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第四部――『なによりも大切なこと』
◇1
しおりを挟むぎゃあ。ふぎゃああ。ぎゃああ……。
耳障りな声が聞こえのそのそと身を起こす。子どもが生まれて以来――否。妊娠後期に突入して以来、連続で三時間以上眠れた試しがない。半年間の疲弊が、ボディブローとなって、綾乃の心身を蝕んでいた。――疲れた。
たまにはゆっくり、寝たい……。
けども。
いまは。マンションにひとり。手伝ってくれるひとなど誰一人としていない。自分だけだ。丈一郎は会社。だから身を起こし、なんなのよと喚き散らしたい自分を覆い隠し、笑顔を作って応対する。「どちたの。優ちゃん。おっぱい?」
ふぎゃあ。ふぎゃあ。と顔を真っ赤にし泣きわめく我が子。時計を見る。母乳はさっき寝る前にあげたばかりだ。三十分前。おむつは。濡れていない……。
このパターンの繰り返しで、綾乃はいつも絶望的な気分になる。――何故。こんなにも泣くのか……。
よっこいしょ。とラッコ抱きの姿勢から立ちあがり、我が子を抱っこしひとまずベランダに向かう。……ベランダに向かうたび、先日丈一郎にかけられた台詞が胸を刺す。
――なにやってんだよ!
あれ以来、丈一郎は、綾乃が赤ちゃんを抱っこでベランダに連れ出してもなにも言わず。黙認している様子だが。綾乃が苦しいのは、夫の無理解。
育児の大変さを理解してくれない彼の心理、なのだった……。
ひとり。誰もいないのに、音を立てぬよう静かにガラスドアを開け閉めする自分が滑稽だった。ベランダに出るとクロックスのサンダルに足を入れ、
「よーしよーし。大丈夫だよ優ちゃん。ママがいるよー」
声音に寂しさがこぼれ出てしまうのはどうにもならない。気丈に振る舞おうとするたび、自身や世間の求める理想の母親像と乖離した自分。突き放した丈一郎の態度。あたたかな実家――を、思い出してしまうのだった。
とはいえ。
実家も決して――過ごしやすかったとは言い難い。
両親や兄夫婦はよくしてくれた。だが、問題は。
母が、里帰り出産をする綾乃のためにとわざわざ雇ってくれた、ベビーシッターの人間だった。
あのひとに悪気はないのだろう。だがその人間は。
綾乃の抱っこひもを見れば「えっらいおしゃれなもんやあるげねえ」とぼやき。おもちゃが多いのを見ては「こんなに買うてもろうて。優ちゃん恵まれとるねえ。感謝せなあかんよう」と物心もつかぬ我が子にかるくお説教をし。
綾乃の洋服が豊富なのを見ては「あらまー。綾乃ちゃん、子どもて金かかるげから節約せねば駄目やわいね。うちの子んときなんかこんなに買うとらんかったよ」……挙句。沐浴用や日常使うガーゼがたくさんあるのを触るたび、「あたしらんときはこんなんなかったわ。いまの子って恵まれとるんやねえ」
はっきり言って。『口うるさい』女性であった。
その女性の台詞は。ただでさえ出産で疲弊し。初めての育児にてんてこ舞いの綾乃の神経を逆なでした。かつ。
「あーら。なしてこんなに泣いとるんげろうねえ。お母さんのおっぱいが足りんがかねえ」――一日中泣き続ける我が子に対してそんな台詞をかける。
それが、我慢、ならなかった。
あるとき綾乃は沸点を迎え、とうとう言い返した。「――二週間検診の結果は母子ともに問題なし。お医者さんのお墨付きを貰いました。母乳は充分に出ています。泣くのは――
この子の個性です。ですから。
この子が泣くたび、母親のせいにするのは、やめてもらえませんか」
それを聞いてそのベビーシッターの女性は綾乃の母親に泣きついたらしく。あとから、綾乃は母親に怒られた。なお、その女性の派遣元は、昔から綾乃の母が家事手伝いを頼んでいる人間と同じ会社であるため、今後の付き合いを考えると、それ以上ベビーシッターの人間の悪口を言うことは憚られた。ただし、綾乃的には、自分が悪いことをしたなどとは一切思っていない。それに。
