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第1章
第9話
しおりを挟む「そなたは、私の心を動かした。あれは偶然なんかじゃない。……運命だとは言わない。けれど、私はそなたを選びたいと思ったんだ」
リオールのその言葉は、まるで暖かな雨が乾いた地に染み渡るように、アスカの胸へと沁み込んでいった。
誰かに『選ばれる』こと。
誰かの『心を動かす』存在として、認められること。
そんなこと、自分には一生無縁だと思っていた。
「そなたが家族を想うように、私もそなたを想っている。一方的かもしれないが……それでも私は、そなたに傍にいてほしい」
そっと囁かれるようなその声に、アスカの心が揺れる。
──こんなにも、まっすぐに求められたことがあっただろうか。
オメガであるというだけで、ずっと負い目を感じてきた。
家族に申し訳なくて、存在自体が厄介だと、自分でも思ってしまっていた。
未来に期待することもできず、夢を見ることすら、どこかで諦めていたのに。
そんな自分に手を差し伸べてくれたのが、リオールだった。
高貴な身にありながら、分け隔てなく見てくれて、守ろうとしてくれた。
その温もりに、いつしか心が惹かれていった。
──できることなら、自分も彼を守りたい。
ただ庇護されるだけの存在ではなく、彼にとっての「力」になりたい。
けれど。
彼の傍にいるということは、これまで以上の覚悟がいる。
これまで以上に、理不尽な声を浴びることになるだろう。
それでも。
彼がそれでも傍にと望むのなら。
「……本当に、わたしが居ても、いいんですか」
恐る恐る口にした問いに、リオールは何の迷いも見せずに頷いた。
「いいとも。むしろ──居てほしい」
その笑顔は静かで、けれどどこまでも真剣だった。
──ああ、この人は本当に、必要だと言ってくれる。
胸の奥がきゅっと締め付けられ、同時に熱がじんわりと広がっていく。
指先は緊張で冷たかったけれど、心だけは確かに温かかった。
「……あなたが望むのであれば、ここに居ます。──ここで、あなたと共に生きたい」
その言葉は、小さく震えながらも、確かな決意を宿していた。
□
少し離れた場所から、陽春と薄氷が静かに二人の様子を見守っていた。
「……おや、これはなかなか」
陽春が口元をゆるめ、ひとつ肩を竦める。
「まるで芝居の一幕のようであるな。──殿下はああ見えて本気だろう」
「本気でなければ、ここまで心を開くこともなかったでしょうね」
薄氷は少しだけ目を細める。声に感情はあまり込めないが、その目は確かに優しさを帯びていた。
月明かりに照らされた二人は、静かに向き合い、言葉を交わしていた。
アスカの背に羽織がかけられている様子を見て、陽春はふっと笑う。
「おおかた、殿下の方が救われてるように見える。……さて、これで我々の仕事も少しは楽になるかな」
「……楽にはならないでしょう。むしろ、これからが本番です」
「それも、そうか」
陽春が頭をかきながら笑う。
一方の薄氷は、静かにアスカへと目を向けた。
「……それでも、あの方が殿下の光であることに、変わりはないでしょう」
風が、やわらかく通り抜ける。
小さく揺れた灯火が、二人の表情をほんの一瞬だけ照らした。
「薄氷よ、決してアスカ様から離れるでないぞ。必ず、お前の命を持ってしても、あの方をお守りしろ」
「わかっております」
「……あの方が居なくなった時のことを考えると、私は恐ろしくて堪らない」
アスカな居なくなった時の、リオールのことを考えると、おそらくこの国はダメになる。
あってはならない未来を想像し、小さく身震いする陽春は、穏やかに談笑している二人を見守っていた。
そうして暫く談笑が続いたが、アスカが「クシュン」と小さなくしゃみをすると、ふたりの時間もお開きの空気に包まれる。
名残惜しさを胸に、アスカはそっと立ち上がった。
リオールも同じように腰を上げると、穏やかに言う。
「送ろう」
「ぁ……い、いいです。一人で帰れます」
「そう言うな。……少しでも長く、そなたと一緒にいたいのだ」
苦笑を浮かべたリオールの声音はどこかくすぐったく、アスカは不意に頬を染めてうつむいた。
しばし逡巡のあと、小さく頷く。
「リオール様は……時々、私よりもずっと年上のように思えます」
「そうか?」
「はい。弟と同じ歳のはずなのに……」
言葉を重ねながら、アスカは胸の内を探るように目を伏せた。
年下のはずなのに、彼の言葉ひとつでこんなにも心が揺れる。
春の陽だまりのように優しく包まれたかと思えば、次の瞬間には寒い底に落ちるような気持ちになることもある。
それほどまでに、彼の存在は大きかった。
「そうであることを望まれてきたからな」
「ぁ……」
「悪いことではあるまい。……こんな私であったからこそ、そなたは心を打ち明けてくれたのではないか?」
確かに。
彼は決して感情に流されず、言葉を選ぶ。こちらの思いを受け止めるために、常に冷静であろうとする。
その懐の深さに、何度も助けられた。
「……そうですね」
アスカが柔らかく返すと、リオールはふっと目を細めた。
