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episode 04. kiss and cry
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『件名:お疲れさま』
『本文:
緊急で話したいことがあるんだけど。
どこかで時間ください』
帰りの電車のなかでメールを打つ。駅に着いてすぐにメールを確認する。新着0件。
……仕方ないか。あたしも仕事に忙殺されていると他のことに気が回らなくなる。……けど。
学生の頃、もっと、ずっと、一緒にいたいね、って、携帯でどちらかが眠るまでお喋りしていたよね。その月の明細が届いたときに真っ青になって、写メして、げらげら笑ったよね。
一晩中くっついて離れない夜だってあった。なのに……。
いまはこんなにも遠い。そして、自分でも驚いてしまうのは、啓太からの連絡が一ヶ月近く途絶えているのにも関わらず、いま、胸のなかを占めるのはあの冷徹上司だという事実。
……繊細で歌舞伎俳優のような儚げさがあるのに、抱きかかえた手つきも触れるからだも男らしく逞しくって。
あの厚い胸板に組み敷かれたらどんなだろう……。
いけないいけない馬鹿、馬鹿。そんなことを考えちゃ絶対駄目なのに。蒔田さんはただの上司。新人のあたしを見かねて気にかけてくれているだけなのに。誤解しちゃいけない。……あれ、そういえば……。
Suicaを改札にかざして通り抜けるときに呟いた。
「蒔田さんって浮いた話のひとつも聞かないけど……あれで彼女、いる?」
*
――あ、いた。
比較的今日は早く帰れるから絶対にいないと思ったのに。しまった。
え、こんな時間から待ち伏せとかする? 仕事は? なにをしているひとなの?
手鏡で自分の顔を確認するふりをして背後からやつが尾行しているのを見る。ううう。顔なんて見たくもない! 本当にいや!
やつはフードを深めに被って顔が見えないのが幸いだ。――どうする。入社して以来頭を酷使していて、いまいち頭が働かない。
バッグから携帯電話を取り出してみる。――返事はない。アンテナを引っ張って、センターに何度問い合わせをしてみても誰からもメールが来ない。……寂しい。
ふと思う。あの、仕事が出来て冷徹な上司だったらこういうときに、すぐに助けに来てくれたりするのかな。
昨日みたいにさくっと……。突然現れてあたしを姫抱きにしてくれないかな。
いやいやいや。……弱っている……。仕事の疲れ、彼氏の音信不通で相当参っている。火急のプロジェクトがなんとか終息して、そっから単発の案件をぽつぽつやって、すこしずつ、自分のなかで、夜の七時にあがるというリズムが出来てきたのに。誰も、……あたしのことなんか気にしてくれていない……。
買うものがあるのでコンビニへ。夕飯もお昼もつい面倒で、コンビニの作るご飯にもっぱら頼っている。――やつも、コンビニに入ってきた。後ろは見ないようにする。店員さんから、ビニール袋に入ったお夕飯を受け取る――と。
あたしはダッシュする。元陸上部を舐めんなよ!
