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アクナキユメ

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リビドーカフェ

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「都市伝説?マジかよ…」

教室を出た俺は、溜め息をついた。今日の社会文化特論の課題は、地域に残る都市伝説の調査とその心理学的分析だ。グループワークで、俺はリサーチを担当することになった。

大学のバイトと真壁堂での古書整理、そしてコンビニでの深夜勤務。すでに忙しいスケジュールの中、さらにこんな課題を出されるとは。

「瀬川、悪いな。俺も手伝いたいけど、バイトが…」

同じグループの中嶋が謝る。

「ああ、いいよ。俺も図書館でちょっと資料漁るくらいだから」

返事はそう軽く返したものの、本当は困っていた。世間話で出るような都市伝説なら知っているが、学術的な分析に耐えうるレベルの資料なんて、どこで探せばいいのか見当もつかない。

夕方、大学図書館の奥に陣取った俺は、ネットでは見つからなかった地域の民俗学資料を漁っていた。古びた記録や新聞の切り抜きのファイルを次々とめくる。

「こんなの全部読むの?」

俺の背後から突然声がした。振り返ると、小学生の男の子——結城伊吹が立っていた。霊感があるというか、普通の人には見えないものが見える「見える子」だ。図書館で出会って以来、俺と彼と古書店の店主である真壁誠司の三人で、いくつかの不思議な出来事を経験してきた。

「伊吹、こんな所でどうしたんだ?」

「図書館の本、借りに来たの。でも蓮にいがいるの見つけた」

隣に座った伊吹は、俺が広げた資料を覗き込む。彼は淡々とした表情で資料に目を走らせたが、興味なさげだ。

「これ何?」

「都市伝説の調査。大学の課題でね」

「ふーん」

伊吹の興味をひくものではなかったようだ。彼は自分の借りる本を探しに行くと言って席を立った。俺は再び資料に目を戻す。

そんなとき、ページをめくった先に、印刷されたネット掲示板のスレッドが挟まっていた。日付は5年前。「願いが叶うカフェの噂」というタイトルだ。

『都心の裏路地にあるという噂のカフェ「リビドー」。特定の条件を満たした人だけが見つけられて、そこで願いを言うと必ず叶うらしい。ただし、代償として「大切なもの」を支払うことになるとか…』

その下にはいくつかの体験談らしき書き込みもあったが、具体的な場所や詳しい情報は書かれていない。

「都市伝説にしては、ありがちだな…」

それでも、何も見つからないよりはマシかもしれない。この「リビドーカフェ」について、もう少し調べてみることにした。

---

「リビドーカフェ?聞いたことあるような、ないような…」

翌日、真壁堂で真壁誠司に相談すると、彼は顎に手を当てて考え込んだ。

「わたしも詳しいわけじゃないけど、そういう噂なら聞いたことがあるよ。願いが叶うけど代償を取るっていう…」

誠司は本棚から一冊の心理学の本を取り出した。

「ところで蓮くん、『リビドー』って言葉の意味、知ってる?」

「え?特に…」

「精神分析学、特にフロイトの理論で使われる言葉なんだよ。『生への欲動』、つまり人間の根源的な欲望や生命エネルギーを意味するんだ。それが願いを叶えるカフェの名前になっているなんて、興味深いじゃない?」

