気がつけば彼に抱かれていました

美凪ましろ

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第四部――『なによりも大切なこと』

◆1

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 正午の羽田空港第二ターミナルは、土曜日ということもあり、混雑していた。

 到着ゲートのまえで、丈一郎はいまかいまかと待ちわびている。

 周りには、丈一郎と同じように、飛行機に乗って東京に戻ってくる家族を待つ人間ばかりのようだった。高校生の子どもの戻りを喜ぶ中年の夫婦。夫の帰りを待っているであろう幼子連れの母親。孫が遊びにでも来るのか、老夫婦の姿も見受けられる。

 けども。

 丈一郎は思う。

(愛おしい我が子と妻を待つ父親は、おれだけだ……)

 再会を喜ぶ家族の声があがるたび、丈一郎のなかで焦燥が膨れ上がる。まだか。まだか。その気持ちを抑えられないのだ。

 なんせ、綾乃に会えるのは四ヶ月ぶりだ。優香(ゆうか)は生まれてから3kgも体重が増えたらしく、抱っこをするのが大変だと綾乃が電話口でこぼしていた。愛娘には、いまだ、写真でしか対面を果たせていないが……。

 優香はまだ『会っていない』のだから対面とは言わないか。

 丈一郎が寂しげな笑みを口許に漏らしたとき――

 ガラスの向こうからやってくる到着客のなかに、淡いラベンダー色の抱っこ紐をつけた女性の姿を見つけた。傍から見たらランドセルを前方に抱えているような奇妙な格好。丈一郎は、子どもが産まれてから、街でやたら抱っこ紐が目につくようになったが――わりかし黒や茶色など無難な色が多い。

 綾乃は、「女の子だから目立つような、可愛い色にしたの」と語っていた。写真でいろを見た。間違いない。

 丈一郎は、走りだしていた。最愛の母子から目を離さずに。

 到着客が次々とやってくる。丈一郎は、彼らのあいだを縫って走り、やがては二人のもとにたどり着いた。

「ひさしぶりだね、けいちゃん」

「おかえり、綾乃」ちゅ、と音を立ててキスをした。案の定、「んもう」と綾乃は唇を尖らす。丈一郎は笑って綾乃の頭を撫で、「優香は。寝てんの?」

「うん。寝てる」

 丈一郎は、身を屈め、母の胸にぴったりと右の頬を添えて眠る我が子を見つめた。目をつぶっているゆえ、どちら似か、よく分からない。写真だと綾乃に似ていると思ったのだが。頭が丈一郎の手のひらにすっぽりと収まりそうなくらいに小さくて、皮膚がとても薄そうな印象を得た。

(ああ、可愛い……)

 産まれた優香を抱いた瞬間、天使みたいな子だと思ったんだよ。そう語った綾乃の気持ちがよく分かった。

「優香が寝てるおかげで助かったけど。でも結局、飛行機に乗ってるあいだじゅう、いつギャン泣きするかヒヤヒヤして、落ち着かなかったよ」

 舌を出す綾乃に丈一郎は目を向ける。「そんなに。うるさいの? 優香って」

「優香っていうか、赤ちゃん全般がそんなもんみたいよ」

 我が子の天使のような寝顔を見つめ、頭にそっと触れると、陽だまりのようなあたたかな感情の塊が胸のうちに落ちてくる。なんと、愛おしいのか。

 この子は確かに生きている。

 理屈ではなく、命の尊さを実感した。

 丈一郎は、綾乃の重たそうなボストンバッグに気がついた。「持つよ」

「ありがと」

 どうやら、綾乃は痩せた。最後に会ったときは、妊娠して10kg太ったことを悲しんでいたが、見る限り、元通りに戻った様子。遠目に見ても、ワンピースから覗く足は細く見えた。近くに見ると、頬の肉が薄くなったことが分かる。髪は、前よりも伸び、後ろで結いている。