とりあえず家の周りを三周したころに、やつが見当たらないことに気づいてようやく胸を撫でおろし、ポケットから出した鍵で玄関を開く。……と、ひらり、なにかが落ちた。
三和土に落ちたそれを見てぞっとした。――特定されている。頭のなかで警報が鳴り響く。
*
「……警察案件じゃない? それ。大丈夫なの?」
「仕事があるし……今日は休めない日だから……それに、警察に相談したって別に、やつを特定して逮捕してくれるわけじゃないでしょう? いまのところなんの罪にも当たらないし……」
「そっか。辛いね」
「――彼氏はなにをしているんだ」ぬ、とパーテーションの影から現れた立ち姿も体幹が鍛えられて無駄に綺麗な男。その男は仏頂面で、「おまえ、彼氏、近くにいねえのかよ。そいつんち泊まるとかあるだろ」
「泊まるもなにも……彼氏とはほぼほぼ音信不通です」
言いながら虚しくなる。緊急事態って言っているのに、電話はおろか、メールのひとつもよこさない彼氏。――無性に、腹が立ってきた。
「だいたいあいつは……学生時代はすごくベッタベタだったのに? 就職してひとが残業漬けになってからはこれですよ。しかも彼、時々出張に行っているから、彼のマンションに出待ちしたとて? いるかなんてわっかりませんのでがってん承知のすけー。はぁがってんがってん! ……本当に、仕事って、なんなんですかね。なんでこんなに頑張らなきゃならないんですかね!」
片手をあげた蒔田さんは、落ち着き払った様子で、「ひとつ。提案がある。……いまからおれの言うことが非常に、気に障るようだったら遠慮なく、却下して貰って構わない」
私語のときにもいちいちビジネススタイルな男だな。「――どうぞ」
「――おまえ、おれと一緒に暮らせ」
それを聞いて、手作りの卵焼きを食べていた春香が激しく咳き込んだ。
*
「いーっ。なんで蒔田さんこんないいところに住んでいるんですか……」
たまげた。おったまげー。――おそらく六階建てと思われるラグジュアリーなマンションの前にあたしは立っている。一旦家に荷物を取りに戻り、必要最低限のものを持って。
「説明は後だ。――鍵。ほれ」
かしゃん、と投げられたその鍵を受け取る。うおおなんかすっごいごつい鍵来たー。あたしがぼうっと眺めていると、
「エントランスはこれをかざすだけで入れる。……入れ」
うおお! これ絶対鍵やさんでスペアキー作れない特注! 黒い部分の下になんだかぼこつといびつな鍵穴がある。でこの黒い画面にかざすだけで……ほええ!
かざすと本当にウィーンとガラスドアが開いた。「うわぁ! すっごい!」
どうぞと手で促す蒔田さんは苦笑いを漏らし、「これで驚くのなら……ったく。先が思いやられるな」
*
いーっ。
広々とした、あたしの六畳一部屋の四倍はありそうな巨大なリビング! 天井たっか! ダイニングにはおっしゃれーな、イギリスの貴族を思わせる瀟洒なシャンデリアがぶら下がっており、ダイニングテーブルのセットが茶色いウッドで素敵ぃ! テレビ! おっきい! 皮張りのソファー! で、裏にはパソコン机と背がメッシュの椅子があるぅー! ……蒔田さん、デスクトップ派なんだ……。
そういや、蒔田さんってゲーマーだからちゃんとテレビの前にはゲーム機が三台ある。コントローラーがぞんざいに置かれていて、その生活感が可愛らしい。――昨日。
時々後をつけてくる変質者から尾行され、巻いたはいいものの、玄関のポスト入れに、あたしが被写体の写真が一葉入っていた。
ぞっとした。
そのまま暮らすのは危ない、ということで、一旦は、蒔田さんのマンションに住まわせていただく……シェアハウスのようなもの……とご提案頂いたが。
振り返ってあたしは尋ねた。「蒔田さんって、お子さんいるとか?」
「いねえよ馬鹿」顔をしかめた蒔田さんは、あたしに手加減したげんこを見舞い、「結婚も離婚もしていない。ばりっばりの独身だ。文句あっか」
ボストンバッグを置いてあたしは、「……んじゃなんで、こんなすっごいとこに住んでいるんですか?」
「ひとまず、……手洗いとうがいを先に済ませないか。悪いな。インフルなどかかると大変なもんで……」
「あ確かに。そうですね。じゃ、洗面所……」
「後程すべて案内する。……おれは台所を使う。先に洗面所な。そこ入って右」目で指示して、すぐさま食器棚からコップを取り出して蛇口の前で手をかざし水を入れる蒔田さん。……の姿に見惚れてしまう……。黒いコートを着たままの蒔田さん。いちいち探偵みたいに格好がいい。現代版ホームズみたい。
「ていうか! なんですかその蛇口! 見たことないですよ!」
傘の持ち手を逆さにしたみたいなくるりとアーチを描いたかたちの蛇口! なんですかこれ! 触らないで勝手に水が出るの!?
