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第三部――『きみは、ぼくの花』
■3
しおりを挟むなかなか、斬新な体験だった。
「いらっしゃいませ」と作り笑いを客に向ける。ハンディの操作に手間取る。ハンディに新しく加わる、季節ごとの限定メニューに苦戦する。オーダーを間違え、怒った女性客に頭を下げると、でもいいのよ、と何故か手を握られる。
いろんなことが、初めてづくしだった。
そこでは、『一条誠治』であることは、問題にならない。いちアルバイターとしてただそこで役目を果たせばいいだけだ。彼は、幼稚舎から大学付属の学校に通っており、高校も九割が顔見知りの人間、大学も半数が内部進学組。よって、『一条誠治』の役目から開放される機会は限られた。
なるべく、シフトは彼女に合わせた。
前期は、三時間目と五時間目の空き時間が暇だった。彼女も同じだったから、その時間は二人で過ごした。学食でだべったり図書館に行ったりパソコンルームに行ってチャットをしたり。
彼女に、目に見えて分かる変化が訪れたのは、意外と早く。ゴールデン・ウィーク直後だった。
学食にて彼女と待ち合わせていた彼は、本を読んでいた。言説(ディスクール)という、この世の出来事のすべては『語り』によって成り立っており、要するに人間は己の主観でしか物事を見ることができないという、なかなかに刺激的な書籍だった。
ひとの気配を感じ、誠治は顔をあげた。
学食は多くの学生が訪れる場所だ。通常、誰か通りがかった程度で注意を引かれたりなどしない。
しかし、そのときはなにかが違った。
先ず、伸びやかな素足が目に入る。
膝丈の真っ白なスカート。いや、ワンピース。おそらく、ノースリーブ。
その白さが――初めて見る彼女の素足が、誠治の目に眩しかった。
淡いイエローのカーディガンを、前開きにて羽織っている。
髪は、顎の下で切り揃えられている。三十センチ以上はカットしただろうか。髪を、片方の耳にかけて。品のよいアナウンサーみたいだ。
化粧も、濃すぎない、素肌の綺麗さを際立たせるナチュラルメイク。桃色のチークもきちんとほどこしており、明るいピンクの唇がとても健康的だ。アイシャドウが淡いグリーンで、初夏を控えたこの季節にふさわしい、素敵な色合いだった。
唯一、もともと使っていた紺色のトートバッグが浮いた感じではあるが――それすらも、彼女のかがやきをなんら損なわせる障壁にはならなかった。
彼女が、ひかり輝いて見えた。
透明な膜を取っ払った、若い女性がそこには存在していた。
全身、魅力的に変身した彼女は、誠治の姿を認めると、目を細めて笑いかける。「一条先輩、……遅くなってごめんなさい」
「……驚いたよ」素直に、誠治は感想を口にした。「すごく、……変わったね」
綺麗だね、という言葉を誠治は使えなかった。
恥ずかしかった。出会った頃の彼女を見下していた自分も。いま、素直に驚かされている自分も。
「ここ、座りますね」彼女が、誠治の正面の席にトートバッグを置く。書籍のいっぱい入ったバッグは重たそうで、彼女が『変わっていない』点を感じさせた。「なんか、……食べます?」
正直、おれは、胸いっぱいだ。
誠治が首を振ると、「じゃあ、わたし、喉乾いたんで、なんか買ってきますね。先輩、アイスコーヒーでいいですか」
誠治が返事をする前に軽い足取りで彼女は行ってしまった。
残された誠治は呆然と、見送る。
シンデレラみたいだ……。
彼女が二人分のジュースをトレイに乗せて戻ってきてからも、誠治は、彼女に変わったきっかけを聞き出せずにいた。
認めるのが怖かったのだ。
――男の影を。
* * *
誠治の予想は悪いかたちで的中し。
翌週、学食で友人とランチを食べていると、彼女に声をかけられた。「あ。一条先輩!」
「こんにちは」にっこりと笑う彼女に魅せられながら誠治は手を挙げる。
彼女に敵意を抱く人間など、この世のどこにもいないだろう。
今日は、暑いせいか、半袖よりもちょっと短い袖のTシャツ。夏を思わせるクリアなブルー。……やっぱり、顔の次には胸の膨らみに目が行ってしまう。
そんな誠治に気づかず、無邪気に彼女は尋ねる。「今日のAランチってなんですか」
「見ての通り、ハンバーグ定食」
「あっ、やだ、失敗したあ」片手で頭を抱える彼女がコミカルだった。「ひとが多くて全然見えなくって、分かんないからBにしたんですよ」
誠治は、後ろにいる男に気づかなければ、『ぼくのぶんをあげるよ』と言っていた。
顔立ちの整った男だ。しかし、視線が鋭い。
ものの数秒で誠治は看破した。
――こいつも、松岡綾乃に惚れている。
「あっ、せっかくだから先輩にけいちゃんのこと紹介します」火花を散らす男たちの攻防を知らず、彼女が後ろの彼を手で指す。「小池丈一郎くんです。わたしは、けいちゃんって呼んでますっ」
「……ちなみに、なんで『けいちゃん』なわけ」小池丈一郎は、見た目通りクールな声の持ち主だ。「おれ、確かに、『ほかのひとと被んないあだ名つけてくれ』って言ったけどよぉ……」
「んー」うえを向いて彼女は考える。大きな目の、白目が大きくなる。「なんか、一度でも、男の子をちゃんづけで呼んでみたかったんだよねー。その憧れが叶えられて満足っつうかー。えへへ」
「……答えになってねーけど。行くぞ。綾乃」
「あっ、待って。一条先輩、じゃ、またあとでねっ」
「……うん」手持ち無沙汰に手を挙げ、そしてハンバーグ定食に戻る。
誠治は、自分のなかに去来する感情を直視する。
――嫉妬。
おれは、あの子を『松岡さん』と呼んでいる。
あの子は、あいつを『けいちゃん』と呼んでいる。憧れが叶えられて満足とまで言っていた……。
あの喜ばしい顔が、憎たらしく思えるほどだ。
おれのことは『一条先輩』だ。おまえになら、なんと呼ばれたって構わない。せいちゃんでもいっちゃんでも好きなように呼べ。おれはおまえのしたいようにさせてやる。
おまえの望みすべてを叶える気でいるというのに、おまえときたら……。
「……なにいまの。後輩?」
隣の友人の声に、誠治は我に返る。「まあ、……ちょっとしたきっかけで知り合いになった子」
「ふーん。例の子か」友人の口元がにやついているのが誠治の気に障った。「隣にいたやつは、彼氏?」
「ちっげーよ!」大きな声が出た。鼻息も荒くなった。
――くそ。
花開く前のあの子を知るのは、おれだ。
おれだけでいい……。
「まあ、なかなかめんどくさいことになってんのな、おまえ」誠治の『事情』を知る友人は楽しげに笑う。「婚前の自由恋愛って認められてるわけ?」
「一応、……自由な、はずだぜ……」誠治は、茶を口に含む。なにか飲まなければ自分がどうにかなってしまいそうだった。
「それ以前にな。あれ、やべーぞ。あの、谷間。おれ、ガン見しちゃったわ。……おまえ、あの子と毎週会ってる間柄なんだろ。頼れるお兄さんとしてさ、服装に気をつけるよう、言ったほうがいいかもよ」
この友人は、高校生の妹を持つ兄の立場として、さっき会っただけの彼女のことが、心配なようだ。
だが、誠治はにべもなく答えた。
「それは、……ぼくの役目じゃないんだよ」
おれは、あの子の『兄貴』にはなれない。
*
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