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第1章
第11話
しおりを挟む日々の生活は、思いのほか忙しかった。
朝は日が昇ると同時に起床し、身支度を整え、礼儀作法や言葉遣いの講義を受ける。
午後は歴史や地理、王宮の構造と制度について学ぶんだ。
夜には、清夏が用意してくれた書物に目を通し、眠るまで筆写の練習をする。
時折リオールを誘って夜の散策に出掛けたりすることもある。
執務で忙しいなかでもリオールはアスカを蔑ろにすることはなく、それどころか「不自由はないか」といつも気遣ってくれるのだ。
日々、覚えることばかりだったが、不思議と苦ではなかった。
無表情がちな清夏に「ご立派になられましたね」と笑われたときは、思わず頬が熱くなった。
できることが少しずつ増えていく。
この積み重ねが、いつかリオールを支えられる力になるのだと思えば、益々やる気が湧く。
──そんなふうに、思えるようになったのは、王宮に来て二ヶ月が過ぎた頃だった。
しかし、その頃からだ。
アスカの身体に、得体の知れない異変が起こり始めたのは。
まずはひどく疲れやすくなった。
講義を受けている間も、体が重たくて、眠気も強いことが多く、途中で止めてもらうこともしばしば。
食欲も湧かなくなってきて、清夏と薄氷に心配をかけてしまう。
その報告を聞いたのか、リオールもわざわざ訪ねてきては、食べたい物は無いかと気にかけてくれる。
彼のあたたかな掌が背中を撫でるたび、不思議と体が軽くなる気がした。
そのうち、清夏と薄氷が訝しげな表情をすることが多くなり、二人がなにやら小声で話をしているところもよく見かける。
──アスカは自分の体に降りかかるその症状に、心当たりがないわけではなかった。
これまでにも何度か経験したことのある、オメガとしての発情期。
けれど、家族のいる実家で過ごすそれと、王宮という特殊な空間で迎えるそれとは、全く意味合いが違っていた。
気を抜けば誰かの目がある。気を張れば体が持たない。
しかも今回は、これまでと比べものにならないほど発情期の前に起こる症状が重く、体の奥底から何かが沸き立つような熱に、アスカは日毎に蝕まれていった。
□
それは、午後の講義が終わり、書物を流し読みしていた時のこと。
ふとした瞬間、空気が変わった。
読んでいた書物の文字が滲み、指先から汗が滲む。
体内を這い上がってくるような熱に、アスカは唇を噛みしめた。
「──アスカ様」
振り返ると、清夏が立っていた。
いつの間に入ってきたのかも分からないほど、気配を抑えたまま。けれどその目は、鋭く、何かを見透かしている。
続いて、薄氷も部屋に入ってくる。手には小さな布袋が握られていた。
「……気づかれて、いたんですか」
アスカの声はわずかに掠れていた。
おそらくその布袋には抑制剤が入っているのだろう。
清夏はひとつ頷く。
「薄氷殿が今朝、微かに香りを感じ取ったと言っておりました。念のため、私どもは昨日から抑制剤を服用しております」
「……」
「本格的に発情期が始まる前に、離れにご案内いたします」
表情は変わらないが、その言動に一切の無駄がない。
王宮において、オメガの発情期は『管理対象』なのだと思い知らされる。
支度はすぐに整えられた。
道中、すれ違う者もいない。
おそらく、この一帯の使用人にはあらかじめ近づくなとの通達が出ているのだろう。
案内されたのは、王宮の隅にある静かな離れだった。
長く使われていないのか、空気はひんやりと乾いている。
分厚い扉と石造りの壁が、外界から隔絶されているのを物語っていた。
「ここで、数日お過ごしいただきます。水と食事、必要な薬と書物はすべてご用意いたします」
清夏の声に、アスカはうなずくしかできなかった。
アスカの発情期は、隔離されてから間もなく本格化した。
部屋の空気が、重たい。
水を飲んでも喉が渇き、肌が張り詰めるように熱い。
布団にくるまることさえ苦しいのに、一人きりの夜が、ひどく心細かった。
これは、知っている感覚のはず。
発情期は何度か経験してきた。
家では家族が気遣ってくれたし、薬でやり過ごすこともできた。
それなのに、今回は違う。
薬は意味をなさず、誰の気配もしないこの部屋では、欲望も恐怖も、自分一人で飲み込むしかない。
身体の奥で、熱が蠢いている。
呼吸は浅くなり、どれだけ体を丸めても、火照りからは逃げられない。
──誰か、そばにいて。
不意に浮かんだその願いに、アスカは唇を噛みしめた。
誰かに寄り添ってもらいたい。背中をさすって、優しく言葉をかけてもらいたい。
それがリオールだったら、どんな顔で自分を見てくれるだろう。
きっと──あたたかく、柔らかく、そして──
「……っ、だめだっ!」
こんな姿を、見せたくない。
汗で濡れた襟元に震える手。
どうしようもない欲求に耐えるだけの情けない自分。
彼には、こんな姿、知られたくない。
まだ彼はたったの十四歳。
