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第三章 ボクシングと友情

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「やはりお前の華やかな時代といったら、高校時代ではないか。
 あまり人がやらず、だからこそ目立つことができ、そして強い男だと象徴できるスポーツ。
 そう、お前はボクシングと出会い、人生が変わった。その当時は楽しい仲間たちもいたよな。
 あの時代はよかったのではないか。将来のことよりも、目先を大切にして、ただがむしゃらに生きていた。
 その時期はそれが重要だったからだ。だから、大人のように損得ばかりを考える時代よりも、よっぽど人間らしかった。そうじゃないか? 俺だったら、その気楽な時期に戻るがね」

 目を瞑っていても、頭の中で、誰かが話しかけているのが分かった。

 一体何だろう。この声は、いかつい方だな。確か、カエサルとかいう男だ。
 枕元に立っている怪しげな二人の男たち。だがその声に耳を傾けることなく、浩一郎は目を閉じたまま考えていた。

 俺の小さな頃といえば、小児喘息を患い、学校をよく休み、病院に行くことが多かった。
 体型も骨川筋衛門、と言われる程に痩せていた。そのためか学校では浮いた存在で、親しい友人もいなかった。元々人見知りの性格のため、名更のことだったように思う。だから、教室ではいつも孤立していた。

 たまに学校にいけば、黒板に悪口を書かれていたり、机の中にセミの死骸が放り込まれていたり、ノートが無くなっていたり、と虐められていた。時にはあからさまに授業中、後ろから上履きで叩かれたりもしたが、反撃に移るほどの勇気は持ち合わせていなかった。
 中学校までの自分は、何に対しても卑屈で、逃げ出すことばかりを考えていた。
 そのため毎日が苦痛でしかなかった。そんな自分が嫌いだった。好きになるわけがなかった。

 何で俺は体が弱く、勉強もできず、何に対しても自信がなく、そして諦めてしまうんだろう。
 自分を変えたい、ではなく、自分が変わりたい、と受動的にしか考えることができず、将来に対し、何の望みもなく、死ねないからこそ、ただ生き、日々を無難に生きることを心掛けていた。

 その当時は、俺はきっとろくな大人になれない、そう思っていた。なぜなら周りの人間と比べ、健康的にも、スポーツ、学力全てにおいて底辺のレベルなのだ。

 しかし、人間というものは捨てたものではない。環境が変わっただけで、自分の人生がガラリと変わるもんだな、と実感できるようになった。

 それは高校に入学し、今まで自分を虐めてきた奴らが姿を消したこと。あるいは、たまたまボクシング部がその学校にあったこと。それが俺の人生を大きく変えた。

人の苦しい時期はずっと続くものではなく、いつかはその暗いトンネルから抜け出すことができるのだ、と俺は早い時期に気づくことができた。止まない雨はない、という具合に。
 その時期というのは、日本も丁度バブルの時期であり、国民はイケイケの風潮があった。
 そう深くは考えず、日本の景気を支えた製造業なんかは、物を大量に生産していたように、人間もとにかく活動していたかに思う。それがいい方向に進んでいたのだから。

 浩一郎も友人に勧められるままに勢いでボクシング部に入部したが、喘息持ちということで、厳しい練習についていくことができず、最初は辞めようとしたほどだった。でもここで辞めていたら、元の木阿弥だっただろう。

 俵に足が掛かった状態で、どのようにして残れたのか、それは同級生の杉山のお蔭もあった。彼も喘息持ちで、

「もう少し続けてみようぜ」
 という励ましで、頑張ることができた。

 同じ喘息持ちの杉山が頑張るんだ、それでは俺も、という気持ちで、歯を食い縛って、暑い日も、寒い日も、食べ盛りの高校時代にも関わらず、減量に耐え、そして、何よりもキツイ練習に耐えたのだった。

 春が終わり、日照時間も長くなり、ゆっくりと夏が近づいてくるのが分かった。
 緊張感があるためか、体がだるい。
 こんな時でさえ、意外にも欠伸がよく出ることに気づいた。人間は緊張すると欠伸が出るらしい。
 それと陽気がいいためか目を瞑り、横になっていると、いつの間にかうとうとと微睡み、やがて寝入ってしまった。

「お~い。川村!」

 耳元で声がした。

「はぁ?」

「なんだ、寝てたのか」
 浩一郎は目を開けた。
「ここはどこだ?」

「何いってんだよ城南大じょうなんだいだよ」
 髪の毛をお洒落に所々立たせ、眉毛を細く、整えた男杉山涼すぎやまりょうが言った。

「城南大? 何で俺がここにいるんだ?」

「はぁ? お前、本当に寝てたな。度胸があるのか、本当の馬鹿なのか。いいか、俺たちはまさに今、ボクシングのインターハイ予選決勝を迎えようとしてるんだ」

「試合、終わったのか?」
 浩一郎は、大欠伸をしてから訊いた。

 杉山は口をあんぐりと開け、その後、いきなり浩一郎の頬をペチペチと叩いた。

「ったく、めんどくせえな。お~い。大丈夫か。早く起きろよ」
 杉山は言った。
「ここで寝てもいいが、リングの上では寝るなよ。でもよく寝れるな、この暑い時期に。春も終わり、六月に入ったというのによ。
 さあ、さあ、もう起きて、俺の試合は次なんだよ。いいか、ぶちかましてやるから、目を見開いて、ちゃんと見てろよ。今から歴史的な一戦をしてやるんだから」