「こればかりは、王に感謝せねばならぬな」
「……でも、私は殿下が時折見せてくださる、年相応のお姿も……好きですよ」
「なっ……!」
赤く染まったリオールの顔が一瞬でそらされた。
それがあまりに可愛らしくて、アスカの胸がきゅうっと鳴る。
次の瞬間、リオールが不意にアスカの手を取り、そっと握った。
「ならば──少しだけ、駄々を捏ねてもいいだろうか」
「ふふ……もちろんです」
ほんの少し震えるその指先に、アスカもそっと力を込めて応えた。
その温もりに、まだ触れていたいと思う。
「もう少しだけ……少しでいいから、一緒に居たい」
「……実は、私も……そう思っていました」
リオールの微笑みに、アスカは胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
「──陽春」
「はい。ここに」
どこかから静かに現れた陽春が、即座に頭を下げる。
「アスカと共に戻るぞ」
「かしこまりました」
促されるまま、リオールに手を引かれる。
その背を見つめながら、アスカはただ静かに、けれど確かに思った。
今夜、たとえ少しでもいい。
この手を、離さないでいてほしい、と。
リオールに連れられるまま、彼の宮にやって来たアスカは、置かれている豪華な装飾を壊すことがないようにと、恐る恐るした様子で小さくなって椅子に腰かけた。
その姿があまりにも健気で、リオールはつい笑みをこぼす。
「それ程までに怯えなくとも良い。壊れたなら、直せばいいだけだ。この国には腕の立つ職人が多くいる」
「そ、そうは、おっしゃいますが……」
「?」
「やはり、私にとっては恐れ多くて」
いまだに小さくなるアスカとリオールの前に、湯呑みが差し出される。
それを手に、アスカはそっと息をついた。
静かなこの部屋に、聞こえるのは湯気の立つ音と、ふたりの心音だけのようだった。
「……やはり緊張します。このような場所に長くいると、背筋が勝手に伸びてしまう」
「……そう思わせるのは私の落ち度かもしれないな」
リオールはわざとらしく肩を落としてみせた。
「私としては、そなたにはもう少し気を抜いてもらいたいのだが」
「気を抜いたら、何かを壊しそうで……」
「申しただろう。壊したら、直す。それで良い。──それよりも、そなたがここで安らげないことの方が、私は気に障る」
その言葉に、アスカは目を見張った。
まっすぐに言われてしまうと、胸の奥がじんと熱くなる。
湯呑みを置き、ひとつ小さく息を吐いた。
「……では、少しだけ、気を抜かせていただきます」
「うん。そうしてくれ」
リオールの表情が、どこか嬉しそうに緩む。
ふとアスカが欠伸を噛み殺したのを見て、リオールは気づかうように声をかけた。
「……眠いのか?」
「い、いえ、そんな──少しだけ、今日が濃かったので」
「ならば、ここで眠れば良い」
アスカは一瞬戸惑ったようだったが、リオールの真剣な表情に押され、首をかしげた。
アスカは、ふと奥に見える帳の向こうに目をやった。
その奥には、柔らかな光に包まれた寝台があることを知っている。
「……あの寝台に、ですか?」
控えめな問いかけに、リオールは頷いた。まるでそれが当たり前のように、自然な仕草で。
「あそこなら、身体も冷えずに休める。今夜のそなたは、少し冷えすぎた。……私が長く話しすぎたせいだな」
静かな言葉だったが、アスカの胸の奥に真っすぐに届いた。
リオールの顔に、いつものような無表情ではない、かすかな思いやりが浮かんでいた。
そのまなざしには、一切の下心も感じられない。ただ、純粋な気遣いがにじんでいた。
アスカは少しの間、目を伏せ、息を整え、それからおずおずと問う。
「……殿下は?」
「私は、そばにいる。そなたが眠るまで、ずっと」
それは、迷いのない声だった。
穏やかだが、その一言一言には、凛とした決意のようなものが滲んでいた。
アスカは思わずリオールを見上げる。そこには、静かに寄り添うような、あたたかな光があった。
──ああ、きっとこの人は、本当にそのつもりなのだろう。
そう思うと、心の奥にあったこわばりが少しずつほどけてゆく。
アスカはそっと差し出されたリオールの手を取った。
掌に触れるのは、柔らかい温もり。
そのまま静かに、寝殿へと足を運ぶ。
寝具は綿の香りがほのかに漂い、丁寧に整えられていた。
暖かな毛布に包まれると、身体の芯からほぐれていくのが分かる。
まるで守られているかのような安心感に、アスカは思わず目を閉じた。
その傍に、リオールが静かに座る。
言葉はない。
けれど、手がそっと伸びてきて、アスカの手を優しく包み込んだ。
強くもなく、かといって不安にならないよう、ほどよい力加減で。
アスカはその指先の温もりに、胸がじんわりとあたたかくなるのを感じた。
「……今夜だけでも、傍にいてください」
口をついて出た言葉は、まるで囁くかのように小さかった。
「約束しよう」
リオールの声が、夜気のなかに静かに溶けていく。
やがてふたりの時間は、夢へとゆっくり沈んでいく。
穏やかな、春の夜のままに。
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