 聞きたいことも、話したいことも伝えたいこともたくさんあった。けども。いまは、母子の疲れを取ることが最優先だろう。

「それじゃあ――優香が起きないうちに早く帰んなきゃだな」

 丈一郎が持ちかけると、にっこりと妻は応じた。「そうしよ」

 * * *

「あ。けいちゃん。悪いんだけど、上着脱ぐの、手伝ってくんない?」

 振り返ると、玄関で立ったまま、綾乃が困った顔をしていた。

 飛行機のなかでは上着を着ていなかったらしいが、外だとさすがにそれでは寒いだろうと、電車に乗る前に、丈一郎は、綾乃に上着を着せてやったのだった。

「あ。悪い」なんだか、子どもが産まれると、あらゆることが『変わってしまうのだな』と丈一郎は思った。靴紐をまたも結ぶのが面倒なので足元は靴下のまま、綾乃の後ろに回り込み、右肘の辺りを引っ張り、順番に脱がしてやる。靴下越しの人造大理石の感触がやけに冷たく感じられた。

「そしたらさ。このまま優香を寝かしたいから、寝室に布団、敷いてくれる?」と、優香の背中に手を回したまま靴を脱ぎつつ綾乃。丈一郎は腰に手を添えたまま目を丸くして振り返り、

「綾乃の布団って、使わないから、客間に置きっぱなんだけど。おれの布団じゃ、駄目?」

「なに言ってるの!」

 いきなり、怒られて丈一郎は呆然とする。

 廊下で、丈一郎を追い越すと、綾乃は、

「……赤ちゃんの肌はデリケートなんだよ。けいちゃん。最後に布団のシーツ洗ったのいつ? 新しいものじゃないと、優香の肌に、よくないよ……」

 そう言われると丈一郎は困ってしまう。「綾乃の布団のシーツも、……洗ってないけど」

「やだ、信じらんない!」ずんずんと歩き出す綾乃。ふと足を止め、

「えっと……。なんで、段ボールがそのまんまなわけ?」

 寝室に、六箱ほど、綾乃の実家から届いた段ボールを積み上げたままだ。それが、気に触ったらしい。

 丈一郎は、ため息を吐く。――あれ。寝室に運ぶだけでも大変だったんだぜ。重たかったし。とはいえ、丈一郎はすこし我慢をし、最小限を口にした。「おれ、忙しかったからさ……。勝手に開いちゃいけないと思ったし、それに、開いても、どこになにを置くか、おれには分かんないからさ……」

 続いて、彼女の顔がダイニングテーブルのほうへと向けられる。「えっと、……あれも。帰って早々にわたしが片付けるべきなわけ?」

 飲みかけのジュースやパンの袋の残骸を言っているらしい。とはいえ。前日までのごみはちゃんとごみ箱に入れておいたし、そんなに怒られる意味が分からない。

 なんなのだろう。実家に帰って、甘やかされすぎたんじゃないのか?

 頭が沸々と沸騰しそうになるが、それを抑え、ひとまず客間に敷いたままの敷布団を取りに戻った。綾乃は、テーブルのごみを分別せずにごみ箱に突っ込み。洗面所で手を洗っていた。

 自分の布団が汚物扱いされるなどとは、心外だった。

 ともあれ、丈一郎は妻の希望を叶えることを優先した。

「じゃあ、敷布団のうえに、シーツ代わりにブランケットかけるから、それでいい?」

「いいよ、それで……」

 言うことを聞いてやったというのに、礼を言うどころか、不服も露わな綾乃。――まあ。本当はもっと実家にいられるところを自分の誕生日に合わせてわざわざ帰ってきてくれたんだから、我慢しよう。

 そのように割り切れる自分と、なんなんだろうと怒りを感じる自分。

 実を言うと、後者のほうが圧倒的に優勢だった。


 * * *


 おぎゃああああ!