嫌そうに蒔田さんは、「いいからうがい……」
「す、すみません……! せ洗面所、お借りします」
がらがらとうがいをしている蒔田さんは、吐く仕草もいちいちお綺麗で、ぐい、と乱暴に口元を拭うとこちらを睨み、「ああ。存分に使え」
三面鏡のある洗面台。あんなに忙しいくせに。鏡はぴっかぴかで……そもそも蒔田さんは、今日、いつもなら本当はもっと残業をしているはずが、早めに切り上げて、一旦荷物を取りに戻ったあたしとちとふなの改札前で合流し、一緒に蒔田さんの住むマンションまで来たのだった……。
こんなでっかい洗面台見るの初めて……。うっわー、三面鏡の洗面台なんて初めてー。鏡でっかー。気分あがるぅー!
「いやいや落ち着け落ち着け榎原紘花。先ずは手を洗え。口をゆすげ……」ふと見た先に、スヌーピーの歯磨き立てにちょこんと青い歯ブラシが鎮座するのを見た。
……きゅん。
スヌーピーなんて好きなんだ蒔田さん。可愛いにもほどがある!!
挙句、隣にある口ゆすぎ用の逆さに置かれたコップは、ピングーがプリントされていて……。うわぁー。会社ではあんな冷徹無比な蒔田さん。まさかのキャラ好き? ギャップぅううーーー。
ハンドソープはaesopのもので見たことがないデザインだった。シルバーの蛇口もぴっかぴか……あの……。
わたし、上流階級の殿方の部屋にお邪魔しちゃってたりしますか?
*
「んなことあるか馬鹿。……ここは、細かい事情は伏せるが、地元のおれの大親友が買った部屋だ。おれは賃借人だ」
こぽこぽこぽ、と、目の前でポッドから紅茶をカップに注ぎながら、端正な顔の上司が言う。
「ノンカフェインだ。安心しろ」ときっちりあたしを睨み、「……そいつは、祐と言うのだが、先行投資が趣味で、『いずれ蒔田くんに必要になります』だのなんだの、わけのわからんことを言って、とにかく、使わんくせに、遊ばせている部屋だ。部屋数はあるから、おまえは好きな部屋を使え」
ありがとうございます、とカップを置かれたので頭を下げ、「こちらって何部屋あるんですか?」
「4LDK」と手元に自身のカップを引き寄せた蒔田さんは、「……ここは、ファミリー向けの分譲マンションだ。流石に芸能人みたくコンシェルジュまではいないが、オートロックだし、……まぁオートロックなんてザルだが、ないよりはいい。おまえの住む、オートロックなしのアパートと比べたらちったぁましだ。落ち着くまでここで暮らせ」
「しかし……」と紅茶を一口飲んで、蒔田さんがちゃんと待ってくれているのを見て言う。「こんな素敵なマンションをお持ちだなんて。蒔田さんってご出身どちらでしたっけ?」
「石川。――の緑川」
「ああ。緑川塗が有名な」
「そうだな。……祐はいまは畑中に住んではいるが、あいつ……」
珍しいものを見た。くつくつと、喉を鳴らし、笑う蒔田さんの顔を。
「むっかしから……変なやつでな。小学生にして既に、永迂光愚蓮会っつう、緑川のヤンキー集団に所属、いや、裏でブレーンを務めあげ、リミッターが外れると暴走するっつぅ、超厨二設定を持っているやつでなぁ。クラウドかよ。因みにおれはエアリス派でビアンカ派だ。そいつとは、高校から一緒のなかなんだが、どうにもあいつは、親友と呼べるくらいに親しい割には、なんつぅか、ひとを寄せ付けないところがあって……ほんで大学進学したら在学中に投資とか株とか手掛ける実業家になっちまって……高校のときからあいつの頭の出来には舌を巻いたものだが……東京界隈を眺めてみても、あれだけ頭の回るやつはなかなかいない。面白いやつだよ」
