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第2章
第8話
しおりを挟むアスカのおかげで少し眠ることができ、頭が冴えたリオールは、皇太宮へ戻るなり机に向かった。陽春と寒露が側に控えている。
「殿下、顔色が良くなられましたね」
「ああ。体も少し軽い気がする。アスカのおかげだな」
頬を緩める二人に、リオールも小さく笑う。だが、内心では別のことを考えていた。
──葉月。仮名は小春。あの夜、配膳係に成り代わって毒を盛った張本人。
すでに彼女は捕らえられ、妹の保護を条件に口を開いた。動機は、「あの方」と呼ばれる男の命令──そして、妹を守るため。
ふいに寒露が一礼し、発言する。
「──殿下、透熱粉について調べもつきました。無色無味の粉末で、痰切りの薬として裏市場にて扱われているようです。通常の服用では問題は無いようですが……加熱されたものに入れることで活性化し、粘膜に対し火傷のような痛みが現れるとのことです」
「なるほど。……だから、汁物に入れたのか」
「はい。そのようです」
毒の正体がわかり、ふむ、と顎を撫でる。
「……お気をつけて……と、言う男。まるで高みの見物をするような物言いだな。……思い当たる節はあるか?」
「……あの話を聞いてから、どうにも心に引っ掛かっておりまして」
陽春は少し厳しい顔でそう言った。
リオールは同意するように一度頷く。
「私もだ。何度も考えたが、私自身もそのような言葉を、掛けられたことがある気がする」
葉月の証言には、断片的ながら確かな手がかりが残っていた。
決して多くを語らず、だが常に命令の中に言葉を忍ばせる──「お気をつけて」
その言葉は、一度だけ、確かに耳にしたことがある。それは幼少の頃だったはず。
「奴はきっと、こちらの動向を見張っているのであろうな」
「では……こちらから、動きを仕掛けますか?」
「いや。焦りは禁物だ。落ち着いて考えねば……」
リオールは机に手を置き、深く考え込む。
目を閉じ、葉月の供述、犯行の動機、そして「お気をつけて」という声の調子──すべてを結びつけて、脳内で再構築する。
浮かび上がってくるのは、ただの名ではない。
人となり。態度。目線の高さ。
「──近く、陛下も出席なされる定例の会議があるはずだ」
「はい。二日後に予定されております」
まだ決めつけるには早い。だが、勘は告げている。
『あの方』はおそらく、幼い頃から王宮にいて、皇太子のリオールと話すことができるほど、位の高い人物だ。
「……また、陛下のお力をお借りすることになりそうだ」
陛下は自分をどう評価するだろう。
少しの期待と、大きな不安。
唾液をゴクリと飲み込んだ。
□
静まり返った会議の間。
王が正面に腰掛け、左右にずらりと並ぶのは、代々この国を支えてきた高位の大臣たちだ。
その一角では、見学という名目でリオールは静かに座していた。すでに陛下の許可も得ており、誰もがその存在を認めながらも、どこか探るような視線を注いでいる。
議題がいくつか進んだのち、一人の大臣──アルドリノール卿がふと顔を上げ、まっすぐにリオールを見た。
「……殿下の番となる──例のお方ですが、毒を盛られたと聞きました」
会議室の空気がわずかに動いた。
柔らかな笑みを浮かべたまま、その男は続ける。
「ご容態はいかがです? この国にとっても貴重なお方でしょう。あまりご無理はさせぬよう……」
丁寧な口ぶり。だが、その声の底には、微かに嘲るような響きが潜んでいた。
リオールは唇を引き結びながらも、淡く頭を下げる。
「ご心配、感謝します。アスカは順調に回復しております」
「そうですか、それは何より。──で、犯人の手がかりなどは?」
ピリ、と緊張が走る。だがその瞬間、王が椅子をわずかに引いた音が響き、低く重い声で言葉を発した。
「会議の場で問うことではあるまい。……さっさと本題に戻らぬか」
言外に「黙れ」と告げる、威厳ある声音。