こんなあられもない自分は絶対に見せたくない。
けれど、どうしても、心がすり減っていく。
静まり返った部屋に、浅く、熱を含んだ息だけが響いていた。
伸ばした手の先に、誰もいない。
名前を呼びたくなる衝動を、何度も喉の奥で押し殺して──アスカは、ただ耐え続けていた。
アスカが発情期に入ったとの報せは、すぐにリオールの耳に入った。
リオールは執務を放り出し、今すぐにでもアスカの元へ駆け出そうとしたのだが、「お待ちくださいっ!」と陽春に止められる。
「なんだ、なぜ止める!」
「いけません、殿下。何の御薬もお飲みになられておりません。このままアスカ様の元へ向かわれては、きっとお心の制御はつきませんっ!」
陽春が必死にリオールを止める。
リオールは、彼の言うことも一理あると理解した。
そもそも、初めて出会った時にアスカの僅かなフェロモンを嗅いで『噛みたい』と思ったくらいなのだ。
いま本格的な発情期を迎え、フェロモンを醸し出しているアスカに、無防備に近付くのは危ない。
「……抑制剤を持ってまいれ」
「はい、ただいま」
胸の中を焦燥感が満たすが、リオールは何度か息を吐いて、ひとまず『皇太子』としての姿を守ることにした。
「薬が効けば、アスカの元へ行く」
「報告によれば、症状がかなり重たいと聞いております。どうかアスカ様を傷つけるようなことだけはなさいますな」
「……、わかっている」
わかってはいるが、どうなるかは誰にも予想ができない。
薬が効くまでの数刻。
この数刻で、アスカがどれほど苦しむのかと思うと、すぐにでも彼の傍に向かいたい。
アスカは今、一人で──。
ギリギリと拳を握る。
薄皮がプツッと破れ、血が滲んだ。
抑制剤を服用してから、すでに一刻は経っていた。
医師の診たてでは、もう効いているはずだという。
それを聞いた途端、リオールは躊躇なく席を立った。護衛を伴うようにと陽春は言ったが、それは拒否する。
アスカが今、フェロモンを放っているというなら、なるべく人数は少ない方がいい。
扉を開けた瞬間、熱気を孕んだ風が肌を撫でた。
昼を過ぎた庭には初夏の陽射しが容赦なく降り注ぎ、湿った空気が服に貼りつく。
けれど、心の焦りに比べれば、こんな暑さは何でもなかった。
リオールは足早に、アスカが隔離された離れへと向かう。
人目を避けるように配されたその小宮の前には、すでに清夏と薄氷が立っていた。
二人とも、いつも通りの静かな顔でリオールを迎える。
けれど、どこか張り詰めた空気が、門扉の前に立つ彼の足を止めさせた。
「……会いに来た。案内してくれ」
リオールの声は、自分でも驚くほど静かだった。
清夏は軽く一礼した後、目線だけで薄氷に合図を送る。
薄氷は静かに小宮の中へと消えていった。
沈黙が落ちる。
時間にしてわずか数分だったが、リオールにはひどく長く感じられた。
──そして、薄氷が戻ってくる。
扉を閉め、リオールの前に立った彼は、少しだけ言い淀んだ。
「……アスカ様は、今はお会いになれないと」
その言葉が、まるで凍った刃のように胸の奥に突き刺さる。
「……そう、か」
それ以上、何も言えなかった。
怒りでも悲しみでもなく、ただ心の奥にぽたりと穴が開くような、そんな感覚だった。
会えないというのは、それは、信頼されていないということだろうか。
それとも、ただ……幼すぎるから?
「……わかった。様子はまた報せてくれ」
そう言って踵を返したとき、吹き抜けた風が背中をなぞった。
あたたかいはずの風が、ひどく冷たく感じた。
リオールは悲しみに昏れる胸中を隠すため、心を削ぎ落としたかのような表情で王宮の庭を歩いていた。
──これ程悲しいと思うのは、母上が王宮を去った時以来か。
番になりたいと思う相手に、拒絶されることが、こんなにも辛いこととは。
リオールは執務に戻る気にもなれず、王宮内の大きな池を眺める。
水分を多く含んだ空気が、気持ちをも憂鬱にさせていく。
「──殿下」
陽春がリオールの傍に駆け寄る。
声に反応して振り返ったリオールは、陽春を見て冷たく、醒めた笑みを零した。
「私は、皇太子であるのに、アスカにとってはただの子供に過ぎないのかもしれない」
「殿下……」
「こんなにも早く……大人になりたいと思ったことは、無いぞ」
こればかりはどうしようにも解決ができない問題だった。
しばらくその場に留まっていたリオールだが、陽春が再度声を掛けた。
「殿下、ひとまず、戻りましょう。ここに居ては暑さで殿下が倒れてしまいます」
「……」
陽春は額にじんわりと汗をかいていた。
自分一人であれば気にはしなかったが、他の者にまで迷惑を掛けるのは不本意だ。
「──わかった。アスカの従者に、くれぐれも報告を怠るなと伝えておけ」
「かしこまりました」
陽春が頭を下げる。
それを一瞥したリオールは、執務に戻るために踵を返した。
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