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第三章 近づく未来、深まる愛
十五話 甘い午後に忍び寄る声
拓巳さんが当直を終えて帰ってきたのは、朝の十時を少し回った頃。
私は軽く掃除をしながら、朝昼兼用のご飯を用意して待っていた。
玄関に入るなり、迎えに出た私を制服のまま抱きしめてくる。
少し濃厚な拓巳さんの匂いと、誰かが吸ったタバコの残り香と埃っぽい外の匂い。仕事帰りのいつもの匂い。
この匂いに包まれると、無事に帰ってきてくれた、といつも安心する。
「はあー、癒される……。梓、何もなかったか?」
「セリザワ・エステートからの電話? 知らない携帯番号からは着信があったけど、出なかったの」
「そのほうがいいよ。用があるなら、どうせまたかかってくるだろうし」
その後拓巳さんは、シャワーを浴びに浴室へ向かった。
キッチンで私が食事のお皿を用意していると、頭をわしゃわしゃとタオルドライしながら、石鹸と湯気の香りをさせて彼が戻って来た。
「……梓、悪いけど少し寝てもいいか?」
「うん、わかった。ゆっくり休んでて」
「ごめんな、食事の用意してくれてるのに」
「いいってば、疲れてるでしょ」
当直明けは、なぜかスキンシップが多くなる。
拓巳さんは、キッチンから出た私を抱きしめて軽くキスをした。
「梓も一緒に来てほしいけど、眠れなくなりそうだから」
「……バカ」
軽口を叩いて、彼は「ふわぁー」とあくびをする。
ベッドに身体を沈めて間もなく、静かな寝息を立て始めた。
その寝顔を少しの間見つめて、そっと無防備な髪を撫でる。
彼の身体に、タオルケットを掛け直して私は家事に戻った。
洗濯物を干したり、制服に軽くアイロンをかけたりして、いつものように彼の部屋で過ごした。こうやって彼の生活の中に、いつの間にか自分が自然に溶け込むようになって、しばらく経つ。
こんな毎日が、どこかくすぐったくて幸せだった。
「……おはよう、梓」
昼を少し過ぎた頃、拓巳さんがのっそりと起きてきた。
お茶を飲んでいた私の背中から抱き着いて、首筋に頬を擦り付けてくる。
「拓巳さん、よく眠れた?」
「ああ、……でもやっぱり一人じゃ寂しいな」
背後から耳朶や首筋にキスをされて、雲行きが怪しくなる前に、私は彼の腕からするりと脱出する。
「もう! お腹空いたんでしょ? ご飯用意するからちょっと待ってて」
二人で少し遅い昼食を済ませた後、なぜか離れたがらない拓巳さんに背後から抱き着かれたまま、穏やかな時間が流れる。
その時だった。
テーブルの上のスマホが震えた。
画面には昨日と同じ、知らない番号が表示されている。
彼の体温で温かかったのに、お腹の底がすっと冷たくなった。
「……スピーカーにしてから、出てみて」
拓巳さんが、ごく自然な声で言った。
私は頷いてから小さく息を呑んで、通話をタップする。
「……もしもし」
「あー、もうやっと出た。一体何してたの?」
どこか鼻につく、馴れ馴れしい男の声。
すぐに、あの面接で感じた嫌な記憶が蘇る。
「あの……失礼ですが、どちら様でしょうか」
「ああ、ごめんごめん。セリザワ・エステートの専務の芹沢だけど。面接の件でさ」
私の声と身体が硬くなったのを察したのか、お腹に回った拓巳さんの腕に僅かに力が入る。
首筋に顔を寄せたまま、拓巳さんは少し顔を上げた。
「昨日、俺の電話に出なかったってことは、面接結果はどうでも良かったの? せっかく有利な条件で採用してあげようと思ってたのになー」
あまりにも軽すぎる、弄ぶような口調。
言いようのない怒りが喉元まで込み上げてくるのを、ぐっと堪えた。
「それは……どういう意味でしょうか?」
自分でも驚くくらい低い声が出る。
私の背後にいる拓巳さんが、一瞬ぴくっとしたのが分かった。
「弁解なら聞いてやるよ? その代わり明日の夜、食事に付き合って。その時の君の答え次第で採用条件の優遇を考えてやってもいい」
