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第四章 飛び出せ海外へ
しおりを挟む青年期?
俺は何をしていたのだろう。世の中はバブルも弾け、日本の勢いも若干陰りが見えてきた時期だった。
高校で始めたボクシングをそのまま続け、プロの道へといったが、ま、そんなに甘くはなかった。
アマとプロの違いは、ヘッドギアがあるかないかの違い。
グローブが柔らかいか硬い。それから一番の違いは、アマは三ラウンドしかないが、プロは四ラウンドから始まり、ライセンスの昇格により、六、八、十、十二ラウンドへと増えていく。
今思えば、俺はプロ向きではなく、アマ向きだったように思う。上っ面だけでボクシングをしていた、そう思える。プロとしての重いパンチを打つことができなかったし、相手のその重いパンチに屈していた。
引退したのが二十四歳。
これから何をして生きていこうか、思い悩んだ。ボクシングを辞めたことにより、何もなくなっちまったんだ。それまではボクシング一筋だったのに・・。
無論、その時は資格、手に職もなく、この先どうしていいか分からず、頭が真っ白になっちまったな。
そんな時だった。ある書店で一冊の本が目に留まったのは。やはり人間迷った時のバイブルは本だ、そう思った。
本は知識の宝庫で、これからの自分の道を探るヒントが詰まっていた。
そんな一冊の本は、ワーキング・ホリデー、といったタイトルだった。
そのページを捲ってみると、ニュージーランド、カナダ、オーストラリアの三ヵ国が紹介されており、浩一郎はその中のニュージーランドに興味を抱いた。
なぜその国に興味を抱いたのか。それは自分が自由になれそうで、自分に取って一番優しくて、飾り気のない国に思えたからだ。
あるいは、そこに行けば自分が無理なく動けて、受動的に物事を考えられるようになるのではないか、そう思った。それに、島国日本ととても地形が似ているではないか。
ニュージーランドは、南半球の中の羊の国で、そこは大自然が広がり、世界の箱庭と称される国だ。
素朴な国民性で、観光客にも優しく接してくれる。浩一郎はそんな国の案内に、自然とページを捲る手が止まらなかった。
日本国籍の十八歳から三十歳までを対象に、ニュージーランドの文化や習慣を体験し、相互理解と友好を深めることを目的として、ニュージーランドと日本政府の間で結ばれた制度だ。
この制度の基では一年間の滞在が認められ、その間には就労も自由である。ビザ有効期間は無制限で、ニュージーランドからの出入国が可能だが、出国日数分をビザ有効期間に加算することはできない、と書かれていた。
こんな制度があるとは思いもしなかった。この本により、新たな発見があり、浩一郎の中で扉が開かれようとした。
思い切って日本を離れ、南半球の島国でこれからのことを考えてみようかと思った。十五歳から始めたボクシング。辛い減量、蓄積された脳へのダメージ。体がいくらかガタついていたのはゆうまでもない。ボクシング人生後半は、パンチを受けた体への衝撃が変わってきていたのも事実。
神経の線が一本、二本と切れていくようで、首から脳への衝撃が大きくなっていた。このままでは危ない、そう思っていたほどだ。
ここらで一休みしたいな、そう思った。一定期間、人間は休むことが必要だろう。その中で浩一郎は何かを求め、自分から新しい門出を解き放ち、そして、南半球へと旅立っていった。
嘘のように青くて、綺麗だった。
まるで絵具で描いたようなこの透き通った青空。それになんといっても美味しい空気。
この美味しい空気に金を払ってもいいとまで思わされた。
周りを見渡すと、彫の深い白人、黒人とは違った黒さを持つ原住民のマオリ族、それに黄色人種たちもゆったりとした趣で道を歩いていた。様々な人種が列車、バスに乗り、スーパーで買い物をし、憩いの場で寛いでいた。彼らがこのニュージーランドで、当たり前の顔で生活をしているのを見るだけで感動した。
だが、日本を発つ前には、これは少しだけ無謀な懸けではないかと思った。
実際、この国にやってくると、最初の日はえらい所にきてしまったな、そう実感させられたものだった。
初めて乗った一人だけの飛行機。
長いフライトを終え、それを降りると、空はどんよりと暗く、そして雨が降っていた。雨が降っているのにさほど湿度は高くなく、それほど不快には思わなかった。
驚いたことに周りは外人ばかり。というより、異国に来たのだから、自分が外人なのだが、日本人がいなかったことに驚いた。そこで一気に不安に駆られ、心細くなった。
それに、日本を出国した時には、あれ程暑い夏だったのに、ここ南半球にやってくると、季節が逆の寒い冬になっていたことにも驚いた。
温暖な気候のため、日本の冬よりも若干暖かいが、それでも季節の逆転には戸惑った。まだ、これが北島のオークランドにいるためにいくらか暖かいが、南島にいくともっと寒いはずだ。この辺りも日本と違うところだ。日本は北が寒く、南は暖かいのだから。
とにかく、ニュージーランドに到着した日、その日が晴れであったら、もっとましだったのかもしれないが、そのぐづついた天気と同じく、気分も沈んだのを今でも覚えている。この先ここで、何も知らない俺でも、やっていけるのだろうか、と。
最初の頃は、何故かは分からないが、顔が疲れたのを覚えている。英語が分からないため、顔をニコニコとさせ、愛想を振りまいていたからなのか、頬のあたりがとにかく疲れた。
