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第2章
第10話
しおりを挟む王位継承の儀を終えた夜。
先王──父と国王宮で酒を交わしながら、静かな会話を楽しむ。
「そなたが婚姻をし、アスカと番になるまでは王宮に残ろうか悩んでおる」
「それは、心強いですが……」
「……本心か? うるさい父には早く消えてほしいのであろう」
「まさか! そのようなことは決して思っておりません!」
「……は、どうだかな」
酔いのまわった父の横顔を見つめながら、リオールは盃を静かに傾けた。
燭台の明かりが、父子の影を、同じ方向に落とす。
しかしその静けさは、嵐の前の静寂だ。
「──明日だ」
「?」
「そなたは大臣たちの前に立ち、勅命を下すことになるだろう」
「──ええ。そのつもりです」
まずは、悪事の一掃。
アルドリノール卿を始め、静かに悪に手を染めていた者たちを断罪する。
「しかし、だ。そなたの命令ひとつで、亡くなる命があることを忘れるな」
「……はい」
「反対に、そなたの言葉で救われる者たちも多く在る。──取る手を、間違えるでないぞ」
「……しかと」
満足気に頷いた父は、あらためてリオールを見つめると、ハッと笑う。
それは愛を感じられるものだった。
「──大きくなったな」
「っ、」
父の一言に、目の奥がツンとする。
「厳しい事ばかりを言ってきた。それでも、このように真っ直ぐ育ってくれた。嬉しく思う」
「っ、父上」
「エルデにも、いつか、成長したそなたを見せたいものだ」
父はゆったりと言葉を紡ぐ。
リオールはついに、一粒の涙をほろりと零したのだった。
父との談笑を終え、夜も深くなった頃、リオールはアスカの元へ向かっていた。
今日は丸一日、あの笑顔に会えていない。
もしかすると眠ってしまっているかもしれないが、それであれば寝顔だけでも一目見たい。
そう思ってアスカの住む宮に行けば、部屋の中にはまだ明かりが灯っていた。
少し期待をして、部屋に上がれば、突然だったからか、アスカが目を見開いてこちらを見ている。
「──で……っ、陛下!」
時間をかけて、ようやく喉の調子が戻ったアスカは、透き通ったやさしい声を弾ませた。
「はは。リオールで良いぞ」
「いけません。ちゃんとしないと……国王陛下になられたのですから」
ふにっとしたどこか呆れたような表情。
リオールはついそんなアスカに手を伸ばし、柔く抱きしめた。
初めは控えめだった抱擁も、今はしっかりと抱きとめてくれる。
そういった些細な変化が、より愛おしく感じさせるのだ。
「父上と、話をしてきた」
「はい」
アスカはゆっくりと頷く。
リオールの肩にそっと手を添え、目を細めた。
「きっと……厳しいことを仰ったのでしょうね」
「ふふ、そう思うか?」
「だって、リオール様が……いえ、陛下が、少しだけ、目を赤くされているように見えましたから」
リオールは少しだけ照れくさそうに笑った。
「……泣くつもりはなかったのだがな」
「それは……素敵な夜だったということですね」
アスカの声には、心からの安堵がにじんでいた。
長く冷え切っていた親子の関係が、ようやく溶けていったのだと。
それがどれほどに、リオールの心を支えてくれるかが分かる。
「……明日からは、少し厳しい日々が続くかもしれない」
「……ええ、分かっております」
「でも……そなたの声が、こうして聞けるようになって、本当に良かった」
リオールの掌が、そっとアスカの頬を包む。
アスカはそのぬくもりに身を委ね、小さく、微笑んだ。
「私もです。陛下とお話ができて、嬉しいです。いつか、陛下のお力になれるよう、努力します」
「……ああ。ありがとう」
「喜びの時も、悲しみの時も。あなたが望む限り、私はここにいます」
その言葉に、リオールの瞳が少し揺れた。