卿は肩をすくめ、小さく「失礼致しました」と呟いて口をつぐんだ。
やがて会議が終わり、大臣たちが席を立ち始める中、件の男がリオールのもとへと近づいてくる。
「殿下、本日はお疲れさまでした」
表情はにこやか。だがその笑みにも、どこか薄氷のような冷たさがある。
「番を狙われるとは……そやつも、なかなか、大胆なことをされますな」
心配を装った言葉。リオールはわずかに目を細めた。
「ええ。……ですが、そう簡単に脅えるような者ではありません」
そう返して、リオールは一礼し、会議室を出ようと足を向ける。
そのとき、男がふと声をかけた。
「──お気をつけて」
足が止まった。
一瞬だけ。ほんのわずかに、リオールの肩が揺れる。ゆっくりと振り返ることはせず、ただ静かに言葉を落とす。
「……そなたもな」
それだけを言い残し、リオールは部屋を後にした。
──確信した。
あの声。あの響き。
間違いない。
『あの方』──葉月が語った男の正体は、今この会議室にいた、あの男──アルドリノール卿だ。
リオールは急いで皇太宮へ戻ると、陽春にアルドリノール卿について調べさせた。
出生から、今まで。
一族の構成に──これまで見過ごされてきた悪事。
そうしてわかったことと言えば、アルドリノール卿の娘がオメガであることだった。
どうやら一度、訓練で会ったことがあるらしい。
リオールの記憶にはそれほど残っておらず、顔も薄らとしか思い出せない。
「……アスカを亡き者にして、自分の娘を后に据えるつもりだったのか」
「……おそらく、そのお考えで、間違いはないでしょう」
目を伏せた陽春。
リオールは強く机を叩くと、悔しさに顔を歪めた。
ここまで来ても、目前まで答えが迫っていても、なお、証拠が見つからないのだ。
きっと、卿は諦めない。
どのような手を使ってでも、アスカを殺めようとするのだろう。
「……許さんぞ」
低い声に空気が揺れる。
しかし、リオールはここからどうすれば卿を断罪できるのか、その手がかりが掴めない。
「──行き詰まっているようだな」
「! ──陛下!」
重たい空間を割いてやってきたのは、涼しい顔をした国王だった。
リオールは慌てて礼をすると、王に椅子を明け渡す。
「今日の会議で、何か掴めたか」
「──はい。おそらく、いえ……確実に、犯人はアルドリノール卿でしょう」
「──そうであろうな」
リオールは目を見張る。
まさか、王はわかっていたのか、と。
「彼奴は昔から、穏やかな振りをして、裏では非情なことをやってのける。余も時に振り回されたものだ」
「陛下が……?」
「ああ。……お前の母がここを出ていった理由も、奴にある」
「なっ……」
まさか、そんなこと。
リオールはギリっと歯を鳴らし、そして片手で顔を覆った。
「どうして……どうして陛下は、そのようにしていられるのですか……」
「そのように? お前の目に、余は、どう映っているのだ」
興味深そうにリオールを見る王は、僅かに口角を上げている。
「私は……母上が王宮を出て行ってから、何一つとして楽しいことは無かったのです。きっと、私が生まれなければ、母上はここで……何不自由なく暮らしていたでしょうから」
王はただ静かにリオールの話を聞いている。
「ですが、ようやく、アスカという人と出会い、乾いた心が潤っていくように感じました。アスカが掛けてくれる言葉も、見せてくれる表情も、全てが愛しい。──これが『幸せ』なのだと、知ったのです」
「……」
「そんなアスカを、失いそうになりました。これまで、そのような恐怖を味わったことはありません。もう二度とこんなことがないように、守らなくてはと、必死で……」
「陛下は、母上が王宮を去った時、何も感じなかったのですか……? 先程、母上が出て行かれたのは、アルドリノール卿が理由だと仰いました! どうして、何もなさらなかったのです……!」
母上を傷つけられた。
そして、それを見て見ぬふりした陛下。
リオールは怒りと悲しみで胸を詰まらせる。
