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第三章 近づく未来、深まる愛
十六話 越えてはいけない線
駅ナカのカフェに差し込む日差しは少し強くて、夏が近づいていることを告げる。
平日の午後ということもあってか、客足はまばらだ。
コーヒーの香りが漂う店内の雰囲気は、平穏そのもの。
けれど、店の中央に近いテーブルに座っている私たちの間に漂う空気は、まるで見えない壁で仕切られているようでひどく重かった。
椅子にふんぞり返っている芹沢陸のスーツは、派手過ぎて下品だ。
本人の発する雰囲気と一緒に、平穏なカフェの色を汚している。
見たこともない真っ黄色のキーを指で弾き、わざわざ私たちに見せつけるようにテーブルに転がした。
「梓ちゃんさぁ、昨日もそうだったけど、平日の昼間からデート? 余裕だよなぁ。あんたの彼氏……本当に警察官? ヒモなんじゃね?」
芹沢陸は、耳障りな声でせせら笑う。
膝の上で握りしめた私の拳が、ふつふつと湧き上がる怒りで震える。
隣の拓巳さんはコーヒーをひと口飲み、静かにカップを戻すと、柔らかいほどの微笑みを浮かべた。
「昨日はどうも。安月給の警察官です」
その穏やかな言葉に、陸の顔がわずかに引きつった。
こんな下品な男でも、昨日の電話で自分が吐いた侮辱くらいは覚えているんだ、と私は変に感心する。
拓巳さんから皮肉でも喧嘩腰でもなく、落ち着いて返されたことで、陸のプライドの表面にひびが入った音が聞こえた。
「は? 何だ、それ……開き直りかよ?」
「いえ、事実ですので。そのままお返ししただけです」
拓巳さんの低い声は、淡々としている。
けれど、彼の奥にある温度は、私にははっきり分かった。
ただ静かに燃えている怒り――
この男になんて、決して理解できないであろう種類のもの。
落ち着き払った拓巳さんとは対照的に、陸は苛立ちを隠そうともせず、横柄に足を組み替え真っ黄色のキーをテーブルの上でコンコンと鳴らした。
「あのさぁ、一昨日、面接結果知らせてやろうと思ったのに、あんた電話出なかったよな? 専務の俺が、わざわざ個人の番号からかけてやったっていうのに。無視するってどういうつもり?」
明らかに私を見下したような、恩着せがましい言い方。
ここまでくると怒りを越えて、馬鹿馬鹿しくて吹き出しそうになる。
その刹那、拓巳さんの声が私の波を感じ取ったように、そっと押さえた。
「芹沢さん、一つだけ、確認してもよろしいですか」
椅子の上で、斜に構えた陸があからさまに顔をしかめる。
「……あ、なんだよ?」
「面接結果の通知でしたら、本来は会社の番号から連絡するものでは?」
拓巳さんの一言で、陸の視線が宙を泳ぐ。
ほんの一瞬、子どもみたいに。
「いや……採用担当は俺なんだし……それに、専務だから忙しいんだよ! だから俺の携帯のほうが早いだろ」
「つまり、応募者の個人情報を、あなた個人の目的で使用した、と――そう解釈してよろしいですか?」
芹沢陸が無駄に大きな声を出したせいで、静かだった周囲の空気が不穏に揺れた。
離れた場所にいる客まで、こっそり耳だけこちらへ向けているような気配。
陸の顔色が、さっと変わっていく。
「は? な……何言ってんだよ。別に変なことに使ったつもりじゃ――」
「『つもり』ではありません。事実です。仮にもランボルギーニを乗り回すような大会社の専務取締役なら、個人情報の目的外利用の禁止はご存じのはずです。個人情報の私的利用は、一般的に懲戒対象です」
静かな声なのに、言葉が空気を切り裂くように鋭かった。
「べ、別に、面接結果について知らせようとしただけで……」
「あなたは、昨日の電話で梓に、『食事に付き合えば、採用を優遇してやる』とも仰ってましたね。あなたの父親が経営するセリザワ・エステートが常識と良識のある会社であれば、許されない行為であることは疑う余地もありません」
拓巳さんの視線が鋭くなる。
彼が、わざと会社名を出したのだと分かった。
周囲のざわめきが、私の胸の中に落ちてくる。
そして――心の底にこびりついていた怒りが、形を持つ感覚がした。
私は、ゆっくりと名前を呼んだ。
「……芹沢陸さん」
恨めしげに拓巳さんへ注がれていた陸の視線が、私の方に向く。
その目に、一瞬だけ戸惑いが走った。
自分でも不思議なほど、表情がなくなっているのが分かる。
落ち着きのない陸の動きが、ほんの少し固まった。
「あなたみたいな人に、どう思われようと興味ない。私のことはどう悪く言ってもいい」
握りしめた拳が小さく震える。
口をついて出た低い声だけは揺れなかった。
どうしても許せなかったことが、溢れ出した。
「でも――あなたが拓巳さんを侮辱したことだけは、絶対許さない」
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