しかし、日が経つにつれ、この国の生活にも慣れてきた。文化の違い、言葉の壁に阻まれることは何度かあったが、俺は今まであの過酷なボクシングをやってきたんだ、とのプライドを持ちつつ、その壁を乗り越え、とにかく楽しんでここの生活に挑んでいった。
楽しいからこそ、それをもっと深めるために言葉を覚えようとして、辞書を開き、勉強した。
また、ここでの常識にも気を使った。この国の人々は、ティーを飲む音、スープを啜る音、それから鼻を啜る音、それらの音を極度に嫌がった。
ラーメンを食べる時にも気を使ったほどである。だがそれらを浩一郎は、まったく苦にしなかった。
その国に来たら、その国に従えの精神で、この国の人間になろうと心掛けた。
強い風が吹いていた。それは少し湿っていた。
「あ、雨だ」
六十過ぎの品のある白人男性が言った。
港町にはヨットを手入れする人々の様をよく見かけた。太陽が水面に輝くように見えた。いくつものヨットが並び、天に向かって白いマストがそこかしこに伸びていた。太陽の光がマストに当たり、それが反射して、とても眩しかった。
男がマストに付いた帆を引き剥がし、隣にいた若い女が、その帆を受け取り、木の箱の中に丁寧に仕舞い込んでいるのが見えた。
その男と目が合うと、ハロー、と挨拶をしてきたので、こちらも挨拶を返す。
すると女の方も同じようにハローと言ってくれた。
「ローリー、何か言ったかい?」
浩一郎は、ヨットを手入れしている若いカップルの姿を見ており、隣で一緒に歩いていたその白人の声を聞き漏らしてしまった。
「雨が降ってきたようだ」
六十を過ぎた白髪の老人は、少しげんなりしたようにもう一度言った。
「嘘?」
浩一郎は空を見渡した。
確かに先程ほどまで、あんなに綺麗であった青空が無くなり、今ではそれが少し灰色かかっていた。
そして、上空からポツリ、ポツリと風に乗り、横から顔に雫がかかることで、雨が降ってきたことに気づいた。
「シャワーだ」
ローリーは言った。
「雨宿りでもしていこう。そこのカフェで」
「オーケー」
潮風に乗って海の匂いがする。
頭上では、カモメの心地良い鳴き声がする。
そんな所を、サングラスを嵌め、颯爽と駆けていく女性ジョガー。
大きな黒い犬に引っ張られながら散歩する老婆。
それから先程のヨットの手入れに余念のないカップル。
ここでは時間がゆっくりと、優雅に流れており、皆マイペースで生活を送っていた。
浩一郎はそれにつられ、少しくらいの雨なんかは気にもならなかったし、逆に雨は、体に優しく降り注いでくるようで、ローリーの言ったようにシャワーのようだった。
ここはニュージーランド一の繁華街オークランド市のダウンタウンだ。
首都は国の真ん中に位置するウエリントンだが、この市の方が賑わっている。
浩一郎とローリーは商店街の中に入っていった。そこは雑然としており、所々に狭い入口があるが、そこからは色んな匂いがした。
雑貨の店からは香水の匂い、羊の皮の匂い、隣の店からはビール、ピィッザの匂い、奥の店からは中華料理の独特な油の匂い、その更に奥の白い建物に入っていった。
入口は狭かったが、意外に店内は広かった。
コーヒーの匂いと共に香り豊かなブレットの食欲をそそる匂いに負けて、二人は奥の席に腰かけた。「ああ、疲れた、ティーを買ってきてくれ」
ローリーは、二人分の小銭を渡した。
ニュージーランドはイギリスの影響を受けており、彼らはフィシュ&チップス(魚フライとポテト)と紅茶をこよなく愛していた。今日のランチもそれを食べた。
紅茶を受け取り、出された二つのカップの中に、カウンターに置かれているポットを手に取り、その中にある牛乳を垂らす。
これでミルクティーの出来上がりだ。この国の牛乳は美味しいし、アイスクリーム、ヨーグルトなどの乳製品が絶品なのだ。大自然で育った牛が絞り出す乳は最高だ。紅茶の苦みをその牛乳が優しく溶かしてくれる。
ローリーとミルクティーを飲んでいると、外の色が変わってきたことに気づいた。
「もう止んだようだな」
ローリーがどこか誇らしげに言った。
「これがニュージーランドだよ。このように雨が降ったら、何処かでティータイムでもしてれば、すぐに止み、また晴れる。
人生と一緒だよ。何をやってもうまくいかない時には、雨が止むのを待つように、何もせず、状況を見るだけにしておいたほうが賢明だ」
「ここはあっさりしたものだからいいけど、日本なんか、いつまでもじとじとと降り注いでいるからね、一体いつ動けばいいんだ、って思うよ」
「日本でも止まない雨はないんだろ?」
「まあね」
「それなら止むまで待つんだよ」
ローリーは言った。
「せっかちは若者の特権みたいなものだが、人生はそれ程短くはないぞ。もっと待つことのできる心のゆとりを持て」
「そうかな。あっという間に時間が過ぎていき・・」
浩一郎は、横のローリーを見ながら言った。
「俺みたいに年をくってしまう、か?」
浩一郎は頷いた。
「ハハハッ。でもな、お前も、俺の年になったら、自分の人生を振り返ってみな、あの時、ああした、この時、こうしてたなって。すると自分の人生、色々あって、それ程短くないことが分かるさ。
時間はな、皆平等に、同じように与えられるんだ。それを忙しく使い、ストレスを溜め込んで人に当たり散らしながら生きるか、のんびり使って自然、それから時間の流れに逆らうことなく、大仏のような顔で生きるのかは、自分次第なんだよ」
「大仏みたいな顔をしていれば、人が寄ってくるって?」
「分からん。この年になっても分からんことはいくらでもある。だから生きているんだと思うがな。ただ、人がどう思おうが、自分が大仏のような顔をしていれば、ストレスが溜まることはない。そう思わんか?
