清楚系彼女は溺愛警察官を乱して狂わせる

日下 凛

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第三章 近づく未来、深まる愛

七話 優しい檻から一歩だけ

 
 
 昨夜の名残りを身体に抱えたまま、拓巳さんは当直に向かった。

 朝、仕事に出かける拓巳さんを玄関で見送る。
 出勤前の習慣になった、キスとハグは欠かせない。

「気を付けて。無事に帰ってきてね」

 革靴を履いた彼は、抱きしめたまま私の頭を優しく撫でる。
 もし私の仕事が決まれば――こんな朝の時間も減ってしまうかもしれない。
 そんな考えが、体の中心でひそかに疼いた。

「うん、ちゃんと帰ってくるよ。梓も外出るときと戸締りには気を付けてな」
「……わかってる」
「何かあったら連絡して。休憩のタイミングで見るから。……じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 扉が閉まり、残された空気だけが静かに揺れる。
 さっきまで聞こえていた彼の足音や、衣擦きぬずれの音が消えた部屋は、耳が痛くなるほど静かだった。
 ほんの少し拓巳さんの匂いが残っていて、それが心を締めつけた。

 彼のいない朝は、いつもより白く静かに感じられる。
 いつものように洗濯と掃除に取り掛かる。
 キッチンに置きっぱなしのマグカップを洗って、ベッドのシーツをがした。

 昨夜の情事の名残が、ふわりと鼻をくすぐる。
 シワの寄った布地が、彼に組み敷かれた時間を無言で主張しているようで、逃げるようにそれを丸め込んだ――その瞬間、滅多に鳴らないスマホが震えた。

 知らない番号からの着信だった。
 でも、昨日応募したばかりのセリザワ・エステートかもしれない。
 緊張にきゅっとなる胸を押さえて、通話ボタンを押す。

「……はい、笹倉です」
『セリザワ・エステート人事の横井と申します。先日のご応募について、面接の日程をご相談できればと』
 
 落ち着いた女性の声に、少し呼吸が整う。

『今週でしたら二十六日が空いておりますが、ご都合いかがでしょうか?』
「はい、二十六日でしたら大丈夫です」
『では、二十六日の十時に。本社にお越しください。詳細はメールでもお送りします』
「よろしくお願いします」

 通話を切った瞬間、緊張と期待がぱちん、と小さく弾けた気がした。
 スマホのリマインドに面接日時を入力する。
 そのとき、拓巳さんの表情がふっと脳裏のうりを過ぎった。

「お疲れさま。面接日、二十六日の十時に決まったよ」

 拓巳さんに、短くメッセージを送る。
 既読はつかない。当直中で、まだ昼にもなっていないのだから当然だ。
 それでも、無機質な画面を見つめる指先がかすかに震えた。

 セリザワ・エステートからのメールが届く。
 メールの末尾に記された『専務取締役:芹沢 陸』の文字。
 ただの文字のはずなのに、なぜかその名前だけが、紙に貼り付いたような粘りつく不快感を伴って目に引っかかった。

 拓巳さんが一瞬見せた、あの訝しげな表情。
 その理由が分からないまま、私は冷えた指先で画面をスクロールした。
 持参物は履歴書、職務経歴書、筆記用具――どれも久しぶりすぎて気が重くなる。

「履歴書、職務経歴書……? 職務経歴書って何書けばいいの? 仕方ない、調べるか」

 履歴書を書いたのなんて、高校の就職活動のときに先生に添削してもらった一度きりだ。
 職務経歴書なんて、名前だけ聞いたことがある程度。
 ふっと溜め息をつきながら、転職サイトを開いて調べ始める。

 静まり返った部屋。
 拓巳さんのいない空間は、どうしてこんなに冷えるんだろう――
 けれどソファに深く身体を沈めれば、そこにはまだ彼の温度と匂いがしつこいほどに染みついている。

 拓巳さんは私を大切にしてくれているのに――まるで、見えない首輪をめられているみたい。
 PCの画面を見つめる背中に、昨夜、彼が刻んだマーキングがじわりと疼く。

 もう一度、社会人として働けるのか。
 知らない土地の会社でやっていけるのか。
 不安は大きかった。それでも、このまま拓巳さんに寄りかかっているだけでは、私はずっと檻の中のままだ。

 揺れる心を押しつけるように、キーボードを叩く。
 それは、拓巳さんという優しくて居心地のいい檻から、ほんの少しだけ爪先を外へ出すための、密やかな反逆のようでもあった。

 けれど、やっぱり胸のどこかで、彼への罪悪感が拭えなかった。
 書類作りに向き合おうとするほど、言葉にできないざわつきが心の底に引っかかる。

 ――私は、拓巳さんから離れようとしているんだろうか。
 その問いが胸の奥に沈んで、じわりと痛んだ。
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