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ニ、暑さも忘れるほどの大ピンチ

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「今日の商談はどんな感じなんですかね?」

「幸先は、よくないな、」

「例の件ですか?」

「まあな」

 平面駐車場から三人の男たちが歩いてきた。そのどちらも仕事途中なのかYシャツ姿であった。遅いランチにでも行くように誰もが手ぶらである。

「西川さん、何処で食べるんすか?」

 一番若い二十五、六歳の男が、横の男に訊いた。

 やはりそのようだ。

 藪押は、帽子を目深に被り、彼らの後につき、入店することにした。どの面も緊張感のない、平和そのものの顔だった。そして、その後を歩き、彼らは右に曲がっていったが、藪押は、エスカレーターに向かい、上を目指した。

 もう切羽詰まった状態だ。

 腹が鳴っているのか、尻が鳴っているのか分からない。

 何とか小さな音で紛らわせていたが、大きな音が出れば、恥ずかしいのは勿論。ひょっとすると尻が爆発してしまう恐れもあった。もやはや、どうにも・・・・・・。

 藪押がエスカレーターに乗ろうとした瞬間。

 その前に二十代くらいの夫婦がおり、彼らは遠くの方を見、動こうともしない。

 何でだろう、と思い、前を覗き込んでみた。彼らの子供であろう。五、六歳の子が、もたもたとエスカレーターの前で、乗るのか乗らぬか、迷っているようだった。なかなか動こうとせず、なぜか全員が遠くを見ていた。

 藪押は道を塞がれ、窮地に陥る。冷や汗が・・・・・・。

 ― なかなか前へ進めない。

 なぜだ。こんな所で、人の迷惑も考えず・・・・・・。

 それに男も、男だ。人の迷惑も考えず、バカ顔を浮かべ、子供をあやしているじゃないか。考えられなかった。

 藪押は、そのカップルの隙間を縫い、追い越して行こうと考えた。

 丁度今、真ん中のスペースが空いた。今だ ー。

 藪押は、状態をやや斜めにし、潜り込もうとしだか、男も男で、同じような体勢になる。何でお前は、そんな動きをするんだ。

 そして、女から子供を受け取ろうとした。

 なぜお前らはエスカレーターが前にあるにも関わらず、乗ろうとしない。そんなことは、乗ってからすればいいだろう。もっと言えば、エスカレータに乗り、そして、登り切ってから、皆が居ない所で、代わればいいことなんだ、それをこんな所で・・・・・・。

 藪押は、強引にそのカップルの隙間を縫い、エスカレーターに乗った。


 その時、その男の腰と、藪押の腰がぶつかった。

「チッ!」

 背後から舌打ちが聞こえた。

 藪押は振り返った。憎悪の籠った顔で。

 一瞬後づさった男。

「人に、ぶつかっといて、知らん顔は、ないんじゃないの?」

 だが男は言った。

 このまま食い下がるのも、女にかっこがつかない、とでも思ったのだろう。

「よくも言えたものだ」

 藪押は、どうにも自分の立ち昇る湯気を抑えることができず、エスカレーターの階段を一歩、二歩と降りていった。

 そして、

「君らはエスカレーターに乗るか、乗るまいかを考えあぐねながら、そうやって、立ち止まっていたから、道を塞いでいることに気づかないんだ。分かるか?
 どうして君は、その場で立ち止まっていたんだ。なぜ先に進まない。 後ろの人がいるにもかかわらずに、だ。いいか、そういうことを何というか分かるか? 自分勝手なクソ人間だ、ということを心してくれ」

 ― まずい・・・・・。

 藪押は、額の冷や汗を拭った。

 ほんとうに、ほんとうにヤバい状況がここにはある。

 藪押の顔が赤くなっていく。

「何言ってんですか?」

 男が近寄ってくる。眉間に皺を寄せて。

 馬鹿。近寄って来るんじゃない・・・・・・。

「私は、先を急いでいただけなんだ。だから、空いたスペースを利用し、君らを追い抜いた。 ただ、それだけだ。何のお咎めもないはずで、君に文句を言われる筋合いもない」

 そのカップルはお互い目を合わせ、半ばバカにしたように首を振っていた

「何か、意味がわからないんだけど」

 男がめんどくさそうに言った。

「分からないだろうな。その稚拙そうな頭では」

「いい加減にしてくれよ、おっさん ! こっちが黙っているのをいいことにして」

 男は赤ん坊を抱っこし直し、言った。

「やめときって。わけのわからない人に関わらないの」

 女の方が、男を諭すように言った。

 怒りはあった。何でこんな若造に、こんな風に言われなくてはならいんだ、と。

   だが、それよりもお腹の方が、それからケツの方が反乱を起こし始めていた。 くそ、何でこんな時に言いがかりをつけられなければならないんだ。腹の調子がこんな風に悪くなければ、ぶっとばしていたことだろう。