 いったいどうしたんだろうと問いただしたくなるような悲鳴が聞こえ、丈一郎は慌てて風呂場から寝室へと駆けつけた。「どうした?」

 見れば、妻は我が子の背に手を添え布団に寝かせようとしていた様相。

「あーあ。やっぱ、起きちゃった……」

 ぎゃああああ! と悲痛な悲鳴に混ざり、なんとか妻の声が聞き取れた。諦めたように、抱っこ紐を肩から下ろし、「仕方ないなあ。授乳するかなあ」と呟いている。

 ぱちん。と腰の後ろのストッパーを外し、床に、抱っこ紐を放り投げる感じで置いた。その、乱雑な手つきが、丈一郎の気に触った。

「――物。放り投げるやつがあるかよ」

「は?」

 布団にあぐらをかいて座り、娘を抱き起こす綾乃の顔が険しかった。とはいえ、言うべきことはちゃんと言うべきだ。

 優香の泣き声に妨害されつつ、丈一郎は声を張った。「それさ。安いものじゃないんだろ。物を、放り投げるやつがあるかよって、おれは、言っているんだ」

「なにそれ」よーしよーし、だいじょうぶよー、と平静な母親の顔を作り、真っ赤な顔で泣き叫ぶ優香に話しかけている。

 無視されたのも、丈一郎は腹が立った。

 母親がそんな乱暴な態度を取るから、優香がそんなに泣くんじゃないのか。

 言いたいことはまだまだあるのだが、綾乃が自分の服に手をかけ、ためらいもなく片手でボタンを外し始める。となると。丈一郎はここにいていいものか、迷った。家で、自分の場所がなくなるとは。二人でローンを組んで苦労してお金を払っているマンションだというのに。

「ちょっと」やはり、綾乃が邪魔だといわんばかりの目で見てくる。「見ての通り、授乳すんだけど」

「……分かった」

 背を向け、丈一郎は寝室を出て行った。

 そして、風呂を洗う作業を再開する。……そもそも。長旅で疲れているだろう綾乃のために、こうして風呂を洗っているというのに。で尋常ならざる泣き声が聞こえたから泡まみれの手で慌てて駆けつけたというのに。なんだあの態度。

 実家に長く居すぎて、お嬢様扱いに慣れきってしまったんじゃないのか。

 だとしたら、直すのはおれの役割だ。いくら母親業が大変とはいえ、ひとに礼を言わない、物を大切にしない、ああいう態度は、どうかと思う。

 手を止め、丈一郎はため息を吐く。もう、何度目のため息だろう。帰宅して三十分と経っていない。会えるのがあんなに楽しみだったのに。帰ってきたのはとんでもない女王様だった。目の前が暗くなる。

「まー。なるようになるさ。元気出せよ、おれ」

 鏡のなかの自分ににっと笑いかける。寝室はどうやら静かだ。優香は落ち着いたのだろうか。

 ふと丈一郎は疑問に思う。

(赤ちゃんてどうやって、……風呂に入るんだ?)

 優香は、靴を履いていなかった。まだ、歩けないのだろう。となると、……いったいぜんたいどうやってからだを洗うのか? それとも、赤ちゃんはそんなにからだが汚れないから、毎日風呂に入れなくたっていいのか? いやでも、さっき綾乃が、赤ちゃんの肌がどうのと言っていたから、清潔に保たなきゃならないのだろう。

 よく分からない。分からないことは保留。きっと綾乃が知っているだろう。なんせ、実家に四ヶ月も帰り、育休をあと五ヶ月も取得するんだから。

 母親業を、ちゃんとしてもらわなくては、困る。

 カビるのを防ぐため、最後に水を流して完了。バスタブには、あと五分ほどでお湯が溜まるはず。風呂入ってさっぱりすれば、綾乃の機嫌もすこしはマシになるだろう。

 そう思い、寝室に足を運ぶと――

「……あり?」

 布団のうえで。

 何故か、自分のお腹のうえに、優香を腹ばいにさせて寝かせ、綾乃自身も眠っていた。

 11月だというのに、掛け布団もかけず。――寒くないのか?

 変な寝方をするものだと、丈一郎は思った。重くないのか? ううむ……。

 数秒悩んだ末。このままだと、綾乃の腰に負担がかかるのではないかと思い、丈一郎は、優香のからだに手をかけた。

 柔らかい。

 というのが、丈一郎の印象だった。赤ちゃんのからだに触れるのはこれが初めてだ。丈一郎は、抱っこはおろか、ろくに触れたことすらない。空港で頭を撫でたあのときだけ。

 骨があるのかと思うくらい、からだじゅうがぶにぶにで。戸惑いつつも、丈一郎は、赤ちゃんの脇腹に、両の手をぐっとかけて、……布団に置けばどうにかなるだろう。そう思い、優香を起こさぬよう、留意して置いた――

 つもりだった。

「あっ」

 意外と、優香は重かった。滑らすように布団に置くつもりが、ちょっと力が入ってしまい。途端。優香の顔がぱっと赤く染まり、鼻の穴が膨らみ、

「ひ、……ぎゃああああ!」

「えっなになに!?」素早く綾乃が身を起こす。綾乃を慌てて引きあげ、そして慣れた感じで胸に抱き、「よしよし、優ちゃん。大丈夫よ。ママがいるよ」と声をかける。

 続いて綾乃は疑問を口にする。「なに。優香、どしたの。あなたまだ、寝返りも打たないし、ママのお腹から落ちたわけ、無いよね?」

「あ、おれ……」泣き声に妨げられつつもなんとか説明する。「おれが、優香を寝かせようと……」

「なに、やってるの」綾乃のためにしてやったことなのに。あろうことか綾乃が丈一郎を睨みつける。「……優香は、ラッコ抱きじゃないと、絶対に寝ないの。背中に布団がついちゃうと百パー起きるの。『モロー反射』って知らないの? ……ったく。もうさあ。……その辺、考えてから行動してくんない?」