人のことを気にするから疲れるんだ。自分がこうだと思えば、そうすればいい。日本人は、人の顔色ばかりを窺っているっていうじゃないか。だから疲れるんだよ」
「そんな気がする」
浩一郎はゆっくりと紅茶を飲んだ。
「それはそうと、まるで国民性というのか、性格を表しているようだね、ここの天気は」
「ああ」
この国は南半球で、北半球の日本とは季節が逆になる。だから八月の今は冬真っ盛りだ。そして、この国の雨季は冬にあるが、日本のように長くは降り続かない。
「どうだ、コーイチがニュージーランドに来て、一か月が経つ。ここの生活にも慣れたかい?」
ローリーは、浩一郎の英語のプライベートティーチャーだ。昔日本で英会話のティーチャーをしていたことがあり、随分と解りやすいティーチャーである。
「うん。慣れてきたよ。最初は見るもの全て珍しく、色んな物に感動して、とにかく、疲れるのが早かったな。
それで、慣れないから時々恐怖を感じたこともあったよ。でもローリーのお蔭で英語も解るようになり、今では楽しむことができるようになってきた」
「それはいいことだ。で、ホームスティ先のステーブ家だけど、どうだい?」
「どう、って?」
「暮らし、生活リズムなどに不備はないか?」
「問題ないよ」
「そうか、ま、」
ローリーはミルクティーを飲み干し、
「今でも迷っているんだ。ステーブ家を君に宛がって」
「どうしてだい?」
「ステーブ家は少し汚いし、男一人、女二人の姉兄妹がいるが、服は脱ぎっ放し、足の踏み場もないくらいの時もあるっていう噂を訊くんだ。
それにホームスティー代のわりに食事が落ちるってね。そのくせ、うちは日本人しか取らない。韓国、中国、タイ人は駄目だ。彼らは嘘をつくし、部屋を汚く使う、ときやがる」
「ま、いいんじゃないか。ステーブはデブで、大声で喋るけど、根は良い奴だよ。
奥さんのキャロルは、俺が初めてニュージーランドに来て、ATMで金を下ろそうとした時。訳が分からなかったけど、彼女は銀行員だから丁寧に教えてくれたんだ。
それに三人の子供も毎日笑顔で挨拶をしてくれるから、いい人たちばかりだよ」
「そうか。それならいいんだけど。じゃ、試用期間一か月を過ぎたが延長してもいいんだな?」
「ホームスティ先を、かい?」
ローリーは肯いた。
「いいよ」
浩一郎は即答した。
「他にもいい家、綺麗な家、フレンドリーな家、いくらでもあるぞ。他の家も見ると勉強になるんだが」
「少し、ステーブ家に情が移ったかな」
「そうか、ま、いいや」
ローリーは言った。
「とにかく、人生というものは選択が重要だ。その都度、その都度の選択で人生も大きく変わってしまう。俺は君に英語だけではなく、それらも教えたいと思っているんだ」
ローリーは昔高校の教師をしており、妻のフィルも小学校の教師だったということからも夫婦揃ってお堅いところがある。しかし、ローリーの本性は下ネタの好きなエロ爺である。
どうもその本性を夫人のフィルには見せたくないようで、いつも彼女の前では畏まっていた。
「それじゃ、そろそろ時間だ。帰ろう」
ローリーは立ち上がった。
「うん。分かった」
二人は店を出て、通りを歩きかけた。
「それにしても、いい女だったな」
「え?」
「受付の子だよ」
「本当?」
「ミニスカートでさ、足がキュって締まっていた」
「よく見てたね。全然分からなかったよ」
「そんなことじゃ駄目だな」
「何が駄目なんだよ」
浩一郎は立ち止まり、振り返って遠くからその女を見たが、ローリーはフフンと微笑んで、一人で歩いていってしまった。
浩一郎のニュージーランドでの一日は、ステーブ家からローリー家までバスと列車で通うのだが、上手い具合に乗り継ぎが良ければ三十分。
しかし、そんなに上手くいくことは稀だ。特に列車に乗ると、大体各駅で待たされることになるし、線路はなんと単線で、とにかく遅い。日本のようにタイムスケジュール通りにはいかないのが常で、バスの方も予定通りにはいかない。よって片道一時間は見ておいた方がいい。
ティティランギロードに住むステーブ家を九時に出て、マウントアルバートに住むローリー家には十時頃に着く。
そこで昼までの二時間。テキストを使った英会話のレッスンが行われる訳だが、マンツゥーマンで行われるため、非常に密度が濃い。
ローリーは金持ちで、地下に部屋がある家に住んでいて、その地下でレッスンを受けるのだが、その部屋は窓がない分暗い。
彼の住むマウントアルバートは比較的富裕層が暮らしているため、そこではゆったりとした雰囲気を感じた。それに彼は、車を持っているだけではなく、ヨットも所持している。今は隠居の身分であり、若い時にいくら稼いだのであろう、とつくづく思わされることがある。
そんな彼に教えてもらうレッスンは難儀した。勿論のこと彼は日本語を喋れない。なので、全て英語を使って教えるため、とにかく辞書が必需品となってくる。この二時間は集中しなくてはならないから、疲れる。
そして、二時間のレッスンが終わるとホッと一息。ランチタイムだ。
ランチは大概近くのパン屋で買ってきて済ますことが多い。そして、午後からは二時間の野外授業だ。
こっちの方が楽しい。彼の車で外に繰り出す、所謂観光だ。そして、オークランドの街を散策するのだ。
今日は芝生の綺麗なワンツリー・ヒルの丘を登った。そこから見える海や山を眺めていると、時間を忘れてしまうほどの素晴らしい一時を送ることができた。そして、帰りがけにオークランド港に立ち寄って散策をした。
ローリーのレッスンを終え、また一時間を掛けてステーブ家へと帰っていくが、帰りの方が時間は掛かる。なぜなら寄り道をするからだ。
単線の列車に乗ると、しばらくすると車掌がやってきて、そこで切符を買うことになる。
毎日無銭乗車する人が出ないのか不安になるが、日本のように乗客は多くはなく、車掌もちゃんと乗客の顔を覚えているのだろう。必ず切符を売りにくる。
