少年人魚の海の空

藍栖 萌菜香

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84-少年人魚の友人人魚

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「ハイ、ベリル」

 いきなり思わぬ方向から小さな声で名前を呼ばれて驚いた。見ると、クリスが海面から顔を出している。

「っ!! クリス……どうしてここに?」
 かろうじて驚きの悲鳴を堪えた僕は、慌てて声を潜めて問いかけた。

 ちらりと振り返ると扉を開け放ったキャビンでは、メアリーたちがランチの準備をしている。こちらに気づいた様子はない。

 僕はそんな彼女たちを写真におさめようと距離をとったところだった。ひとまずセーフだ。


 人魚はあまり里から出たがらない。それはクリスも同じはずだ。
 もしかして、里でなにかあったんだろうか……。

「今日は天気がいいし、ベリルが来ると思って様子をうかがってたんだ。ちょっと報告したいことがあったから」

「ほんとに?」
 心配になって問い返す僕に「ああ、ただの報告だ」と答えたクリスは、どことなく以前と雰囲気が違う。

「性転換の実験に参加する仲間が増えたんだ。大婆様がみんなを説得してくれて。人間みたいにオスとメスが半分ずつってわけにはいかないけど、少ないオスが早死する事態は回避できそうだ」

 世間話でもするみたいな軽さで朗らかに笑ったクリスは、そう教えてくれた。


「すごい……」

 これは、本当ならこんな風に軽く口にできるような話じゃない。きっと大婆様も、おばあさまも、クリスだって、大変な思いをしてきたに違いないんだ。

 たぶん、大婆様は、根気強く何度も説明を重ねてたんだろう。おばあさまだって、実験の成功率をあげるための努力を惜しまなかったはずだ。クリスに至っては、周囲からの奇異の視線に耐えなければならなかったと思う。

 人魚岩への信仰と、そのせいで長いあいだ続いたオスへの偏見は、かなり根強かった。人魚岩を失ったいま、種の存続のためには、メスがオスへと性転換して子を成すほかない。

 そうとわかっていても、その道へと踏み出す一歩には、里のみんなもかなりの苦痛を強いられたはずなんだ。これまで信じていた価値観がすべて覆るんだから。


「それと……ほら」
 クリスが胸元の赤い髪を背中へ払い除けて見せた。

「え……ああっ! っと、……クリス……その胸……」
 思わず大きな声をあげてしまい、慌ててヒソヒソ声に戻した。思わず振り返ると、みんなはまだキャビンにいる。危なかった。

 この船に人魚を晒し者にしようという輩はいないけど、みんながみんな人魚の大ファンだ。もし見つかったら、きっとただでは済まない。


「一回目の実験結果だ。魔女の薬が効いたんだよ。まあ、どこまで男になれたのかは、これから検証するんだけどね。たいした人だよ、あんたのおばあさまは」

 おばあさまのことを褒められて、すごくうれしい。里を想って心配顔だったのが、勝手に笑顔になってしまう。

 先代魔女の横暴ぶりが長いこと噂されていて、そのせいか代替わりしたおばあさままでよく思われていなかった。本当はすごくやさしくて賢い人なのに。


 すごいよ、おばあさま……ついに成し遂げたんだ。キングの発案が形になった……これで里のみんなも滅亡の危機から救われる。

 でも。
 ということは……クリスはもう、赤ちゃんを産めない身体になったということだ。

「クリス……ごめんね。クリスにばかり負担をかけて……」

 クリスはこれから本当の意味でオスになれたのかどうか、実験を重ねることになるんだろう。
 それは、僕がどうしても受け入れられなかったメスとの交尾も含まれているはずだ。

