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第2章
第7話
しおりを挟む地下牢を出ると、空は赤く染っていた。
空を眺めて深く息を吸う。
そして、陽春に目を向けた。
「葉月の妹を保護しなければならん。しかし、連中に見つかってはいけない」
「はい。如何しますか」
「……亡くなったことにして、診療所から連れ出せば良い。王宮に連れ込むことは出来ん。どこか、安心できる場所へ」
「わかりました。ひとまず、保護することを最優先とします」
リオールは頷き、そしてフッと肩から力を抜いた。
「──陽春」
「はい」
「──臭うだろうか」
自身の服を嗅いだリオールは、眉を寄せている。
今までカビ臭い場所にいたせいで、少し気になるのだ。
というのも、このあとはアスカのもとへ向かう予定である。
「気になるようであれば、お着替えなされた方がよろしいかと」
「……しかし、早くアスカのもとへ行かねば」
「きっとお気になりませんよ」
「……そうであることを願おう」
パンパンと服を叩いて、少しでも匂いを飛ばす。
そして足早にアスカのもとへ向かった。
■
アスカは目の前に差し出された料理を見て、ぐらぐらと瞳を揺らしていた。
湯気の立ったいい香りのする料理だ。
きっと、料理人は丹精を込めて作ってくれたのだろう。
「アスカ様、これであればお口に合うかと。どうか、一口でもかまいません。お召し上がりください」
清夏の声は優しくて、気遣うようだ。
すぐそばに居る薄氷も、何かを言いたげにアスカを見つめている。
しかし、アスカはそれに手を伸ばすこともできず、小さく首を横顔に振った。
──喉が、焼ける。
あの日、あの一口を飲み込んだ瞬間の灼熱が、記憶に刻まれている。
あの熱さが、再び自分を襲うのではないか──その恐怖が、食べることを拒否する。
「……」
朝から、何も口にしていなかった。
空腹を感じて、胃のあたりがきゅう、と痛む。
それなのに、どうして。どうして、食べられない。
情けなくて、悔しくて、気づけば頬を涙が伝っていた。
袖で拭っても、涙は止まらなかった。
清夏と薄氷の息を飲む音が聞こえる。
二人にも、迷惑ばかりをかけてしまっている。
そんな自分が、あまりにも無力で──悔しい。
アスカは、ぽたり、と膝の上に涙を落とした。
声を出すこともできない。
ただ、静かに、泣いていた。
──そのときだった。
「アスカ」
扉の向こうから、聞き慣れた声が届いた。
思わず顔を上げる。
心の奥に灯る、あたたかな光のような声音だった。
開かれた扉から、愛しい人が現れる。
彼──リオールを見た瞬間、アスカは彼に向かい、手を伸ばしていた。
彼は拒むことなく、そのたくましい腕でアスカを包み込む。
「ああ、こんなにも泣いて……。傍にいられなくてすまなかった。ほら、泣くのをやめて、顔を見せてくれ」
「っ、……っ」
髪を撫でられる。
顔を上げれば、柔らかい表情をした彼が見下ろしていて、濡れた頬に唇が触れた。
アスカが泣き止むまで待っていてくれたリオールに、まだ濡れていた頬をそっと拭われる。
甘えるように彼の膝の上に座り、体を預けていたアスカは、言葉を伝えたいのに声が出ないもどかしさに唇をへの字に歪めた。
「どうしてそう可愛らしい顔をするのだ」
「……」
「ああ、そうか……。声が出ないことに、腹が立っているのだな?」
「!」
心を言い当てたリオールに驚いたアスカは、目を見開くとコクコク頷いて、喉を撫でた。
「もう数日もすれば、元に戻るだろう」
「……」
「大丈夫だ。私はアスカの言いたいことがわかるぞ。なぜだと思う?」
「……?」
小首を傾げたアスカに、リオールはふっと笑う。
「アスカを愛してるからだ」
「!」
「ああ、顔が赤くなった」
真正面から『愛してる』と言われ、照れない方がおかしい。
アスカは指摘された赤い顔を隠そうと、リオールの肩に顔を埋める。