車窓から外を眺めていると、短い時間でもオークランドの街並みが移り変わっていき、それでいろんな建物を見ることができる。それだけでも心が浮き立ってくる。
そんな列車で、二十分くらい揺られていると、ニューリン駅に到着した。
そこで市バスに乗り換えるために降りる。列車からは数人が降りただけで、すぐさま列車は動きだし、次の駅に向かっていった。
浩一郎はその列車が見えなくなるまで見ていた。この列車はどこまでいくのだろう。その途中の駅では、どんな街並みが広がり、どんな人々が列車に乗り込み、そして降りていくのだろう。
そこには何があり、どんなものが待ち受けているんだろう。そんなことを考えていると、いつか時間がある時にでも終点まで行きたい、そんな願望が頭の中で広がっていった。
ニューリン駅のショッピング・モールでブラブラとした。地面に目をやると、まだアスファルトに水溜まりが残っていた。こっちの方が、雨が強く降ったようだ。
ここは田舎の中のちょっとしたショッピング・モールで、広大な広さを持っている。食品や日用雑貨、電化製品、寝具、ファッション服、美容院、それからカフェ、ファーストフード店などがあり、大概の買い物はここで済ますことができる。
だからこの辺りの住民がここで買い物をするし、またここ以外では、店屋があまりない。だから、どうしてもここまで車やバスでこなくてはならないのだ。
浩一郎は、ショッピング・モールをブラついた。
さっきローリーとカフェに入ったばかりのため、また入るのも、と思っていると、お洒落な美容院を見つけた。
この国にきてまだ髪の毛を切っておらず、伸び放題のこの髪が少しうっとうしいと思っていた頃だ。思い切って店内に入っていった。
ニュージーランドでは、日本のように男も美容院で髪の毛を切るのであろうか、と疑問に思ったが、中に入った。
店内はさほど広くはなかった。黒を基調とした壁で、薄明かりの照明のため、昼間でも暗かった。日本と比べるとやや簡素化されていた。それでも立派な三つの席があり、そこは全てが塞がっていた。そのどの席も女性客で、担当するスタッフも女性だった。
浩一郎が受付に行くと、すぐ近くにいた二十代後半のショートカットで、金髪の背の高い女性がカットの手を休め、やってきた。
「どのようなご用件ですか?」
「ええ、カットをしてほしいのですが」
「予約をしましたか?」
「いえ」
「では、この用紙に名前を書いて下さい」
浩一郎は言われるがままに用紙に名前を書き込んだ。その用紙には数人の名前が書かれていたが、鉛筆で消されているのが殆んどだった。
「どれくらいかかりますか?」
「そうね、三十分もかからないと思うけど」
「そうですか。ではこの辺をブラブラして、また来ます」
と言って、浩一郎は一旦店から出た。
そして、CDショップの中に入っていった。期待と不安が交錯し、そわそわとしてきた。買う気もないのにパラパラと手にとり、眺め、知っている歌手がいなかったので、そこを出て、トイレに行き、用を足してから、美容院に戻っていった。
店内に入ると、すぐに呼ばれた。
そして、先程のショートカットで、背の高い女性が担当してくれた。
「この店は女性客が多いですか?」
「まあね。でもたまに男性客も来るわよ」
背の高い女性は言った。
「あなたは何処の国の人?」
「日本人です」
「そうだと思った。で、ここにはもうどれくらい滞在しているの?」
「一か月くらい」
「そう」
女性店員は言った。
「慣れた?」
「ええ。少しは」
「今日はどんなスタイルにする?」
「横と後ろをスッキリとしてほしいな」
「そう。分かったわ」
そういうと彼女は手早く、ハサミで浩一郎の髪の毛を切っていく。
ザク、ザクと小気味良い音をさせ、リズム良く。店内ではビートルズの音楽がかかっていた。彼らの歌声が心地よく、少し眠くなった頃、カットを始めてものの十分程だったかに思う。
店員が鏡を取り出してきて、
「出来たわ」
と言って、浩一郎に後ろを見せた。
そして、浩一郎は眠い目を開け、後ろを見ると唖然とした。全体的にはこっちが言った通りにやってはくれたが、よく見ると横の髪の毛がなんと虎狩になっていたのだ。
「どう?」
女性店員は満面の笑顔で、誇らしげに訊いてきた。
「ええ。大変スッキリしました」
唖然とした顔を悟られまいと、俯いて言った。
「そうよね。切る前は、少しやぼったかったものね」
店内は相変わらずビートルズが流れていた。浩一郎は料金を支払い、店から出た。
後ろからジョンが、リンゴスターが、ポールがビートルズの面々が所詮こんなものさ、と言っているかのように歌っていた。
やはり手先の器用なのは日本人で、外人は大雑把なのであろうか。遠くから見ればいいかもしれないが、近くで見ると欠点が浮き彫りになってくる。
浩一郎は、ビートルズの音楽を背に、ポケットに手を突っ込み、肩を竦ませて、それから歩き出した。
家に帰るためにバスに乗った。庶民の足ということから、ニュージーランドの生活にどっぷりと浸かることができる。
買い物かごを手にした大柄なマオリ族の主婦、揃いの運動着を着た学生たち、白人の老夫婦、彼らと同じような顔をして浩一郎も席に座った。
バスに揺られること十分。
やがて丘に差し掛かってくると、一般的なニュージーランド人の家並みが見えてきた。そこで下車した。
ローリーの所は日がよく当たり、明るかったが、この辺りは少し陰になっていて暗い。
そこから少し歩いていくと、ステーブ家が見えた。門は高台に位置し、そこから下って玄関に向かう。
その玄関を潜り、腕時計を見ると五時を過ぎていた。日が陰り始めていた。日が陰ると同時に、昼間の高揚とした気持ちも収まり、冷静な頭で一日を反省することができ、この後の残りの少ない時間も容易に想像ができた。
浩一郎に宛がわれた部屋は二階にあり、いつもはその部屋で寛いでいると下のリビングから大きな声で「ディナーの用意ができたぞ!」