蒔田さんの一語一句が胸に染みて深く……胸の底まで降りてくる。
愛情を。抱きしめたい。……あたし、……このひとがどうしようもないくらいに……。
「何故、おまえが、泣く」
「……切なくなりました」てへへとあたしは笑い、「蒔田さんが……会社ではばりっばりのバリケード固めている蒔田さんが、そんなふうに……こころを許している相手がいて、その大親友である祐さんのことを、すっごく……大切にしていることが分かって……なんか、嬉しいです……」
ポケットから出したハンカチで蒔田さんはあたしの涙を拭ってくれる。――ふと、目が、合う。
蒔田さんは、初めて見るくらいに、野性的な目を――していた。
ハンカチを置く。そっと、テーブルに手を置いて、椅子を引き、立ち上がった蒔田さんは、身を屈め、今度はあたしの頬に手を添え――。
びっくりして、目を閉じることも出来なかった。超絶的にお美しい蒔田さんのご尊顔をものすごく間近に……見ている。
「タコ」とのたまう蒔田さんは、「こういうときは目を閉じるのを、おまえは知らんのか」
しかめっ面で味わう、蒔田さんの、紅茶風味の吐息。
いつも、ブラック派なのに。おうちで紅茶なんて……意外。
唇に電流が走ったかのように熱い。重なったそこがびりびりして……女の芯まで疼く。――ダイナマイトキス。キスだけで、こんなに濡れるあたしを、あたしは知らない……。
火照って、息が苦しくなる。たまらず胸を押さえた。すると蒔田さんは切なそうな声で、あたしの頭の丸みを押さえ、
「もっと……苦しくしてやろうか」
こくり、と頷くと、こちら側に素早く回り込む蒔田さんに、ソファーへと姫抱きで運ばれ、覆いかぶさった蒔田さんに――
「おまえが――可愛い。愛おしくて、頭がどうにかなっちまう……」
頬を挟み込まれる。あふれる涙を丁寧に拭ってくれる蒔田さんは、今度こそ、本格的なキスをあたしに振る舞うのだった。
『本文:
緊急で話したいことがあるんだけど。
どこかで時間ください』
帰りの電車のなかでメールを打つ。駅に着いてすぐにメールを確認する。新着0件。
……仕方ないか。あたしも仕事に忙殺されていると他のことに気が回らなくなる。……けど。
学生の頃、もっと、ずっと、一緒にいたいね、って、携帯でどちらかが眠るまでお喋りしていたよね。その月の明細が届いたときに真っ青になって、写メして、げらげら笑ったよね。
一晩中くっついて離れない夜だってあった。なのに……。
いまはこんなにも遠い。そして、自分でも驚いてしまうのは、啓太からの連絡が一ヶ月近く途絶えているのにも関わらず、いま、胸のなかを占めるのはあの冷徹上司だという事実。
……繊細で歌舞伎俳優のような儚げさがあるのに、抱きかかえた手つきも触れるからだも男らしく逞しくって。
あの厚い胸板に組み敷かれたらどんなだろう……。
いけないいけない馬鹿、馬鹿。そんなことを考えちゃ絶対駄目なのに。蒔田さんはただの上司。新人のあたしを見かねて気にかけてくれているだけなのに。誤解しちゃいけない。……あれ、そういえば……。
Suicaを改札にかざして通り抜けるときに呟いた。
「蒔田さんって浮いた話のひとつも聞かないけど……あれで彼女、いる?」
*
――あ、いた。
比較的今日は早く帰れるから絶対にいないと思ったのに。しまった。
え、こんな時間から待ち伏せとかする? 仕事は? なにをしているひとなの?
手鏡で自分の顔を確認するふりをして背後からやつが尾行しているのを見る。ううう。顔なんて見たくもない! 本当にいや!