「それに、子供をだっこするのはいいさ。でも、靴を履かせたまま、そうゆう風に、ブランブランとさせるのはよしてくれないか。 
 その何処を走り廻ったのかわからない靴で、蹴たくられたらかなわん。君にクリニーング代を請求することになるぞ。それでもいいのか? 
 その子供は、トイレを走り廻ったかもしれないし、な。いやきっとそうだろ。大きな声を出しながらな。人様の迷惑も省みずに、だ。
 君みたいな奴らが、食品売り場で、その汚い靴を履いたままの子供をカートに載せて、買い物をするんだ。違うか ?
 それは、食品と靴を同じテーブルの上に載せるようなもんだぞ。君の家の食卓のテーブルには、靴を載せているんじゃないのか。
 それで、靴紐を解きながら、ジャガイモだったり、ニンジン、あるいはたまの贅沢に牛肉を食べたりする。でも、その横で、靴に付いた泥がテーブルの上で零れていることも知らずにな。そうじゃないのか」

 男の方は、その藪押の機関銃のような口撃に一瞬たじろいでいた。

 だが、女の方が目を吊り上げ、怒りの表情を浮かべていた。今にも掴みかからんばかりに。

「もう少し、人のことを考えたらどうだ」

 藪押は、そう言い放つと、エスカレーターを上にあがり始めていた。

 追ってはこない。

 藪押は、後ろを見ることもなく、一目散にトイレのある場所まで、速足で歩いて行った。

 走ることはできない。もうすでに限界を超えているのだから。漏らしてしまう。

 壁沿いにいくと、そこにはエレベーターがあった。

 ふん。あんなことになるのであれば、防犯カメラはあれど、エレベーターで二階まで昇ればよかった、と思いながら、トイレに向かった。

 ようやく目印を見つけた時には、笑顔が出た。

 やっと入ることのできたこのトイレ。何の変哲もないこのオアシス。藪押は、一目散に個室に入っていった。




 薮押は用を立し、ショッピングモール内をブラブラと歩いてみた。先程までの苦しみが嘘のように。あまりそうはしたくなかったが、しょうがない。

 このまま出て行ってもよかったが、汗でべったりとしたシャツ、パンツ、それに革靴がどうにも暑苦しくて、耐えられなかった。

 藪押は、白い帽子、紺色の発汗作用に優れたTシャツ、黒色の半ズボン、それから下着とアディタスの黒い通気性のいいスニーカーを買った。勿論カードを使うと足がつくので、キャッシュで支払いを済ませた。

 それを持って、先程のトイレとは別の所にいき、個室で着替えをした。

 靴下とパンツを脱ぎ、買ってきたものと取り換え、袋の中に着古したものを入れ込み、入口にあったゴミ箱の中に放り込んだ。

 ゴミ箱の中には様々なものが破棄されていた。ちゃんと可燃、不燃とに分けられているにも関わらず、可燃の中にプラゴミや家庭用のゴミなどが破棄されている。

 トイレの中で、顔を洗った。

 生き返った。文字通り生き返ることができた。新しい服に着替えると、本当にそう思えた。ボストンバックを手に、トイレ入り口にある自販機で、コーラーと五百ミリのお茶を購入した。

 お茶はボストンバックの中に入れ、コーラーのプルタブを引いて、グビグビと飲んだ。あっという間に三百五十ミリを飲み干し、缶を潰し、ゴミ箱の中に押し込んだ。長居は禁物だ。ふう、息をつき、そして、そこを後にした。

 外に出て、サングラスをかける。買ったばかりのナイキの帽子を目深に被り、先を急いだ。

 やはり新しい物はいい。手触り、それから気持ち的にも変わってきた。

 さっきまで重く、身体にへばり付いていたYシャツの不快感も取れ、この通気性のいいTシャツが嘘のように軽くて、心地が良かった。

 爽快だった。人間服装などを変えただけで、違う人間にもなれるものなんだな、そう思った。

 今の俺ならば、何だってできる。よし。先を急ぐんだ。

 藪押は、再び歩き始めた。






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