エンドレス   ~終わらせたい、終わらせたくない~

中野拳太郎

文字の大きさ
28 / 54

ニ、暑さも忘れるほどの大ピンチ

しおりを挟む
「今日の商談はどんな感じなんですかね?」

「幸先は、よくないな、」

「例の件ですか?」

「まあな」

 平面駐車場から三人の男たちが歩いてきた。そのどちらも仕事途中なのかYシャツ姿であった。遅いランチにでも行くように誰もが手ぶらである。

「西川さん、何処で食べるんすか?」

 一番若い二十五、六歳の男が、横の男に訊いた。

 やはりそのようだ。

 藪押は、帽子を目深に被り、彼らの後につき、入店することにした。どの面も緊張感のない、平和そのものの顔だった。そして、その後を歩き、彼らは右に曲がっていったが、藪押は、エスカレーターに向かい、上を目指した。

 もう切羽詰まった状態だ。

 腹が鳴っているのか、尻が鳴っているのか分からない。

 何とか小さな音で紛らわせていたが、大きな音が出れば、恥ずかしいのは勿論。ひょっとすると尻が爆発してしまう恐れもあった。もやはや、どうにも・・・・・・。

 藪押がエスカレーターに乗ろうとした瞬間。

 その前に二十代くらいの夫婦がおり、彼らは遠くの方を見、動こうともしない。

 何でだろう、と思い、前を覗き込んでみた。彼らの子供であろう。五、六歳の子が、もたもたとエスカレーターの前で、乗るのか乗らぬか、迷っているようだった。なかなか動こうとせず、なぜか全員が遠くを見ていた。

 藪押は道を塞がれ、窮地に陥る。冷や汗が・・・・・・。

 ― なかなか前へ進めない。

 なぜだ。こんな所で、人の迷惑も考えず・・・・・・。

 それに男も、男だ。人の迷惑も考えず、バカ顔を浮かべ、子供をあやしているじゃないか。考えられなかった。

 藪押は、そのカップルの隙間を縫い、追い越して行こうと考えた。

 丁度今、真ん中のスペースが空いた。今だ ー。

 藪押は、状態をやや斜めにし、潜り込もうとしだか、男も男で、同じような体勢になる。何でお前は、そんな動きをするんだ。

 そして、女から子供を受け取ろうとした。

 なぜお前らはエスカレーターが前にあるにも関わらず、乗ろうとしない。そんなことは、乗ってからすればいいだろう。もっと言えば、エスカレータに乗り、そして、登り切ってから、皆が居ない所で、代わればいいことなんだ、それをこんな所で・・・・・・。

 藪押は、強引にそのカップルの隙間を縫い、エスカレーターに乗った。


 その時、その男の腰と、藪押の腰がぶつかった。

「チッ!」

 背後から舌打ちが聞こえた。

 藪押は振り返った。憎悪の籠った顔で。

 一瞬後づさった男。

「人に、ぶつかっといて、知らん顔は、ないんじゃないの?」

 だが男は言った。

 このまま食い下がるのも、女にかっこがつかない、とでも思ったのだろう。

「よくも言えたものだ」

 藪押は、どうにも自分の立ち昇る湯気を抑えることができず、エスカレーターの階段を一歩、二歩と降りていった。

 そして、

「君らはエスカレーターに乗るか、乗るまいかを考えあぐねながら、そうやって、立ち止まっていたから、道を塞いでいることに気づかないんだ。分かるか?
 どうして君は、その場で立ち止まっていたんだ。なぜ先に進まない。 後ろの人がいるにもかかわらずに、だ。いいか、そういうことを何というか分かるか? 自分勝手なクソ人間だ、ということを心してくれ」

 ― まずい・・・・・。

 藪押は、額の冷や汗を拭った。

 ほんとうに、ほんとうにヤバい状況がここにはある。

 藪押の顔が赤くなっていく。

「何言ってんですか?」

 男が近寄ってくる。眉間に皺を寄せて。

 馬鹿。近寄って来るんじゃない・・・・・・。

「私は、先を急いでいただけなんだ。だから、空いたスペースを利用し、君らを追い抜いた。 ただ、それだけだ。何のお咎めもないはずで、君に文句を言われる筋合いもない」

 そのカップルはお互い目を合わせ、半ばバカにしたように首を振っていた

「何か、意味がわからないんだけど」

 男がめんどくさそうに言った。

「分からないだろうな。その稚拙そうな頭では」

「いい加減にしてくれよ、おっさん ! こっちが黙っているのをいいことにして」

 男は赤ん坊を抱っこし直し、言った。

「やめときって。わけのわからない人に関わらないの」

 女の方が、男を諭すように言った。

 怒りはあった。何でこんな若造に、こんな風に言われなくてはならいんだ、と。

   だが、それよりもお腹の方が、それからケツの方が反乱を起こし始めていた。 くそ、何でこんな時に言いがかりをつけられなければならないんだ。腹の調子がこんな風に悪くなければ、ぶっとばしていたことだろう。

