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112話・怒りの拳
しおりを挟むヘルツさんの不可解な行動は、ゼルドさんとフォルクス様の父親である先代当主の願いを叶えるためのものだった。
「僕を排除しようとしたのは……」
「ライル様がいなくなればゼルディス様が戻ってきてくださると考えたからです。予想以上にゼルディス様の貴方に対する思い入れが強く、結局失敗に終わりましたが」
僕がタバクさんに襲われていても助けに入らなかった理由。ゼルドさんは教えてくれなかったけど、僕はダールから聞いている。
やろうと思えば、怪我で意識不明の間にいくらでも始末する方法があったはずだ。でも、ゼルドさんが一睡もせず、僕のそばから片時も離れなかったから何もできなかったのだ。その頃にはダールもメーゲンさんたちも不信感を抱いており、ヘルツさんには自由行動が許されていなかった。
「ならば、ライル様ごと取り込んでしまおうと考えたのですよ。王都に来られると聞きましたので」
僕を金銭で買収し、ゼルドさんをマーセナー家に戻す。そして、アンナルーサ様との間に子を作って跡取りとする。第二夫人が産んだ子のお披露目前に話をまとめてしまおうと考えたのかもしれない。
「私は誰とも子を成すつもりはありません。ゼルディスをマーセナー家に戻しても無駄です」
「私もだ。ライル君以外の者と閨を共にする気はない」
肝心の二人に全くその気がない。
ていうか、ゼルドさんサラッと僕たちの関係を暴露するのやめてほしい。気持ちは嬉しいけど、こんな場面で言うことじゃない。
「御二方の気持ちなど必要ありませんよ」
そう言いながら、ヘルツさんは胸元から小さなものを取り出した。
手のひらにすっぽり収まるほどの小さなガラス瓶。高貴な女性が使う小物のような美しい装飾が施された小瓶の中で、とろりとした桃色の液体が揺れている。
「そ、それ……」
小瓶を見た瞬間、サッと血の気が引いた。
「ライル様はよぉくご存知ですよね。どれほどの効果があるか、身をもって経験されたのですから」
ヘルツさんが手にしているのはダンジョン産の媚薬だった。たった一滴飲み物に混ぜるだけで身体の自由が利かなくなり、感覚が鋭敏になって快楽に溺れてしまう恐ろしい薬だ。
「フォルクス様は身体が弱く、普段から服用している薬との兼ね合いで媚薬は使用できません。しかし、ゼルディス様とアンナルーサ様でしたら問題ありません」
本人たちの意志を完全に無視して、媚薬で無理やり興奮させて子作りさせようとしているのか。
「わたくしだってこんな下劣な手段は取りたくないのです。ですが、もうこれしか方法が思いつきませんでした」
あまりにも酷い計画に頭が痛くなった。ゼルドさんもアンナルーサ様も同じようで、怒りを通り越して困惑した顔をしている。
「そこまでして子を成す必要はないと言ったはずだ。立派な跡取りが生まれたばかりではないか」
さっき客間で見た赤ちゃんの顔を思い出す。小さくて、可愛くて、ゼルドさんの甥っ子だと思うと更に愛しく感じた。
「では、その跡取りがいなくなれば前向きに考えていただけますか?」
説き伏せようとするゼルドさんに対し、ヘルツさんは平然と問い返す。
彼が何を言ったのか、それが何を意味するのか理解するまでにかなりの時間を要した。理解した瞬間、ゼルドさんはヘルツさんの両肩を掴んでいた手を離して数歩退がった。よく知っているはずの彼が未知の生き物のように思えて恐ろしくなったからかもしれない。
「ヘルツ。今、なんと言った」
問い掛けを口にしたのはゼルドさんではなかった。
顔を上げれば、いつの間にかフォルクス様が四阿の近くまで出て来ていた。ゼルドさんを追い掛けてきたのだろう。驚愕のあまり顔色を失ってしまっている。
「わ、私の子をどうする気だ。まさか」
フォルクス様の声は震えていて、聞き取るのがやっとだった。
「うぐっ……」
フォルクス様はその場に崩れ落ちた。アンナルーサ様がそばに駆け寄るが、その手を拒絶して一人で堪えている。顔色は更に悪くなり、フォルクス様は額に脂汗を浮かべていた。ただならぬ様子に、僕は四阿から飛び出した。
「僕、お医者様呼んできます!」
屋敷に駆け込み、通り掛かった召使いの女性に医者を呼ぶようにお願いする。屋敷内はにわかに騒がしくなり、数分と経たないうちにフォルクス様専属のお医者様が庭園に駆けつけてくれた。急激な感情の昂りにより持病の発作が起きたらしい。
フォルクス様は立つこともできず、お医者様に寄り添われたまま地に膝をついて蹲っている。縋るような目でヘルツさんを見上げ、か細い声を絞り出した。
「ヘルツは私の味方ではなかったのか。おまえだけは何があっても裏切らないと、そう信じていたのに……!」
可愛い我が子を害するような発言をされ、フォルクス様は混乱していた。
「フォルクス様が悪いのですよ。わたくしは何度も何度も進言致しましたよね。アンナルーサ様との関係を改善して子を成せと」
フォルクス様を見下ろすヘルツさんの目は冷たい。
「だ、だが、私は……」
「先代の遺志を無視する行いばかりで、さすがに失望いたしました」
「……っ!」
ヘルツさんは身体が弱いフォルクス様の手となり足となり支えてきた。個人的な悩みを打ち明けられる数少ない存在だったはずだ。頼れる従者に裏切られた悲しみがどれほどのものか、僕には想像もつかなかった。
愕然としたフォルクス様を見て、ヘルツさんは嘲るような笑い声を上げた。
「ヘルツ!」
一連の言動に激昂したアンナルーサ様がヘルツさんに駆け寄り、その頬を叩こうとしたところにゼルドさんが割って入った。振り上げた手を受け止め、そっと離す。
「貴女が手を下すほどの相手ではない」
「ゼルディス……」
ゼルドさんはアンナルーサ様からヘルツさんに向き直り、横っ面を思い切り殴った。ヘルツさんの身体は後方に飛び、庭木にぶつかる。
「おまえが歪んでしまったのは亡き父のせいだ」
地面に崩れ落ちたヘルツさんの傍らに膝をつき、首元を掴んで持ち上げる。至近距離で視線を合わせ、ゼルドさんは更に続けた。
「……だが、いつまでも過去に囚われ続けて凶行に及ぼうとしたのはおまえ自身の罪だ」
きっぱりと言い切られ、ヘルツさんは目尻から涙をこぼした。殴られた際に口の端が切れ、血を流している。その口を僅かに動かし、小さな声で「わたくしの力が及ばず、申し訳ございません」と呟いた。
彼は目の前にいるゼルドさんではなく、かつての主人である先代当主を見ているようだった。
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