綾乃としては、持ち物にいちいち突っ込みを入れられるのが不快であった。いつも的確な突っ込みを入れる浜田雅功ならまだしも。あのクオリティには程遠いゆえに面白くもないと来た。例の女性が突っ込む理屈はケチをつける心理と変わらない。自分と違う人間を排除する差別心理は同じだ。――確かに。その女性の言うとおり。
綾乃は、子どもに金をかけている。だがそれは愛情ゆえ。赤ちゃんや自分を不自由にしないため。かつ。
高給取りになるのはそんなに簡単なことではない。綾乃は。
学生時代に留学を経験し、英語が堪能だと胸を張れるレベルに到達した。なお、留学したからといって必ず皆がそのレベルに至るとは限らない。短期留学だと日本人同士で仲良くなって英語ではなく関西弁を覚えて帰ってきた同級生が居たというのはすべらないもとい笑えない話。――綾乃は帰国してからTOEICの勉強をし、スコア900点超えを記録した。大学では親が出してくれる学費を無駄にせぬよう熱心に勉強をした。違う学部の簿記講座なんてのも受講し、四年間で140単位以上を取得した。必要な単位を曙ばりにオーバーした数値だ。就職は。
誰にも頼らず、自力で、将来保育園に子どもを預けた場合に18時お迎えを満たす条件。かつ自身の武器を活かせるところを探し、定年まで勤め上げたい会社に就職を決めた。それも、これも。
綾乃や。綾乃を大切に育ててくれた両親の成果だ。努力なしではいまの生活は成り立たない。だが。
優香の世話を手伝ったその人間は。そうした事情を一切加味せず。吟味せず。表層的な、『共働きで稼いでいる都会の夫婦』――その事実だけのみに着目し。ときに妬み、ときに羨み、あからさまな態度に出してくる。……綾乃も雇われの身だ。『仕事』をしている立場においては同じだというのに、あまりの無理解に彼女は内心で呆れた。繰り返すが、お金を稼ぐのはそんなに簡単なことではない。
丈一郎も、給与のいい会社に勤めてはいるが、残業代が全額支給される会社を彼は選んだし(二人が就職した当時、IT系で残業代が全額支給されない会社は決してレアではなかった)――もっとも。部長クラスに出世すれば『出ない』『一部支給』になるのが一般的だが。夫も、努力をしている。帰宅は遅いし、仕事に食らいつくために懸命に仕事以外の時間を仕事のために費やしている。
綾乃だって同じだ。実際仕事に就いてみて、予想と違うと思って辞める人間も珍しくない職種だった。確かに、大変だ。期限はあるし英語は正確性が求められる。仕事を迅速にこなす頭の回転の速い人間でなければ務まらない仕事だ。一人前に育つまでに綾乃は一年の期間を要した。なかには、半年で育った強者もいるらしい。――だから。
自分たちがどれだけの努力をしてきてこの生活をキープしているのか。いままでの人生で、これからの生活で。そこを探ろうともせず、上澄みの、『なんやら都会でよう稼いどる連中』――都合のいいその事実だけを抽出する田舎者のその深層心理を、綾乃は、嫌悪した。――同じ匂いは、故郷緑川の友達からも放たれていた。持ち物がいいおもちゃがいい綾乃が身ぎれいにしている――彼女たちはときには言葉で。ときには目線のみで。それを態度で示した。
母に相談したところ。どうやら都会に住んだことのない母にはその感覚が分からないらしく。「そんなもんやわいねえ」笑ってあしらわれた。格差社会において、ある程度面の皮が厚くなくては、強者の側など務まらないらしい。綾乃の母は、そうした目線に決して鈍感ではないが。笑って受け流せるタイプの人間のようであった。