指先から冷たくなってくる手をぎゅっと握りしめると、拓巳さんが大きな手でそっと包んでくれた。
「無理です。私には、お付き合いしている人がいますので」
電話の向こうが、一瞬沈黙する。
そして、乾いた笑い声が続いた。
「……へぇ、『お付き合いしている人』ねぇ。で、その相手は何してる奴なの?」
拓巳さんが、耳元で静かに「言っていいよ」と囁く。
私は小さく頷いて、きっぱりと言った。
「警察官です」
少し間を置いて、スピーカーから嘲笑がはっきり聞こえてきた。
「警察官だって? ぷっ……安月給の公僕じゃん。梓ちゃん苦労するよぉ? 俺なら将来社長だぜ?」
頬が熱くなってくる。
芹沢陸は、決して許せないことを言った。
怒りでみぞおちの辺りが、じわじわと沸きたつような感覚。
はらわたが煮えくり返るって、きっと、こういうことを言うんだろう。
その瞬間、伸びてきた拓巳さんの手が、そっとスマホの近くに置かれた。
「どうも、芹沢さん」
「……は? 誰だよ?」
「梓の交際相手の田島といいます。先日の面接でのやり取りについては、彼女から一部始終を漏れなく聞いています」
彼の声は驚くほど低く、冷静そのもの。
電話口で、芹沢陸が小さく舌打ちするような気配があった。
「で? だから何? 彼女の仕事探しに、あんたが口出す資格あんの?」
拓巳さんは片手で私を抱きしめたまま、ふっと微かに笑う。
「電話で話していても埒があきませんね。明日、直接お会いしましょう。梓も……あなたに伝えたいことがあるようなので」
「……わかったよ。明日だな。場所は――」
毅然とした拓巳さんの口調に気圧されたのか、声のトーンが僅かに落ちる。
「こちらで指定します。芹沢さんに来ていただきたい場所を、後ほど連絡します」
「チッ……勝手にしろ。どうなっても知らねえからな」
捨て台詞と同時に通話が切れた。
部屋に静寂が落ちて、拓巳さんは私の隣に座り直す。
ゆっくり息を吐いて、私と向き合い、そっと肩に手を置いた。
「拓巳さん、私……あの男、許せない……」
「梓……大丈夫だよ」
その声は静かで、深くて、やり場のない私の怒りを静めていく。
「心配いらない。明日で、全部終わらせよう」
私は軽く掃除をしながら、朝昼兼用のご飯を用意して待っていた。
玄関に入るなり、迎えに出た私を制服のまま抱きしめてくる。
少し濃厚な拓巳さんの匂いと、誰かが吸ったタバコの残り香と埃っぽい外の匂い。仕事帰りのいつもの匂い。
この匂いに包まれると、無事に帰ってきてくれた、といつも安心する。
「はあー、癒される……。梓、何もなかったか?」
「セリザワ・エステートからの電話? 知らない携帯番号からは着信があったけど、出なかったの」
「そのほうがいいよ。用があるなら、どうせまたかかってくるだろうし」
その後拓巳さんは、シャワーを浴びに浴室へ向かった。
キッチンで私が食事のお皿を用意していると、頭をわしゃわしゃとタオルドライしながら、石鹸と湯気の香りをさせて彼が戻って来た。
「……梓、悪いけど少し寝てもいいか?」
「うん、わかった。ゆっくり休んでて」
「ごめんな、食事の用意してくれてるのに」
「いいってば、疲れてるでしょ」
当直明けは、なぜかスキンシップが多くなる。
拓巳さんは、キッチンから出た私を抱きしめて軽くキスをした。
「梓も一緒に来てほしいけど、眠れなくなりそうだから」
「……バカ」
軽口を叩いて、彼は「ふわぁー」とあくびをする。
ベッドに身体を沈めて間もなく、静かな寝息を立て始めた。
その寝顔を少しの間見つめて、そっと無防備な髪を撫でる。
彼の身体に、タオルケットを掛け直して私は家事に戻った。
洗濯物を干したり、制服に軽くアイロンをかけたりして、いつものように彼の部屋で過ごした。こうやって彼の生活の中に、いつの間にか自分が自然に溶け込むようになって、しばらく経つ。
こんな毎日が、どこかくすぐったくて幸せだった。
「……おはよう、梓」
昼を少し過ぎた頃、拓巳さんがのっそりと起きてきた。
お茶を飲んでいた私の背中から抱き着いて、首筋に頬を擦り付けてくる。