 そこは普通の高校よりも少し大きめの体育館で、会場内や廊下などに学生服や、運動着、それから試合用のランニングシャツにトランクスを着た色々なボクシング部員が大勢いた。
 彼らは同じ高校のメンバーで固まっていたが、緊張というのか、まさに、そこは殺気立った雰囲気が漂っていた。

 体育館の奥に青色のリングがある。
 大きさが数メートル四方の正方形が、床よりも青年の腰の位置くらいの高さに設置されており、下から見上げるとそれは高く見え、まるで雲の上にあるようだった。

 そのリングの四隅に鉄製の支柱が立てられ、そこに四本のロープが張られており、その上で、男たちが戦いを繰り広げていた。まるで檻の中でライオンたちが戦っているように。

「へいへい。分かったよ」
 浩一郎は、杉山の頭を掻き毟りながら立ち上がった。
「こら、触るんじゃねぇ。髪型が崩れるじゃねぇか」

 杉山はその自慢の髪型を撫で付けたり、立たせたりして、必死で元に戻した。
 その様を見て、浩一郎は自然と頬が緩んだ。

「おい、川村」

 体育館入口から四十前後の小柄で、パンチパーマの男が周囲に鋭い視線を送りながら、やって来た。大きな目でギョロギョロとしており、それが威圧的だ。彼は、浩一郎の肩を叩いた。

「もうそろそろアップを始めろよ」

「はい」

「今日、うちの高校には、嫌な風が流れている。だから、ここでお前らがその風を断ち切るんだ、いいか、分かったか」

 彼は、杉山の肩と共に浩一郎の肩を揉みながら元気づけた。山田八郎やまだはちろうコーチだ。本人の前では言えないが、部員の間ではハチ、と呼び捨てである。   
 彼は共栄高校の卒業生で、ボクシング部のコーチをしている男だ。外見はまるでヤクザのような強面で、少し言葉も悪いが、内面は意外と優しいところがある。

「嫌な風って、どういう意味だ?」
 浩一郎は、杉山に訊いた。

「お前、見てなかったのかよ」
 杉山は唖然とした。
「キャプテンのお前が何言ってんだか。それにしても、今日のお前、おかしいぞ、ったく」

「悪い」

「ライト・フライ級の稲熊が判定負け、フェザー級の伊藤が、あの太田をひっくり返したのに、オープン・ブローで失格負けだ。
 ナックルを返していなかったばかりに、な。掌で打ったということで、負けたんだよ」

「太田って?」

「太田って、あの三好高校の前年もインターハイ出場している強敵だよ。何を今更。
 しかし、倒れた時の太田の顔、印象的だったよな。しまったっていう顔があり、ありだった。
 でも立てなかったんだ。なにせ、ものの見事に伊藤のパンチが、まともに奴の顎を捉えていたんだから。当たった時、バコっていう音も聞こえたんだぜ、まるで何かが壊れたような音がしたんだ。そしたら太田が倒れてて・・気づくと場内は騒然だった」

 浩一郎は他の部員を見た。

 眼鏡を掛けた少し暗そうな男、いつもどことなくおどおどしている角刈りの男。二人とも項垂れていた。

「村松と近松は初戦で負けたんだよな」

 浩一郎は記憶を手繰り寄せた。

「今更言わんでもいいやん、可哀想に。それより、次の試合俺だから、早くグローブとヘッドギアをつけてくれよ」

「分かったよ」

「でもなんでアマはヘッドギアをつけなくてはいけないんだ、ったく」

「決まりなんだよ」

「ああ、クソ。ヘアースタイルが崩れるじゃないか」

 文句を言う杉山を無視し、グローブ、ヘッドギアを彼に付けていく。
 すると徐々に彼の顔が引き締まっていくのが分かった。高校生というのは、言ってることと内心が違うが、顔の表情が内心を写し出すので、分かりやすい。

「ありがとよ、お前につけてもらうと、しっくりときて、勝てそうな気がするんだ」

「どういたしまして。今日もリングシューズ、左足から履いたのか?」

「ああ」

 準備が整い、杉山はよし、と気合をつけ、元気よくリングに上がっていった。
 それを見届けた後、眼鏡の村松英二むらまつえいじが静かに近づいてきた。

「よく知ってんな」

「あいつのゲン担ぎらしいんだ。左足からリングシューズを履くっていうのは。
 ああ見えて緊張しいなんだよ。笑っちゃうだろ。なにが歴史的な一戦だ、だよ」

「あいつがね」

 同じく眼鏡をかけた稲熊潤いなぐまじゅんがいつの間にか着替えを終わらせ、皆の所に戻ってきた。

「口だけは強がるんだよな、いつも」

 二人共眼鏡をはめ、背も低く、後ろから見るとよく見間違う。村松の方は相手と目を合わせないが、稲熊は目を見て話す。

「伊藤は?」

「もうすぐくるよ」
 稲熊は言った。
「俺が控室から出て行こうとしたら、伊藤が俺のタオルどこやった、俺のリングシューズを脱がしてくれって、もう、こきばっか使いやがるんだぞ、まったく」