――杉野(すぎの)さんやって。悪気があるわけやないんやし。優香ちゃん世話してくれんの、ありがたく思わな駄目やよ。
最終的には自分の雇ったベビーシッターのフォローに回る。……母と話しても無駄だと感じた。
天才は、生まれながらにして天才などではない。――確かに。天賦の才というものを持った人間は世の中に存在する。だが。
世間一般の人間が思うほど、その地位を維持し続けることは、簡単ではない。努力も才能のうち。よく言われるとおりだ。そのからくりと同じで。
高給取りがその職に就きその座をキープし続けるのも、大変な労苦を伴う。だからこそ、たまに金を遣うことで憂さ晴らしもするし。
だからこそ、自分や家族にいいものを買ったり。美味しいものを食べたりする。――それも、ストレス発散の一種だ。それまで奪われてしまっては、とても、やっていけない、と綾乃は思うのだった。
決して、散財しているわけではない。だが。
愛するひととの初めての子どもが生まれ。お金を遣うことに対し――都度揚げ足取りをする人間の心理を、理解できなくもないが。理解したくないと彼女は感じた。
努力の成果だ。自分の金だもの、好きに遣ってなにが悪い――そう言ってやりたいのはやまやまであったが、前述の事情ゆえ、彼女は我慢した。だが。
ベランダからまだ明るい空を見上げる。田舎よりもそのいろはくすんでいた。向こうに居た頃は、母や兄一家が仕事があるなかでもちょくちょく様子を見に来てくれた。いまは誰もいない。気軽に話せる友人も知人も。一日がこんなにも長いなんて――
子育てをしてみるまでは、思ってもみなかった。
こうして過去を回顧しているあいだにも、彼女の聴覚は絶えず暴力的なまでの泣き声に支配されている。ゆっくり考えごとをすることも許されないのだ。自分のからだがこころが、悲鳴をあげているのを感じられる。この孤独に比べれば。
あのベビーシッターの女性に世話をしてもらうほうが、マシだった。
産後二ヶ月で実家を引き上げたのは。例の女性の小言が鬱陶しかった――それも理由のひとつではあるが。
元の、生活に、戻りたかった。これが、大きな理由だ。
大好きな丈一郎と、最愛の我が子と、また日々を一緒に過ごせる――彼女の、期待感は、強かった。
実家では、半年近く休暇が残っているのだからまだ居たらいいのに、としつこく引き止められた。頻繁な妬み混じりの小言を除けば、ベビーシッターの女性はそれなりにはやってくれた。いまひとりでこうして初めての育児に伴う痛みに孤独に耐えているのを思えば、そばに必ず誰かがいて、優香の抱っこをしてくれるだけでも充分助かった。流石に夜中にミルクを作るのはひとりで行ったが。
なのに。
丈一郎と来たら――、
『……実家に帰って、甘やかされすぎたんじゃねえの?』
思い返すだけで腹が煮えくり返る。あの台詞。あの態度。――出産という命がけの仕事を終えた女性にかけるべき台詞だなんて到底思えない。けいちゃんは、育児をいったいなんだと思っているのだろう――綾乃の、内心での丈一郎に対する不満は、鬱積するばかりだ。綾乃が戻ってきてからの、彼といえば。あれ以降。
会話らしい会話をしていない。平日は、丈一郎の帰宅が遅いし、帰宅してからや風呂からあがってから、優香の顔を覗きに来る、その程度。そんなときに限って普段は泣いてばっかの優香は必ず寝ている。
夫は、最愛の我が子を抱っこすらしないのだ。――父親なのに。
父親のくせして。
綾乃がここに戻って一ヶ月も経つというのに。実家にいる綾乃の両親や兄夫婦のほうが、よっぽど、優香のことを抱っこしてくれた。この事実を直視するたび、綾乃の胸の奥は切りつけられたように痛む。
その痛みは鋭く。いままでの優しい丈一郎のイメージを切り刻んでいく。あまりにも酷薄で。あまりにも冷徹――。こんなひとだなんて知らなかった。失望感のほうが綾乃のなかでは強い。