くすくすと笑う声が、振動が伝わり、アスカは少し心が軽くなるのを感じた。
──しかし。
「食事を取れないと聞いたぞ」
「っ……」
「食べることが、怖いか」
唐突にそう問われ、アスカは固まった。
すぐ傍にある手付かずの料理。
心配そうにこちらを眺める清夏と薄氷。
アスカは叱られてしまうかもしれないと思い、袖の中で手を握る。
「アスカ、怒っているわけではない。緊張せずともよい」
「っ、」
「声が出ないほど喉を痛めたのだ。きっと、想像ができないほど、痛かったのだろうな」
リオールの大きな手が、そっと喉に触れる。
ビクッと小さく体を跳ねさせたアスカは、目をきゅっと閉じた。
「……すまない。驚かせてしまったな」
「っ、」
「アスカ、私からひとつ、提案が」
アスカは睫毛を震わせながら、ゆっくりと目を開けてリオールの瞳を見つめる。
「ひと口だけでもいい。怖くなったのなら、吐き出してもいい。──私の手から、受け取ってはくれないだろうか」
リオールのいつもより力のない声。
優しさの中に、僅かな不安が含まれた声に、アスカは戸惑ってしまった。
視線は切れることはない。
彼の言葉からは強制の響きはなく、選択肢を与えられていることがわかる。
例えばここで拒否したとしても、リオールは怒ったりしないだろう。
「駄目か……?」
本当は、まだ怖い。
けれど――彼の想いを、踏みにじりたくなかった。
アスカは小さく頷いた。
これにリオールは喜んで、アスカを強く抱きしめる。
「っん、」
「ありがとう、アスカ」
そうしてリオールは果物を用意させた。
しかし、それは切られたものではない。
真っ赤なまるまるとした林檎と、その隣には切れ味の良さそうな包丁がある。
「ここで、目の前で見ていた方が、安心できると思って用意させた」
「……、」
「さて、私が皮を剥いてみよう」
「!」
「こういったことをするのは初めてだな」
──まさか、リオール様が!?
アスカは慌てて清夏と薄氷を見たのだが、二人は黙っているだけで。
次に陽春を見たけれど、彼らもただ穏やかに微笑んでいるだけである。
どうして誰も止めないんだ!
怪我をされたら、どうすれば……!
アスカが焦っている間にも、リオールは林檎と包丁を手に持ち、するすると皮を剥いていく。
そうして裸になった林檎を見て、アスカは思わず笑いそうになった。
「……っ、」
「……私に、料理の才能は無いようだ」
あんなにもまるまるとしていたリンゴは、凸凹で小さくなってしまっている。
リオールもその林檎を見て、なんとも言えない表情をした。
つい肩を揺らしたアスカに、リオールは「笑うでない……」と言うが、こればかりは面白くて。
完璧だと思っていた彼のこうした姿を見られて、嬉しい。
なにより、自分のために初めて挑んでくれたことが、心の奥をそっと、あたためてくれる。
ひとしきり笑い終えると、ひと口の大きさに切られた林檎が、アスカの目の前に差し出された。
「ひとつ、食べてみてくれ」
「……っ、」
「大丈夫。怖くなったなら、吐き出してもいい」
リオールの眼差しは、まるで春の陽だまりのようだった。決して強要せず、ただそっと差し出される優しさがそこにはあった。
アスカは、ほんの少し震える手で彼の空いた手に触れた。
何も言わずとも、彼はその手をしっかりと包み、繋いでくれる。
その温もりに背中を押されて、ゆっくりと口を開けた。
リオールの指先が、林檎の欠片をそっと唇に運ぶ。
緊張と不安で胸がいっぱいになる中、アスカは覚悟を決めて、それを口に含んだ。
──しゃくっ。
小さな音と共に、果汁が舌の上に広がる。
その瞬間、アスカの目からふっと涙が零れた。
甘い。
優しい味がする。
そこには、誰かの悪意も、恐怖もない。
ただただ、リオールが自分のために剥いてくれた果実の、まっすぐな味。
口元をほころばせ、唇の形だけで「おいしい」と伝えると、リオールはほっとしたように微笑んだ。
「よかった……」
彼の手が、アスカの頬にそっと触れる。