「いいじゃないか。お前、パシリだろ」
 村松はやや横目でニヤリとした。

「パシリじゃねえよ」
 稲熊は面白くない、といった顔だ。

「ちきしょう!」
そんなことを話していると、背後から大声が聞こえてきた。

「伊藤」
 稲熊が呼んだ。
「こっち来て、皆で応援するぞ」

「ああ」
 左鼻の下の大きな黒子がトレードマークの伊藤剛いとうたかしは、釈然としないまま皆の輪の中にやってきた。
「なんだよ、てっきり勝ったと思ったのに・・。あの審判たち、三好高ときっとグルだぜ」

「そんなこと言うものじゃないぜ」
 と村松。

「それよりさ、」
 伊藤は無理に笑顔を浮かべた。
「俺の試合が終わった時、周りが騒々しかったよな」

「まあな」
 稲熊が答えた。

「俺見たんだよな」

「何を?」
 稲熊は、興味津々といった具合だ。

「目の前をふゎ~ってハチの差し歯が飛んでいくところを」

「俺も見た」
 村松も会話に入ってきた。

「だってハチ、凄い剣幕で抗議してたもんな」

「お前も見たのかよ」

 伊藤は、無理にテンションを上げた。

「それで、その後どうしたか知ってるか?」

 村松もそんな彼を見、同じようにテンションを上げた。

「いや」
 伊藤は首を振った。

「俺、見えたんだけど、ハチの野郎、随分興奮してたよな。それで、差し歯がリングの上に転がったんだけど、何事もなかったような顔で、それを拾って、すぐさま付けてたよ」
 村松はニヤッとした。

「俺は気づかなかったが、しかし、お前、ボクシング弱いのに、そうゆうところはちゃんと見てんだな」
 伊藤はキツイ一言を放った。

「ああ。目に入っちゃうんだよ」
 言葉尻が下がると同時に、村松のテンションも下がった。

「違うよ、そこがお前のいいところだよ。誰もが見逃すところを、お前はちゃんと見ている」
 稲熊がフォローを入れた。

「は?」
 村松は若干照れていた。
「そうかな」

「お前の人間観察は大したものだよ」
 伊藤は気勢を張るかのように言った。
「選手じゃなくて、マネージャーにでもなればよかったんだ。いや、冗談だけど・・」
 だが言葉尻を下げて。

「でも、ハチ、凄かったよな」
 村松は笑みを浮かべた。
「レフリーに何処見てんだ! ちゃんとナックル返しただろ。だから相手も効いてんだよ、って必死に抗議してたもんな。ハチって必死だよ、いつも。だから俺らもついていった」

「まあな。まるで、小学校の息子が、学校で喧嘩して、それで教師に呼ばれた親が、そんなことで暴れるような息子じゃない、何かの間違いだ、と逆に詰め寄るような感じだ。
 でも、俺らにとっては嬉しいよな。そうゆうの。本気ぽくってさ」
 浩一郎は体を動かしながら、言った。

「まあな」
 村松。

「おう」
 伊藤。
「でも、どんな比喩だ、それ」

「いいじゃないか。だけどハチって、喧嘩ぱやいとこあるのに、俺らに手上げたことあったっけ?」
 浩一郎は皆に訊いた。

 村松、稲熊、近松、それから伊藤が首を横に振った。杉山は試合前で彼らの近くにはいないが、ないはずだ。

「口は悪いが、」
 村松は言った。
「ハチはハチなりに、俺らのことを思って口だけで教えてたんだよ。
 だって手上げる奴にろくな奴はいないぜ。そうだろ。それに俺らが手上げる奴のいうことをきくか? きっと、しらけるんじゃないかな」

「そうかもしれないな。だって指導者っていうのは、圧倒的に上の立場の人間だろ、そんな奴が手を上げたら、それが間違っていようが、受け入れるしかない。
 もし抵抗する策があるとすれば、その指導者から離れるしかない、イコール辞める。そうじゃないか」
 浩一郎は、試合に備え、もくもくとストレッチをこなしていた。

「俺もハチだったから、あんなに一生懸命やったんだ。クソー、むかつくな。俺はあのパンチばかりを、ハチと一緒に何回も何回も練習してきたんだぜ。それなのに・・」
 伊藤は項垂れ、腕を目頭に当て、泣く真似をした。「ちきしょう。これで夏休みのスケジュールを組み直さなければならない。せっかく、インターハイに行く予定を組んでいたのによ」

「そう肩を落とすなって。俺たちと一緒に遊びにいこうぜ」
 稲熊が、伊藤の肩をポン、ポンと優しく叩いた。

「慰めんなよ。気持ち悪いじゃないか。こういうことはな、女に言ってもらいたいよな、ったく」
 伊藤は、稲熊のその手をうるさそうに、振り解いた。

「伊藤ちゃん、そんなにしょげずに、杉山に敵討ち取ってもらおうよ」
 久しぶりに角刈りの近松豊ちかまつゆたかが喋ったような気がする。

 彼は極度の人見知りだ。仲間の輪にはいるが、あまり喋ることはなく、ただニコニコしてる時が多い。 
 だがそんな彼も仲間と一緒にいたいのだ。
「さっきの話だけどさ、俺も、手を上げる指導者だったら、きっと、今ここにはいないよ」