 丈一郎だって、ちゃんと考えた末で、正しいと思った行動を選択した。

 なのに、この言われよう……。

「あーもう最悪。さっき授乳したからもう授乳で寝かす手ぇ使えないし」よっこいしょ、と綾乃が優香を抱っこしたまま立ちあがる。

「……なにしてんの」と丈一郎が訊く。すると、綾乃が、首をひねると、険しい顔を向け、

「けいちゃんが起こしちゃったから、抱っこで寝かせようとしてんでしょ!」

 更に、優香が、泣く。状況最悪。負のループだ。

 綾乃が、丈一郎の横をすり抜け、居間のほうに行ったと思いきや。

 ベランダのドアを開く音がしたから、丈一郎は本気で驚いた。「なにやってんだよ!」

 既にベランダ用のサンダルに片足を入れた綾乃が振り返る。「なにって、……寝かしつけ」

「外。寒くないのかよ。赤ちゃんが風邪引いたら、どうすんだよ」

 怒りの感情に綾乃の目がかっと見開いた。「別に、一時間もいるわけじゃないし! あのさあ、実家でも、この子ずーっと何時間も泣くから、そのとき、庭とか連れだすとマシになったの! けいちゃんが起こしちゃったから、わたしはこの子を寝かせようとしてんの! だからもう、邪魔しないで!」

 ――邪魔。

 これでも、綾乃のためにいろいろとやってきたつもりなのに、『邪魔』呼ばわりされるとは……。

 二年前とそして一年前の綾乃の誕生日とはとんでもない差だ。ぶつけられる怒りと……孤独。

 丈一郎は、黙ってドアを閉めた。ベランダで、綾乃は背を向け、優香を抱っこしている。丈一郎の知らない童謡が聞こえてきた。ガラスたった一枚を隔てた世界。

 手の届くところにあるのに、ずいぶんと隔たって感じられる。四ヶ月という期間が、これほど重いとは。

 丈一郎は、内面に傷つきを感じた。しかし、

 二人きりにさせてやろう。

 それが一番だと思い、二人に背を向けた。

 * * *

 風呂に長ーく浸かり、スマホで課金をし、ニュースに目を通し、2ちゃんもちゃんとチェックしてからあがるのが丈一郎の日課。

 風呂あがりにはビール。発泡酒のたぐいではなく絶対に『ビール』。これも、欠かせない。……さすがに、綾乃が妊娠中は自粛していたが、彼女が実家に帰っているあいだは期間限定で再開した。下半身にタオル一枚巻いたままでプハーッとやるのが、ものすごい開放感を伴うのだ。

 さすがに、いまは、まずいか……。

 そういうわけで、丈一郎はきちんとからだを拭き、パジャマに着替えてから、洗面所を出た。右手にある冷蔵庫を見たときに、誘惑に駆られたが、ぐっとこらえた。

 居間の時計は十七時ちょうどを指している。ご飯、どうすっかな……。例年、綾乃の誕生日にはステーキを焼くか二人で外食をしていたが。あの調子だと無理だろう。帰ってくるときも綾乃がかなり疲れていた様子なので買い物もなにもできなかった。美味しい出前にでもするか。訊いてみよう。

 足音立てぬよう寝室に歩を踏み入れれば、綾乃は、優香をラッコ抱きしたままで、寝ていた。眠っているようだった。綾乃の言う通り、貝のように我が子を抱っこしているポーズは、確かにラッコにしか見えない。

 積み上がったままの段ボールが目に入ったが――どうせ、手を出したら、また余計なことをと叱られるに決まっている。

 それに、丈一郎は神でも仏でもないのだ。理不尽な物言いに腹を立てることだってある。

 思い返すと、なんだか胃がむかむかしてきて、とりあえずテレビを点けた。そして、大好きなFoo FightersのライブDVDと、缶ビールを取りに行った。

 寝てるんだから、なにしたって、自由だろ。

 悪態をつきたい心境ですらあった。

 * * *


 ぎゃあ。ぎゃああ……。


 なにか、遠いところで声が聞こえた気がした。とても、不愉快とさせるたぐいの。

 眉間に皺を寄せる感覚とともに、ゆるやかに、意識を取り戻す。

 既にDVDの再生を終えた真っ暗なテレビ。続いて、飲みかけの缶ビールが目に入る。ああ、ジュディマリの歌じゃあるまいし。ぬるくなってしまっている……と、真っ先に思ったのだった。

 おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ!

