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第2章
第17話
しおりを挟むその日は、青空が広がり雲ひとつない晴天だった。
あたたかい春の風が、頬を撫でる。
「アスカ様、ご家族様が御到着されました」
「!」
礼服に身を包んだアスカは、薄氷の声に反応して振り返ったのだが──
「アスカ様、動いてはなりませんよ」
「ぁ……はい」
「あともう少しですので、ご家族様にはお部屋にてお待ちいただきましょうね」
「はい」
「それから、もう敬語はおやめくださいまし」
「はい。……ぁ、うん」
赤い衣に金の刺繍が入る服は、あまりにも豪華である。
耳飾りも美しく、アスカも何度も眺めるくらいなのだが、しかし、重たい。
「清夏さん」
「清夏、で結構です」
「……清夏、少し、重たい」
「それは堪えてくださいませ」
いつもなら何も言わずに堪えているのだが、今日は少し難しく思えた。
というのも、朝から体が重だるいのだ。
若干、火照っているようにも思える。
「発情期に、入ったらどうしよう」
「それでも、堪えてください。王妃さまになられるのです。今日という日は、これ限りなのです」
「……うん」
「ですが……どうしても、倒れそうになったなら、その時は陛下に支えてもらいましょう。発情期前だと言うことは、陛下にも伝えておきますから」
不安だが、仕方がない。
きっと式典中に倒れることはないだろう。
踏ん張らなければ。
「お薬は飲まれますか」
「うん。貰います」
「では、お飲みになられてから、ご家族様のもとに参りましょう。──さて、これで完成です。少しこちらでお待ちください」
「うん」
椅子に座らされ、ふぅ……と息を吐く。
今着せて貰った衣装と、丁寧に結われた髪が崩れないように、慎重に動く。
その様子を見ていた薄氷は、少し眉を下げた。
「アスカ様、崩れたら直しますので、もう少し楽になされては」
「ぁ……いや、清夏に、申し訳がないので……」
ほのかに香る甘い香り。
薄氷は心配になりながら、清夏が持ってきた薬を飲むアスカを見て、すぐにリオールのもとに駆けた。
薬を飲んだあと、清夏に背中を押されるようにして、アスカは家族の待つ部屋へと向かった。
扉の前に立つと、心臓がどくんと大きく脈打つ。
長く会うことも叶わなかった家族たち。
扉が静かに開かれると、そこには懐かしい顔があった。
「──アスカ!」
最初に声をあげたのは、母だった。
次に立ち上がった父と、弟たち。
変わらない温もりが、そこにはあった。
「……母さん……みんな……」
重たい衣装も、火照る身体も、この瞬間だけは忘れられた。
母に抱きしめられ、弟に袖を引かれ、父に肩を叩かれる。
ああ、自分はこの家族の中で育ったのだと、涙が滲んだ。
四年間、感じることの出来なかった家族の愛情。
それが押し寄せてきて、ポロリと涙がこぼれる。
「ああ、泣いてはダメよ。せっかく綺麗にして下さってるのだから」
「ん……でも、嬉しくて……っ」
アスカを優しく見守るような微笑みを浮かべている母──ユウリは、アスカの手を取り、そっと撫でる。
「貴方が、王妃様になるだなんて、信じられないわ」
「わ、私も、まだ、信じられなくて」
「兄ちゃんが『私』って言ってると、違和感があるな。家にいる時はずっと『俺』だったのに」
大きくなった一人目の弟──アレンがそう言って笑う。
そんなアレンの頭を父──エイデンが叩いた。
「いてっ!」
「王妃様に、なんて口の利き方をするんだ!」
「あ、やめてください、父さん。そんな……今まで通りで良いのです。私は、変わらず、貴方たちの家族でありたい」
アスカはそう言って、エイデンに微笑みかけた。
「沢山のご心配をおかけしました。それに、なかなか連絡をすることもできずに……」
「いや……連絡は、陛下からいただいていたので、アスカが……どのように生活をしているのかは知っていたよ」
緊張が解けたのか、エイデンも以前のように柔らかく会話をしてくれる。
「それは……私も、最近知りまして……。陛下は私にも秘密で手紙をお送りしていたと」
「ああ。だから安心していた。毒のことを知った時は気が気ではなかったけれど、無事に回復したともあったから……」
そこで一度言葉を区切った彼は、目に涙を貯める。
「──無事で、良かった……!」
涙を溢れさせるエイデンに、ユウリもアレンも涙を零す。
「兄ちゃん! 俺は泣かないよ!」
「ふふ。そうだね。……ごめんね」
末っ子のアキラに飛び付かれ、ぎゅっと抱きしめる。