温かい手。触れるだけで、胸の奥に滲んでいた恐怖が溶けていくようだった。
「まだあるぞ。……形は歪だが、味は変わらないはずだ。食べるか?」
アスカは、涙を滲ませたまま、小さく頷いた。
泣きながら、でも笑いながら。
この甘さが、少しだけ未来の味に思えた。
□
林檎を食べ終えたあと、アスカはリオールがふいに漏らした欠伸を噛み殺すのを見逃さなかった。
今回のことで、ずっと休みなく動いていると聞いている。
自分のために、犯人を追い、真実を求めて。
自分のことで精一杯だった心が、ようやく少しだけ余裕を取り戻していた。
リオールの疲れに気づけた自分が、ほんの少し、誇らしい。
アスカはそっと彼の服の袖を引いた。
リオールは気づいて、優しい笑みで見下ろしてくる。
「どうした? まだ食べるか?」
「……」
「違うか」
首を振って否定し、奥の寝台を指さす。
「ん? 眠いのか?」
「……」
唇を動かして『リオール様が』と伝えると、彼は目をぱちくりさせてから、口元を緩めた。
「私は眠たくないぞ」
「……」
アスカは、そっと彼の目の下にある薄い隈を指先でなぞった。
その柔らかな仕草に、リオールは目を細める。
「……寝てほしいのか?」
こくんと頷くと、彼は小さく息を吐き、笑った。
「わかった。それでは、少しだけ、ここで休ませてくれ」
「!」
そう言って抱き上げられたアスカは、思わず彼の肩を掴む。
そのまま寝台へと運ばれ、二人並んで身を横たえる。
同じ寝台にいる――その事実に、アスカは心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
「すまない。少しだけだから」
「……」
横たわったまま、リオールに抱きしめられる。
その腕の中で、彼が自分の胸元に顔を埋める。
その姿が、愛しくてたまらなかった。
アスカはリオールの黒髪に指を通し、何度も、そっと撫でた。
窓の外で風が葉を揺らす音が、やけに静かに聞こえた。
このひとときだけが、喧騒から切り離された、穏やかな世界だった。
□
四半刻が経つ頃。
ぼんやりと目を開けたリオールを、アスカは穏やかな顔で眺めていた。
目が合うと、細められた深い藍色の瞳。
「……ああ、神の遣いかと思ったぞ」
「!」
「美しいな。目覚めて初めて見るものが、こんなにも美しいと、心穏やかになるのだな」
恥ずかしげもなく、スラスラとアスカの容姿を褒めるリオール。
アスカの方が恥ずかしくなる。
なぜなら、この部屋には二人だけではなく、従者達がいるのだから。
あまりにも無礼だとわかっていながら、慌ててリオールの口を手で塞ぐ。
驚いた彼は、目を見開くと、喉の奥でくつくつ笑いながら、アスカの手を取った。
「どうせ塞ぐなら、唇で頼む」
「~っ!」
「さあ、口付けを」
目を閉じて待っている彼。
冗談だとはわかっているのだけれど、アスカは慌てふためいてしまい、彼の肩に触れた。
「……っ、」
「アスカ、まだか」
「ぅ……」
アスカの心臓は、まるで耳のすぐそばにあるかのようにドキドキとうるさく弾んでいる。
震える息を殺しながら、そっと顔を近づけた。触れるか触れないかの距離で迷い、けれど──意を決して、唇を重ねる。
すぐに顔を離し、アスカは唇を噛む。
──恥ずかしい……! 顔から、火が出ちゃいそうだ……!
熱くなる頬に両手を当てる。
ゆっくりと目を開けたリオールは、満ち足りたように微笑み、アスカの両手首をそっと包むように掴んだ。
「嬉しい」
「……」
「胸があたたかい。幸せだ」
体を起こした彼にそっと抱きしめられる。
髪を撫でられ、そのまま輪郭を辿り顎を掴んだ彼に顔を上げさせられる。
「──んっ」
「……また、来る。次も、少しでいい。アスカの傍で眠らせてくれ」
再び重ねられた唇。
そして紡がれる言葉に、アスカは眉を八の字にして微笑み、静かな返事をした。
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