「そうだな。そう思えるよ。よし、気合入れて応援だ。丁度杉山の相手、それに川村の相手も三好高校だからな」
 そして、伊藤は、大声を上げた。
「お前ら頼むぜ。俺の分も!」

「了解」
 リング上の杉山が拳を突き上げた。
「任しとけ」

 セコンドに付いた川村も肯いた。
 ゴングを打ち下ろす音がこの城南大の体育館に響くと同時に、愛知県大会のライト級決勝戦の幕が切って落とされた。

 最初は誰もが息を飲み、黙ってリング上を見つめた。キュ、キュというリングシューズの擦れる音、やがて時間が経過していくと共にボス、ボスというパンチが交差する音、それからシュ、シュという激しい息遣いが聞こえてくると、徐々に歓声がし、それが大きくなっていった。

 まるで冷たいプールの水の中に体を浸した時のように、最初は静けさだけがそこに存在していたのに、徐々に体が少しづつその水温に慣れていき、そして、泳ぎだすように、観客も動き出した。

 杉山が首を左右に振り、相手のパンチを避け、頭を低くし、中に潜り込んでいく。
 あいつの目と感はいい。そして、何よりも相手が打ってきたパンチに合わせ、絶妙のタイミングで打つカウンターは天下一品だ。

「よし!」

 ダーン、という大きな音がした。
 観客の目が一斉にリング上に向けられた。
 そこには相手が大の字になって倒れている衝撃的なものがあった。

「よっしゃ!」

 湧き上がる共栄高校側の歓声。

 皆が伊藤の敗戦を吹っ飛ばすかのように、大声を上げ、盛り上がった。気持ちが良かった。まるで自分が倒したようで。
 そして、敗れた伊藤の敵討ちを、ここにいる全員でしたかのようだった。

「早ぇ~。まだ一分も経ってねぇぜ」
 横で村松が感心していた。

「あいつも腹が立っていたんだよ。伊藤ちゃんがあんな、負け方をしたんだから」
 近松もいつになく興奮気味だった。

「おい川村、」
 山田コーチが浩一郎を見た。
「早くグローブを付けてもらえ。次はお前だ」
 山田コーチの少しトーンの上がった声、安心した顔が印象的だった。

 次は、ライト・ウエルター級の決勝戦だ。
 グローブ、ヘッドギアを付けた浩一郎は、リングに上がる階段をゆっくり、そして力強く登っていく。グローブの独特な匂い。皮の匂いに混じり、今までに染みついた血の匂いもした。それどころかナックルの部分に黒い血痕さえ残っていた。

「馬鹿か、緊張しゃがって」
 山田コーチが吐き捨てるように言った。

「俺も伊藤の敵討ちをしてやりますよ。そのために、今は力を抑えてるんです」

「お前も杉山も・・」
 山田コーチは、力強く浩一郎の背中を叩いた。
「いってこい!」

 カーン! 

 ゴングが鳴り、浩一郎がダッシュした。
 まるで獣が檻から放たれたように。

 リングの上はバネが効いていて、柔らかくて動きやすかった。跳ねる度にバウン、バウンと音がした。
 相手は、浩一郎が猛然とダッシュしてきたので、怯み、驚いていた。

 浩一郎はサウスポーだ。
 先ずは基本通りに前の手の右手、リードブローで試合をコントロールしていく。
 相手の身長は浩一郎の目の高さくらいまでしかなく、リーチにしても、さほど長くはない。本来なら浩一郎の中に潜り込んでこなくてはならない 。
 なぜならリーチの長い選手と一緒にパンチを出しても、当たらないからだ。

 浩一郎の右リードブローが面白いように当たった。中に潜り込んでこようとする相手の出鼻をそれで挫いた。
 浩一郎のジャブが相手のデコにヒットし、それで何回か顎が跳ね上がった。これでこの試合をコントロールすることができる、そう確信した。

「時間は?」
 山田コーチの声がはっきりと聞こえた。

「三十秒経過!」
 ストップウオッチを持ったタイム係の稲熊の声も。

「川村! 杉山とお前で俺の分までインターハイで頑張ってくれよ」

 伊藤の声もはっきりと聞くことができた。皆の声に背中を押され、勢いを感じた。

 まさにおせおせといった感じに。個人競技のボクシングだが、このように周りにいる人間がいなければ、こうまでもヤル気が、勇気が、そしてやってやろうという、ハヤル気がないだろう。

 浩一郎は、左拳を伊藤に向かって、それから共栄高校のセコンドに向かって二度、突き上げた。体が自然に躍る。
 仲間なんだ、やつらこそ本当の仲間なんだ。抑えきれないこの衝動が背中を駆け抜け、厳しい練習をしてきたことが、自然にこのリングの上で解き放たれていく。
 浩一郎はワン・ツーで、相手を押しやり、その後、渾身の力で左ストレートを出した。ビーンという確かなる感触を肘に感じた。背中がゾクゾクした。