「それに、子供をだっこするのはいいさ。でも、靴を履かせたまま、そうゆう風に、ブランブランとさせるのはよしてくれないか。 
 その何処を走り廻ったのかわからない靴で、蹴たくられたらかなわん。君にクリニーング代を請求することになるぞ。それでもいいのか? 
 その子供は、トイレを走り廻ったかもしれないし、な。いやきっとそうだろ。大きな声を出しながらな。人様の迷惑も省みずに、だ。
 君みたいな奴らが、食品売り場で、その汚い靴を履いたままの子供をカートに載せて、買い物をするんだ。違うか ?
 それは、食品と靴を同じテーブルの上に載せるようなもんだぞ。君の家の食卓のテーブルには、靴を載せているんじゃないのか。
 それで、靴紐を解きながら、ジャガイモだったり、ニンジン、あるいはたまの贅沢に牛肉を食べたりする。でも、その横で、靴に付いた泥がテーブルの上で零れていることも知らずにな。そうじゃないのか」

 男の方は、その藪押の機関銃のような口撃に一瞬たじろいでいた。

 だが、女の方が目を吊り上げ、怒りの表情を浮かべていた。今にも掴みかからんばかりに。

「もう少し、人のことを考えたらどうだ」

 藪押は、そう言い放つと、エスカレーターを上にあがり始めていた。

 追ってはこない。

 藪押は、後ろを見ることもなく、一目散にトイレのある場所まで、速足で歩いて行った。

 走ることはできない。もうすでに限界を超えているのだから。漏らしてしまう。

 壁沿いにいくと、そこにはエレベーターがあった。

 ふん。あんなことになるのであれば、防犯カメラはあれど、エレベーターで二階まで昇ればよかった、と思いながら、トイレに向かった。

 ようやく目印を見つけた時には、笑顔が出た。

 やっと入ることのできたこのトイレ。何の変哲もないこのオアシス。藪押は、一目散に個室に入っていった。




 薮押は用を立し、ショッピングモール内をブラブラと歩いてみた。先程までの苦しみが嘘のように。あまりそうはしたくなかったが、しょうがない。

 このまま出て行ってもよかったが、汗でべったりとしたシャツ、パンツ、それに革靴がどうにも暑苦しくて、耐えられなかった。

 藪押は、白い帽子、紺色の発汗作用に優れたTシャツ、黒色の半ズボン、それから下着とアディタスの黒い通気性のいいスニーカーを買った。勿論カードを使うと足がつくので、キャッシュで支払いを済ませた。

 それを持って、先程のトイレとは別の所にいき、個室で着替えをした。

 靴下とパンツを脱ぎ、買ってきたものと取り換え、袋の中に着古したものを入れ込み、入口にあったゴミ箱の中に放り込んだ。

 ゴミ箱の中には様々なものが破棄されていた。ちゃんと可燃、不燃とに分けられているにも関わらず、可燃の中にプラゴミや家庭用のゴミなどが破棄されている。

 トイレの中で、顔を洗った。

 生き返った。文字通り生き返ることができた。新しい服に着替えると、本当にそう思えた。ボストンバックを手に、トイレ入り口にある自販機で、コーラーと五百ミリのお茶を購入した。

 お茶はボストンバックの中に入れ、コーラーのプルタブを引いて、グビグビと飲んだ。あっという間に三百五十ミリを飲み干し、缶を潰し、ゴミ箱の中に押し込んだ。長居は禁物だ。ふう、息をつき、そして、そこを後にした。

 外に出て、サングラスをかける。買ったばかりのナイキの帽子を目深に被り、先を急いだ。

 やはり新しい物はいい。手触り、それから気持ち的にも変わってきた。

 さっきまで重く、身体にへばり付いていたYシャツの不快感も取れ、この通気性のいいTシャツが嘘のように軽くて、心地が良かった。

 爽快だった。人間服装などを変えただけで、違う人間にもなれるものなんだな、そう思った。

 今の俺ならば、何だってできる。よし。先を急ぐんだ。

 藪押は、再び歩き始めた。






しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...