やつはフードを深めに被って顔が見えないのが幸いだ。――どうする。入社して以来頭を酷使していて、いまいち頭が働かない。
バッグから携帯電話を取り出してみる。――返事はない。アンテナを引っ張って、センターに何度問い合わせをしてみても誰からもメールが来ない。……寂しい。
ふと思う。あの、仕事が出来て冷徹な上司だったらこういうときに、すぐに助けに来てくれたりするのかな。
昨日みたいにさくっと……。突然現れてあたしを姫抱きにしてくれないかな。
いやいやいや。……弱っている……。仕事の疲れ、彼氏の音信不通で相当参っている。火急のプロジェクトがなんとか終息して、そっから単発の案件をぽつぽつやって、すこしずつ、自分のなかで、夜の七時にあがるというリズムが出来てきたのに。誰も、……あたしのことなんか気にしてくれていない……。
買うものがあるのでコンビニへ。夕飯もお昼もつい面倒で、コンビニの作るご飯にもっぱら頼っている。――やつも、コンビニに入ってきた。後ろは見ないようにする。店員さんから、ビニール袋に入ったお夕飯を受け取る――と。
あたしはダッシュする。元陸上部を舐めんなよ!
とりあえず家の周りを三周したころに、やつが見当たらないことに気づいてようやく胸を撫でおろし、ポケットから出した鍵で玄関を開く。……と、ひらり、なにかが落ちた。
三和土に落ちたそれを見てぞっとした。――特定されている。頭のなかで警報が鳴り響く。
*
「……警察案件じゃない? それ。大丈夫なの?」
「仕事があるし……今日は休めない日だから……それに、警察に相談したって別に、やつを特定して逮捕してくれるわけじゃないでしょう? いまのところなんの罪にも当たらないし……」
「そっか。辛いね」
「――彼氏はなにをしているんだ」ぬ、とパーテーションの影から現れた立ち姿も体幹が鍛えられて無駄に綺麗な男。その男は仏頂面で、「おまえ、彼氏、近くにいねえのかよ。そいつんち泊まるとかあるだろ」
「泊まるもなにも……彼氏とはほぼほぼ音信不通です」
言いながら虚しくなる。緊急事態って言っているのに、電話はおろか、メールのひとつもよこさない彼氏。――無性に、腹が立ってきた。
「だいたいあいつは……学生時代はすごくベッタベタだったのに? 就職してひとが残業漬けになってからはこれですよ。しかも彼、時々出張に行っているから、彼のマンションに出待ちしたとて? いるかなんてわっかりませんのでがってん承知のすけー。はぁがってんがってん! ……本当に、仕事って、なんなんですかね。なんでこんなに頑張らなきゃならないんですかね!」
片手をあげた蒔田さんは、落ち着き払った様子で、「ひとつ。提案がある。……いまからおれの言うことが非常に、気に障るようだったら遠慮なく、却下して貰って構わない」
私語のときにもいちいちビジネススタイルな男だな。「――どうぞ」
「――おまえ、おれと一緒に暮らせ」
それを聞いて、手作りの卵焼きを食べていた春香が激しく咳き込んだ。
*
「いーっ。なんで蒔田さんこんないいところに住んでいるんですか……」
たまげた。おったまげー。――おそらく六階建てと思われるラグジュアリーなマンションの前にあたしは立っている。一旦家に荷物を取りに戻り、必要最低限のものを持って。
「説明は後だ。――鍵。ほれ」
かしゃん、と投げられたその鍵を受け取る。うおおなんかすっごいごつい鍵来たー。あたしがぼうっと眺めていると、
「エントランスはこれをかざすだけで入れる。……入れ」
うおお! これ絶対鍵やさんでスペアキー作れない特注! 黒い部分の下になんだかぼこつといびつな鍵穴がある。でこの黒い画面にかざすだけで……ほええ!
