28 / 46
第7章:触れたい、でも壊してしまいそうで
そんなふうに優しくしないで
しおりを挟む
玲が職場に戻ってきたのは、薄曇りの火曜日だった。
制作三課の空気は、思ったより静かだった。
退院の報を聞いた社員たちは皆、それぞれに反応を見せつつも、誰も声高には何も言わなかった。
むしろ、業務の手を止めず、そっと視線だけを送るような、そんな空気だった。
玲は以前と変わらぬ表情で、自分の席に座った。
少し痩せたように見える頬、袖の余るシャツ、そして以前よりほんの少しだけ遅いタイピングの速度。
それでも、誰よりも早く資料の構成を読み解き、細部のミスを拾い上げる姿は変わらなかった。
ただ、一つだけ変わったものがあった。
陸の気配だった。
「この資料、コピーしておきましょうか?」
「会議室、僕先に行っておきます」
「そのメール、僕が代わりに送ります」
玲が何かに手を伸ばす前に、必ず陸が先回りしていた。
それは優しさであり、配慮だった。
けれど、玲にとっては、どこか痛みを伴う気遣いだった。
「……ありがとう。けど、大丈夫です」
そう言っても、陸はいつもの笑顔で「はい」と返すだけで、自分のやり方を変えようとはしなかった。
それが、玲には少しだけ息苦しかった。
午後の中頃、玲は書類を一旦閉じ、静かに立ち上がった。
無言で喫煙室へ向かう後ろ姿を、陸は見逃さなかった。
しばらくしてから、陸も缶コーヒーを片手にあとを追った。
喫煙室のドアを開けると、玲はすでに壁際で煙草をくゆらせていた。
窓が少し開いていて、白く細い煙がゆるやかに流れている。
陸は何も言わず、向かいの壁にもたれかかった。
缶を開ける音だけが静かに響く。
ふたりのあいだに流れる沈黙は、以前なら心地よさだった。
けれど今は、ほんの少し、緊張をはらんでいた。
玲が視線を窓の外に向けたまま、口を開いた。
「……なんで、そんなに優しくするんですか」
唐突な問いかけだった。
けれど、その声には怒りでも苛立ちでもなく、ただ戸惑いが混ざっていた。
陸は答えずに、少しだけ姿勢を変えた。
何か言えば、軽くなってしまいそうだった。
「そんなふうにされると……」
玲の声が、すこしだけ震える。
その手元の煙草が、わずかに揺れた。
「期待してしまうんです」
煙が、またひとつ流れていく。
玲は目を合わせなかった。
ただ窓の外だけを見て、視線を固定していた。
「俺、また同じこと繰り返すかもしれへんのに。
人に頼って、甘えて……結果、誰かを傷つけるかもしれへんのに」
その言葉のあと、しばらく沈黙が続いた。
陸は缶コーヒーを手にしたまま、視線を玲に向けた。
何も言えなかった。
いや、何を言っても、いまは届かない気がした。
玲は煙草をもみ消し、窓を少しだけ開け直した。
冷たい風がふっと流れ込み、ふたりの距離にすき間を作った。
「……ごめんな」
小さな声だった。
けれど、その謝罪に込められたものが何か、陸には分かっていた。
「俺が弱いから、こうなる。
ほんまは、優しくされる資格なんかないのに、
ちょっとされただけで、心がぐらぐらしてまうんです」
目を伏せる玲の表情は見えなかった。
けれど、その背中にのしかかる何かが、痛いほど伝わってきた。
陸は一歩踏み出したかった。
肩に触れたかった。
けれど、それをしてしまえば、きっとまた玲は傷つく。
だから、何もしなかった。
ただ、同じ空間にいることだけを選んだ。
缶コーヒーをゆっくり口に運びながら、陸はふとつぶやいた。
「それでも、俺はそこにいたいだけなんですけどね」
玲は、何も言わなかった。
返事はなかったが、その沈黙に拒絶の色はなかった。
ただ煙が、ふたりの間をすり抜けていった。
それが、言葉の代わりだった。
喫煙室のドアが再び開かれるまで、ふたりは何も言わずに、同じ空気を吸っていた。
その沈黙は重く、それでも、どこか壊れかけの信頼の形をしていた。
制作三課の空気は、思ったより静かだった。
退院の報を聞いた社員たちは皆、それぞれに反応を見せつつも、誰も声高には何も言わなかった。
むしろ、業務の手を止めず、そっと視線だけを送るような、そんな空気だった。
玲は以前と変わらぬ表情で、自分の席に座った。
少し痩せたように見える頬、袖の余るシャツ、そして以前よりほんの少しだけ遅いタイピングの速度。
それでも、誰よりも早く資料の構成を読み解き、細部のミスを拾い上げる姿は変わらなかった。
ただ、一つだけ変わったものがあった。
陸の気配だった。
「この資料、コピーしておきましょうか?」
「会議室、僕先に行っておきます」
「そのメール、僕が代わりに送ります」
玲が何かに手を伸ばす前に、必ず陸が先回りしていた。
それは優しさであり、配慮だった。
けれど、玲にとっては、どこか痛みを伴う気遣いだった。
「……ありがとう。けど、大丈夫です」
そう言っても、陸はいつもの笑顔で「はい」と返すだけで、自分のやり方を変えようとはしなかった。
それが、玲には少しだけ息苦しかった。
午後の中頃、玲は書類を一旦閉じ、静かに立ち上がった。
無言で喫煙室へ向かう後ろ姿を、陸は見逃さなかった。