「ニュートラルコーナーへ」

 レフリーが川村を遠ざけた。

 気づくと相手が尻餅を着いていた。

 ダウンをとったのだ。浩一郎はロープに両腕を乗せ、天井を見上げた。気持ちが良かった。
 男は自分が強いということを誇示したいものだ。そのために日々の血の滲むようなハードな練習をする。そう思うと男とは単純なのかもしれない。

 レフリーの八カウントで相手が再起した。ファイティングポーズをとり、又向かってくるが、勝負はもはやついていた。

 相手の怯んだ目。だがボクサーというのは、レフリーが止めない以上、本能で戦闘態勢を解かない。例え意識が飛んでいたとしても。

 向かってくる相手を迎え撃つリード、リード。それで相手の顎を上げさせてワン・ツー。
 クリーンヒットした。そして、相手が棒立ちになったところでボディから上へ打ち分けての連打。確かなる手応えを感じた。すると相手はたまらず腰から砕け散っていった。

 浩一郎は両腕を高く突き上げ、セコンド陣営が大いに盛り上がるのを意外にも、冷静にゆっくりと見ながら、肯いていた。

「ちきしょう。お前が一番カッコいいぜ」
 伊藤が叫んだ。

「早ぇんだよ。俺より十秒も早ぇぜ」
 杉山が笑顔で言った。
「記録破るんじゃねぇよ」

「これで共栄高校から、インターハイ出場者が二名、杉山と川村が出ることになったな」
 近松が言った。
「行けなかった俺らの分まで頑張ってくれよ」

「任しとけ」
 杉山は、オーバーリアクションで、近松の肩を何度も叩いていた。

「この勢いで優勝してくるぜ」
 浩一郎がリングから降りてきて、皆の輪の中に入っていった。頭を叩かれ、背中をたたかれたが、その手荒い祝福が気持ち良かった。

 全試合が終了し、表彰式が開かれ、杉山と川村は賞状を受け取った。
 その後、共栄高校だけで集まり、今日の試合の反省会、ミーティングが行われ、それが終了すると、コーチの号令の元、解散となった。

 一年、二年はそれぞれ分散し、家路へと向かったが、三年生六人だけは帰宅するのも惜しまれ、名古屋市に本社を持つスガキコグループの中核を担う企業であり、ラーメンや甘味などを扱うチエーン店、スガキヤ、城南大近くの塩釜口店の中に入っていった。  
    
 この店は東海地方、北陸地方を中心とする中部地方での店舗展開を主としている。基本はラーメン店であるが、店内ではソフトクリームやぜんざいなどの甘味メニューのみを注文する客も多い。価格も貧乏学生には有難い、とのことでランチや夕方にはいつも混んでいた。

 浩一郎たちは、学ランにバック片手に入店した。注文をする前に先ず六人が座れるようテーブルをくっ付けて、どかりと座った。
 インターハイ行きを決めた浩一郎、杉山にしても次の試合までには期間があり、一先ず減量の心配もない。そこで各々ラーメンや甘味を注文し、口にした。

 あまり行儀のいい奴らではなく、顔もいかついし、赤く顔を腫らしている者、鼻の中にテッシュを突っ込んでいる者もいた。それなのに甘いスィーツなんぞを食べているのだから、他の客も少しずつ波が引いていくように遠ざかり、やがては近くに他の客の姿がなくなっていた。

「解放されたというのに、なんか虚しいよな」
 伊藤が半ば投げやりに、腫れた右目にタオルをやり、周りの急変に気づくことなく言った。

「ああ、もう終わったね」
 近松が言った。
「こうやって皆でまったりするのも。もしかしたら今日で最後かもしれないな」

「なんか淋しいよな。今まで俺たち、いつも一緒だったからな。それで、馬鹿ばっかしてきたもんな」 
 村松が眼鏡を拭きながら言った。

「お前、もしかして泣いてるのか?」
 鼻のテッシュを取り換えながら、稲熊が茶々を入れた。

「ちげぇよ」

「はあぁ」
 伊藤が後ろに大きく伸びをした。
「終わっちまった」

 今日一番悔しい思いをしたはずだ。

 なんせあの強敵を倒したのに負けたのだから。毎日、毎日あの倒したパンチばかりを根気よく練習していたのを、ここにいる全員が知っていた。
 山田コーチと共に、あいつを倒すパンチはこのパンチだと来る日も、来る日も毎日のように練習していたのを。
 そして今日、太田のパンチを受け、右目を大きく腫らし、それに耐え、あのパンチを繰り出した瞬間に全てが終わったのだ。これを運命の悪戯で終わらせるのも納得がいかない。

「ハチが言うこと、間違えなかったよな」
 伊藤は呟いた。
「でも俺がもう少しナックルを返していれば、あんなことにはならなかった。ちょっと楽しちまったよな・・。あんなところでさ、肝心な時に、な」

