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第1章
第12話
しおりを挟む発情期になった日。
リオールがアスカを見舞いに来てくれたと薄氷から伝えられた時、アスカは彼に会える喜びと同時に、未だ未成年の彼に手を伸ばすなんてことはしてはいけないと理性が働き、拒絶した。
会えない、と薄氷に言えば、彼はそれをリオールに伝えてくれたようで、「帰られました」と教えられる。
一人の寂しさに心が冷えていく。
無意識に涙が零れ、布団を濡らした。
発情期が最も強く現れる三日目のこと。
日も高く昇ったころ、部屋の扉が控えめにノックされた。
「──失礼いたします。お身体の具合をお伺いに参りました」
現れたのは、アスカの見知らぬ男だった。
年若くはないが、整った所作とどこか貼り付けたような微笑み顔に乗せている。肩幅が広く、動きは静かで隙がない。けれどその整いすぎた物腰が、異様に冷たく感じられた。
「……どなたで、しょうか」
アスカは寝台の中からかすれた声を出した。熱に浮かされ、視界は揺れている。けれど、その男の姿だけは妙に鮮明だった。
「宦官として、王より命を受け、参上いたしました。少しでもお楽になれるよう、お手伝いを──」
その一言で、心臓が跳ね上がった。
王からの命令──そして、『宦官』。その意味を理解した瞬間、アスカの全身に走ったのは、本能的な拒絶だった。
「か、帰って、ください……!」
口が乾いて、舌が上手く動かない。それでも必死で声を上げた。
けれど宦官は構わず、静かに部屋に足を踏み入れる。二人の間には何の隔たりもない。
密室がアスカを追い詰めていく。
「どうか落ち着いてください。苦しみを軽くする処置です。これは、陛下の──」
「い、やだ……来ないでください……っ、お願い……!」
宦官は歩を止めない。まるで機械のように、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。
アスカは布団を引き寄せ、体を小さく丸めた。
震えが止まらない。手足が冷たい。けれど、熱い。
喉が苦しくて、息が上手く吸えない。
──だれか、たすけて。
「怖がらなくても大丈夫です。私にお任せ下さい。きっとお身体が楽になりますよ」
「嫌だ……っ、やめて……っ!」
宦官の手が、布団の端をそっと持ち上げる。
アスカは反射的に体を捩り、それを押し戻そうとしたが、指先の力が入らなかった。
寝間着の袖が、滑るように肩から落ちていく。冷たい空気に晒された肌が、ぶわりと粟立つ。
「触らないで……! やめて……やめてください……ッ!」
けれど宦官の手は静かに動き、袖口から覗くアスカの白く細い腕を指先でなぞった。
ぞわりとした感覚が皮膚を這い上がる。
その指先には熱がなく、どこまでも淡々としていたのに、それが気持ち悪い。
「少しだけです。力を抜いて。すぐに終わりますから──」
言葉とともに、彼の指がアスカの腹部へと滑り下りる。
薄布越しに撫でられた感触に、思わず腹筋が震えた。服の下で、体が拒絶の痙攣を起こす。けれどそれすら伝わらないほど、彼の動きは静かで、冷たい。
足先にまで血の気が引いていく。身体は熱に浮かされているのに、内側から凍るような感覚がする。
脚が痺れて、逃げようとしても動かない。
「い、いや……っ、お願い……ほんとうに……やめてっ」
宦官は返事をしなかった。ただ、淡々と脚元へと手を伸ばしてきた。
足首をなぞる指が、布越しに膝へと這い上がる。
寝間着の裾がずり上がり、柔らかな腿が露わになる。肌に直接触れてはいないのに、布越しに感じるその圧に、アスカは喉の奥で嗚咽した。
「だめ、だめ……っ!」
身を捩れば袖が落ち、襟が乱れ、胸元が露わになる。
羞恥と恐怖とで、息が詰まりそうだった。なのに身体は熱を持ち、知らず知らずのうちに呼吸が荒くなる。
──もう、やめて。これ以上、見ないで。触れないで。
必死にそう願うのに、彼の手は止まらない。
太腿を撫でた手は、燻った熱を抱える中心に向かい動かされる。
背筋を伝って、冷たい汗が流れる。心臓の音が耳に響いてうるさい。目の前が霞む。全身の神経が研ぎ澄まされ、ほんの僅かな布の擦れる音さえ、暴力のように感じられた。
壊れる。壊される。
そう思った瞬間、アスカの手が勝手に動いた。
傍にある台の上、昨夜のまま置かれていた水差し。
それを掴み、宦官に向かって投げつける。
「──やめろおおッ!!」
ガシャッ──!
水が宦官の肩を濡らし、器が床に落ちて砕けた。静まり返った部屋に、割れた陶器の音がやけに鋭く響く。
宦官は、水差しの水を肩から滴らせながらも、なお動きを止めない。
ただその目に、わずかな迷いが浮かんだ。
「……それほどまでに、拒まれると?」
自問のように呟き、濡れた手で静かにアスカの頬へ手を伸ばしかけ──
しかし、そこでようやく彼の動きは止まる。
アスカの目に宿った怒気と、涙と、恐怖。
そしてアスカは皇太子の妃となる人物。
宦官は静かに目を伏せる。
──一歩でもこれ以上踏み込めば、不敬罪に問われかねない。
内心の計算と義務の狭間で、宦官は沈黙ののち、微かに身を引いた。
「……ご無礼をいたしました。陛下へのご報告は、然るべく……」
感情のない声。どこまでも丁寧な所作。
それなのに、アスカの体は震えが止まらなかった。
一礼して踵を返すその背中が、扉の向こうに消えるまで、まるで石になったように動けなかった。
閉じられた扉の音が、まるで心の中の何かを封じる鍵のように響いた。
あたたかな陽の差す静かな部屋で、アスカは膝を抱えて、声もなく泣き続けた。
そして、その直後。
部屋の前に立っていた薄氷が、すれ違いざまに宦官の濡れた肩と無表情を目にし、瞬時に異変を察知した。
突然宦官がやってきた時に、薄氷も清夏も、彼を通すのを拒んだ。
だがしかし、『王命』だと言われてしまうと何もすることが出来ず、悔しさを滲ませながら道を開ける。
清夏はすぐさまリオールの元へ報告に向かったのだが、ここから彼の居る政務宮は遠く、間に合う確率は極端に低い。
しかし、それでも祈るしか無かった。
「……!」
薄氷は何も言わずに、扉を押し開けて中へと駆け込む。
「アスカ様……!」
その声に、アスカはびくりと肩を震わせる。
寝台の中、乱れた髪と汗に濡れた額、割れた水差しの欠片。
そして、恐怖に濁ったままの瞳が、薄氷を見つめていた。
「……も、申し訳ございません──!」
薄氷はすぐさまアスカの傍へと駆け寄り、寝台の傍で平伏した。
──主にそのような顔をさせてしまうなんて……!
自責の念に駆られる薄氷だったが、アスカは彼の姿を目にしてポロポロと涙を零す。
零れ落ちた涙に、薄氷は目を細めると、声を殺して怒りに震えた。
──陛下は、なんということを……っ!
王宮で初めて過ごす発情期のさ中、普段よりも精神状態が不安定な時に、このような暴挙に出るとは。
──恐怖に染る主のお心を癒せるのは、殿下しかいない。
薄氷は一刻も早くリオールがこの場に来ることを待った。
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