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第2章
第9話
しおりを挟む「アスカ様、おはようございます。本日も林檎をご用意しました」
「ぁ……ありがとう、ございます」
林檎を食べたあの日以来、アスカは果物であれば少しずつ口にすることができるようになってきていた。
リオールがきっかけをくれたおかげだ。
アスカは心の底から感謝をしているのだけれど、まだ喉が痛むのでハッキリとした声が出せないでいる。
それでも薄らと掠れた声は出せるので、次にリオールに会えた時には、気持ちを伝えようとしていたのだが、忙しいのか、なかなか会うことが出来なかった。
目の前にある林檎を手に取りながら、傍にいる清夏に顔を向ける。
「で、殿下は、お忙しいのですね」
「そのようです。ですが、会いたいとお伝えになれば、お越しくださるかと。お伝えいたしますか?」
「ぁ……いいえ。私に会うくらいなら、少しでも、休んでほしいです」
「……アスカ様にお会いになることで、御心は癒えるのでは?」
「そんな力は、私には、ありませんよ」
苦笑するアスカだが、清夏は笑わなかった。
清夏は知っている。アスカに会ったあとのリオールはいつもよりずっと生き生きとしていることを。
「私も、そろそろ、療養を終えないと」
「いけません」
「……でも」
「アスカ様。まだお体が癒えておりません。そのような状態で何をされるおつもりでしょうか」
「……体が、鈍ってしまうので、一先ずは、散策を」
「いけません」
「……」
再三止められたアスカは、林檎をシャクっと噛みながら視線を下げた。
治っていないのは喉だけだ。
ずっと部屋の中というのも息が詰まってしまう。
「少しでも、ですか……?」
「……」
「ずっと、ここにいると、息が詰まりそうで」
「……。──小半刻だけですよ」
「! ありがとう」
アスカは花が咲いたかのように微笑む。
清夏はその笑顔を見せつけられ、思わず顔をほんのりと赤く染めた。
あまりのアスカの美しさに、照れてしまったのである。
「? 清夏さんは、体調が、悪いですか……?」
「いえ、全く問題ございません」
「そう、ですか……」
「そちらを召し上がられましたら、外に出ましょう。少し厚着をしなければなりませんね。外は寒いですよ」
「はい」
アスカは、出会った当初と比べ、清夏がよく話すようになり、まるで姉のように世話を焼いてくれる存在になったことが嬉しかった。
「清夏さん」
「はい。どうされました」
「……いつも、ありがとうございます」
「……。私のような者にそのような言葉は結構です。ですから、どうか、早くお身体を治してくださいね」
清夏の声は少し冷たいはずなのに、どこか優しさが滲んでいて。
アスカは自然と頷き、残りの林檎をペロリと平らげた。
久しぶりの外気に、肌がぴりりと震える。
白銀の雪が、まるで絨毯のように世界を包んでいた。
足跡を残しながら、サクサクと歩く。
「アスカ様、小半刻ですからね」
「はい」
アスカが転けてしまわぬようにと、薄氷がすぐ支えられる位置に立っている。
「薄氷さんは、寒くないですか」
「私は大丈夫です。お気遣い痛み入ります」
「寒くなったら、私の為に、用意してくださった、羽織を着てくださいね」
「! それは、できかねます……」
「では、清夏さんが──」
「私も遠慮します」
二人に『要らない』と言われ、アスカは唇をツンとさせる。
しかし、不意に聞こえたざわめきに、顔を上げて辺りを見渡した。
「何か、あるのですか……?」
「少し、聞いてきます」
近くで大臣たちがざわめいている。
兵士も、どこか浮き足立っているようだ。
大臣達の傍に向かった清夏は、少し言葉を交わしてすぐに戻ってきた。
その顔色はいつになく明るい。
「アスカ様、どうやら、近々王位継承の儀が行われるそうです」
「王位継承……って、で、殿下が……?」
「ええ。そのようです」
薄氷の表情も明るくなる。
アスカは、けれど……と不安を抱いた。
「国王陛下は、どうして……?」
「それは……分かりかねますが……」
「……殿下は、大丈夫、かな」
「ご心配であれば……お会いになりますか?」
「……」
お忙しくはないだろうか。
暫く地面に視線を落としたアスカは、どこからかザクザクと雪を踏み締める音が聞こえて顔を上げた。
「あ……殿下……!」
「アスカ」
そこには今しがた話題にしていた渦中の人物が。
彼の表情は明るく見える。
しかし、寒いのか鼻が赤くなっていた。
「い、今、声が出たのか!」
「ぁ……少し、ですが……」
リオールは足元の雪を踏み鳴らしながら駆け寄り、嬉しそうに笑うと、唐突にアスカを抱き上げ──くるりと一回転した。
「わぁっ」
「声が聞けて嬉しいぞ!」
「っ、殿下、は、恥ずかしいので、おろして……っ」
そう言えば地面に下ろされ、ぎゅっと抱きしめられる。
寒いのに、心はあたたかい。
「名前を呼んでくれ。ずっと、そなたに名を呼ばれるのを待っていた」
「っ!」
「ほら、早く」
確か昔、同じようなことがあった気がする。
アスカはあの頃よりもずっと呼び慣れた彼の名を、そっと紡いだ。
「リオール様。──私も、ずっと貴方のお名前を、お呼びしたかった」
「!」
「私のために、休みなく、動いてくださったと聞いております」