久々に感じた家族の温かみに、アスカは心から幸せに包まれた。
名残惜しさが胸に広がる。
それでも──今日という日は、待ってくれていた人たちのための一日でもある。
「……そろそろ、お時間でございます」
控えていた清夏の言葉に、アスカは深く息を吸い、家族一人一人を見つめた。
「行ってきます」
王妃として。
そして、アスカとして。
すべての思いを胸に、家族のもとを後にした。
□
忘れていた体の熱が、少し上がっているような気がする。
薬は飲んで抑えられてはいるものの、今夜にはきっと我慢できなくなるだろう。
「アスカ様、一度お水を飲まれますか」
「……うん、そうします」
「陛下は先に式場でお待ちです。お水を飲み次第、向かいましょう。すぐに始まります」
「っん、うん、わかりました」
冷たい水を飲み、喉を潤す。
しかし、乾きはすぐに現れる。
「参りましょう」
「はい」
それでも、目に力を入れて、今までの集大成のように綺麗な姿勢を作る。
式の前に、陛下と会うのは縁起が悪いと言われ、禁じられている。
だからこそ、式場で会う時には最も美しい姿をお見せしたい。
「アスカ様──いえ、王妃様。とても、美しいです」
「ありがとう」
薄氷が柔和な笑みに、涙を浮かべていた。
ここまでこれたのは、彼らの支えのおかげである。
「薄氷。清夏」
「──はっ」
「はい」
返事をする彼らに向かい、アスカは美しい笑みを浮かべた。
どうか、少しでもこの心が伝わるように。
「二人とも、今まで、ありがとう」
それぞれの手を取り、しっかりと握る。
「きっと、これから先も、私は二人に迷惑をかけることでしょう。けれど……それでも、私に呆れることなく、一緒にいてくれると、嬉しい」
「王妃様……っ」
「王妃さま……」
初めは、無表情で無愛想に見えた彼らが、今はこんなにも穏やかな顔をしている。
何度も助けてくれたこの手を、アスカは強く信用していた。
「私達は、王妃様から離れるつもりはありません」
「貴方様と共に過ごして来れたこと、とても嬉しく思います」
二人にそう言われ、アスカは大きく頷いた。
まるで『私も』と言うように。
「さあ、そろそろ、扉が開きますよ」
そうして、扉の前に立った瞬間、胸の鼓動がひときわ強くなった。
重たく、華やかな衣装に、丁寧に結い上げられた髪。
耳元で揺れる飾りが、心のざわめきを映すように音を立てる。
──いよいよだ。
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐く。薄氷がそっと背中に手を添えた。
「……アスカ様、いってらっしゃいませ」
その言葉と同時に、広間へと続く扉が、音もなく開きはじめる。
光が差し込む。まばゆいほどの陽光と、それを反射する純白と金の装飾。
空気が変わった。そこは、王国の祝福と威厳が満ちる、特別な空間だった。
アスカはゆっくりと顔を上げる。視線の先、広間の最奥に立つその人。
──陛下
王としての威厳をまとう彼──リオールの瞳に射抜かれる。
優しく、真っすぐに、まるで「来てくれて、ありがとう」と語りかけるような眼差しで。
その視線に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
怖かった。
自分が王妃になっていいのか、少し迷いがあった。
けれど、リオールのそばに居たい、共に生きたいと願ったのは、誰でもない自分自身だ。
だからもう、迷わない。
足を踏み出す。赤い衣が音もなく揺れ、金の装飾が光を弾く。
自分の歩みが、広間に静かに響いていく。
多くの視線を感じても、顔を上げて、ただ真っすぐに彼のもとへと向かう。
リオールだけが、目的地である。
彼の隣こそが、私の居場所。
これは、ただの儀式ではない。
これは、ふたりの約束の証。
リオールと共に生きると決めた、その想いの、始まりの瞬間だ。
ようやく辿り着いたこの場所で、アスカは心から、誓いを立てた。
――私は、あなたと共に生きます。
そうしてリオールの手から王妃の冠を受け取る。
その冠は、ただの装飾ではなかった。
王妃としての責務、王国の未来、そしてリオールとの誓い……それらすべての象徴に思えた。
「──王妃、とても、綺麗だ」
「っ、陛下も、とても、格好いいです」
ようやく言葉が交わせた。
多くの視線が集まる中、リオールの手が肩に添えられる。
顔を上げれば、彼と目が合い、そうして──誓いの口付けを交わした。
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