 丈一郎の眠りを妨害したあの声が、明確な発音となって丈一郎の耳に届いてくる。「あーもう」と寝室からけだるげな綾乃の声。「なんで、一時間もしないうちに、また起きちゃってんの……」

 優香は、二人で欲しいから、作った子だ。

 なのに、なんでこんな綾乃が嫌そうにするのか、丈一郎には意味が分からない。母親になるのがそんなに嫌なら、最初っから作らなきゃ良かっただろ。率直に思ったのがそれだった。

 まあ、初めての子育ては大変だと聞くし……。

『顧客』の声を思い返す。リアルで子育てをしている両親よりも、孫の世話をする祖父母世代から話を聞くことが多かった。圧倒的に多かった声は、いろいろしてやってんのに、感謝しない、嫁。息子夫婦のリフレッシュのためにと孫を預かってやったのに、礼を言わないとか。特定の食べ物をあげると露骨に嫌そうな顔をするとか。授乳中もスマホを離さず。スマホアプリに子守をさせる。

 彼らの語った悪しき嫁のイメージと目の前の妻が重なった。たまらず、「おい」と声を発した。

「……なぁに」ぎゃあぎゃあ泣く優香に顔を歪めつつ綾乃が振り返る。

「あのさあ。嫌々育児するの、やめろよ。そういうの、絶対優香に伝わると思うぜ」

「……っ」なにか、言いたいことが出てきたのだろうが、抑えこむ綾乃。どうやら彼女は『行動』を選択したようだ。ぷい、と綾乃が背を向け、そして、泣き続ける優香に声をかける。大丈夫だよー、ママがいるよー、と。

 正しいことを言ったのに、そんな顔をされる意味が分からない。

 短時間のあいだに二度も無視されたのも、解せない。なんだろう。育児をすると極端に性格が悪くなるとでもいうのか。

 とりあえず、丈一郎にできることはなさそうなので、リビングに戻り、テレビを再び点ける。といっても、リビングにまで泣き声が聞こえてきて、音楽を聴くどころではなかった。

 ひとりきりだった四ヶ月間を思い返す。あれは、天国だった。

 自分で掃除洗濯をしなきゃならないのは面倒だった。綾乃の作る手作りの弁当や夕飯も恋しかった。でも、普段の食事がカップラーメンやコンビニの弁当でも、たまに仕事帰りにラーメンなんか食べると非常に美味しく感じられた。それに、仕事に支障が出ない範囲で、いくらでも夜更かしができたし、好きなサッカーもライブもいくらでも見れた。ご飯を食べながら片手でゲームもできた。リビングで煙草も吸った。いずれも、綾乃が一緒だと注意された事項だ。

「あーあ」赤子の泣き声に負けじと、丈一郎は声を張った。「なんで、こうなっちゃったんだろうなあ!」

 丈一郎の考えでは、母親は常に笑顔で、喜んで子どもの世話をする。そういうものじゃ、なかったのか……?

 いま見る綾乃は、丈一郎の知る綾乃とはまるで別人だ。丈一郎は、戸惑いを、隠せない。

 泣き声を邪魔だと感じつつも、とりあえず、スマホで『産後 イライラ』で検索した。

『産後のイライラの原因は旦那さんにもある』

 驚いてそのページを開いた。

 どうやら、産後の妻がイライラする原因は、『ホルモンバランスの崩れ』『夫など周囲の人間の無理解』『睡眠不足、育児疲れ』『孤独』にあるようだった。

 丈一郎は、ざっと検索結果の先頭の10件に目を通した。イライラ対策は以下のとおりだった。

『家事に完璧を求めない』

『ひとりの時間を作る』

『夫に育児をさせる』

 ソファに寝そべり、スマホをタップしながら、丈一郎は瞬きをする。――意味が、分からなかった。

 綾乃は、育児に専念するために会社から休暇を頂戴している。なのに、……何故。周囲の助けがいるというのか。理解不能だ。

 丈一郎は、勿論、外で仕事をしている。営業職ゆえ、神経も遣うし疲弊もする。なのに、疲れて帰ってきてからも、休暇中の妻を手伝ったりしなければならない? 仕事はして『当たり前』だ。なのに、育児だけこんなに特別扱いされるのはなんなのだろう。

