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第三部――『きみは、ぼくの花』
■4
しおりを挟む友達を作ることは、恋愛に似ていると一条誠治は思う。
フィーリングが合わないと駄目なのだ。
彼は、大学に入るまで、いっさいの友達を作らずに過ごした。作れなかったのだ。クラスでそれなりに喋る相手はいたが、学校を離れて遊んだりなどしなかった。
裕福な生徒が全員の私立高校に通っていた誠治は、冷淡に周りを見ていた。お手伝いや母親の作る弁当の中身を競い合う、馬鹿げた、スノビーな連中だぞ。
おれは、誰とも仲良くなんか、ならない。
彼を、真に理解できる人間は、書籍だけだった。本は、いい。要らぬ邪魔をしない。
両親と血のつながりがないからといって、排斥したりなどしない。
差別とも、無縁。もっとも。著者の思考にシンクロできねば、退屈極まりない時間となるわけだが。
京極夏彦の小説に出会ったときに、真の目が開かれた気がした。腕一本に成り果てた女を愛す男の姿に胸を打たれた。
自分も、そんな相手に出会いたい。
しかし、彼が一生を添い遂げる女は、既に決められている。まだ会ったことはない。二十歳になったら一度顔を合わせる約束になっているらしい。
いつ結婚するかというタイミングまで決められている。
そこには、彼が意見を差し挟む余地など、なかった。
結婚は、社会人経験を五年重ねてから。彼の親は、彼が、社会人としてある程度一人歩きできるようにならねば、人前に出すことすら恥ずかしいと思っているようだ。
別に、好きでおまえたちに引き取られたわけではない。
彼は、実の両親の顔を知っている。遠縁の親戚であり、法事や集まりごとの場面で顔を合わせるのだ。別段、彼らは誠治を見ても愛おしそうな顔をするでもなく気まずそうな顔をするでもなくのっぺらぼうみたいな他人となんら変わらなかった。
一条の両親は、子どもに恵まれなかった。苦渋の決断だったそうだ。どうやら、父親のほうに原因があったらしい。それでは外に女を作ったとて、解決しない。誠治は、養父に少々同情をした。
だからといって自分にしてきた数々の仕打ちを許すわけではないが。
一見すると、誠治は恵まれた生活を送っている。だが、そこでは彼自身の意志は要求されず。
尊重もされず。
一条の名を引き立てるためのお飾りなのだ。別に、それが自分じゃなくとも、誰でもよかった。
母はおとなしいひとだった。黙って夫の意志に従う昭和の女だった。
時折、彼は内心で一条の両親を罵倒した。侮蔑もしていた。一条グループは、彼の祖父の代で始まり、父親の代で大成された。たかが二代続いただけの成金のくせに、威張り倒しやがって。
なにが、一条だ。ふざけるな。
おれの、人権は。人間としての尊厳は、どこにある。
おれは、この家を出て行く。おまえたちから離れてやるぞ。
なにか、怒りの噴出する出来事があるたびに、彼はこころのなかでそう叫ぶのだが結局、一条の家に戻ってきてしまうのだ。
彼は、ほかに、どこにも行く当てがない。
そんなふうに、誰からも理解されず。誰かを真に理解することなく、こころの交流を重ねることもなく、孤独に生きてきた誠治だが。
大学に入ると、彼の人生を変える出会いが待っていた。
『人間とは、客観的に物事を見ることなど絶対に出来ず、常に、主観で物事を判断しているのだよ。ぼくらは、色眼鏡をかけて物事を見ている』
それは、その教授の口癖だった。初めて彼の講義を受講したのは『アメリカの歴史』だったと思う。
自由民主主義を標榜するアメリカという国家が、実は、イギリスから逃れてきた人間たちが、先住民を追い出したことで作られたこと。
国民性とは、なにかとても確かで強化なことのように聞こえるが実は、国家によって作られた幻想であること。
実体のない、とても不確かなものに過ぎない。