休日は、綾乃が抱っこ紐で優香を抱っこして三人揃ってドラッグストアやスーパーに行くことはあれど。それ以外は彼は自由に過ごしている。独身時代やDINKSの頃と日常生活のさして変わらぬ丈一郎は、沐浴の仕方も知らない。知らずじまいで終わるのかもしれない。あの調子だと。
――専業主婦ってすごく優雅な感じじゃん? 旦那の稼ぎで飯食って好きなもん買ってさ。
――それに比べると、仕事のほうが断然大変だと思うよ。嫌なこともたくさんあるし、自分がやらかしたわけでもないのに、お客さんにぺこぺこ頭下げなきゃなんねえし、……
――育児休暇取得しといて仕事してねえくせに金まで貰っておいて。イライラしながら育児してんじゃねえよ。なんのために休んでんだおまえは。
……育児休暇を文字通りの『休暇』とみなす者がこんな身近にいるとは。失笑が漏れる。政治家がそんな発言をしていたとしたら炎上確実。下手をすれば引退だ。仮に一週間。ぜんぶ優香の世話をけいちゃんに丸投げしたらいったいどんな反応をするだろう。綾乃の結論としては、
(けいちゃんに、なにを話しても、無駄だ)
時折綾乃は丈一郎の態度に不満を爆発させた。だが。それをしたところで丈一郎の思考が変わるわけではないし、無駄だった。それでも感情の行き所のない綾乃が激高してスルーされる。その繰り返しだった。――思えば。
出産がどんなに大変だったかすら、まともに顔を見て話せていない。綾乃が実家にいるときに電話で語ったことはあれど、あの様子だと果たして丈一郎の記憶に刻まれているかすら――危うい。綾乃の出産は。
初産にしてはスムーズなほうだった。陣痛三時間。それでも。
振り返るとトラウマティックな経験であったことも、否定できない。よくも知らないひとたちに、見せたくないところを晒し。言語を絶する痛みに耐え。全身が筋肉痛になるくらいの、人生一度切りの力を出し。――確かに。
出産は幸せなものだ。最愛の、これ以上ないほどに愛おしい我が子に会えるのだから。だが。出産の苦しい大変な側面を年長者の小言として片づけ、チョコレートケーキをデコレーションするかのように、きゃっきゃうふふと育児のファッショナブルで美しい一面のみを雑誌やCMなどで強調する世間の風潮もいかがなものかと思う。――綾乃的には。
子どもは、ひとりで、懲り懲りだ。
別に帝王切開をしただとか、難産だったわけでもない。なのに。彼女は、そう思うのだった。出産をした日。
トイレに行くのも介助が必要で――からだじゅうが悲鳴をあげていて。助産婦の手を借りねば排泄すらままならない事態に、ああ将来介護が必要になったときにこうなるんだわたし――と、悲しみに胸を切りつけられたようになったし。トイレのお水が真っ赤に染まった。あれもショックだった。巨大なナプキンをつけたのも介護を彷彿させたし、あれが翌朝真っ赤っ赤だったことにも少なからず衝撃を受けた。
入院生活は言葉で言い表せないくらいに大変だった。大部屋で、ひっきりなしに誰かの赤ちゃんが泣いていた。帝王切開で出産した女性も多く、あの独特の歩き方を見るたび、ああ痛かったのねと――辛い痛みに耐えた自分を慰め。同士に内心で声をかけるのだった。――本当にお疲れ様です、と。
綾乃は何故か同室の誰とも仲良くなれなかった。するつもりもあったのだが、二人目出産のお母さんは母乳の出が悪いらしくしょっちゅう助産婦に相談しており余裕がなさそうだったし、同じ初産の相手はもっと切羽詰った様相。出産が立て込んでいるうえに同室には危うく出産で命を落とすところだった女性もおり。産後二日経っても痛い痛いと呻いていた。順調過ぎる綾乃親子にさほど手をかけられぬ様相だった。確かに彼女に比べれば綾乃のお産は軽いものであった。――せっかく地元に帰ってきたのに、病室には見知らぬ人ばかりで、入院中の綾乃に見舞われたのは厳然たる孤独、だった。