「そう嘆くなって」
 稲熊がチョコレートクリームを頬張りながら言った。
「インターハイいかなくなった分、彼女と思いっ切り遊べばいいじゃないか」

「お前な、そんなん食ってっから、何言ってんだか分からんのだわ」
 伊藤は、稲熊のチョコレートクリームのポッキーを取り上げた。

「何するんだ」
 稲熊は、それ以上取られまいと体を張って守った瞬間、鼻の中のテッシュが飛んでいった。
「だから彼女と遊べって、言ったんだよ」

 そこで一同の大爆笑が湧き起こった。

「うるせぇよ。それに、そんなんじゃ虚しいんだよ」
 伊藤は静かになったところで、しみじみと言った。「高校生最後の夏だぜ。まだやることが残ってるようで・・」

「何いってんだ。彼女がいるだけでも羨ましいのに、俺なんか何もやることないんだぜ」
 稲熊は鼻の中にテッシュをゴリゴリと入れ、スイーツを食べながら言った。

「はあぁ」
 村松が溜息をついた。
「明日から、練習やらなくてもいいんだよな。あれ程鬼コーチの猛練習から逃げることばかり考えてたのに、実際こうやって明日からこなくてもいいよ、ってなことになると、淋しいよな」

 試合が終わり、減量から解放され、一気にチョコレートクリームを食べた浩一郎が口を開いた。

「な、お前ら引退するの、まだ早いぜ」

「どういうことだ?」
 村松が顔を上げた。

「いや、試合のために練習っていうのも一理あるし、これまでの先輩たちが、予選で負けたら引退っていう仕来たりもあるが、俺たちって違うだろ」

「どこが?」
 杉山が訊いた。
「そうやって、お前はいつも思わせぶりな口ぶりで、めんどくせぇな、早く続きを言えよ」
 そして、急かした。

「ま、急かすな。俺たちの代って、三年生がこの段階で六人も残ってんだぜ。今まで仕来たりが、上下関係が、そして練習が厳しくて三年生なんてこの時期に残ってるのなんて、一人か二人だっただろう」

 皆が頷いた。

「それじゃ、なぜ六人も残った?」
 浩一郎は続けた。
「俺たちは上下関係を比較的緩くし、和気あいあいとやったことが良かったんじゃないか。 
だから現在の部員は、三年生だけじゃなく、二年生が十三人、一年生なんてまだ入ったばかりだし、それに正確な人数は把握してないが、二十人は超えてるんじゃないか」

「だから、何がいいたい? まだ引っ張りやがって」

 杉山はスイーツの赤いスプーンを器に叩き、カチャカチャと鳴らしている。

「俺らから言わせれば、共栄高校ボクシング部の仕来たりなんてあるようでないんだ。だから変えればいいんだよ。
 確かに試合のための練習っていうのもある。だけど体を鍛えるためにだとか、ストレス発散のためにやってもいいんじゃないのか。大人になれば、タダではできなくなるんだぜ。
 何処かのジムにいき、入会金、月謝を支払ってやらなくちゃならないし、どこにでもある、ってわけじゃなく、あるところも限られている」

「でもよお。それはいいとして、今までの仕来たりでは、県予選で負けたら即引退って決まってたじゃないか。
 このまま俺たちが続ければ、後輩の奴らが、疎ましく思うんじゃないのか。奴らにしてみれば、やっと天下だと思えるんだから。
 それなのに年寄りが、偉そうにリング使って、サンドバック使って・・」

 安いから文句は言えないが、テーブルのスペースは狭いし、椅子は硬いということで、少し窮屈そうに、目にタオルを押し当てた伊藤は伸びをした。

「そのへんのところはハチに言って承諾を取る。安心しろ。
 それに後輩は俺たちのことをそれ程疎ましく思ってないし、尊敬もしてねぇ。馬鹿な奴らだと思ってるだけだよ」

「そうだな」

 ようやく器を、叩くのを止めた杉山は喋り出した。

「俺たちの代から先輩、後輩の垣根がなくなり、稲熊とか村松なんかは、後輩の奴ら、例えば中沢、水野とかと平気でタメ口で話しとるもんな。
 それに俺たちも敬語こそ使われているが、はっきりいってなあなあだ。昔と比べると威厳もあったもんじゃない。
 そうだ。昔なんてすぐ鉄拳だったもんな。恐ろしかったよ。でも俺は垣根なんてなくてもいいと思っている。
 それがいいことにこれだけ部員が残ったからこそ、運動場を使う時も大きな顔をして、使うことができたし、な」

「ああ。その通り。だから、仕来たりなんて俺らから作ればいいんだ、だからもう少し一緒に練習やろうぜ、皆でよ」
 浩一郎はここで締めるように言った。

「そろそろいくか?」

 そして、杉山が痺れを切らした。
「そうだな。もうかれこれ一時間以上はいる」

 伊藤がようやく立ち上がった。そして、タオルを鞄に仕舞い、
「次何処行くよ?」

「もう帰ろうぜ。試合でクタクタなんだから」
 浩一郎が肩を竦めた。
「お前、右目の腫れが段々酷くなってきたぞ。もう早く帰れよ」

「まだ帰さないぜ」
 伊藤が片方の唇を釣り上げた。

 城南大の最寄りの駅は地下鉄の塩釜口だ。
 その駅を跨げば、皆各々別れて行かなければならない。伊藤はそれを阻止するべく、塩釜口入口近くのゲームセンターに入っていった。