『わたしは○○人である』という感覚は、国家によって、歴史教育を通して、上手に国民に刷り込まれている。その人間の指先一本の末端に至るまで。歴史は、国家が自らを正当化させるための物語(ナラティブ)だ。
それを聞いて、誠治は納得した。
日頃、自分が『日本人』なんて意識もしない連中が、サッカーのワールドカップで勝ちあがると決まって渋谷で騒ぐ理由。あれも、ナショナリズムの一端だ。国家と国家がぶつかりあう舞台において、ナショナリズムは顕在化する。
『客観的に見て』などという枕詞を言う連中は、大概、反論するためだけにあれを用いている。受け入れられない意見があって物申したいためだけに必ず。要するに、自分を正当化したいだけなのだ。自覚のない半端なインテリ気取りなだけに質が悪い。
人間は、主観でしか物事を見ることができない。
その考えは、いつしか、誠治の礎となった。
散々、おれのことを貰われっ子だと馬鹿にした連中。あいつらは、『血のつながり』こそが人間を決めると思い込んでいる。そんな連中といくら話し合ったって、無駄だ。
誠治の通う私立H大学は、付属の高校から進学した人間が約半数。残りは、難関をくぐり抜けた外部の人間だ。なお、小池丈一郎は高校からの編入者で、松岡綾乃は、言わずもがな、外部の人間。この大学に憧れ、地方からやってくる人間は多い。
大学に入って初めて、誠治は金持ち以外の人間と話す機会を与えられた。苦学生も珍しくはなかった。奨学金を貰う学生も多くいた。ここで初めて自分と価値観の似た人間に出会えるのでは、という期待を抱いた。
彼の敬愛する滝沢教授の講義で、ひとりで座っているのをよく見かける同じ一年生の男が気になり、思い切って話しかけてみた。
「うん。そう。おれ、滝沢教授ってすげえなあってずっと思ってて――先生の書いた本、全部読みたいって思ってるくらいなんだ」
思いのほか、フランクな人間だった。
ひとりで座るのは、別に友達がいないからというわけではなく、ひとりで集中して受講したいからだそうだ。
群れたがらないその姿を、かっこいいと誠治は思った。周りから爪弾きにされるのではなく、自ら単独行動を選ぶその姿が。
彼とは、授業を離れて、熱く議論を交わすこともあった。誠治にとって、初めてできた親友だった。
誠治は、サークルには入らなかったが、留学生をサポートするチューターに登録したり、学園祭の実行委員の仕事などをしたりと、意図的に自分を忙しくした。ひとの集まる場では、高校時代からの顔見知りも見かけたが、知らない人間に話しかけられることも多く、次第に、気にならなくなってきた。『一条誠治』の役回りを期待する人間の目をだ。
それでも、彼と周りを隔てる透明な膜を取っ払うところまでは行き着かなかった。
たまに彼が、わざと期待を裏切る行動を取ってみると、決まって彼らは言うのだ。
『一条さんだったら、なんとかしてくれると思ったのに……』
おれを誰だと思っている。
一条の、本当の子どもではないんだぞ。両親の顔を知ってはいるが、ただの根無し草だ。
おまえたちは、いつも、自分の都合のいいように物事を解釈している。
要らないときは、『よそ者』とおれを排斥し。
必要なときだけ、擦り寄ってくる。
滝沢教授の言ったとおりだ。人間は、自分の主観でしか物事を判断できない。大勢の意見に巻かれる、実に、脆弱な生き物だった。
誠治は、見た目がよいせいか、知らない女に声をかけられることも珍しくない。危ないと思われる場合を除き、決まって誠治は誘いに乗った。勿論、コンドームは必ず着用したが。常備している。
そうでないと、荒ぶるこの精神を、保てなかった。なにか、自分が重大な犯罪を犯しそうで、怖かった。
女を強く抱くことで、彼は開放された。濡らし、おったて、追いやることで、彼は満ち足りた。
そうすると彼は、『女』を軽蔑するようになった。