『甘え』じゃないかと、丈一郎は思った。丈一郎の勤める会社はIT企業ゆえ、社員は残業も多い。百時間どころか二百時間超えもざらだ。それでも、残業代が全額支給される会社だからまだマシだが。といっても、マネージャークラスになると固定給があがるゆえ全額出ないのはよくある話。

 一ヶ月で三百時間以上働いた社員の顔を思い返す。どんなに育児が大変でもあいつほど寝れない状況ではあるまい。あいつのほうが、よっぽど手助けが必要だ。

 それに。仕事は生活のために行う苦行。一方、育児は自分たちが望んで楽しくするものだ。仕事と育児のどっちが大変かといえば、決まっている。丈一郎の見る限り、赤ちゃんと接する母親はいつも楽しそうで、自分のミスでもないのに頭を下げなきゃならない仕事とはわけが違う。いくら拘束時間が長くっても、仕事ほどきついはずがないし、仕事の残業地獄よりか全然寝れているだろ?

 やれやれ、と首を振る。検索結果は質問板や個人ブログばかりで、専門家が書いたのはゼロ。素人意見のみ。プロフェッショナルの意見が欲しかったのに、その手のページは見つからなかった。つまり、専門家がそう判断したということ。書くまでもない、或いは書く必要がない、と。

『育児はリフレッシュと手助けが必要』

 が、世の中の流れがそう来ているなら従うほかあるまい。ひとまず、丈一郎はそう結論したのだった。

 * * *

 優香が泣き始めて一時間が経過。丈一郎は、空腹を感じた。もう、十九時を過ぎている。いまから買い物に出かけるのもだるいし、やはり、出前で済ませるべきだろう。

 そう決断し、寝室に入ると寝ていた。二人とも。

 いったいなんなのだろう。優香はともかく、綾乃は昼寝をする小さな子どもじゃあるまいし、寝過ぎじゃないのか。すこし、腹を立て、丈一郎は綾乃の肩を揺さぶった。「なあ、綾乃。飯、なんにする?」

「う、うん……ちょっと、いま、寝かせて……」

「もう、七時過ぎてるぜ」弱々しく答える綾乃に対し、丈一郎は、腹筋を使って声を出した。「あのさあ。おれ、お腹空いたから、とりあえずなんか頼もうぜ」

「じゃあ、……なんか、持ってきて、出前のチラシ……」

 綾乃は目を閉じたままだった。わざわざ取りに行くのも面倒に感じられたが、綾乃の命なら仕方あるまい。出前のチラシを入れたファイルを取りに行き、ラッコ抱きで優香をお腹のうえに乗せたままの綾乃に手渡した。「はい」

「あ、りがと……」なんだか綾乃は辛そうな顔をしている。「なんか、根菜類がいいんだけど……」

「根菜類って、ごぼうとか? なんで?」

「母乳の出がよくなるから……」

「ふーん」丈一郎も、ばさばさとチラシを出し、目を通す。種類別にソートもかけず、古いものも新しいものもしっちゃかめっちゃかに入れているから探すのが大変だ。「あっ」と思いついて丈一郎は声を出した。「ならさ。ピザは? なんかおれ、すっごくピザ食べたい気分! おまえ誕生日なんだから食いたいもん食おうぜ!」

 綾乃が妊娠中、好き好んで食べたのを思い返し、丈一郎がそう言ってみると。

 ばさり、と音がした。

 綾乃が、手に持っていたチラシを落としてしまった。いや――わざと、落としたのか。というわけで、二十枚以上はあるだろうチラシが布団のうえに散らばる。

 かき集め、丈一郎は目をあげる。「……なにやってんの。わざと?」

「……けいちゃんのほうこそ、なんなのよ」

 押し殺した綾乃の声。「ピザなんて、……食べたくても食べれるわけないじゃない。そんなことも、知らないの?