「おら、ここでいいだろ。早くこいよ」
 伊藤の次にまだ余力の残っているゲーマーの稲熊が続いた。そうなると、村松、近松も続いていく。

 しかし、俺は帰るぜ、と一番付き合いの悪い杉山が異を唱えた。

「待てよ」
 慌てて伊藤が呼びにきた。
「今日は帰さない」

 鞄を掴まれた杉山は仕方なく、立ち止まった。
「何でだよ? 俺は疲れたんだから、帰してくれ。明日は学校だぞ」

「お前、オヤジみたいなこと言ってんじゃねぇ」
 伊藤は、杉山の腕を掴んで離さない。

「いいだろ」
 杉山は、伊藤に腕を引っ張られた。

 とはいうものの杉山は顔を上げ、茶目っ気を出し、ペンギンが引っ張られるような恰好で、ピョコピョコと店内に入って来た。

「でも、何で帰ったらいけないんだ」
 その様が可笑しく、皆が微笑んでいた。

「分からん」
 伊藤はあっさりと言った。

「分からん、はないだろ」
 杉山は尚もペンギンの仕草で、伊藤に詰め寄った。

「いいじゃないか」
 伊藤は、杉山の肩を叩きながら、奥の方へと入っていった。 

 高校時代というものは、こうゆうものなのだ。
 理由なんて要らない。上役に気を使って、ヨイショや打算を駆使し、宴会にいつまでも付き合うサラリーマンと違って、今が楽しければそれでいい。
 先のことなんか知ったことか、と言わんばかりに、このようにして高校時代の日々は過ぎていった。

「待てよ」
 置いてきぼりをくった浩一郎が、慌てて店内に入っていった。

「早くこいよ」
 村松が手招きをしている。
「でも、お前来ても結局見てるだけだろ」

 そうなのだ。浩一郎はゲームが苦手だ。
 ボクシングは一番強いが、このゲームに関しては一番弱い。今までの位置関係がここでは逆転するのが面白い。

 稲熊の地元天白区界隈では、彼はゲーマーといわれている程に腕は確かだ。
 村松も地元朝倉では小学校、中学校のガキから神様と称えられるだけあり、彼も上手い。
 人それぞれ得意分野があり、彼らの瞳がギラギラと輝いてくるのを眺めていると、浩一郎は人間って面白いな、とつくづく思わされた。 

「ああ、かったり」
 杉山は、丸いパイプ椅子に腰かけ、足を思いっ切り投げ出して言った。

 しかし、そうはいってもやはり彼も、皆と一緒にいるのがいいのだろう。なんだかんだ言っても、ベースボールゲームをやったりして、結局帰らない。

「おい、皆でこのパンチングゲームをしないか? それで誰が、一番パンチ力があるのかを競おう。勿論勝者には金が入ることになっているが」
 杉山が提案を出した。

「バカ、そんなんやるわけないだろ」
 稲熊が即答だ。

「何でだよ?」
 と杉山。

「そんなんやっても、重量級で、ボクシングの上手い川村か杉山が勝つに決まってるじゃないか」
 競馬のゲームを終え、走って戻ってきた近松が言った。
「でも面白そうだな、やるんだったら俺も入れてくれ」

「仕方ねぇな」
 浩一郎が腕を捲り、やる気を出した。

「バカ、お前は出て来るな」
 杉山が慌てて制した。

「いいだろ、お前が言ったんだ、杉山。全員でやろうぜ」
 伊藤も腕捲りをした。
「皆百円ずつ出せ。そして一番の奴が、その全てを手に入れることができる、これでいいな?
 いや、百円なんて小さなこと言うな。五百円でどうだ?」

 全員が頷いた。

「オッシャー!」
 杉山。

「おりゃー」
 浩一郎。

「くたばれ、川村!」
 伊藤が助走をつけてパンチを出した。

「どさくさ紛れに、何言ってんだ」
 浩一郎は、その伊藤の助走をヘッドロックで止めた。

「何だよ。止めんなよ」
 伊藤。

「くたばれ、川村」
 今度はゲーマーの稲熊が、狭いスペースを縫って助走もなく、パンチを出した。

「お前らこそくたばれ!」
 結局、最高点を叩きだしたのが浩一郎のこのパンチであった。
「まだまだお前ら、練習が足りん。明日からしごくぞ」
 浩一郎は言った。

「うえ~」
 近松が最初に反応し、

「また明日からやるか」
 村松。

「俺はあのパンチを究める」
 伊藤。

「ゲーマーとしての俺は、もっと反応をよくするために、動体視力を鍛えるぜ」 
 稲熊。

「俺の邪魔すんなよ」
 と最後に杉山。

 このゲーセンにいつまでも共栄高校ボクシング部の大声、笑い声が響き合っていた。

 ここはまるで夜の動物園のようであった。その動物園の中で熊が、虎が、ライオンが,猿たちの遠吠えが児玉していた。

 そんな中、時間を忘れていたのもあり、ふと外を見ると、既に真っ暗になっていた。

 試合をしたことが、遠い昔の出来事のような気がした。水を含んだ地面の匂いがした。通り雨でも降ったのであろうか。時は気づかぬうちにこのようにして過ぎ去っていく。

 その中で、しみじみと思う。
 いいな、こいつら。本当のダチだ。苦しい時も、悲しい時も、そしてうれしい時も、三年間、いつも一緒に駆け抜けてきた。こいつらがいたからこそ、俺はボクシングを続けてこれた。 