なぜなら彼女たちは、簡単に、濡れる。自己防衛も含まれるということを、このときの誠治は分かっていなかった。
よくも知らない男に気安く抱かれる。呆れたものだ。あんなエクスタシーの表情なんか、簡単に見せるべきじゃないだろうに。
そのことを考えるといつも、誠治は怖くなる。
おれの好きな、松岡綾乃も、同じなのではないかと。
* * *
「いっちじょうせんぱーいっ」
先鋭的な思想を述べる書籍から目を離し、顔を起こせば、誠治は、彼女の笑みと出くわした。
よく、笑うようになった。大学生活が充実しているのだろう。
「なに、読んでんですか」ひょい、と誠治の向き合う本を覗こうとする挙動がなんだかいじらしい。
誠治は目を細めて答えた。「アルチュセール。滝沢教授の思想を理解するなら必読の書だよ」
「あ、そうなんですか」喜ばしいことに、彼女も滝沢教授の授業を『刺激的で面白い』と言っている。三年生にあがったら、彼のゼミに入りたいそうだ。
場所を考慮し、誠治は声量を抑えて尋ねる。「……ところできみはなにを借りに図書館に?」
「えっとぉ、フロイトかエリクソン辺りを読もうかなあと」
意外なチョイスだ。誠治と同じく国際学部に所属する彼女は、アメリカ研究のコースを志望しているはず。
心理学の本なんか、なにしに。
疑問を顔に出す誠治の様子に気づかず、彼女は、「先輩、このあと時間あったら、マックに行きませんか。わたし、なんかすごく、あそこのハンバーガー食べたい気分で……」
「いいよ」と誠治は微笑んだ。「本を借りたら、またここにおいで」
「はいっ!」大きな声が出てしまい、周囲の人間を気にし、すみません、と頭を下げる彼女。
誠治がそんな彼女を目で見送ってやると、彼女は誠治の視線に気づき、手を振った。
ハンバーガー食べたい、か。
あの女が、男の陰茎をしゃぶりたい欲動に駆られることなど、あるのだろうか。
いいや、と誠治は本を閉じる。どう考えても、処女。現在フリー。生まれてからずっと。直接彼女から聞いたわけではないが、日頃の挙動から推測される。あの子の花開くような激変ぶりに、目を奪われたバイト先の連中は多いが。松岡綾乃は明るく躱す。きょーみないんで。意外と、意志をはっきり伝えるところがある。誠治はその性格にも、魅了されている。
一度見かけただけのあいつはただの友達。彼女が自ら語っていた。『ただの』という枕詞つきで。
お互い、不憫な片想いをしているものだなあ、と誠治は話しかける。
ほかにも、誠治は確かめた。やはり彼女を変えたのは、あの男。小池丈一郎だ。
彼の姉が美容師をしており、その女性に髪をカットして貰ったのだとか。洋服も何着か頂いたらしい。
『おかーさんから貰った服ばっかりで、自分で選んだ服なんかほとんどなかったんですよ』どうやら、彼女は、自分がダサかったという自覚はあるらしい。後日、顔を赤くしてそんなふうに語った。『高校やと、制服しか着んし、でも、なんか、……なに着たらいいか、分からんし』
誠治は、窓の外をつと眺めた。季節は既に秋。葉を落とした木々が、寒そうにその辺に突っ立っている。
おれも同じだ。と誠治は思う。
おれも、待っても待っても実らない恋に、この身を焼かれているんだ。
誠治の愛する彼女は、間もなくして、分厚い本二冊を手にやってきた。
目が合うと、手を振った。誠治も振り返す。誠治は、本をバッグに入れ、立ちあがった。
誠治は、彼女に会うたび、笑みが漏れるのを抑えられない。
* * *
自分の見た目を意識すると、女は変わる。
からだのラインを露わにするタートルネックは、彼女の胸の膨らみを主張し。
オフホワイトのいろが清楚な彼女にはぴったりだ。
細いウエスト。えんじいろの膝丈のフレアスカートが、いやらしさを消した上品さを醸し出している。
この服をひん剥いて。あの、おっぱいを直接拝んでやりたい。