細切れの睡眠。産後の疲弊。入院中の孤独。それらは着実に綾乃を蝕んでおり――
退院時。母子ともに問題なし、とは言われるものの。綾乃は。
おむつを替えてもおっぱいをあげても泣き続ける赤ちゃんに――疲れてしまった。ベビーシッターの女性ですら「ほんとによう泣くねえ、この赤ちゃんは……」困り顔をする有様だった。
睡眠不足で朦朧とした頭で、携帯で必死に検索をしたのを憶えている。『寝ない 赤ちゃん』『寝ない 新生児』――どうやら寝ない赤ちゃんというものは珍しいものでもなんでもないらしく。むしろ、生後三ヶ月くらいまでは常時泣きっぱなしも当たり前、なんだとか。なかには、二歳を過ぎても夜泣きで夜中三度起きる――なんてブログを見つけて。綾乃は恐怖に震え上がった。――いまですらこんなに辛いのに。
これが、あと二年も続いたら……。
自分の、精神は、どうなってしまうのだろう。
泣き続ける赤ちゃんを相手しているゆえ、綾乃の思考は低下し、普段ほど冷静に物事を捉えられなくなり、ナーバスになった。いわゆる産後うつだったのだと思う。周りに恵まれていたし、例えば赤子を虐待するレベル――にまでは、至らなかったが。それでも、綾乃は。
真っ昼間。ベビーシッターの小言を聞きたくないがために、庭に出て我が子を抱っこする。――急に涙が出てきた。庭師を雇って手入れしている庭の装飾も、その緑の色もまったく目に入ってこない。世界が、灰がかって見えた。
――なんで、わたしだけ、こんな目に!
――もう。いい加減にしてよ! 泣き止んでよ!
喚き散らしたい自分が確かに存在した。なんでなんでこんなに泣くのだ。こんなに一生懸命やっているのに。いったいなにが足りないのだろう? いったいどうしてこんなに優ちゃんは泣いてばかりなのだろう。こんなに泣かれるとまるでわたしが――
ひどい母親、みたいじゃないか。
苦しかった。切なかった。涙がとめどなく溢れてどうしようもなかった。――そのとき。
ふわ、と腕のなかの赤子が逃げていく。
無理やり奪う類のものではない、やさしい力だ。見れば。
慣れた手つきで優香を抱っこしてくれる女性がいた。――義理の姉だ。兄貴の奥さんの……、里織(さおり)さん……。
泣き濡れる綾乃と目を合わせると、微笑みかけてくる。「綾乃ちゃん……。
優香ちゃんのことはいいさけ。奥行って泣いといで? ……全然眠れとらんのやろ?」
兄嫁の里織は、綾乃が使っている客間を見やると困ったように眉を下げ、
「……大変やねえ。綾乃ちゃんも……」
目を見ただけで綾乃にはぴんと来た。里織さんは……、『分かって』いる。「とにかく」と言葉を切ると、
「一時間でも二時間でもからだ休めるだけでだいぶ違ってくるわいね。……そういうん、ほんとは、杉野さんが言ってやらな駄目やがに……、ごめんなあ。お義母さんの手前、わたしも強う言われんのよ。今泉(いまいずみ)さんにはようしてもろうとるさけ……」
今泉とは、綾乃の実家の家事手伝いをしてくれる女性の名だ。その女性は杉野とは違い、プライベートに干渉せず、仕事は仕事として割り切ってやってくれている。綾乃も、小さい頃から今泉には世話になったから――直接的にではなく、家の手伝いをしてもらうというかたちではあるが――今泉の、松岡家における立場を悪くしたくなどなかった。これはこれ、それはそれだ。
義姉の勧めに応じ、綾乃は、なかに入り、敷きっぱなしになっている布団に横になった。杉野の顔すら見なかった。もう、どうでもよかった。
とにかく、寝たかった。
とにかく。楽になりたかった。