とステーブに呼ばれることになる。
そして、七時頃に家族揃ってのディナー。
料理はパパのステーブの仕事だ。
夫人のキャロルは外で仕事をしてくるから、家ではゆっくりしているのが常だ。この辺が日本と違うところである。
食事が終わると、その後シャワーを浴び、自分の部屋に戻り、TVを見て寝るという生活が待っている。
こういう生活をしていると慣れてきて、日本にいる時のような感覚で生活を送ってしまうようになる。
よって、いつしか最初に意気込んだ、その国に来たら、その国に従えが忘れられていく。人間は何処にいても、自分の生活のリズムを見つけ出そうとするのだろうか。そして、それを単調化させるようになる。
これではいけない、とここで修正をいれてみる。街を行き交う多人種に日本とは違う風習。
それらが慣れにより、色褪せていくのを不安に思う時がある。
言葉は分からないことが多いが、そこはハッタリで乗り越えてきた。
ここまで重大事件に巻き込まれることはなかった。分かったことは、人間適応能力が高いというのか、やはり若いからこそできること、なのだろう。きっとこの時を、この瞬間を逃してしまっていれば、俺は出来なかったはず、そう浩一郎は思う。
でも、こうも思う。これが学生の留学、大学くらいならまだいい。
だがここには中学を卒業した者でさえやってくるのだ。彼らはまだ若く、やっていいこと、悪いことの区別がつかず、常識も解らず、ニュージーランド人に迷惑をかけてしまうかもしれない。
そのことで負ってしまう自分への心の傷に耐え切れずに折れ、大人の悪に染まり、煙草、酒ならいざ知れず、ドラックに手を染めた人間を、浩一郎はこの国で見た。
それとは逆に年老いていれば、何処かへ行こうとする気力、新しいことにチャレンジする勇気、それらが乏しいはずだ。
それに失敗は年老いてからするものではない。若い時にするからこそ、やり直しができるし、失敗を糧にし、成長することもできる。今しかないんだ。自分を試すことができる時期は。
ニュージーランドの家は敷地面積が広いところが多い。また日本のようにしっかりとした門はなく、道からそのまま入っていくところが多い。
浩一郎は裏口に廻り、そこから部屋に入っていく。裏口は大概鍵が開いており、そのまま入ることができる。不用心かとは思うが、ドロボーが入ったことは一度もないそうだ。
この国では、基本的には土足で生活をするのが常だが、ごく稀に日本のように玄関で靴を脱ぐ家庭もある。運がいいことにローリー家もステーブ家も後者にあたっていた。
ドンドンドン。
床が軋む音がした。
途中音が無くなる時があるが、その時は、もしかしたら床の板が割れ、ズボッと彼の足がめり込んでしまったのか、と本気で思う時がある。
「よう、今帰ったのかい?」
大きな声だ。巨体を揺らしながらステーブがやってきた。体重が重く、膝がその重みに耐え切れず、悲鳴を上げているようで、彼はいつも左足を引きずっている。
「ただいま」
「お帰り。この前、連れてった所」
ステーブが億劫そうに歩いて、息切れをしながらキッチンに入って来た。
「この前?」
「ボクシングジムだよ」
ステーブはすぐさま椅子に腰を下ろした。
「よっこらしょ」
立っているのが辛く、彼はすぐに座る。
「ああ、先週の金曜日の話だね」
「そうだよ。もう忘れたのか」
「ちゃんと覚えているよ。で、そのジムがなんだって?」
「今、さっき連絡があったんだが、話の内容はこういうことだ、コーイチには才能がある。うちでボクシングをやらないか、だって。
そうすればビザだって延ばしてやることができるし、それに働くところを世話してやると言っていたよ、どうする?」
別に苦しいでもなく、恥ずかしいでもなく、酒を飲んでいるわけでもないのに、彼はいつも顔を真っ赤にしている。
浩一郎は考えた。
確かに先週ステーブに連れられ、ヘンダーソンのジムでボクシングの練習をした。
その時にスパーリングをしたのだが、恐らくその相手は、ジムの有望各だったのだろう。
だが浩一郎のスピードにまったく付いてきていなかった。だから浩一郎の才能に視線がいったのだろう。
しかし、そのジムのレベルには疑問が残った。なにせ週に二日の練習しか行わないところなのだ。ボクシングは一日練習をサボれば三日は遅れるというほどのもの。
その練習方法でいいのだろうか、と。
それに、浩一郎はここにボクシングを忘れるために、ボクシングに変わる何かを見つけるためにやってきたのだ。
今更異国の地で又ボクシングをやり、更にプロとして再起するなんて考えられない。浩一郎は、そのことをステーブに伝えた。
「そうか、残念だな。俺としては鼻も高かったし、やってほしかったんだが、本人がそう思うのなら仕方ない」
「お帰り、コーイチ」
リビングルームに行くと、中学生のギャラスがテレビを見ていた。
「ボクシングはやらないの?」
口だけは達者なガキだ。どうやら隣で訊いていたようだ。家では偉そうにしているのに、先日のボクシングジムにいった時には、まるで借りてきた猫のようにおとなしく、一番端のサンドバックをちょこちょこと打っていただけで、そのサンドバックでさえ、他の男が近くに来るとやめて、更に端に移動していた程だ。
リビングルームは広く、十六畳程ある。
元の色はブラウンだと思うが、今となってはその原色をとどめていない絨毯。猫を飼っているため、汚れるのは仕方ない。
そして、少しセンスの悪いシャンゼリアに濃いブラウン色の二人掛けのソファと六人掛けのソファがある。奥には三十二インチのテレビがある。その周辺には、ローリーの部屋にもあったが、家族写真が数枚額に収まっていた。それはどれも、今よりも若かりし頃の写真ばかりで、見ていると自然と頬が緩んでくる。
「ああ。もう疲れるしね」
浩一郎は言った。
「それに他のことがしたいんだ」