かざすと本当にウィーンとガラスドアが開いた。「うわぁ! すっごい!」
どうぞと手で促す蒔田さんは苦笑いを漏らし、「これで驚くのなら……ったく。先が思いやられるな」
*
いーっ。
広々とした、あたしの六畳一部屋の四倍はありそうな巨大なリビング! 天井たっか! ダイニングにはおっしゃれーな、イギリスの貴族を思わせる瀟洒なシャンデリアがぶら下がっており、ダイニングテーブルのセットが茶色いウッドで素敵ぃ! テレビ! おっきい! 皮張りのソファー! で、裏にはパソコン机と背がメッシュの椅子があるぅー! ……蒔田さん、デスクトップ派なんだ……。
そういや、蒔田さんってゲーマーだからちゃんとテレビの前にはゲーム機が三台ある。コントローラーがぞんざいに置かれていて、その生活感が可愛らしい。――昨日。
時々後をつけてくる変質者から尾行され、巻いたはいいものの、玄関のポスト入れに、あたしが被写体の写真が一葉入っていた。
ぞっとした。
そのまま暮らすのは危ない、ということで、一旦は、蒔田さんのマンションに住まわせていただく……シェアハウスのようなもの……とご提案頂いたが。
振り返ってあたしは尋ねた。「蒔田さんって、お子さんいるとか?」
「いねえよ馬鹿」顔をしかめた蒔田さんは、あたしに手加減したげんこを見舞い、「結婚も離婚もしていない。ばりっばりの独身だ。文句あっか」
ボストンバッグを置いてあたしは、「……んじゃなんで、こんなすっごいとこに住んでいるんですか?」
「ひとまず、……手洗いとうがいを先に済ませないか。悪いな。インフルなどかかると大変なもんで……」
「あ確かに。そうですね。じゃ、洗面所……」
「後程すべて案内する。……おれは台所を使う。先に洗面所な。そこ入って右」目で指示して、すぐさま食器棚からコップを取り出して蛇口の前で手をかざし水を入れる蒔田さん。……の姿に見惚れてしまう……。黒いコートを着たままの蒔田さん。いちいち探偵みたいに格好がいい。現代版ホームズみたい。
「ていうか! なんですかその蛇口! 見たことないですよ!」
傘の持ち手を逆さにしたみたいなくるりとアーチを描いたかたちの蛇口! なんですかこれ! 触らないで勝手に水が出るの!?
嫌そうに蒔田さんは、「いいからうがい……」
「す、すみません……! せ洗面所、お借りします」
がらがらとうがいをしている蒔田さんは、吐く仕草もいちいちお綺麗で、ぐい、と乱暴に口元を拭うとこちらを睨み、「ああ。存分に使え」
三面鏡のある洗面台。あんなに忙しいくせに。鏡はぴっかぴかで……そもそも蒔田さんは、今日、いつもなら本当はもっと残業をしているはずが、早めに切り上げて、一旦荷物を取りに戻ったあたしとちとふなの改札前で合流し、一緒に蒔田さんの住むマンションまで来たのだった……。
こんなでっかい洗面台見るの初めて……。うっわー、三面鏡の洗面台なんて初めてー。鏡でっかー。気分あがるぅー!
「いやいや落ち着け落ち着け榎原紘花。先ずは手を洗え。口をゆすげ……」ふと見た先に、スヌーピーの歯磨き立てにちょこんと青い歯ブラシが鎮座するのを見た。
……きゅん。
スヌーピーなんて好きなんだ蒔田さん。可愛いにもほどがある!!
挙句、隣にある口ゆすぎ用の逆さに置かれたコップは、ピングーがプリントされていて……。うわぁー。会社ではあんな冷徹無比な蒔田さん。まさかのキャラ好き? ギャップぅううーーー。
ハンドソープはaesopのもので見たことがないデザインだった。シルバーの蛇口もぴっかぴか……あの……。
わたし、上流階級の殿方の部屋にお邪魔しちゃってたりしますか?