陣痛中は腰をハンマーで殴り続けられるような痛みと戦い続けたが。その後遺症は残っており。腰が痛くて痛くてたまらないのに、ほぼ丸一日抱っこをし続ける――これが、とんでもない苦行であった。抱っこなんてしたくないときもあるのに、すればぴたっと泣き止んだことがあるのだ。座って抱っこだと感づいて声が大きくなる。赤子の鋭さに綾乃は震えた。
綾乃の兄である松岡康平・里織夫婦は、松岡の実家とは同敷地内に別宅を建てており、いつでも気軽に行き来できる間柄。母が、息子夫婦におかずを持っていくなんてのもよくあること。なお、その別宅が手狭と考えてか、近くの山の中腹にプール付きの別荘を構えており。兄夫婦が子どもたちを連れ頻繁に遊びに行くとのこと。――その後。
ときどき里織が助けに来てくれることはあれど。あまり行き過ぎると義母や杉野の顔を潰すことになりかねない事情は綾乃にも分かる。抱っこをしてくれたり世間話をして長時間居座らぬことがほとんどであった。
でも彼女は手を握り、こう言ってくれた。――辛くなったらいつでも言ってな、と。
されど。里織も嫁ぎ先の家業を手伝う、小学生二人の育児の真っ最中の母親であり――とても、親族の子どもの面倒など見きれない。であるからこそ、綾乃の母は、わざわざ外部の人間を雇ったのだ――その事情は理解できるからこそ。
自分が、この負のループから抜けるには、実家を抜け出るしかない――。自分のからだの調子もやや上向きになった二ヶ月後に、彼女は踏み切ったのだった。されど。
いまの、綾乃の胸に去来する悲しみと苦しみ――。都会で子育てをする母親は皆、このように耐えているのか。赤ちゃんが泣いたとき、いったいどうすればいい――?
綾乃の、まなじりから、涙がこぼれた。――お義姉さん。助けて。こんなとき、どうすればいいの――。わたしは。
寂しくて辛くてここから逃げ出したくてたまらない……。
虚ろな目で、赤子の泣き声を耳に入れつつ、ベランダの手摺のほうへと近づく。下を覗き込みそうになり、ぞっとした。――いけない。
自殺する人間の心理が、トレースできた。ここから飛び降りれば――
楽になれる。
自由になれる。
いままでこころの全部を覆い尽くしていた苦しみや憤りから開放され、天国へと行ける。その際。
どんな痛みを伴うかまでは綾乃の知るところではないが。
(……出産より、痛いはず、だよね……)
後ずさり、ふぅと息を吐く。――昔。兄貴の持ってた自殺マニュアルなんかで読んだ。高層階から飛び降りないと、意識が残ったまま、下に打ち付けられる痛みに悶絶する羽目となる。飛び降りるなら絶対に高層ビル。なにをどこまで読んだかは忘れたが、綾乃は、その教訓だけを無駄に記憶している。
「優ちゃん……。
こんなママで、ごめんね……」
綾乃の頬を涙が伝う。泣き疲れて眠った優香を見て真っ先に『よかった!』という感情が走ったのだ。彼女が娘に詫びた理由は。
優香が苦しみから解き放たれたことに対してではなく。――自分が。
あの耳を刺す泣き声を聞かずに済むこと。そのことに対してであった……。
一日中泣き声を聞いていると、最初の頃はなんとかしなきゃ! と思っていたのがいまは……耳にこびりついてはなれず、ただ、苦しい。耳障りなだけだ。赤ちゃん元気だねーと思う余裕すらない。
足を引きずるようにし、部屋に入り、布団へと向かう……。いつも、娘をお腹のうえに乗せたまま眠るので、寝返りも打てない。自由に行動できない。部屋は、……散らかしっぱなし。洗濯は、丈一郎の分は週末に彼にまとめてやってもらっているし、綾乃と娘のぶんは多めの衣類を通販で追加購入して三日に一度程度で凌いでいる。
料理も手抜き。食べるのは、一週間に一度米を炊いて小分けにして冷凍したものと、二三日に一度大量に作る味噌汁。丈一郎は綾乃がスーパーでお惣菜を買ってきても、その味が合わないらしく、早々に「おれしばらく弁当買って帰るわ」と言われてしまった。