誠司は目を輝かせて説明する。彼の博識ぶりには、いつも感心させられる。

「そういう意味なんですか…」

「人間の『欲望』と『代償』か…哲学的だね」

誠司はニヤリと笑った。

「でも、都市伝説としては面白いテーマだよ。調査頑張ってね」

それから数日、俺はネットや図書館で「リビドーカフェ」について調べたが、それ以上の情報は見つからなかった。

週末、課題のことはいったん忘れて、真壁堂でのバイトに向かっていると、携帯が鳴った。伊吹からだ。

「もしもし?伊吹、どうした?」

「蓮にい、ちょっと来てほしいところがあるんだけど」

「今から?でも、これからバイトが…」

「大丈夫、その近くだから。すごく気になるの」

伊吹の様子が少し変わっていた。いつもの淡々とした口調だが、どこか切迫感がある。

「わかった。真壁堂の前で待ち合わせよう」

真壁堂に着くと、伊吹はすでにそこで待っていた。彼は小さな手帳を開いて見せてきた。そこには簡素な地図が描かれている。

「ここ、変なカフェがあったの」

「カフェ?」

「うん。学校の帰り道に見つけた。いつもは通らない道だったけど、なんとなく入ってみたら、変な感じのカフェがあった」

「変な感じって?」

「古くて、でも新しい感じ。看板には『Libido』って書いてあった」

その瞬間、俺は息を呑んだ。

「リビドー…カフェ?」

「知ってるの?」

「ああ、大学の課題で調べてる都市伝説なんだ。でも、実際にあるとは思わなかった」

伊吹は首を傾げた。

「入らなかったの?」

「ううん。中にいる人が気になったけど…なんか怖くなって」

「中にいる人?」

「うん。マスターみたいな人。白髪のおじいさんで…なんか、すごく昔からいる感じがした」

伊吹の「気配を感じる力」が何かを察知したのだろう。俺は急いで真壁堂に入り、誠司にこの話をした。

「本当に?実在するの?」

誠司は目を輝かせた。

「伊吹くんがそう言うなら、間違いないでしょうね。彼の直感は当たることが多いから」

「誠司さん、一緒に見に行きませんか?」

「もちろん!ちょっと店を閉めるよ。これは調査する価値があるね」

---

三人で伊吹の描いた地図をたどって路地に入ったが、そこには何もなかった。飲食店どころか、建物すら見当たらない空き地があるだけだった。

「おかしいな…昨日、ここにあったのに」

伊吹は困惑した表情で辺りを見回す。

「確かにここ?」

「うん。間違いない」

路地の角には伊吹が地図に描いたのと同じ電柱があり、細部も一致している。しかし、カフェの姿はどこにもない。

「どういうことだ…」

そのとき、通りすがりの女性が三人の様子に気づいて立ち止まった。30代前半くらいで、シックなスーツ姿のキャリアウーマン風の女性だ。

「あなたたち、リビドーカフェを探しているの?」

女性の言葉に、三人は驚いて顔を上げた。

「あなたもご存知なんですか?」

「ええ…」

女性——後で名乗った山崎さんは、少し不安げな表情を浮かべた。

「私も一度だけ行ったことがある。ここで見かけたから声をかけたの」

「本当にあるんですね!」

誠司が興奮気味に言う。

「ええ、本当に願いは叶うわ。でも…代償は大きかった」

山崎さんは左手を無意識に見つめた。薬指に指輪の痕があるのに、指輪はない。

「いつ見つけられるんですか?どうすれば…」

「それはあなたたち次第よ。リビドーカフェは、本当に切実な願いを持つ人の前にだけ現れるから」

そう言い残して、山崎さんは去っていった。その後ろ姿には、何か言いたげな様子があった。

「気になる人だね」

誠司がつぶやいた。

「山崎さん、左手をよく見てた。指輪の跡があったけど…」

伊吹の観察眼は鋭い。

「おそらく婚約か結婚してた人なんだろうね。でも今は指輪をしていない…」

誠司は考え込むように言った。

「彼女の『代償』は、そういうことだったのかな」

その日は結局カフェを見つけることはできず、三人は帰ることにした。しかし、この不思議なカフェの存在が気になって仕方がない。

数日後、誠司から連絡があった。

「山崎さんについて調べてみたよ。地元の経済誌で彼女の記事を見つけたんだ」

真壁堂に集まった俺と伊吹に、誠司は見せてくれた。それは地元の優秀な若手ビジネスパーソンを紹介する特集で、山崎春香、32歳。半年前に外資系企業の重役に抜擢されたという記事だった。

「すごいキャリアウーマンじゃないか」

「ただね…」

誠司はさらに別の資料を見せた。それは一年前の地元紙の社会面。山崎春香さんと地元実業家の息子との婚約発表の記事だった。

「でもこの婚約、半年前に破棄されているんだ。理由は明かされていないけど、元婚約者へのインタビューでは『突然、彼女が人が変わったように冷たくなった』と証言しているよ」