*
「んなことあるか馬鹿。……ここは、細かい事情は伏せるが、地元のおれの大親友が買った部屋だ。おれは賃借人だ」
こぽこぽこぽ、と、目の前でポッドから紅茶をカップに注ぎながら、端正な顔の上司が言う。
「ノンカフェインだ。安心しろ」ときっちりあたしを睨み、「……そいつは、祐と言うのだが、先行投資が趣味で、『いずれ蒔田くんに必要になります』だのなんだの、わけのわからんことを言って、とにかく、使わんくせに、遊ばせている部屋だ。部屋数はあるから、おまえは好きな部屋を使え」
ありがとうございます、とカップを置かれたので頭を下げ、「こちらって何部屋あるんですか?」
「4LDK」と手元に自身のカップを引き寄せた蒔田さんは、「……ここは、ファミリー向けの分譲マンションだ。流石に芸能人みたくコンシェルジュまではいないが、オートロックだし、……まぁオートロックなんてザルだが、ないよりはいい。おまえの住む、オートロックなしのアパートと比べたらちったぁましだ。落ち着くまでここで暮らせ」
「しかし……」と紅茶を一口飲んで、蒔田さんがちゃんと待ってくれているのを見て言う。「こんな素敵なマンションをお持ちだなんて。蒔田さんってご出身どちらでしたっけ?」
「石川。――の緑川」
「ああ。緑川塗が有名な」
「そうだな。……祐はいまは畑中に住んではいるが、あいつ……」
珍しいものを見た。くつくつと、喉を鳴らし、笑う蒔田さんの顔を。
「むっかしから……変なやつでな。小学生にして既に、永迂光愚蓮会っつう、緑川のヤンキー集団に所属、いや、裏でブレーンを務めあげ、リミッターが外れると暴走するっつぅ、超厨二設定を持っているやつでなぁ。クラウドかよ。因みにおれはエアリス派でビアンカ派だ。そいつとは、高校から一緒のなかなんだが、どうにもあいつは、親友と呼べるくらいに親しい割には、なんつぅか、ひとを寄せ付けないところがあって……ほんで大学進学したら在学中に投資とか株とか手掛ける実業家になっちまって……高校のときからあいつの頭の出来には舌を巻いたものだが……東京界隈を眺めてみても、あれだけ頭の回るやつはなかなかいない。面白いやつだよ」
蒔田さんの一語一句が胸に染みて深く……胸の底まで降りてくる。
愛情を。抱きしめたい。……あたし、……このひとがどうしようもないくらいに……。
「何故、おまえが、泣く」
「……切なくなりました」てへへとあたしは笑い、「蒔田さんが……会社ではばりっばりのバリケード固めている蒔田さんが、そんなふうに……こころを許している相手がいて、その大親友である祐さんのことを、すっごく……大切にしていることが分かって……なんか、嬉しいです……」
ポケットから出したハンカチで蒔田さんはあたしの涙を拭ってくれる。――ふと、目が、合う。
蒔田さんは、初めて見るくらいに、野性的な目を――していた。
ハンカチを置く。そっと、テーブルに手を置いて、椅子を引き、立ち上がった蒔田さんは、身を屈め、今度はあたしの頬に手を添え――。
びっくりして、目を閉じることも出来なかった。超絶的にお美しい蒔田さんのご尊顔をものすごく間近に……見ている。
「タコ」とのたまう蒔田さんは、「こういうときは目を閉じるのを、おまえは知らんのか」
しかめっ面で味わう、蒔田さんの、紅茶風味の吐息。
いつも、ブラック派なのに。おうちで紅茶なんて……意外。
唇に電流が走ったかのように熱い。重なったそこがびりびりして……女の芯まで疼く。――ダイナマイトキス。キスだけで、こんなに濡れるあたしを、あたしは知らない……。
火照って、息が苦しくなる。たまらず胸を押さえた。すると蒔田さんは切なそうな声で、あたしの頭の丸みを押さえ、
「もっと……苦しくしてやろうか」
こくり、と頷くと、こちら側に素早く回り込む蒔田さんに、ソファーへと姫抱きで運ばれ、覆いかぶさった蒔田さんに――
「おまえが――可愛い。愛おしくて、頭がどうにかなっちまう……」
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