感情の波が胸に打ち寄せて、言葉にならない想いが心を満たしていく。
「アスカ……」
「はい」
二人は、確かめ合うように静かに抱き合い、そうしてどちらともなく口付けを交わした。
外の空には、満月が雲の間から顔をのぞかせている。
それはまるで、二人の穏やかな時を、静かに見守っているかのようだった。
リオールは、微かな朝の光に瞼を揺らされ、目を覚ました。
聞こえるのは、かすかな寝息と、衣擦れの音。
まだ夜の余韻が残るような空気の中、腕の中に眠るアスカの体温が、じんわりと伝わってくる。
──まさか、あのまま眠ってしまったのか。
昨夜のことを思い出しながら、リオールはそっと息を吐いた。
儀式を終えた安堵と、父との語らい、そしてアスカとの穏やかな時間。
心が温かく満ちたまま、知らぬ間に眠りについていたのだ。
腕の中にいるアスカは、安らかな顔をして眠っていた。
胸元で上下する小さな呼吸。まだ夢を見ているのか、仄かに微笑んでいる。
「……誰か、あるか」
声を潜めながら、リオールはそっと呼びかける。
それに応じるように、ゆっくりと天蓋の布が捲られ、そこから陽春の顔が現れた。
「おはようございます、陛下」
柔らかな声に、リオールは苦笑を浮かべる。
「……慣れぬな、その呼び方は」
「ふふふ。ですが、ようやくこの日が参ったのです。私はこの上ないくらいに、嬉しく思いますよ」
控えめながらも、誇らしげに笑う陽春の目元には、ほんのわずかな感慨の色が浮かんでいた。
「そうか。……支度をする。アスカは、まだしばらく寝かせてやってくれ」
「かしこまりました」
そっと寝台から体を起こす。
アスカが目を覚まさなちよう、ゆっくりと掛布を直し、柔らかな頬にそっと唇を落とす。
愛らしい寝顔をひと目見て、微笑みを残したまま寝台を離れた。
陽春とともに歩みを進めるリオールの先にあるのは、皇太子の居所──皇太宮ではない。
今や彼が向かうべき場所は、国王の居所である国王宮となった。
「……必ずや、国を変えてみせるぞ、陽春」
その声には、覚悟が宿っていた。
重たい冠を支えるために鍛えてきた心と、支える者たちへの信頼。
「はい。私も、陛下のおそばにおります」
陽春は頭を下げながら、しっかりとその背に言葉を重ねる。
それはまるで、一生の誓いのようだ。
リオールは王の衣に袖を通す。
彼にとって、これまでの人生すべてを背負い、新たな未来へと踏み出す、覚悟の頃もだ。
胸の内で高鳴る鼓動が、どこか落ち着かない。
それが緊張なのか、それとも今日、アスカを脅かした者に裁きを下せることへの期待なのか──。
ただ一つ確かなのは、今この瞬間から、自らの言葉ひとつが多くの命を左右するということ。
けれど、リオールは迷うことなく一歩を踏み出した。
「──さあ、参るぞ」
コツ、と響いた一歩目の足音。
それは新たな時代への、最初の響きだ。
胸を張って、王としての道を歩む。
その背には朝陽が静かに降り注いだ。
□
重厚な扉が、ギィと低く軋む音を立てて開かれる。
その瞬間、玉座の間にいた大臣たちの視線が、一斉に──リオールを捉えた。
金と紅の王衣をまとい、堂々とした足取りで進むその姿は、まさしく国王そのものだ。
広間の床に反響する、コツ、コツという足音。
その一歩ごとに、玉座の間に張り詰めた空気が、さらに重くなる。
大臣らは静かに、ただ若き王の動向を見守っていた。
──父上なら、どう動くだろうか
──アスカなら、この光景をどう見るだろう
一瞬だけ胸をよぎった想いを、リオールは奥底に沈めた。
立ち止まり、玉座の前に手をかける。
重厚な装飾の施されたそれに、ゆっくりと身を預けるように腰を下ろす。
ピリッと、空気が張り詰めた。
居並ぶ大臣たちが、一斉に深く頭を下げる──。
「──国王陛下にご挨拶を申し上げます」
揃った声が静かに広間に響いた。
その声には形式ばった敬意と、しかし、微かに滲む試すような色があった。