暫く黙していた王は、静かにリオールを見ると、小さく息を吐いた。
「お前の母──エルデは誰よりも強いオメガだった」
「!」
「お前を産み、その性別がわかってすぐ、アルドリノールは、他の側室達にエルデを貶しめるように指示していたのだ。……そうすれば、生まれてきた子どもを皇太子に据えるよう、余に進言してやる、と」
「……」
「エルデはそれでも気にしていなかったのだ。余は正しい選択をするだろうと、信じてくれていた。そして余もお前を皇太子とすることしか、考えていなかった」
初めて聞く陛下と母上の過去に、リオールは自然と眉を寄せていく。
「それが崩れたのは、ある日の夜のことだ。きっと良からぬ噂を聞いたのだろうな。エルデは余に『裏切った』と言って、襲いかかってきたのだ」
「!?」
「何のことだか、さっぱりわからなかった。いまも、よく分かってはいない。しかし、エルデは余が許せなかったようで、……刺されてしまってな」
「さ、される……?」
「ああ。しかし傷は浅かった。だから秘密裏に処理しようとした。──だが、エルデは余を傷つけたことで心身を病んでしまったのだ」
リオールは足元をふらつかせ、机に手を着いた。
まさか、そのようなことが。
「余はできる限り傍にいて『怒っていない』と伝えようとしたのだが、エルデはそれを拒んだ。そうして少し時が経ち──お前を置いて、王宮を出ていってしまった」
「そ、れでは……陛下は、ただ──」
「余は、そなたとあのオメガ──アスカが、愛し合っているのを知っている。余も、昔はエルデとそうであったからな」
王は少し寂しさの混ざった笑みを零す。
それは過ぎ去った過去を愛でているようにも見える。
「しかし、愛だけで、国は動かせないとも、知っている」
「……」
王の言葉が重たく、リオールの背に伸し掛る。
「だが、そなたは理によって民と臣下を導くべきだと言った。そして、その理とは、愛情であるのだろうとも、思えた」
「陛下……」
「愛情がなければ、民も、臣下も、導くことすらできぬ。──その、形の無いものに、掛けてみるのも、また一興」
そう言った王は、懐から一冊の書冊を取りだした。
「……見てみるがいい。これが本物の帳簿だ」
「……え?」
リオールは目を瞬かせ、手を伸ばす。重みのあるそれを開くと、数ページ目で息を呑んだ。
そこには、アルドリノール卿の名前と、裏金の流れ、配膳係への不自然な手当、そして特別支出と名付けられた不可解な記録の数々。
「……これを、どこで……」
「奴は、自分に都合の悪い帳簿を偽物とすり替えていた。そなたらが手にしていたのは、それだ。そして、余の私兵が、奴の屋敷の隠し部屋から、本物をちと拝借してきた」
リオールは、愕然として王を見る。
「──余は、お前が王になれるかを見極めていた」
「……!」
リオールの目が大きく見開かれる。
王は静かに、しかし確かな声で続ける。
「その証拠は、お前にやる。その代わり──王位を継げ。次は、お前がこの国を導け」
リオールの胸の奥が、強く鳴った。
まさか、王はこんなにも、自分を信じてくれていたのか。
「──陛下」
「……」
「必ずや、貴方様を失望させることのない、王となりましょう」
そう答えたリオールの声音は、もう少年のそれではなかった。
王は満足げに、静かに目を細める。
「ああ。必ず、だ」
リオールは深く礼をする。
すると王の手が伸びてきて、ポン、と頭を撫でられた。
「だが、まずは婚姻をしろ。いつまで待たせるつもりだ。もう成人したのだ。準備も着々と進んでおる。このような問題、さっさと終わらせろ」
「はいっ」
「王位継承が終われば、余は……エルデのもとに行くつもりだ」
「!」
勢いよく頭を上げたリオールは、目を瞬かせた。
「エルデと共に、余生を過ごす。──エルデにはまだ、伝えてはおらんがな」
視線を落とした王は、再びリオールを見ると、軽く肩を叩き部屋を後にした。
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