子どもを育てるために育休を取得しているのに、家のことがままならないこの状況……。
優香を起こさぬよう、ゆっくり、敷布団に背中を倒し、綾乃は涙した。――なにに対して泣いているのか。自分でもよく分からなかった。ただ。
誰かに対してめちゃくちゃ謝りたい。――会社の人間。丈一郎。優香。実家で優香の世話をしてくれたすべてのひと……。
「――こんな。人間で、ごめんなさい……」
ひぐっ、と泣きじゃくりをあげ、見慣れた天井を見上げた。いつも同じいろをしている。いつもいつも日中でも暗い色をしている。綾乃の人生同様。
綾乃が泣けば優香のからだも揺れる。なのに。
綾乃の慟哭は留まることを知らなかった。――苦しい。助けて欲しい。誰に? 近所に誰もいないのに。けいちゃんはいたとしてもなにもしてくんない。わたしひとりで世話をするのが普通だと思ってるみたい。
丈一郎が懸命に働き、小池家の生活を支えている。それは事実だ。――が。
「わたしが欲しいのは、あんな言葉じゃ、ないの……」
綾乃は、悲しみを言語に変換させる。丈一郎のあの目線。態度。すべてが――彼の理想とする母親像と乖離していることを物語っている。――かつてけいちゃんとは、分かり合えた仲。だがいまは――。
こんなにも、遠い。
近くにいても、遠いひと。そのことが――
より、綾乃を、深みのある絶望へと追いやった。
救いを求め、我が子の顔を見た。
(このまま起きなければいいのに……!)
それは、瞬間的に走った導火線のような、怒りの感情であった。――この子がいなければ。
――わたしは、自由に動けるのに。
――けいちゃんとも、うまくやっていけてたはずなのに。いつもいつも。泣いてばかりで――邪魔しやがって。
ベビーシッターですらも顔をひそめる難儀な赤子。おまえなんか。おまえなんか……、
は、と綾乃は我に返る。自分は――
やわらかな白い首に手を、伸ばしていた。
(なんてことを……!)
自分のなかに生まれる感情の黒い塊に、彼女は当惑した。なんなんだ。なんなんだこれは。わたしは――
なにを、しようと、していた?
――殺意。
初めて、彼女のなかに生まれる感情であった。こんな感情、いままで誰にだって抱いたことすらないというのに。なのに。なのに……。
綾乃は声を殺して泣いた。泣いているうちに娘同様疲れて眠ってしまった。やっと訪れた休息。静寂。だが。
その時間は長く続かなかった。
赤子が起きたわけではなく――ここちよい眠りを切り裂かれるようなおぞましい恐怖の感覚。夢を食いちぎられたかの苦しみとともに、目を覚ます。
はっ、として彼女は優香の顔を確かめた。――寝ている。
寝ている……。
(このまま起きなきゃいいのに――)
そんな声が自分のなかから生まれる。恐ろしい。世の中の母親はみんな、こんなものなのか。この感情といったいどう戦っている? ――極度の寝不足の頭でまともに思考しようとしても答えが出るはずなどない。ひとまず。
「寝たい……」
お腹に重たさとあたたかみを感じながらも、綾乃は目を閉じた。再び眠りが訪れるようにと。だがその後も。
綾乃は、自分のなかから生まれ出る負の感情に苦しめられることとなったのであった。救われるには――
ある男の登場を待たなければならなかった。
*
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無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
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