 本当だったら、本物のオスである僕がしなくちゃいけないことだった。でも、僕はキングと出会ってしまったから……。


「なにを言うかと思えば……相変わらずのおバカだな、ベリルは。コレは自分で選んだ道だ。誰にも邪魔はさせないし、文句も言わせない」

 真っ直ぐに見据えてくるブラウンの瞳には、強い輝きがあった。

「ずっとほしかった自分の赤ちゃんを、一度に何人も手にできるビッグチャンスだ。逆に誇らしいくらいさ」

 そう言って笑顔を見せたクリスには、どこを探しても暗い影のようなものは見当たらない。この先に待ってる赤ちゃんたちとの出会いを、心の底から楽しみにしてるみたいだ。


「それに、なんとなくコッチの方が自分らしい気もしてるんだ。性別が変わったってのに、まったく違和感がない。むしろしっくりくる。魔女の言ってた『素質アリ』って、当たりかも」

 もともと体格が大きめだったクリスは、豊満な乳房の替りに厚い胸板を手に入れていた。その胸元をペタペタと触りながら、新しい感触をたしかめているみたいだ。

「なぁ、言った通りになっただろ? ベリルよりずっとずっとカッコよくなったじゃん!」
「うん、カッコいい!」

 見られる角度を意識したようなクリスのキメ顔に、思わず笑いながらそう同意した。途端にクリスも嬉しそうに笑う。
 以前だったらけして交わすことのなかった空気だ。それが素直に嬉しい。


 でもどうやら、ちょっと笑い声が大き過ぎたらしい。

「どうした、ベリル。ルシナでも来てる……げっ、クリス!?」
 僕が海に向かって喋っていることに気がついたらしいキングが、僕の肩越しに海を覗き込んできた。

 背後のキングを振り向いてみるとすごく嫌そうな顔をしている。すかさず僕の腰に腕が回されたのは、きっとキングの心が穏やかじゃない証拠だろう。


「『げっ』ってなんだよ。失礼な」
 クリスの声にふたたび海を振り返ると、こっちもすごく嫌そうな顔になっていた。

「おい、ベリルー、まだこんな情けないヤツと一緒にいんのかよ。いい加減目を覚ませばいいのに」

 なんだかクリス……身体だけじゃなくて顔つきや言葉遣いまで男っぽくなったような……。


「情けなくて悪かったな。自覚はあるんだ。わざわざ言うな」

 クリスとキングは、滅多に顔を合わせないけど、顔を合わせればいつもこんな風にギスギスする。
 クリスも、僕がキングから絶対離れないのを知ってて言ってるし、キングもクリスが言いたいだけだってわかってて応酬してる。

 気に入らないなら互いに反応しなきゃいいのに、見れば必ず角を突き合わせるから、じつはこの二人、気が合うんじゃないかと僕は疑ってるんだ。

 ずっと『リーダー』としか呼ばなかったキングも、いつの間にか『クリス』呼びになってるし……。


「ってわけで、この報告をしたかっただけなんだ。これからはもっとオスが増える。おまえはもう、ひとりじゃないよ、ベリル」

 クリスはやさしい。
 それは、去年の夏にやっとわかったことだ。

 オスになると決めてから、クリスは、なにかを振っきったみたいに僕に対する態度を変えた。意地悪もしてこなくなったし、いまでは胸を張って友人だと言える関係になった。

 僕が里にいたときに、この関係が築けていたら……。
 ときどきそんなことを考えたりもするけど、きっといまだから、こうして笑い合えるんだ。


「言っておくけど、オスがベリルひとりじゃなくなっても、ベリルは地上で暮らすぞ? なにがあってもな」

 キングが少し低めの声で念を押しながら背後からギュッと抱きしめてくるから、つい笑ってしまった。
 だから、いちいち反応しなくていいのに。


「クリス、おばあさまに伝えて。『実験成功、おめでとう』って」
 そろそろメアリーが気づきそうだ。早くクリスを里へ帰してやらないと。

「ああ、伝えとく。じゃあ、またな」

「あ、クリス。ちょっと待て。おばあさまの調子はどうだ?」
 海に潜ろうとしたクリスをキングが呼び止めた。
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