァは恐々と箱を抱えて箪笥の中に仕舞い込んだ。その間に、マリアローゼは箱から出したスライムをとりあえず枕の下に忍ばせる。
「急いで着替えを」
ナーヴァはお辞儀をして、そそくさと着替えの支度に取りかかる。まだコルセットはいらないので、そこまで手間はかからない。
すぐに着替え終わると、枕の下のロサを胸元に入れる。
「動いちゃだめよ」
ロサにだけ聞こえるように言って、マリアローゼは紅茶を飲んだ。そして今日の予定を立て始める。
(図書館に行くのは決定事項だけど、その前にウルラートゥスに会いに行ってスライムの話を聞いてみたい。きちんとテイム出来ていると思うけど、確信が持てないし。次にマリクのところへ行かなくちゃ。一応手当しないとね)
針で突いただけの小さな傷だが、膿んだら困る。
(ウルラートゥスは夜勤だから、もう寝てしまうかもしれない。急いで行かなくちゃ)
「出かけて参ります」
「あ、お嬢様……」
呼び止めようとするナーヴァを少し振り返って、マリアローゼは微笑んだ。
「すぐ戻りますから大丈夫ですわ」
とてとてと走っていくマリアローゼの付き添いを近くにいた従僕に頼むと、ナーヴァは部屋に戻って後片づけを始めた。
以前に通った庭へ出る通路を走り抜け、庭に飛び出して従業員の住む家の側を駆け抜ける。
マリアローゼは従魔師の棲家に駆け寄り、たむたむと扉を叩いた。
「んだよ、うるせぇな」
ぶっきらぼうに言いつつも、ウルラートゥスは迎え入れてくれた。
異国の血が混じった褐色の肌に、銀髪、赤い瞳の隻眼の美青年である。声音と同じく面倒そうに眉を顰めているが、マリアローゼのために扉を手で支えている。
「見て!」
マリアローゼが胸元に手を突っ込んだのを見てぎょっとするウルラートゥスの眼前に、ピンク色のスライムを差し出す。
「は? テイムしたのか?」
「出来てますか?」
「見た感じ、出来てるようだが、こりゃ珍しい色してんなぁ」
「最初は薄い水色だったのですけれど、血を与えたら可愛らしいピンク色になりました」
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