 だが、いつまで続くのだろう・・。
 この時が。こんな時代がいつまでも続かないことくらい、ここにいる全員が知っている。
 でもそれにはまだ耳を傾ける時ではない、と誰もがそれから背いていた。

 やがて来る別れ別れの日々。
 そして、社会の荒波に揉まれる前の、ほんの一時に身を委ねていたいがために、今日も六人は馬鹿騒ぎをしていた。

 大声を上げていなければ、声を出し続けなければ、そこで現実というリアルなものを突き付けられてしまいそうで、外が暗闇に染まっていくのも忘れ、彼らはいつまでもバカ騒ぎをしていた。
 
「仲間っていいものだな」

 ポツリとキケロが前を向いて呟いた。

「何を言い出すんだ。いきなり」
 カエサルもまた、コートの襟を正しながら前を見たまま言った。

「いや、古代ローマの話になるが、カエサル、当時お前は、スペインやフランス生まれの人材を登用し、その人々に市民権を与え、元老院議員にしたが、それに反対した俺や、お前を暗殺したブルータスは本国が属州を支配するべきだと考えていた。
 だがお前の思想に国民も傾き、共和制時代では攻勢一方であったローマも、やがて帝政に移ると「パスク」所謂平和をモットーにするようになったよな。
 そして、ローマは繁栄した。
それは俺たち没後に分かったことで、当時は、たとえ優秀な人材でも多民族出身者を登用すれば、本国出身のローマ人の登用がそれだけ減ることになる、と考えられていた。
 この言ってみれば鎖国路線の言論面でのリーダーは俺だった。
 そして、行動面のリーダーは、お前を暗殺したブルータスだった。お前は道半ばで亡くなったが、結局最後まで俺の考えにはならなかった・・」

「人間は、皆同士なんだよ。それなのになぜ、人種差別をしたり、政治、学校、職場などで派閥を作り、その中で仲間外れを出し、その者を排除しようとする。
 そんなのはナンセンスで、俺に言わせれば視野が狭いだけの堅物でしかない。そうだろ?
 人間、各々得意分野があるのだから、それを伸ばしてやれば、人間の集い、組織などはそれで上手く運営されるはずなんだ」

「ま、いい。話がややこしくなる。結局俺たちは、そもそも思想が違うんだ。
 このまま議論を重ねても平行線を辿るだけだ。だから、俺たちの話は置いておいて、彼の話をしよう」 
 キケロはここで制止した。
「彼の決断は、これで良かったのかな」
 
 さっきから頭の中で声が聞こえていた。

「ボクシングの練習というものはキツくて、辛いものなんだ。もう試合もなく、何の目的もない者を引き留め、一緒に練習をやらされた者たちは一体今頃、どう思っているんだろうな」

 この声はいかつい顔のカエサルだな。

「そうだよな」

 今度は美男子のキケロだ。

「その時は何もやることがなくて、所謂ノリでやる、と言ったかもしれないが、もう少ししたら、高三の時にしかできない事柄を発見していたかもしれないよな。高校時代なんていうものは長いようで短い」

「当時はそりゃ、永遠に続くものだと思っていたかもしれないが、きっと今頃は気づいているんじゃないか。
 所詮、若い時なんていうものは、人生のほんの一部分で、短いということを、な」

 カエサルはここで指を鳴らした。

「どうだね、人生なんていうのはどう転ぶのか分かったものじゃない。この日に戻ってみるか?
 そして少しだけなら修正はきくぞ」

「もしかして、」
 浩一郎が目を開いた。
「俺の考えていることが分かるのかい?」

「ああ。今、君の頭の中にあること全て分かっているよ」

「そうなのか。じゃ、もう少し考えさせてくれないか」

「分かった。君次第だよ」

「優柔不断な奴だな」
 カエサルは苛立ちながら言った。
「この時代でいいじゃないか。今更何を迷うことがあるというんだ」

「ま、いいじゃないか。この爺さんにはまだ色々な人生があった。この時期はまだ人間としての成長形態が出来ておらず、向かうべき道も定まってはいなかった。
 古代ローマも国内で統括し、そして海外へ進出する前のように、な」

 キケロは、カエサルを宥めるように言いつつも、顔は見なかった。しかし、次に浩一郎を見た。

「それでは自由を追い求め異国の地に、旅に出かけた青年の頃はどうだ?
 あの時代も、君にとって大きなものだったのではないか。
 そうだな、今になってどっちが君の人生の中で比重が大きいのか。ボクシングをやっていた頃と海外で暮らした頃とでは・・。
 考えてみるがいい」
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