だがリオールは口を開くことなく、ただ静かに彼らを見渡す。
圧することもせず、媚びることもなく──まっすぐに、王としての眼差しで。
「新たなる王の誕生を、心よりお祝いいたします」
その言葉にも、にじむのは探りと恐れ、そして侮り。
リオールは目を細めると、はっきりとした声音で言葉を返した。
「王冠を戴き、この玉座に座した時より、私はもはやこの国その物である。我が国民のために、ただ正しき道を選び続けよう」
言葉に迷いはなかった。
広間にいるすべての者が、次第に静まり返っていくのを感じる。
「──これより私は、勅命を下す」
ザワり、と空気が震えた。
視線が交錯し、表には出さずとも、大臣たちの間に緊張が走る。
新たな王が、初めて口にする命令。
それが祝辞か、あるいは波風の立たぬものなのか。
そんな期待と予測を含ませた眼差しが、玉座へと向けられる。
そして──
「一つ、これまで行われてきた悪事を全て暴き、その位に関わらず、厳粛に処すものとする」
凛とした声が、広間に響き渡った。
瞬間、広間にざわめきが広がる。
「なっ──!」
大臣たちの何人かが、抑えきれぬ声を上げる。
動揺を隠せぬ様子が、波紋のように広がっていく。
ただの可愛らしい勅命で終わるはずがない──そう思っていた者たちすら、想像以上の言葉に戦慄を覚える。
若き王が、自ら剣を抜いたのだ。
「──それは、どういう意味でしょうか、陛下」
そんな中、一際落ち着き払った男──アルドリノールが一歩前に出た。
彼の言葉にまた静まり返った室内で、リオールは小さく息を吐く。
「今、申した通りである。私は、誰一人として許すつもりは無い」
「……それでは、陛下は、これまでの事があってこの国が支えられているのをお忘れということでしょうか」
「……何が言いたい」
アルドリノールは頭を下げたまま、淡々と言葉を紡いでいく。
「これまで、この国に貢献した者たちを、切り捨てるおつもりかと、問うております」
「……そうだな。場合によっては、そうであろう。──しかし、考えを改めるというのであれば、私も考えなくはない」
「それであれば──」
「──だが、」
リオールはアルドリノールの言葉を遮り、静かに立ち上がった。
「そなただけは、見過ごせん」
「な……、」
「私の大切な者を手にかけようとした。それは許されない事である」
「そのようなこと! 私はしておりません!」
「……そうか? では、これは、なんだと思う」
リオールは懐に隠してあった帳簿を取り出し、アルドリノールの目の前に投げた。
乾いた音。そして目の前に投げつけられたそれを見て、アルドリノールの顔は青く染っていく。
「その帳簿には、透熱粉の記載があった。それも、アスカが毒を盛られる数日前のこと」
「っ!」
「そして……私の母も、そなたの手によって、心を病まれてしまった」
リオールの瞳には、確かな怒りが滲んでいる。
「っ、違うのです! これは、何者かの陰謀です! 私を陥れるため、このようなことを……!」
「──では、誰だ? 誰がそなたを陥れようと?」
ただ冷静なリオールの前で、アルドリノールは視線をギョロギョロと動かし、そして床に手を着いた。
「それは、わかりませぬがっ、私は……!」
「──もう、よい」
「っ!」
「その帳簿こそが、真実であろう。それに、そなたがこれ程にも必死であること自体、証拠となりそうだ」
リオールは階段を下り、床に平伏したアルドリノールを見下ろす。
「王族を侮辱した罪は、何よりも重たいぞ」
そうして、傍らに潜ませていた兵士を呼びつけた。
抵抗する気力は消え失せたのか、大人しく捕まり連れられていく。
「──これで、一歩目だ。必ずや、良い国を造ろう」
リオールは去っていく背中を眺めながら、そう呟いた。
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