ギャラスは母親に似て、なかなかの二枚目だ。
「そうなんだ。コーイチ強いのに残念だね」
ギャラスを始め、他の子供もコウイチロウと発音するのが難儀なようで、親までコーイチと呼ぶ。
「それにしてもボクシングは拳が痛いものだね。僕も一緒に練習したけど、あの時、初めてサンドバックを打ったんだけど、今でもヒリヒリしてるもん」
「そうだよ。ボクシングってそれ程甘いスポーツじゃないんだ」
それから浩一郎は顔を左右に向けた。
「ところで、キャリーとハナは?」
「二人ともママと買い物。きっとそこでおねだりしてるんだよ。僕には分かる」
ニヤリとした。
「ギャラスも付いていけばよかったじゃないか」
「いいよ、僕は。女三人でいってこればいいんだよ」
「ハハッ。辛いな」
「何が辛いの?」
ギャラスは首を傾げた。
「それに何、その含み笑いは」
「いや、別に、ただ男はいつ、何時も除け者だな、って」
「そんなことないよ。俺だってママと一緒に行く時もあるんだ。今日はたまたまこうして家にいるだけだよ」
「あ、そう。ま、いいや」
浩一郎は話を変えた。
「て、ことは今日のディナーは遅れるってことだね」
「そうそう」
巨体を揺らしてステーブもリビングに入ってきた。
「お腹空くな、ハハハッ」
「それじゃ時間つぶしに、俺ちょっと外を走ってくるよ」
「分かった」
ステーブは、俺には関係ない、という具合にテレビに目をやったまま手を上げて答えた。
外に出た。
うっそうと茂った樹木から、湿り気を帯びた緑の匂いを感じた。
外は時折車の排気音が聞こえるが、大体が静かだった。ステーブ家は丘の途中にある。だからその辺りを走っていると、かなりの急斜面ということを実感する。ランニングをするにはきついが、景色がいいこと、それから森もあり、緑が多く、空気が美味しい、という醍醐味があり、走っていても気持ちがいい。
そんな所をもくもくと走っていると、必ず同じように走っている人が通り過ぎていき、挨拶をしていく。
たとえ顔見知りでなくとも。
「ハロー」
お互いがどんな人物かも分からずとも、
「ハ~イ」
当たり前のように挨拶を交わしあう。
時には、
「調子はどうだい?」
「絶好調だよ」
など歯切れの良い会話も続く。
そして、挨拶後は後ろを振り返ることなく、止まることもなく、走り去っていく。
挨拶はするが、他人の詮索はしない。
日本人のようにお節介なところはなく、ちゃんとプライバシーを守ってくれる。
その変わり、こっちからアクションを取れば、必ず相手も返してくれる。
だからただ黙っている者には何の手も差し伸べてはくれない。
この国にきて、少しだけ自立が大事、ということを理解できるようになると、ちょっとは自己主張ができるようになったかに思う。
そして、少しでも自分を成長させることができれば、それだけでもこの国に来た甲斐がある、というものだ。
気持ちに余裕が出てきた浩一郎は、こんなことを考えるようになった。
もう少し違った、新しいニュージーランドを見てみたくなってきたな、と思うようになった。
そして、人間は欲深い生き物だ、と。
それに、このままの生活を続けると、日本での暮らしを、ここでさえ続けてしまいそうで、ある種、そんな自分が恐ろしくなりそうだった。
当初は異国の生活を体験するだけでいい、と思っていたが、日が経つにつれ、もっと違うものを見たい、体験したい、となってきた。それでいいのかもしれない。生きていれば、向上心が芽生えてくるのは当たり前のことだ。
浩一郎は山の中をもくもくと規則正しい息遣いで走りながらいったり、来たりの考えを頭の中で巡らしていた。
ランニングというものは、同じ動作の単調な動きのため、考え事をするには最適だった。
体を機械のように動かし、それで頭の中の脳をフル回転させる。
現役の時であれば、試合のことを考え、どのように戦うのかを考え、敵がこうすれば、こっちはこう動く、などと考えていると、ゴールが近くなるにつれ、ちゃんと試合で、自分が戦う動きが想定されていき、考えが自然とまとまっていくものだ。まとまらなければ、まだ走るのみ。
そして、今もその原理を用い、ようやく考えがまとまってきたかに思えた。
一か月程、旅に出てみようか、少し前からそんなことが頭を過るようになっていた。
今はニュージーランドの北島にいるが、南島にも行ってみたいし、何より自分がどれだけ出来るのかを図ってみたい気がしたのだ。自分一人の力で一体どこまで出来るのかを。
しかし、ベースは崩したくない。
ローリーの英会話レッスンから始まり、人生のイロハを教えてもらうこと。それからここでの活動の拠点、ステーブ家。
それらは俺の帰る場所なのだ。きっと帰る場所があるから人は旅をするのだろう。
急勾配の新道を険しい顔つきで駆け上がっていく。考え事をしている時の顔は、人が近寄りがたい、とよく言われたものだ。
浩一郎は、一旦顔を上げた。すると周りが暗くなっていた。太陽が沈みかかるまで、ずっと考えていたようだ。いつの間にか暗闇の中を走っていたことに気づいた。
ディナーは大体七時から皆がリビングに集まり、ステーブの料理により行われる。この一家は日本と逆だ。
女が外で働き、男が家の仕事をする。だがそのような家庭はこの国では珍しくはない。
ステーブは働いていないため、国から補助を受けている。それに浩一郎のような者をホームスティ客として受け入れ、週単位でお金を受け取っているのだ。そんなことからこの家は父親が働いていなくとも、裕福に暮らすことができるのだ。
「もし、ホームスティを受け入れることができなくなり、金に困るようになったら、その時は工場で働くぜ」
とステーブはいい気なものだ。この男にはまったく緊迫感というものがない。
「ディナーの用意ができたぞ!」
いつものように下から大きな声が轟いた。