三人は顔を見合わせた。

「まさか…彼女の願いは『理想の仕事に就くこと』で、代償として婚約者への気持ちを失った…?」

「可能性はあるね。でも、確証はないけど」

誠司は肩をすくめた。

「ネットでも調べてみたよ。リビドーカフェについて、断片的な情報だけど。『切実な願いを持つこと』『迷いなく代償を払う覚悟があること』などが条件らしい」

「そんな覚悟、持てるのかな…」

「どんな代償が求められるかは、人によって違うみたいだね」

三人が考え込んでいると、伊吹が小さな声で言った。

「あの日、ぼく何か欲しいものがあったんだ」

「え?」

「カフェを見つけた日。すごく欲しいものがあって、それでなんとなくあの路地に入ったの」

「何が欲しかったの?」

伊吹は首を横に振り、それ以上は話さなかった。

---

その後の数日間、大学の課題に追われながらも、俺の頭からは「リビドーカフェ」のことが離れなかった。

偶然は突然訪れた。大学の帰り道、駅前のカフェで休憩していると、隣のテーブルに山崎さんが座った。彼女も俺に気づき、少し驚いた表情をした。

「あなた、この前…」

「はい、リビドーカフェを探していた者です」

山崎さんは少し警戒するような、でも少し安心したような複雑な表情をした。

「見つかった?」

「いいえ、まだです」

「そう…」

少し沈黙があり、俺は思い切って質問した。

「山崎さん、よかったら…リビドーカフェのこと、もう少し教えてもらえませんか?」

彼女は少し考え、それからコーヒーカップを置いた。

「私の願いは確かに叶った。今は憧れていた仕事に就いている」

「代償は…」

「大切な人を失った。カフェを出た時には、彼のことを忘れていたの。婚約者がいたということも…」

彼女の目には悲しみが浮かんでいた。

「友人から聞かされて、写真を見せられて、やっと思い出した。でも、感情は戻らなかった。ただの知人のように感じるだけ…」

「そんな…」

「だから気をつけて。リビドーカフェは願いを叶えるけど、自分が何を失うかは選べない」

山崎さんは席を立ちかけたが、最後にこう付け加えた。

「カフェは満月の夜に、本当に切実な願いを持つ人の前にだけ現れるわ。それだけは教えておくね」

---

満月の夜。

俺と伊吹と誠司は再び、例の路地に立っていた。

「今夜が満月だね」

誠司が空を見上げる。雲一つない夜空に、大きな満月が輝いていた。

「でも、何も見えないね…」

路地は相変わらず空き地のままだ。がっかりしかけた時、伊吹が指を差した。

「あそこだよ」

俺と誠司には最初、何も見えなかった。しかし伊吹に導かれるまま近づくと、かすかな明かりが見えてきた。そして…そこには確かに建物があった。

古風な外観の小さなカフェ。窓からはほのかな明かりが漏れ、「Libido」と書かれた看板が掛かっている。店内からはジャズのような音楽が聞こえ、芳醇なコーヒーの香りが漂ってきた。

「いつのまに…さっきまで何もなかったのに」

誠司も驚いている。三人は互いの顔を見合わせ、緊張感を共有した。

「入ってみる?」

伊吹が言った。

「ああ」

俺はドアに手をかけた。鈴の音が心地よく響き、三人はリビドーカフェの中へと足を踏み入れた。

店内は想像していたよりも広く、落ち着いた雰囲気が漂っていた。数席のテーブルと長いカウンター。木の温もりを感じる内装に、古い写真や絵画が壁に掛けられている。照明は間接照明で、やや暗めだが、居心地の良い空間だ。

他に客はおらず、カウンターの向こうに一人の男性がいた。70代くらいの白髪の老人。背筋をピンと伸ばし、黒いベストにボウタイという正統派のバーテンダースタイルだ。彼は私たちに気づくと、静かに微笑んだ。