背の高くなった彼を見上げながら、そっと胸元に手を添えた。
「こんなにも、嬉しいことはございません。──ありがとうございます」
素直な気持ちを伝える。
リオールの柔らかな笑顔が、アスカの胸を震わせた。
□
「王位継承の儀が、近々執り行われることになった」
「……はい。先程、少し耳にしました」
冬の寒さに耐えられず、ついクシャミを零してしまった。
するとリオールは慌てた様子で「室内へ」と言い、アスカの住まいに入る。
火鉢で温まりながら、穏やかな時間を過ごしていた。
「おめでたい事です。──ですが、私は、国王陛下のお考えが読めません……」
アスカは、こんなことを言っていいのか分からないが……と俯きながら言葉を落とした。
「……考え?」
「……はい。恐れ多くも、過去に行なわれたことが私にとっては、非常に衝撃的で……」
「……あの件については、私も未だ怒っている。──しかし、此度は陛下のお手をお借りしたのも事実。そして……私はこれまで、思い違いをしていたようでな」
「思い違い、ですか」
リオールはひとつ頷く。
しかし、アスカの心は晴れなかった。
それどころか、どうして陛下を庇うのかという気持ちが、心のどこかに生まれてしまう。
「あのお方は、──多くのことを、諦めておられたのだ。しかし、私達を見て、お考えを変えられたらしい」
「……」
「今すぐとは言わぬ。だが、いつかは、陛下を──父上を、信じてほしい」
アスカは静かに目を伏せる。
彼の言葉を受け入れたい。しかし、そうしようにも、これまで負った心の傷が深く、簡単には頷けない。
「……はい。ですが、信じるというのは、私にとって、簡単なことではありません」
指先で湯呑の縁をなぞる。
湯気が静かに立ちのぼり、その向こうにあるリオールの瞳を、少しだけ見づらくさせていた。
「これまでのことを考えると、信じて、裏切られるかもしれないと思ってしまいます。……私は、臆病なのです」
リオールは何も言わず、ただアスカの隣に座り、そっと手を重ねた。
その手は、火鉢のぬくもりと同じくらい、優しかった。
「それで構わない。そなたがそう思えるのは、心を持っている証だ」
「……リオール様」
「だが、私は約束する。何があっても、そなたの隣にいる。父上がどうであれ、そなたを一人にはしない」
アスカの心に、ふわりと何かが舞い降りる。
信じたいと思ってしまう。この人の言葉だけは。
「……それは、ずるい言葉です」
そう言って、アスカは微笑んだ。
「私は、信じてしまいたくなるじゃないですか」
リオールもまた、ほっとしたように笑みを浮かべる。
「なら、信じてくれ。私のことだけでも」
「……はい」
小さく頷いたその横顔を、火の明かりがそっと照らしていた。
──そして、継承の儀が近づくにつれ、王宮の空気が少しずつ変わっていく。
だがこの時アスカは、たとえ何が起きようとも、リオールの隣にいたいと、心の奥で静かに決意していた。
□
ザリ……と、絨毯の上に、兵の靴が擦れる音が響いた。
大広間は、息を呑むような静けさに包まれている。
並び立つ貴族たちも、正装のまま微動だにせず、ただその瞬間を待っていた。
天蓋の高みに飾られた王家の紋章。
壇上の王座の前には、──リオールが、静かに立っていた。
祝詞を唱える低い声が広がる。
その言葉に合わせるように、両脇の兵が剣を掲げ、厳かな音が空気を震わせた。
王が冠を脱ぎ、跪くリオールの頭にそっと乗せる。
「──今、ここに、新たなる王が誕生しました」
途端、声高らかに響いた声。
そこに居た者は皆「国王陛下、万歳」となんども両手を上げる。
仄かに笑みを浮かべるリオールを、アスカは遠くから目を潤ませ、眺めていた。
まさか、彼が国王となる姿を、こんなにも近くで見られるだなんて。
ただの平民であったのに。
リオールはゆっくりと立ち上がり、静かに場を見渡す。
その顔に浮かぶのは、満足でも驕りでもない。
凛とした誇りと、深い覚悟の滲む笑みだった。
アスカは、群衆の後方から、その姿を目にしていた。
胸が熱くなる。呼吸が浅くなる。
あの人が──リオール様が、ついにこの国の頂に立たれた。
まさか、こんな日が来るなんて。
ただの平民として生きていた自分が、この瞬間に立ち会えるだなんて。
目頭が熱くなるのを感じて、アスカはそっと視線を逸らした。
涙は似合わない。今はお祝いの席。
この場に流すべきは、涙ではなく、笑顔のはずだ。
「もう、殿下では無くなるのですね……」
「ええ。これからは──陛下とお呼びしなければなりません」
清夏が隣で小さく囁き、薄氷がうんうんと頷いた。
「陛下……ふふ、今から練習しておかないと、間違えてしまいそうです」
「それはいけませんね。しっかりと練習いたしましょう」
三人は小さく笑い合った。
その声もまた、式の静けさに溶け込むように、穏やかに響いていた。
アスカは、改めてリオールの姿を見つめる。
誰よりもまっすぐに、誰よりも優しく、そして強くあろうとした人。
彼の背に、王の証が重く宿るその姿を、永遠に心に刻むように。
──この日、新たな王が即位した。
王国の歴史が、また一つ、新しい章を刻み始めたのだった。
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