階段を降り、下のリビングにいくと、既に席にはキャロル、キャリー、ギャラス、それからハナと全員が揃っていた。それぞれがフォーク、ナイフ、コップをテーブルの上に並べる。
「ハロー」
「ハロー」
皆が挨拶を交わし合う。
「何処に行ったの、今日は。コーイチ?」
ステーブの夫人、キャロルが訊いた。
彼女は知的で、口元がチャーミングなとても綺麗な女性だ。
あまり浩一郎には多くを話しかけないが、それでも挨拶やそれに対してプラスアルファーは、一番しっかりとやってくれる。
「ワンツリー・ヒル」
「ああ、あそこね、よかったでしょ」
「うん。羊が沢山いて、景色も最高だったけど、全然触れなかったよ」
「そりゃそうよ。だって今は出産の時期だからね。で、羊たちも今は神経質になってるから、しょうがないわ。それより羊たちに触ろうとして、走り廻ってないわよね、コーイチ?」
「ああ、そのことはローリーに注意されたから。お腹に子供がいる羊がいるから走らせないようにって」
「そう、それなら安心だわ」
やがて各々更に盛り付けられたディナーをテーブルの上に置き、準備が出来た者から食べ始めた。
日本のように頂きます、といった始まりの儀式はなく、ランダムに食べ始める。ようやく浩一郎も準備ができ、料理の盛られた皿を持ち、自分の席に腰かけた。
「ちょっといいかな」
浩一郎が口を開いた。
「聞いてもらいたいことがあるんだ」
「何だい?」
ステーブがナイフを止め、浩一郎に視線を送った。
「突然だけど俺、再来週くらいから、旅に出ようと思うんだ」
「え?」
中学生だが、わりに大人っぽいキャリー。
彼女も母親に似て、綺麗だ。
背丈はもうその母親を追い抜いている。
キャリーは長い睫で、何回も瞬きをした。それにこの子は気を使う子だ。
「何だよ、いきなり」
ギャラスはナイフを掴み損なった。
「ギャラス、何よ。その言葉使いは」
キャリーが横で食べているギャラスに注意した。
「何処に行くの?」
少し残念なのが小学生の次女のハナ。
彼女は、父親の顔とそっくりなのだ。それに体型もぽっちゃりとしており、笑い方が特に似ている。
彼女は、比較的冷静な趣で訊いた。それでもこの子が一番、愛嬌があり、子供っぽく、いつもニコニコしていて人懐っこい。
「ここ北島のオークランドから南島に行って、多くの街を見てこようかと思っているんだ」
「再来週から」
豪快にステーキを口に入れ、もぐもぐと咀嚼しながらステーブが訊いた。
「随分急な話しだが、誰かと一緒にいくのか?」
「いや」
「一人で?」
均整の取れた顔に少し皺を寄せ、キャロルは訊いた。
「うん」
浩一郎は鶏肉を頬張り、咀嚼した後、
「せっかくニュージーランドに来たんだ、もっと色々なところを見たいし、新しいことにチャレンジがしたいんだ。今は、日本にいる時に全て案内されたことをしているだけだ。
ローリーのレッスン、ステーブ家のホームスティ。で、ここに実際一か月程暮らしてみて思ったことは、俺は守られているんだな、ということが分かった。
ここには一人だけの力で、どこまでやれるのかを知りたくてやってきたのに、かなり過保護になっているような気がするんだ。
だからこの辺りで一度、一人で動いてみようかと思っている。
南島に行って、帰ってきたら、又ここでお世話になるつもりだよ。
だってここがあるから、旅に出たい、って思ったんだから。分かるかな、そんな俺の気持ちが」
一同はしばらく考えていた。
「分かるような、分からないような・・・」
ステーブが言った。
「ニュージーランドでの俺の家はここ。だから、人間は帰る家があるから旅に出るんだよ」
浩一郎は言った。
「そうよね、帰る家のない人が旅をするのは、なんか淋しいよね。そんな気がする。まるでジプシーのように彷徨っているだけだもの」
キャロルは言った。
「それじゃ、コーイチが帰ってくるまで、ちゃんと待ってるわね、私たち」
「ここを本当の家のように思ってくれて有難いわ」
まるで大人のような意見を出したキャリーは、浩一郎を見た。
「で、どれくらい行ってくるの?」
「一か月くらいかな、もっと長くなるかもしれないし、短くなるかもしれないから、現在は、具体的な日数を訊かれても分からないよ」
「せっかくコーイチのことが分かってきて、そして、親しくなれたのに。しばらく顔が見られないなんて、淋しくなるな」
キャリーが大人っぽく見え、少しドキリとした。
「こんなことなら、もっと普通に接しとけば良かった。むしろお喋りせず、あなたのことに関知しなければよかった」
「ま、ま、一か月すれば又ここに戻ってくるんだ」
ステーブは、キャリーにそう言い、次に浩一郎を見て、
「若いお前には無限の可能性がある。せっかく異国にきたんだ、色々試してみるのも手だ。
だがな、一人というのは危険が付き纏うぞ。気をつけるんだ。ここはアメリカのように銃社会ではないが、若い奴らはナイフで暴れる奴もいるからな、だから、なるべく夜の外出は避けた方がいい」
ステーブが諭すように言った。
「何処か行きたい所があるの?」
愛嬌のあるハナが訊いた。
「そうだな、首都のウエリントン、そして、フェリーに乗って南島に渡り、クライストチャーチ、クイーンズタウン、それらの街には行ってみたいな」
「ウエリントンのケーブルカーは、丘にある住宅街への交通手段として用いられていて、かなりの傾斜だけど、そこはとにかく景色が最高なのよ、だから立ち寄ったら絶対、行くべきよ」
キャロルは、とても詳しかった。
「クライストチャーチは、なんてったって大聖堂よね。あれは芸術よ。それに近くを流れるエイボン川、きっとそこではイギリスにいるかのような錯覚を受けると思うわ。
それから、それから、クィーンズタウン。そこはイギリスのビクトリア女王に由来するワカティブ湖岬に面した街で、サザンアルプスに囲まれた美しきリゾートタウンよ」
「いいね、楽しみだ。こうやって話を訊いているだけで、行きたくなってきたよ。とてもワクワクする」
「絶対一度は行くべきよ」