 あのさあ。ひとが、育児でてんてこ舞いで苦しんでたときに、けいちゃんは、いったいなにをしてたの。ひとりで、羽伸ばしてたり、してた? 女の子と遊んだり、友達と飲みに行ったり、した?」

「するわけないだろ」丈一郎は怒気をはらんだ声で答えた。「綾乃のほうこそなんなんだよ。意味分かんねえよ。育児してるのがそんなに偉いのか? 世の中のお母さんがみんなやってることじゃねえか。おれだって、仕事で疲れてるのに、綾乃のこと考えていろいろやってんのに、そんな言われよう、いくらおまえがおれの妻だからって、される筋合いもねえし意味分かんねえよ。おまえ、――」一旦丈一郎は言葉を切り、

「……実家に帰って、甘やかされすぎたんじゃねえの?」

 綾乃の弱いだろうところを突いた。

 綾乃の目が見開いた。沸きあがる感情を押さえ込み、「言っていいことと悪いことがあるでしょう」と怒りに満ちた声。

「けいちゃん。無理解にもほどがある。いい加減にしてよ。……初めての育児に苦しんでるひとに言う台詞じゃないでしょそれ。

 わたし、確かに実家に帰ってたけど、だからって、遊んで暮らしてたわけじゃないよ。

 一時間に四回も授乳したり、何時間も泣いてる優ちゃんをあやしたり、産後のダメージの戻らないからだで抱っこしておむつ替えてお世話しての繰り返しで、……本当に、大変だったんだよ。

 なんで、けいちゃんには、それが分からないの」

「さっき、スマホでいろいろ調べた」丈一郎は、綾乃の感情に引きずられないよう留意しつつ、口を動かす。「産後って確かに大変なんだってな。けどな。みんな、それなりに大変なことやって生きてるんじゃないのか? おれ、営業やってていろんな人間の人生見てきたけど、誰のどんな人生も大変だぜ? 正直、育児だけ極端に特別扱いされる意味が分かんねえよ。だってさ。

 専業主婦ってすごく優雅な感じじゃん? 旦那の稼ぎで飯食って好きなもん買ってさ。好きなドラマもいくらでも見れて、……朝おれ、ごみ出しに行くときにいつも見かけっけど、往路と復路どっちとも、楽しそうにくっちゃべってんだ。ひとが仕事の時間気にして急いでるってんのに、邪魔なところ突っ立ってたりしてさ。あと、中庭走り回ってる子どもほったらかしで喋ってる母親も見かけっし。なんなんだろうなあれ。

 それに比べると、仕事のほうが断然大変だと思うよ。嫌なこともたくさんあるし、自分がやらかしたわけでもないのに、お客さんにぺこぺこ頭下げなきゃなんねえし、なんかあったらすぐ駆けつけて対応しなきゃならない。育児は睡眠時間の確保も大変とか言われてっけど、おれの業界だと残業時間百時間超えとかザラだぜ。あれとなにが違うっての。

 そもそも。綾乃とおれは、子どもが欲しくて作ったんだろ? なのに、……いまさら後悔したって、仕方ねえだろ。つか、する意味が分かんねえよ。

 だいたいな。育児休暇取得しといて仕事してねえくせに金まで貰っておいて。イライラしながら育児してんじゃねえよ。なんのために休んでんだおまえは。それと。怒りを優香に、ぶつけるな。おれにぶつけるならまだしも」

 それまで溜め込んでいたものを丈一郎は一気に吐き出した。――誕生日おめでとう。

 のちに。そのことを伝えられなかった2017年11月11日を思い起こすたびに後悔に苛まれることを知らずに……。

 呼吸を整え、膝に手を添えたまま、顔を起こす。暗い、瞳がそこにはあった。それは、丈一郎の知る綾乃のそれとは違った。初めて見る綾乃の表情だった。

 綾乃は明らかに無理に作ったと分かる笑みを浮かべ、


「……とりあえず。けいちゃんになに言っても無駄だってことはよぉく分かった」


 ――なにか。

 とんでもないことを自分がしでかしたのではないかと、丈一郎は直感した。

 けれども、保守的な丈一郎の人格がそれを否定した。いいや。

 母親としての自覚を育てるのが大切。彼女には、自分になにが欠けていて、それと向き合う作業が必要なのだ。


 向こう一ヶ月。ことあるごとに綾乃からの怒りを買うたびに、丈一郎は自身にそう言い聞かせるのだった。


 *
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