谷間に顔を埋め舌を這わせてみたら、彼女はいったいどんな顔をするだろう。
どんな声を、出すのだろう。
声は、出るほうか。教えてくれ。それともまだだから、分からないのか。
暗い欲望を誠治は常に胸のうちに抱える。誠治がその妄想に駆られる一方、彼女は口を大きく開けてハンバーガーを頬張った。
「ん。おいひい」口の端についたソースを指で取る仕草が実にセクシャルだった。
はむ。とハンバーガーを食らう。二口目。
男のあれもそんなふうにくわえるのか。
おれの陰茎をしゃぶらせて思い切り頭を押さえ込んでやりたい。
見ろよ、おれを、綾乃。
おれの内側はこんなにも暗い。外で見せる顔は所詮作り物だ。
おれのなかの暗い深い部分は常におまえを求めているというのに、おまえときたら。
「……心理学に、興味があるの?」ところが、誠治の口からはまったく違う話題が出る。いつものことだ。
「えっと?」首を傾げる彼女はまだ理解していない。
「フロイトとエリクソンと来たら、……発達心理? それとも臨床心理?」
「り、んしょうのほうかもです……」恥ずかしげに彼女は笑う。「三年にあがったら、副専攻のコースを選べるじゃないですか。心理学にしたいって思ってるんです」
なにが、心理学だ。と誠治は呆れてしまう。
自分に惚れてる男が二人もいるのに気づいてもいないくせに。
この、鈍感娘が。
意地悪な気持ちが駆けあがってくるのが分かる。
「どうして、……人間になんか、興味が湧くのかなあ」誠治は、ハンバーガーを食べ、咀嚼してから二言目を発した。「人間なんか、大勢になると己の意志と判断力と思考力を失い、大多数の意見に流される、脆弱な生き物だよ。愚かで、非常に単純だ」
誠治は、以前に読んだ本の中身を思い返す。ギュスターヴ・ル・ボンの『群衆心理』。個人は、集団になった途端、馬鹿になる。
「……一条先輩がそう思っていても。わたしは、そうは思いません」彼女は上目遣いでぺろっと舌を出す。「だって、先輩、……」
一拍置いて、彼女は蠱惑的に笑う。
「すごく優しいでしょう、わたしに」
この、小悪魔め。
抱きしめて唇を封じてやりたい。舌を絡ませ、逃げまわる舌を追い回し、甘く噛んでやりたい。
片手でその華奢な背中を抱き寄せ。他方、もう片方の手で豊満な胸を揉みしだき。
その欲望は、抑えこむのが大変だった。彼女には絶対分かるまい。
「えっへへ」素直で従順だったはずの彼女は、変わった。もう、誠治は、彼女に対して愚鈍で素朴という印象を抱かない。「一条先輩と出会ってから、わたしの人生、変わったんです。
みんなしかめっ面して急ぎ足で歩いてる東京にも、こんな素敵なひとがいるんだなと……」
「きみは、ぼくのすべてを知っているわけではないよ」顔色変えず、淡々と誠治は告げた。「ぼくが、きみの前で見せる顔なんて、複数隠し持つ顔のうちのほんの一つでしかない。大河の一滴だ」
きみには絶対言えないことがある。見せない顔がある。
と、誠治は内心でつけ足したのだが、
「それでも――
わたしの前で優しい顔を見せてくれるってことが、肝要なんです」
こちらに身を乗り出し、彼に笑いかける彼女の顔は、
額縁に飾りたいほどに、美しかった。
「好きだよ」
言葉が自然、こぼれ落ちていた。
驚きに、彼女のうす茶色い瞳が見開かれる。「え。え、えっと……」
「誤解しないでくれよ」すかさず、誠治はフォローを入れる。「きみの、その白いニットがだ。……新しく買ったの?」
「え。あ。あ、これですか……」彼女の声のトーンが落ちる。視線も。「別に、……安物ですよ。セールだったから買ったんです」
「そのいろは、きみにとてもよく似合う。白い肌に映えてとても、綺麗だよ」
「先輩ってナチュラルにお世辞言いますよね……」そう言いつつ、なんだか彼女は嬉しそうだ。「生まれつきそうなんですか。しれっとした顔して女の子のこと褒めたりできるんですか」
きみにだけだ。
と、誠治は言わなかった。「生まれつきといえば、……ぼくは、両親とは血が繋がっていない。
養子なんだよ」
さあ、どう出る、松岡綾乃。
同情か。憐憫か。感情の一端を見せろ。
誠治は、半ばやけっぱちで彼女に語りかける。
ところがだ。
「ふーん。そうなんですかあ」
明るい調子の声に誠治は拍子抜けをする。
恐る恐る顔を起こせば。『おはよう』と言われたときとまるで変わらない表情に迎えられる。
誠治は、彼女に挨拶をしたわけではない。
ひとが、二十年来胸に抱え続けてきた、深刻な秘密を打ち明けているというのに……。
「……えっと。あのですね」彼女が、誠治の顔色を見て、補足を加える。「わたし、アメリカにペンパルがいますし、高校の頃に短期留学をしたこともあるんですけど。向こうじゃ、養子って別に珍しいことじゃないんですよ。日本とは違うんですね。adoptedって言われてなんのことか分からないで辞書一生懸命引いたんですけど……」そのとき、よっぽど慌てたのか。思い返すように彼女の口元がアーチを描く。「アメリカってキリスト教が根付いてるからですかね。誰かのためになにかを行うのを誇りに思うカルチャーがありますよね。
打って変わって、日本は、養子に対して、ネガティブな印象が強いですよね。親がせっかくいいことしてるのに、子どもがいじめられたりして。街角で募金を献血をあれほどしろしろってせがんでるくせして、他人の子どもを養うっていう献身的な行為に対しては、みんな、不思議と冷たいんですね。……理解できないです。まあ、うちの田舎でも、両親の違う子どもとか、他の場所からやってきた子どもは、必ず差別の対象になりました。田舎は、温かいですけど、そういう排他的な部分は、わたし、好きになれないです。排他的なのは田舎に限ったことじゃないですけどね。というより、そもそも、『里子』って言葉の響きがなんだかアレな感じじゃないですか」
なんかもっとほかにいい言い方ないんですかねえ、と彼女は紅茶に口をつける。熱かったらしい。その可愛らしい顔がすこし歪む。
「アメリカのみんなは、堂々としてましたよ。わたしの大切な子どもって言い切ってました。
……一条先輩のご両親にとっても、一条先輩のことは、同じなんじゃないんですか」
思い返してみる。
一条家のため。一条のために、勉強をしろ。友達をいじめるな。一条の名を汚すような真似をするな。
父親は厳しく、母親は沈黙していた。あの両親が。
自分を求め、愛していることなど、考えられないではないか……。
津波のように感情が迫り来る。誠治とて、両親が自分をちゃんと見てくれる瞬間があることに気づいていた。だが、それは、彼の孤独なこころを満たすほどの威力はなかった。
誠治は胸を押さえる。「一条、先輩……」と、気遣わしげな彼女の声。
自分が、いまするべきことは、彼女に不安を抱かせることではない。
真実よりも、大切なことはなにか。
誠治は、顔を起こした。出会った頃の、不安げな瞳が、そこにはあった。
彼女は、変わった。
誠治は、彼女を変えたかった。
そして、決意とともに口を開く。
「きみがそう言うんなら、……それが真実なんだろうね」
きみを喜ばせるためなら、おれは、どんな嘘だってつく。
だから、そんな顔などするな。
おれの前では、絶対に。
「……血のつながりはなくとも。ぼくは、両親に愛されて育った」
ほっ、と彼女が息を吐く音が聞こえた。「よかった……」と彼女が手を合わせる。
彼女の安堵の表情に、誠治は満足しつつコーヒーを口に含む。
ひとのことを喜べる人間に、悪いやつはいない。
一条誠治は、松岡綾乃に対する印象を補正した。
純粋。可憐。
そして隠れ巨乳。
*
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