キャロルは、目を輝かせながら言った。
「キャロルは南島出身者なんだ」
ステーブが、キャロルを見ながら言った。この夫婦はとても仲がいい。
「そうだね」
「ローリーには、ちゃんとこのことを話したわよね?」
相変わらずキャロルらしい気を使った言葉だ。
「いや、これから明日にでも話してみるよ」
浩一郎は言った。
「その後にトラベルセンターにでもいって、早速情報収集をしてみようと思う」
「それがいわ。でもね、旅に出て、何かあったら必ず電話するのよ」
キャロルは、心配そうな顔で言った。
「分かった。ありがとう」
「おいおい、まだ目を瞑っているが、考え中なのかな」
カエサルは、檻の中をぐるぐると廻る猛獣のように忙しなく歩いていた。
何やらまた頭の中から声がしてきた。
「もう少し考えさせとけばいいさ」
キケロは、それとは対照的に胡坐を組んで座っていた。
「でも時間が・・・」
「しょうがないだろ、本人のやりたいようにさせなければならないんだから」
「よう、」
カエサルが浩一郎を呼んだ。
浩一郎は、ゆっくりと目を開いた。
「もし、ニュージーランドでボクシングをやって、ビザの期限を延ばしてもらい、そうだ、それを利用して永寿していたら、どうなっていたんだろうね」
カエサルは続けた。
「もしかして、今頃はニュージーランドにいたかもしれないな」
「どうなのかな、今よりは、もっと人間らしい生き方をしていたのかもしれない。
ニュージーランドは自然が素晴らしいし、国民性も素朴で、日本のように擦れた心を持ち合わしていない。どことなくのんびりしていて、まあ、老人が住むには天国だろうな。でも、あの時の俺はまだ若かった」
「その言い方は、ニュージーランドでの君の滞在期間はあれで充分だった、ということか?」
今度は変わってキケロ。
「ま、そうなるかな」
「ふ~ん。それじゃ、ボクシング時代の君とニュージーランドでの君の人生の比重は、どっちが重いんだい?」
キケロは訊いた。
「それがどうしたというんだ?」
カエサルが言った。
「いいから、」
キケロがカエサルを制した。
「この際、自分の人生の中で比重が高い方を選んで、どちらかに戻ってもらえばいいんだ」
「なるほどね」
カエサルの眉毛がピクリと上がった。
浩一郎は何も答えず、ただ黙っていた。
「分かった。では、北島オークランドから離れて、一か月南島に一人旅をしたが、あの行動に間違えはなかったのかい?」
それでもキケロは、時間を止めまいと訊いてみた。
「あのまま北島に留まり、もっと友人を増やしてみたり、ローリーのレッスンだけでなく、語学学校に入学っていう選択種もあったんじゃないのか」
「そのことについては、今でも間違えはないと思っている。同じニュージーランドでも北島と南島とでは違っていたし、それを見て、いい経験になった。勿論勉強にもなった。
あれが、あの経験があったからこそ、帰国して、就職し、その会社の連休を利用して、様々な国々をバック一つで見て廻ることができるようになった。
空港に到着して、自分でホテルを探し、そこで泊まり、現地の生活にどっぷりと浸かることができるようになった。
それで、世界には多種多様な人間がいることを知り、それらの人の考え方の違いが少しは分かるようになった。
何処に行けば、そこで何をしたら危険なのかが本能的に察知することもできるようになったし。
それは、突然そうできるようになったのではなく、一人で海外の地を廻ることができたのも、やはりボクシングの過程を経て、何にでもチャレンジできる勇気ができたからこそのことなんだろう・・・。選べないよ。俺の人生、どちらの比重が大きいかなんて」
「う~ん。若い時にはとにかくお前は色々なことをしてきたものだ。でも、悪くいえば、フラフラと、な。地に足を付けていなかったのだ」
カエサルはステレオコンポの前に行き、クラシックからジャズに変えた。
そしてフランク・シナトラをかけた。
「俺は彼が好きなんだよ。一九一五年十二月十二日に生まれ、一九九八年五月十四日の満八十二歳没のアメリカジャズ・ポプュラー歌手で、現在も歌い継がれる数々の世界的大ヒット曲を世に送り出し、その卓越した歌唱力によって「ザ・ヴオイス」と称された男だ。
彼は、エルヴィス・プレスリーやマイケル・ジャクソンなどと並び、二十世紀を代表する歌手の一人だった。う~ん、やはり俺は、こっちの曲の方がいい。
それはそうと、当時のお前の嫌いな言葉、束縛、規則、ルール、こうしなさい、ああしろ、それらの言葉があの時は苦痛でしかなかったが、あるきっかけで変わったよな」
「勝手に人のCDをかけるなって。ところで、きっかけって、結婚のことを言っているのか?」
キケロは、カエサルを見るでもなく、前を見たまま訊いた。
「ああ。結婚は一人だけのものじゃないからな」
カエサルも意味ありげな顔で頷き、それから浩一郎に視線をやった。
「ここまでこれば、この爺さん、自分の結婚のことも振り返らなければ気が済まないだろう」
「カエサル。ようやくこの爺さんの性格というのを理解したようだな」
「ああ。まったく人のゆうことをきかず、自分のペースを乱されることを嫌う男だということを、な」
「そうゆうモノの解釈をしてはいけない」
キケロは言った。
「ただマイペースなだけだよ、この爺さんは」
「お前の解釈も違うぞ。のんびり屋なんだよ、この爺さんは。マイペースとのんびり屋の意味は違うぞ。
ま、それはいいが、自分の寿命が残り少なくなっているというのに、この期に及んでまだ決めかねている」
「お前がせっかちなだけだよ」
「ま、いいじゃないか。もう少し様子を見てみよう」
カエサルは言った。
「いずれ、どっちの解釈が合っているのかが分かる。それに、俺はまだこの曲を聴いていたいんだ」
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