「いらっしゃい。珍しいね、三人で来るお客さんは」

マスターはゆっくりとした動作でカップを拭きながら言った。

「どうぞ、カウンターにお座りください」

三人が席に着くと、マスターは何も聞かずにコーヒーを淹れ始めた。

「あの、メニューは…」

言いかけた俺の言葉を遮るように、マスターは三つのカップを置いた。

「君はミルクと砂糖少なめで。彼はブラック。少年は…」

マスターは伊吹を見つめ、微笑んだ。

「君には特別なブレンドを」

誠司が眉を上げた。

「私たちの好みをどうして?」

「このカフェに来る人の"欲しいもの"が分かるんです。コーヒーの好みくらい、簡単なことですよ」

三人はそれぞれのカップを手に取った。一口飲むと、信じられないほど美味しい。今まで飲んだ中で最高の味だった。

「すごい…」

「ありがとう」

マスターは穏やかに頷いた。店内に静かなジャズが流れ、居心地の良い沈黙が数分続いた。

「このカフェについて聞きたいことがあるだろう」

マスターが静かに切り出した。

「はい」

誠司が答えた。

「リビドーカフェの噂を聞いて、ここを探していました。本当にあったなんて…」

「都市伝説と呼ばれるものの多くは、実際にあった出来事が基になっているんですよ。ただ、語り継がれる過程で脚色されていくだけで」

「このカフェは…本当に願いを叶えてくれるんですか?」

俺が恐る恐る尋ねると、マスターは静かに微笑んだ。

「ええ。ここに辿り着いた人の願いは必ず叶います。ただし…」

「代償が必要だと」

「そうです。等価交換の法則というやつです。価値あるものを得るためには、同等の価値を支払わなければならない」

「何を支払うんですか?お金ですか?」

マスターは首を横に振った。

「『大切なもの』です。人によって異なりますし、失うものは自分でも予測できません。願いの大きさに応じて、失うものも決まる」

三人は黙って言葉を噛みしめた。マスターは続けた。

「また、このカフェは誰にでも見つけられるわけではありません。本当に切実な願いを持つ人の前にだけ姿を現します」

「伊吹が見つけたのは…」

俺は伊吹を見た。彼は黙ってコーヒーを飲んでいる。

「彼は特別な少年ですからね」

マスターの言葉に、伊吹はわずかに表情を変えた。

「それでも願いを叶えたいですか?」

マスターの問いかけに、三人はそれぞれの願いを考え始めた。

俺はバイトと大学の両立に悩んでいた。学費の心配もある。誠司は表向きは明るいが、古書店の経営難を隠しているようだった。そして伊吹は…彼の願いは何だろう?

