43 / 54
六、ブラックアウト
しおりを挟む「もうやめて、こんなの。おかしいわよ」
彩加は、訴えかけるように言った。
「あなたはいつもお酒を飲むと人が変わり、時には暴れ、暴力を振るった。そして、翌日、何事もなかったような顔をして、笑顔で会社に行く。そんな行動が私は怖かったの。それと、あなたという人間性が、私には理解できなかった」
ようやく藪押の動きも止まった。
「私は、あなたに何度殴られたことか。だから仕事にいけなかったのよ。それに実家にも帰ることができなかった。顔に痣を作った娘を、親が見たら、どうなる? だから、この痣が直ったら、実家に行こう、と思っても、またあなたに殴られる。その繰り返しだった。
あなたに、そんな私の気持ちが分かる? 分からないわよね。だって酒を呑んだら、いつだって記憶が飛ぶんですもの。あなたは、酒を呑んだらいけない、という認識がないのよ。いつも泣きながら、酒を呑み始め、そして、人格が変わっていくんですものね」
藪押の両肩が震えていた。
「そうゆうことを何て言うか分かる? ブラックアウトっていうのよ。酩酊して記憶が消えてしまう。訊いたことない?
酒を飲んだ際、ある時点からの後の記憶が消えてしまうことをいうの。血中アルコール濃度が0.15%程度を超えると起こりやすくなる病気らしいわ。所謂一時的記憶喪失。
脳の中にある記憶を司る海馬との関わりが深くて、本人には記憶がないのに、周囲から見ると普通に行動していると思われている」
項垂れた藪押。それは、まるで小学校で、廊下に立たされて、先生にこんこんと説教され、怒られている子供のようでもあった。
「または、一過性全健忘ともいう。これは丸一日程度の記憶がなくなる疾患と症状が類以している。あなたはこれかもしれないわね。ブラックアウトは海馬の障害が原因ではないかと推測されているの。
それで、アルコールの脳内濃度が一定以上になると海馬の神経細胞がその働きを失うことになり、そして、記憶を脳の中で形成できなくなる。多くの人は、部分的ブラックアウトで済んでいるけどね。
どういうことかというと、記憶の断片と断片をつなぐ詳細が一部欠損しているだけで、自分が何杯飲んだところまでは覚えていても、誰が勘定を払ったのかは覚えていない。そんなちょっとした記憶の欠落。
でもね、あなたのように完全なブラックアウトは、数時間に及ぶ出来事をそっくり忘れてしまっている深刻な記憶喪失を意味するのよ。
それを人格障害ともいうわね。酒が入ると攻撃的になり、暴力を振るう。まさにあなたは後者だわ。だから、あなたは病院に行かなければならない。一度ちゃんとした所で診てもらわなければ、人格崩壊に繋がるわよ」
シーンと静まり返ったこの部屋。彩加の呼吸音だけがしているだけだった。
明も完全に動きが止まってしまった。
藪押も口を噤み、しばらくは何も言えなかった。
「お、お、お前は、いつだって、俺のやることに文句をつけ、そうやって俺の気分を害するんだ・・・・・・。いつもだよ。俺がせっかくお前らのために、何かをしようとすると、決まって否定するんだ。ちゃんと明に訊いたのか、明が本当にやりたいこと、やりたくないことを」
藪押は、言い訳をする子供のように、苦しみながら口を開いた。
「俺はな、そうやって理論で、相手を言い負かそうとする奴が嫌いだったんだ。なぜ、もっと人の意見を聞こうとしない。なぜ、もっと人の考えていることを尊重しようとしないんだ。
そうやって物事を一くくりで纏めてしまうのはよしてくれ。自分が正しいと思っているから、全く人の話を聞こうとしないんだろ。それは違うぞ。
だから俺達の話はいつまでたっても前へ進むこともなく、平行線でしかないんだ。もっと俺達は話し合うべきなんだ。
子供だっているんだから。分からないか。彩加、昔はもっと優しかったじゃないか。話だって聞いてくれたじゃないか。だから、あの時のように、話し合おう。お願いだ。話し合えば分かり合うこともできる」
「もう分かって。あなたとは、いくら話し合っても分かり合えないんだから。無駄なだけよ。私たちは、もう、終わったの。終わったのよ !」
やがて、薮押は、いきなり彩加を追いかけた。周りにあったものを薙ぎ倒し、音を立て、追い立てる。
彼女は危険を感じ、逃げ出す。
「来ないで!」
それに気づいた坂戸が慌てて、勇気を振り絞り、藪押を止めるために、近づくが、藪押も、それに気づき、すぐさま坂戸を殴りつけた。まさに猛り狂う猛獣、そのものだった。
情けなかった。まるでマンガのように後方へふっとんでいき、そこで腰から砕けた。
まるでボクサーが、タイミングのいいカウンターを出すように、坂戸は、藪押に一発でやられてしまったのだ。
それは、ものの見事に彼の顎に決まり、坂戸は倒れ、また意識を失くしてしうのに時間はさしてかからなかった。
そして、邪魔者を蹴散らした藪押は、彩加に追いつき、彼女の髪の毛を掴んだ。藪押は、彩加の髪の毛を引っ張り、それから振り回した。彼女を、力任せに、勢いをつけて、壁にぶち当てた。
ドーン! という派手な音とともに彩加が壁に叩きつけられた。
「お前ら、一体何をしてるんだ? 自分のやっていることが分からない、とでもいうのか? 俺たちは家族なんだぞ。だから一家団欒として、笑い合おうぜ。そうすれば、また昔に戻れるんだから。なぜそんな簡単なことに気づかないんだ」
藪押は、彩加と明だけを見て、
ウオォォォォォッ!
叫び声を上げた。
もはや、彼は人間ではない。人間では、なくなってしまったのだ。
0
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる