気がつけば彼に抱かれていました

美凪ましろ

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第三部――『きみは、ぼくの花』

■8

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「こら! もう! 走らないの! 真人(まさと)ったら!」


 思うに、妻は、息子に厳しすぎる。

 まあ、一般に母親とはこのようなものだ。自分の母親がよその母親とはすこし違っただけで。

 誠治は、自分と入れ違いで喜々として階段をかけあがる愛息を見上げる。この無駄に広い洋館は、二歳児には格好の遊び場で、走り回るなという方が無茶だろう。

 だが誠治は、内面に浮かびあがるその意見を封じ込め、妻に声をかけた。「そろそろぼく、出かけるよ……」

「あら。お出かけですか。今日はどちらへ?」

 息子を注意せぬ言動にも思うところがあるのだろう。妻の険のある声を聞き流し、誠治は柔和な笑みで答える。「言っただろ。三沢さんとこのオフィス移転パーティー。……行かないわけにはいかないだろう、きみの親戚なんだから」

「ああ、そうですか……」段を降り、ジャケットを羽織る誠治への目線に納得と不満が入り交ざる。そして妻の目は階段を駆け下りる息子の姿を追い、「もう! 真人! 何度言ったら分かるの!」

 数名の使用人は困り顔で突っ立っているだけだ。役立たずめ。

 とはいえ、誠治は内心で少々彼らに同情をした。彼らに命令を下すのは雇い主であるが、彼の妻は、これといった指示を出さず、ただ息子の言動に慌てふためき、そして最後に叱りつけるばかり。

 息子は、叱られると喜色満面。ママにかまってもらえるのが、嬉しいのだ。だがそれは永久に続くものではない。彼のなかに叱られることへの恐怖が芽生える前に、大人が思想そして態度を変える必要があるだろう。誠治は、そのことを実感として分かっている。

 息子には、父親に叱られておどおどする顔など、させたくない。

 とはいえ、それを妻に説明し、納得させるには時期尚早。彼女の側も、なにかしらの気分転換が必要なようだ。

「……きみも、真人は誰かに任せて、ぼくと一緒に出かける?」

「いいえ、わたしは……」ドレスを着て晴れがましい場へ出かけるなど、女性にとっては決して悪くはない提案だと思うのに、妻は首を振る。「ここで、あなたの帰りを待っております……」

「ぼく、ちょっと遅くなると思うよ」誠治は腕時計を見た。十七時だった。「食事は先に済ませてて」

「分かりました」

 じりじりしていた様子の妻は、とうとう、息子を追って走りだした。いってらっしゃいの言葉もないと来た。出かける前にキスをしてやりたかったのに。

 無駄に広い廊下を抜け、誠治は玄関で靴を履いた。使用人が磨いてくれるからいつも新品のように光沢がある。

 玄関を出ると外はまだ明るかった。家のなかにずっといたから分からなかったが。隔たれた空間は人間の視野を狭くする。

 雲一つない空が限られた誠治の視界に広がる。

 この空を、桜子(さくらこ)にも見せてやりたい。

 思えば、ここ数年を振り返るに、丸一日彼女が笑顔を貫いた日など、あっただろうか。

 愚問だ。

 帰ったら疲れ気味の妻を労ってやろうと思いつつ、彼は先を急いだ。


 * * *

 資本主義社会において、ひとびとは、支配する側と搾取される側の二つに分けられる。国民が市民権を得、また近代社会においてますます世論が重視され――情報が流通することにより、彼らの権力は一見増大したかのように見えるがその実はまだまだといったところ。所詮、国家権力に服従する側ではある。

 国家は、暴力を備えた抑圧機関であり、警察・裁判所・監獄などは国家の命によりその権力を行使する――ことは自明ではあるが。こうした一元的な物の見方をせず、人間が自発的に国家に服従することに着目したのがかのアルチュセールであった。

 人間は、賃金を得るために働く。労働を続ける動機として、報酬を得るためだけというのではあまりに弱すぎる。働くことは正しいこと。人間のあるべき姿であり、また規範でもある。という考え方は、物心つく頃には彼のなかに内在化され、また、繰り返し繰り返し彼の内部へと刷り込まれていく。同じ労働者との関わりを通じて。彼自身の正しい行いを通じて。情報へのアクセス及び取得を通じて。

 社会集団に共通する一定の思想体系をイデオロギーと呼ぶが、国家機関とはまた別に、学校や家庭などの私的領域の隅々に至るまでそのイデオロギーが浸透しており、また、それが再生産される。その機能を『国家のイデオロギー諸装置』と呼ぶ。特に、情報装置たるテレビ・ラジオ・新聞などのメディアは、ひとびとに盲目的愛国主義、自由主義、道徳主義などを繰り返し植え付ける。一条誠治は、新聞をチェックすることを日課としてはいるが、その情報や見解が極めて偏っていることも、重々承知している。アメリカはおろか日本でも無論イスラム教国家を支持する報道など絶対に許されないし、犯罪者や被害者及び家族のプライバシーの扱いといったらひどいものがある。マスコミは、松本サリン事件の誤認逮捕でいったいなにを学んだのだろう。

 それでも、彼は、自分が大河の一滴に過ぎないと知りながら。強大な権力に対し抗える手段を持たない微力な存在と自覚しながらも、日々を懸命に生き続ける。

 そんな彼を支えるのは、ひとつの声だ。

『いってらっしゃい、あなた』

 彼を送り出すときの妻の声は、極めて穏やかだ。あの声を聞くたびに、こころがほぐれていくのを実感できる。

 同時に、期待に応えねばならないとも思う。

 一条誠治のなかにも勿論、父親としてのあるべき姿が生成されている。妻には優しく。必要以上に口出ししない。息子にも優しく、ときに厳しく。父親に対する理想像を、彼は妻の瞳のなかにも見つける。まだ幼い息子のなかには発見されはしないが。まあそのうちだろう。

 都度、彼は自分の態度を省み、以後の行動を微調整する。悪くはない作業だった。いや。幸福と言ってもいいプロセスだった。

 誰かの期待に応えることがここまで自分を幸せに感じさせるとは――。

 森博嗣の指摘した通り、『式』と名のつくものは決まって退屈で形骸的なものだ。誠治自身も結婚式は挙げたが、二次会だけでよかったとあとで思った。妻はウエディングドレスを着られたことに満足したようだったが。やはり、男性と女性との見解は異なる。

 一通りの人間に儀礼的な挨拶及びユーモアを交えた会話を済ませ、誠治は煙草を吸うために外に出た。すると先客。

 ……あまり、会いたくない相手だった。というのは――

「久しぶりだね、誠治くん。……すこし、痩せた?」

 心配する口調とは裏腹に、この年代の女性に特有の自信と笑みを崩さない。

 かつて、誠治が丈一郎と綾乃を結びつけるためにひとつの役目を頼んだ女性だった。

 薄闇のなかで、彼女のブルーのドレスが浮かびあがって見えた。


 * * *


 誠治は彼女と話すときに、綾乃の話題を選んだりなどしない。過去のことだ。過去をいつまでも振り返っていても、仕方がない。後悔する材料があるならば、新しい行動で上書きするだけ。

 現在、満たされた生活を送っている誠治に、過去を悔恨する必要などなかった。

 相手は、いまだ独身。おそらく、生涯独身。というのは、「なんか、……小池くんや誠治くん見てると、男ってやだなあって幻滅しちゃって……ひとりでいいやって思えてくるの」

「おれで幻滅するなよ」誠治は苦笑いをする。「これでも、模範的な父親のつもりだぜ」親父に比べればな、と彼は内心でつけ足す。

「そうだね。小池くんも理想的な父親なんだろうけど、……なんかさ。重たくてさ。そういうの、面倒くさいっていうか、そこまで重たいことを私生活で抱える余裕がわたしにはないんだよね。仕事もいま忙しくてむちゃくちゃ面白いし。それにさ。子ども産まれたら世話するのって結局女のほうじゃん?」

「……きみの場合は、お母さんやお手伝いさんに任せるって選択肢も、あるんじゃないかな」

「多少はそれで通用するだろうけど、最終的には母親でしょう? 責任取るのって、必ず。ニュースとかでさ、犯罪者が現れるとさ、特にその犯罪者の年齢が低いほどに、必ず母親が糾弾されるんだよね。分かるんだけど。分かりたくない自分も、すこしは存在するっていうか……、環境的要因もあるけど、先天的要因はどうしようもないんじゃねって話。――ま」ここで言葉を切り、彼女は下を向いて胸元の豪奢なネックレスをいじりだす。「こういう話。ほかのどの女の子にも絶対できないんだけどね。おまえ犯罪者の肩持つのかって異教徒扱いされるわ。間違いない」

『国家のイデオロギー諸装置』とは非常に優秀で、このように、ひとりの女性の身体の隅々に至るまで、『理想の母親像』が行き渡っているわけだ。そして、悩み、苦しむ。

「結婚が人生の墓場だって台詞や、結婚がすべてじゃないよって台詞は、結婚している人間だからこそ吐けるんだろうね……正直、ぼくには、結婚相談所の世話になってまで結婚したい人間の気持ちが理解できないけど」と、誠治は一本目の煙草の火を消す。見れば、ほかの喫煙者は数名でしかもなにかの話題で盛り上がっているので、遠慮無く話ができる。「なにかを手に入れると必ずなにかを失うものだ。経験を重ねると素朴さを失ってしまうようにね。そうしていざ、結婚してみると、今度は自分のためだけに好き勝手に時間と金を使える独身者が羨ましくなってみたりしてね。……となると、結婚するきっかけに他人が介在していると、その結婚がうまくいかなくなった場合に、その他人のせいにしたりしないか、ぼくは懸念するけどね。隣の畑はどこまでも青い。けれど、きみの人生は、ほかの誰でもない、きみだけのものなんだ。いま、きみが独身であることについてとやかく言うやつが、生涯、ずっときみの傍に居続けて文句を言い続けると思う? 死ぬまで?」

 そんなの、よっぽどの物好きか、あるいはきみに好意を持つ男でもないと、不可能だよ。

 と、誠治はここで足を踏み出した。尖った女の靴の先が彼の目に映る。「文句を言うだけのやつは、結局、場所を変えてもずっと同じことをまた別の誰かに言い続けるんだ。好きなんだよ、そういうのが。彼らが自覚を持って態度を改めない限りは一生あのままなんだろうね。永久に発行され続ける週刊誌のように、或いは同じ台詞を延々と垂れ流す選挙カーのようにね。……他人の意見を一切気にするなっていうのは無理ではあっても、ある程度は聞き流すのがいいよ。……まあ、彼らは、自分とは違う人間を認めることが自信の喪失に繋がるから、いたたまれずにやっている、っていう側面も、あるとは思うよ。自分が本当に自信を持っているんだったら、他者にむやみやたらに強制なんかしない。『不安』なんだよ、彼らは。カルト宗教にハマる人間の心理なんかまさにそれだ。ぼくからすれば、体重を落とすことに固執して結局できない人間も、同じに見えるけどね」

 途中から彼女の顔を見ず、誠治が自分の考えを述べたてたところ。

「相変わらずあっついねえ。誠治くんは……」

 女は、自分の耳に触れ、誠治を見て笑った。片方だけにぶら下がるピアスの装飾が綺麗だと誠治は思った。

「まーでも、誠治くんに話すと、なんか癒やされるわ。……きみのような考え方をする既婚男性って、割りとレアだから……」

「間違いを散々犯した末だよ」誠治も、彼女に習い、煙草に火を点ける。「……ところで、さりげに爆弾発言があったんだけど。さっき」

「なぁに?」

 気づいていないらしい、彼女は。

 誠治は煙草をふかし、疑問も露わな女の目を見て言ってみる。


「小池綾乃は、いつ出産したの?」


 あ、と女の口から声が漏れた。「……別に、隠すつもりはなかったんだけど、にしても口軽いなわたしって……」

「いいんだよ、そんなことは」

「去年。写真、送ってもらったよ。携帯にあるけど、見る?」

「いや、いい」誠治は首を振り、息を吐いた。白い息が上空に飲まれていく。

 そうか。幸せなのか、きみは。

 なら、……よかった。

 おれは、きみの幸せを願えることができるくらいには、幸せになったんだ。

 桜子は、おれを愛している。

 おれも、桜子を愛している。

 きみと小池丈一郎ほどの熱愛ではないにしても、静かなる情愛が、ぼくを、満たしてくれている。

 そして彼は思い返す。

 細い目をした妻が、初恋を語った日のことを。

 誠治を受け入れ、震えた夜のことを。

 誠治が、自分の育ちを告白すると、彼女は涙した。姑と舅との同居は精神的に負担がかかるだろうと、彼女のために別の場所で住むことも考えたのだが、彼女は頑として譲らなかった。

『誠治さんを守るために、そして理解してもらうためにも、わたしは誠治さんの実家に住みます』

 二十四時間もの陣痛に耐え、新たなる生命をこの世に生み出し、汗まみれの顔で、誠治に笑いかけてくれたあの朝のことを。

 赤い顔をした尊い命を目の当たりにしたときに炎の塊のような情が湧きあがった。この子を守りぬき育て抜くのがおれの使命だと、一条誠治は全身で感じたのだった。理屈ではない、本能だった。

 国家権力に支配され。父親の作った檻に閉じ込められ。繰り返し再生産されるイデオロギーにさいなまれながらも。

 ぼくは、孤独のなかから幸せを見つけた。

 だから、きみも、そうであって欲しい。


 きみは、ぼくの花だから。


 誠治は、その後、女との話を三十分ほどで切り上げ、早々にパーティーから抜けだした。帰りに、ケーキを三個買った。真人が寝ていたら妻に二個あげるつもりだった。妻は、病的なほどにケーキが好きだから。

 明日は、おれがサンドイッチを作って、あの公園にでも出かけよう。三人きりで、風を感じながらランチをするんだ。青々とした芝生の上にシートを敷いて。たっぷりと真人を遊ばせてやろう。

 来週末は、妻にひとりで外出してもらおう。エステに買い物など、したいことがたくさんあるはずだ……。

 人間を檻で閉じ込めるのはいつだって凝り固まった人間の精神。開放できるのも同じく人間の成せる技。ならば、おれは――

 自由を与えられる人間でありたい。

 妻は、一条家に嫁ぐと、両親と誠治とのあいだを取り持つよう努力してくれた。広い館ゆえ実質二世帯以上の住宅、食事も生活も別々なのだが彼女は頻繁に愛息をじいじばあばに見せに行く。血のつながりはなくとも、孫とは可愛いものであるらしく、二人が目を細めて抱っこをする姿を見るのも珍しくはない。父が、あんな表情をするなど、誠治には想像もできなかったが。

 ノエル・ギャラガーの言うとおり、『人生なにが起こるか分からない』。未来への希望を胸に秘め、他方、沸きあがる家族への情を抑えこむことなどせず、誠治は、ケーキの箱を揺らさないように注意しつつ、地下鉄の階段を急ぎ足で降りた。


 *
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