「一人ずつ、願いを言ってみなさい」

マスターの促しに、俺と誠司は躊躇した。しかし、伊吹が静かに前に出た。

「ぼく、願いがある」

「伊吹…」

「普通の子になりたい」

伊吹の言葉に、俺と誠司は驚いて顔を見合わせた。

「見えちゃう力、なくなればいいのに。みんなと同じになりたい」

伊吹の声は小さかったが、決意に満ちていた。

「でも伊吹、その力は特別なんだ。失くしてしまったら…」

俺の言葉を遮るように、マスターが静かに尋ねた。

「本当にそれが願いかい?よく考えてごらん」

伊吹は少し黙り、それから顔を上げた。

「この力があるから、蓮にいや誠司おじさんと出会えた。いろんな人を助けられた」

マスターはただ頷き、待っている。

「でも今、一番助けたいのは…おじいちゃん」

初めて聞く話だった。伊吹の祖父のことは知っていたが、詳しくは聞いていなかった。

「おじいちゃんが病気で、もうすぐ会えなくなる。おじいちゃんが元気になる願いをしたい」

伊吹の真剣な眼差しに、俺も誠司も言葉を失った。

「おじいちゃんは、ぼくが小さい頃から『見える力』を信じてくれた唯一の人。だから助けたい」

マスターは深く頷いた。

「立派な願いだ。だが、代償は大きいかもしれない」

「わかってる」

「伊吹、本当にいいのか?何を失うかわからないんだぞ」

誠司が心配そうに言う。

「いいの。おじいちゃんは、ぼくにとって大切な人だから」

マスターはカップに特別なコーヒーを注ぎ、伊吹に差し出した。

「これを飲むと、願いは叶う。ただし、出ていく時には何かを失っているだろう」

伊吹はコーヒーを受け取り、ためらうことなく一口飲んだ。

「甘い…」

その瞬間、店内の明かりが瞬き、一瞬だけ空間がゆがむような感覚があった。マスターもカウンターも変わらないのに、何かが変わったような…そんな奇妙な感覚に包まれた。

「さあ、もう行きなさい」

マスターの言葉に、三人は立ち上がった。代金を支払おうとすると、マスターは手を振った。

「今日のは特別サービスだ。また来るといい」

三人は礼を言い、カフェを後にした。

---

外に出ると、夜はさらに深まっていた。満月はまだ高く、路地を柔らかく照らしている。

「伊吹、大丈夫か?何か変わった?」

俺が心配そうに尋ねると、伊吹は首を振った。

「何も変わらない気がする」

「おじいちゃんは?」

「わからない。でも、なんか安心した気持ちがする」

帰り道、ふと振り返ると、リビドーカフェがあったはずの場所には何もなかった。建物がきれいに消えていた。

「あれ?」

伊吹が困惑する。

「リビドーカフェ、見えなくなった…」

俺と誠司も何も見えないことを確認した。まるで、最初から何もなかったかのように。

「代償は…何だったんだろう」

誠司がつぶやいた。

「まだわからないね」

その夜は、各自が静かな不安を抱えながら家路についた。

---

翌日の午後、伊吹から電話があった。

「蓮にい!おじいちゃんの容体が良くなったの!」

伊吹の声は珍しく興奮していた。

「本当に?」

「うん。朝、病院から連絡があって。昨日の夜から急に良くなって、医者もびっくりしてたって。奇跡みたいだって言ってた」

「それは…よかった」

俺は安堵しつつも、不安を感じていた。

「伊吹、何か失ったものはある?何か変わったことは?」

「特に気づかないよ。いつもと同じ」

そう言いながら、伊吹の声がふと詰まった。

「あれ?」

「どうした?」

「蓮にい、昨日どこに行ったっけ?リビドー…なんとかって場所」

「リビドーカフェのこと?」

「うん、なんか思い出せなくて…」

伊吹は明らかに混乱していた。カフェでの出来事を部分的に忘れているようだった。特に「代償」の部分の記憶が曖昧になっていた。

俺は急いで誠司に連絡した。

---

「記憶の一部を失ったのか…」

真壁堂に集まった三人は状況を整理していた。

「おじいちゃんのことを願ったのは覚えてるけど、代償のことはあんまり…」

伊吹は首を傾げた。

「山崎さんも同じだったね。婚約者の存在を忘れていた」

誠司は古い本を開きながら言った。

「ここに興味深い記述がある。『願いを叶える場所は、見返りとして記憶を取ることがある。特に失ってはならない価値あるものの記憶を』」

「でも、伊吹は祖父のことは覚えているし、俺たちとの出会いも覚えている。リビドーカフェでの出来事だけが部分的に曖昧になっている」

「通常のパターンとは違うな…」

それから数日が過ぎ、伊吹の祖父は奇跡的に回復し、退院することになった。俺たちは彼のお見舞いに行き、元気な姿を見ることができた。

「伊吹のおかげだよ。あの子が毎日祈ってくれたからね」

祖父はそう言って笑った。彼は伊吹の「見える力」を理解し、「特別な才能だ」と認めてくれる人だった。伊吹は以前より自分の能力に自信を持ち始めているようだった。

---

それから一週間後、満月の夜に再びあの路地を訪れてみた。しかし、カフェは現れなかった。

「前回とは条件が違うのかな」

誠司が言った。

「もう願いは叶ったからね」

伊吹も「なんとなく場所は覚えてるけど、建物は見えない」と言う。

諦めかけたその時、伊吹が突然立ち止まった。

「あ、マスターさんだ」

俺と誠司には何も見えなかったが、伊吹には見えるらしい。

「どこに?」

「あそこ。笑顔で手を振ってる」

「何か言ってる?」

伊吹は耳を澄ませるように首を傾げた。

「『大切なものを見つけられて良かった』…だって」

伊吹がマスターを見つめていると、その姿はゆっくりと消えていったという。俺たちには最初から何も見えていなかったが、伊吹の表情からは嘘を言っているようには見えなかった。

---

数週間後、伊吹の祖父は完全に回復し、家に戻った。俺たち三人で訪ねると、彼は庭で植木の手入れをしていた。七十代とは思えない元気な姿だった。

「やあ、伊吹の友達かい。いつもうちの孫がお世話になってるよ」

祖父は朗らかに笑った。

「伊吹は特別な子でね。彼が見えるものを、私も若い頃は少しだけ感じることができたんだ。彼の才能は素晴らしいものだよ」

祖父と伊吹の絆を見ていると、心が温かくなった。伊吹はどんな代償を払ったのか、それは今でもわからない。しかし、彼が大切にしていた祖父との関係は変わらず、むしろ深まったように見えた。

帰り道、伊吹は夕暮れの空を見上げた。

「蓮にい、あのカフェ、本当はなんだったんだろう?」

「わからないな。不思議なことだらけだ」

「人の願いを叶えて、代償を取る…」

誠司は考え込むように言った。

「願いを叶えることで満足を得る…それがリビドーの本質かもしれないね。『生への欲動』、つまり生きる喜びというか」

リビドーカフェの真の目的や、マスターの正体は謎のままだった。伊吹が失った「大切なもの」も明確にはならなかった。

「でも、なんか大事なことを忘れた気がする…」

伊吹がつぶやいた。

別れ際、伊吹のポケットから一枚の名刺が落ちた。俺が拾ってみると、それは白い名刺で、表には「Libido」とだけ書かれていた。

「これはどこで?」

裏には手書きで「また会いましょう」という文字。

「わからない、気づいたらポケットに入ってた」

三人は名刺を見つめ、困惑と好奇心が入り混じった表情を浮かべた。

「まったく、納得いかねえ……」

俺はそうつぶやいたが、心のどこかでは、再びあの不思議なカフェに出会えるかもしれないという期待を感じていた。

伊吹も誠司も、同じ思いだったに違いない。

名刺を伊吹に返しながら、俺たちは黄昏時の街へと歩き出した。都市の喧騒の中に溶け込みながらも、心の中にはリビドーカフェの静かな余韻が残っていた。
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