「拓巳さん、よく眠れた?」
「ああ、……でもやっぱり一人じゃ寂しいな」
背後から耳朶や首筋にキスをされて、雲行きが怪しくなる前に、私は彼の腕からするりと脱出する。
「もう! お腹空いたんでしょ? ご飯用意するからちょっと待ってて」
二人で少し遅い昼食を済ませた後、なぜか離れたがらない拓巳さんに背後から抱き着かれたまま、穏やかな時間が流れる。
その時だった。
テーブルの上のスマホが震えた。
画面には昨日と同じ、知らない番号が表示されている。
彼の体温で温かかったのに、お腹の底がすっと冷たくなった。
「……スピーカーにしてから、出てみて」
拓巳さんが、ごく自然な声で言った。
私は頷いてから小さく息を呑んで、通話をタップする。
「……もしもし」
「あー、もうやっと出た。一体何してたの?」
どこか鼻につく、馴れ馴れしい男の声。
すぐに、あの面接で感じた嫌な記憶が蘇る。
「あの……失礼ですが、どちら様でしょうか」
「ああ、ごめんごめん。セリザワ・エステートの専務の芹沢だけど。面接の件でさ」
私の声と身体が硬くなったのを察したのか、お腹に回った拓巳さんの腕に僅かに力が入る。
首筋に顔を寄せたまま、拓巳さんは少し顔を上げた。
「昨日、俺の電話に出なかったってことは、面接結果はどうでも良かったの? せっかく有利な条件で採用してあげようと思ってたのになー」
あまりにも軽すぎる、弄ぶような口調。
言いようのない怒りが喉元まで込み上げてくるのを、ぐっと堪えた。
「それは……どういう意味でしょうか?」
自分でも驚くくらい低い声が出る。
私の背後にいる拓巳さんが、一瞬ぴくっとしたのが分かった。
「弁解なら聞いてやるよ? その代わり明日の夜、食事に付き合って。その時の君の答え次第で採用条件の優遇を考えてやってもいい」
指先から冷たくなってくる手をぎゅっと握りしめると、拓巳さんが大きな手でそっと包んでくれた。
「無理です。私には、お付き合いしている人がいますので」
電話の向こうが、一瞬沈黙する。
そして、乾いた笑い声が続いた。
「……へぇ、『お付き合いしている人』ねぇ。で、その相手は何してる奴なの?」
拓巳さんが、耳元で静かに「言っていいよ」と囁く。
私は小さく頷いて、きっぱりと言った。
「警察官です」
少し間を置いて、スピーカーから嘲笑がはっきり聞こえてきた。
「警察官だって? ぷっ……安月給の公僕じゃん。梓ちゃん苦労するよぉ? 俺なら将来社長だぜ?」
頬が熱くなってくる。
芹沢陸は、決して許せないことを言った。
怒りでみぞおちの辺りが、じわじわと沸きたつような感覚。
はらわたが煮えくり返るって、きっと、こういうことを言うんだろう。
その瞬間、伸びてきた拓巳さんの手が、そっとスマホの近くに置かれた。
「どうも、芹沢さん」
「……は? 誰だよ?」
「梓の交際相手の田島といいます。先日の面接でのやり取りについては、彼女から一部始終を漏れなく聞いています」
彼の声は驚くほど低く、冷静そのもの。
電話口で、芹沢陸が小さく舌打ちするような気配があった。
「で? だから何? 彼女の仕事探しに、あんたが口出す資格あんの?」
拓巳さんは片手で私を抱きしめたまま、ふっと微かに笑う。
「電話で話していても埒があきませんね。明日、直接お会いしましょう。梓も……あなたに伝えたいことがあるようなので」
「……わかったよ。明日だな。場所は――」
毅然とした拓巳さんの口調に気圧されたのか、声のトーンが僅かに落ちる。
「こちらで指定します。芹沢さんに来ていただきたい場所を、後ほど連絡します」
「チッ……勝手にしろ。どうなっても知らねえからな」
捨て台詞と同時に通話が切れた。
部屋に静寂が落ちて、拓巳さんは私の隣に座り直す。
ゆっくり息を吐いて、私と向き合い、そっと肩に手を置いた。
「拓巳さん、私……あの男、許せない……」
「梓……大丈夫だよ」
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