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第3章
第5話
しおりを挟む幼馴染であるルカに、数年ぶりに再会したアスカは王妃という立場も忘れ、昔のように会話を楽しんでいた。
そして、その楽しさと嬉しさを胸に抱えたまま、彼と別れ、そっと振り返る。
そこで待ってくれていたリオール。
彼の表情は、いつもと変わらないように見えた。けれど、どこか少しだけ──淡く、遠い。
どうしたんだろう。再び聞いてみようかと口を開きかけて、アスカはそっと飲み込んだ。
今は視察の途中。道に立ち止まっている時間はそれほどない。
「行きましょう、リオール様」
努めていつも通りの声でそう言って、リオールの手を軽く引く。
彼はほんの一瞬の間を置いて、「ああ」と短く答えた。
それからしばらく、ふたりは街の喧騒の中を歩いた。
屋台の匂い、商人たちの声、子どもたちの笑い声。すべてが日常の一片で、王宮とは違う空気が流れている。
──だが。
そんな賑やかさが一瞬で途切れる路地があった。
「……あそこ、通れますかね?」
アスカが何気なく指差したその先は、表通りからほんの少し外れた、薄暗い小道。
物陰には積まれた木箱、濡れた地面。人の気配はまばらで、どこかひんやりしている。
「気をつけろ。足元が悪い」
リオールにそう声をかけられた直後だった。
アスカは、道の途中でしゃがみこむ小さな影を見つけて立ち止まり、目を見開く。
「……子供?」
薄汚れた上着を着た小さな背中が、片隅で丸まっている。
「大丈夫……?」
アスカはしゃがみ込み、そっとその背中に手を伸ばした。
びくっ、と子どもの身体が大きく震える。
そして、ゆっくりと顔を上げ、虚ろな目でアスカを見上げてくる。
「……母ちゃん……?」
か細い声に、アスカの胸がぎゅっと音を立てて締め付けられた。
「……ごめんね、君のお母さんではないよ」
「母ちゃん、どこ……?」
「……ごめんね。わからないんだ」
気づけば、子供を優しく抱きしめていた。汚れているのも、冷たいのも気にならなかった。
背中に回された手は細くて、脆い。
きっと、何日も食事にありつけていないのだろうと思わされる。
どうにかして、この子のお腹をいっぱいに満たしてやりたいと思う。
リオールが後ろからゆっくりと近づいてくる。
しかし、何を言うわけでもなく、険しい顔で子供を一瞥しただけであった。
おそらく、今この場で出来ることが、何もないことを理解している。
どうすることもできない現実を、噛み締めているように見えた。
そうしてアスカが困惑していたその時、後方から静かな声が届く。
「アスカ様、そろそろ……」
護衛が警戒の視線を周囲に向けながら、小さく声をかける。
通行人たちが、どこか特別な気配を察したのか、こちらへ視線を送っていた。
「……っ、ごめんね、ごめん……」
アスカは、抱きしめた子供の身体をそっと離し、震える手で肩を撫でる。
その目には、言いようのない衝撃と、どうしようもない悔しさが滲んでいた。
視察という名の逢瀬。その先に待っていたのは、ただ甘いだけではない現実だった。
アスカの胸には、重く、冷たいものが残っていた。
視察を終え、王宮に戻ったアスカは国王宮でリオールと共に記録をとっていた。
その中で、あの小さく踞る子供の姿を思い出した。
「私は、知りませんでした。請願書で届いた文字としては理解していましたが、実際に……あのような幼い子供が、苦しんでいるとは……」
「……私もだ。目にしたのは初めてだ」
「……このままでは、いけないと、思うのです」
助けてあげたい。
ひもじい思いをする子供を、少なくしない。
「しかし、今すぐにできる対策など、いずれは破綻する。ひとまず何かをするのは良いが、その後は? しっかりと考えねば、それは政治とは言えない」
「……わかっております」
王妃になったからと言って、何も出来ない現状が悔しい。
拳を握れば、その手を、リオールがそっと覆うように包んだ。
「ああ、ゆっくりでも構わない。確実な解決策を考えよう。しかし、その間をあの子供が耐えられるとは到底思えん。何か、してやるのは良い。そなたはもう王妃となったのだから、行動を起こすことができる。──もちろん、責任も伴うがな」
王妃としての、行動と、責任。
それが、ズシッと重たくのしかかる。
軽率なことはできない。しかし、子供たちにはわずかでも、幸せを与えたい。
「はい……」
「だが、もし本当に何かをするというのであれば、私も力になろう。そなたの初めての王妃としての仕事を、支えるぞ」
静かに顔を上げると、リオールは穏やかに微笑んでいた。
これまで、彼が背負ってきた重荷はきっと、こんなものではない。
『支える』と迷いなく言えるのは、今までの経験があるからだ。
「……お力を、お貸しくださいますか」
「王妃が望むのであれば、いくらでも」
頷いた彼に、のしかかっていた重荷が少し軽くなった気がする。
アスカは眉を八の字にして、頬を緩めた。
「──しかし、だが」
「……?」
「ルカ、と言ったか」
「あ、はい。私の幼馴染ですね。とても力があって昔から仲が良くて──」
「気に食わない」
「え!?」
「あまりに親しげで、好意を寄せているのかと思ったくらいだ」
リオールの表情に影が落ち、どこか冷たい印象に変わる。
「ちょ……ちょっとお待ちください、陛下っ」
アスカは思わず身を乗り出し、両手をぶんぶんと振った。
「ルカは、本当に、ただの幼馴染ですから……! 昔から仲は良いですけど、それ以上の感情なんて、ほんとに、ほんとうに──」
早口でまくし立てながら、気づけば自分でも混乱していた。
そんな必死な弁解を前に、リオールはまったく表情を変えない。
むしろほんのわずかに、目元が冷たくなったようにも見える。
「左様か」
その短い返答に、アスカの心臓がトクンと跳ねた。
──どうしよう、怒らせた?
それとも、本当に誤解されてしまった……?
ぐるぐると焦りの中を泳ぐアスカの視線が、リオールを捉えた瞬間だった。
彼はふっと目を逸らし、静かに息を吐いた。
「……あんなに楽しそうに笑うそなたを見たのは、初めてだった」
「……え?」
不意を突かれて、アスカの口から間の抜けた声がこぼれる。
「羨ましかっただけだ。……少し、な」
呟くようなその言葉は、思った以上にあたたかくて、同時に胸の奥をきゅっと締めつけるものだった。
リオールが――こんなふうに、自分の気持ちを言葉にするなんて。
それがどれだけ稀なことか、アスカはよく知っている。
「……っ、」
言葉が出なかった。
不意打ちをくらったように、心が静かに揺れていた。
そんなアスカの動揺に気づいたのか、リオールは気まずそうに咳払いをする。
「すまない。つまらぬ嫉妬心だった。忘れてくれて構わん」
「……忘れませんよ」
絞り出すように、アスカはぽつりと呟いた。
そして、ふと力が抜けたように微笑んだ。
「……そういうことは、もっと早く仰ってくださらないと、びっくりしますよ」
ほんのりと頬を染めながら、目線を逸らすアスカ。
それを横で見ていたリオールは、何も言わず、ただわずかに口元を緩めた。
それは、優しくてあたたかな笑みだった。
──不器用で、少し拗ねた王と、そんな彼の心に触れて揺れる王妃。
互いの心の距離が、また、少し近づいた瞬間だった。
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