しばらくしてから、陸も缶コーヒーを片手にあとを追った。
喫煙室のドアを開けると、玲はすでに壁際で煙草をくゆらせていた。
窓が少し開いていて、白く細い煙がゆるやかに流れている。
陸は何も言わず、向かいの壁にもたれかかった。
缶を開ける音だけが静かに響く。
ふたりのあいだに流れる沈黙は、以前なら心地よさだった。
けれど今は、ほんの少し、緊張をはらんでいた。
玲が視線を窓の外に向けたまま、口を開いた。
「……なんで、そんなに優しくするんですか」
唐突な問いかけだった。
けれど、その声には怒りでも苛立ちでもなく、ただ戸惑いが混ざっていた。
陸は答えずに、少しだけ姿勢を変えた。
何か言えば、軽くなってしまいそうだった。
「そんなふうにされると……」
玲の声が、すこしだけ震える。
その手元の煙草が、わずかに揺れた。
「期待してしまうんです」
煙が、またひとつ流れていく。
玲は目を合わせなかった。
ただ窓の外だけを見て、視線を固定していた。
「俺、また同じこと繰り返すかもしれへんのに。
人に頼って、甘えて……結果、誰かを傷つけるかもしれへんのに」
その言葉のあと、しばらく沈黙が続いた。
陸は缶コーヒーを手にしたまま、視線を玲に向けた。
何も言えなかった。
いや、何を言っても、いまは届かない気がした。
玲は煙草をもみ消し、窓を少しだけ開け直した。
冷たい風がふっと流れ込み、ふたりの距離にすき間を作った。
「……ごめんな」
小さな声だった。
けれど、その謝罪に込められたものが何か、陸には分かっていた。
「俺が弱いから、こうなる。
ほんまは、優しくされる資格なんかないのに、
ちょっとされただけで、心がぐらぐらしてまうんです」
目を伏せる玲の表情は見えなかった。
けれど、その背中にのしかかる何かが、痛いほど伝わってきた。
陸は一歩踏み出したかった。
肩に触れたかった。
けれど、それをしてしまえば、きっとまた玲は傷つく。
だから、何もしなかった。
ただ、同じ空間にいることだけを選んだ。
缶コーヒーをゆっくり口に運びながら、陸はふとつぶやいた。
「それでも、俺はそこにいたいだけなんですけどね」
玲は、何も言わなかった。
返事はなかったが、その沈黙に拒絶の色はなかった。
ただ煙が、ふたりの間をすり抜けていった。
それが、言葉の代わりだった。
喫煙室のドアが再び開かれるまで、ふたりは何も言わずに、同じ空気を吸っていた。
その沈黙は重く、それでも、どこか壊れかけの信頼の形をしていた。
11
あなたにおすすめの小説
もう一度言って欲しいオレと思わず言ってしまったあいつの話する?
藍音
BL
ある日、親友の壮介はおれたちの友情をぶち壊すようなことを言い出したんだ。
なんで?どうして?
そんな二人の出会いから、二人の想いを綴るラブストーリーです。
片想い進行中の方、失恋経験のある方に是非読んでもらいたい、切ないお話です。
勇太と壮介の視点が交互に入れ替わりながら進みます。
お話の重複は可能な限り避けながら、ストーリーは進行していきます。
少しでもお楽しみいただけたら、嬉しいです。
(R4.11.3 全体に手を入れました)
【ちょこっとネタバレ】
番外編にて二人の想いが通じた後日譚を進行中。
BL大賞期間内に番外編も完結予定です。
壊すほどに、俺はお前に囚われている
氷月
BL
【後輩と先輩、交錯する心と体】
春、新学期の大学キャンパス。
4年の蓮(レン)は、人気者らしく女子に囲まれながらも、なぜか新入生・七瀬巧(タクミ)の姿を探してしまう自分に気づいていた。
彼は去年の秋、かつて蓮が想いを寄せていた男の恋人の友人として出会った相手。
――まさか、この俺様が、また男に惹かれるなんて。
否定しようとすればするほど、目はタクミを追ってしまう。
無邪気に笑う顔。ふと見せる真剣な横顔。
先輩と後輩、互いに抗えない感情に囚われながら、夏の学園を駆け抜けていく――。
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
デコボコな僕ら
天渡清華
BL
スター文具入社2年目の宮本樹は、小柄・顔に自信がない・交際経験なしでコンプレックスだらけ。高身長・イケメン・実家がセレブ(?)でその上優しい同期の大沼清文に内定式で一目惚れしたが、コンプレックスゆえに仲のいい同期以上になれずにいた。
そんな2人がグズグズしながらもくっつくまでのお話です。
竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜
レイ
BL
「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」
魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。
彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。
仲良くなったと思った相手は、どうやら友達なんて作りたくないらしい
たけむら
BL
仲良くなった相手は、どうやら友達なんて要らないっぽい
石見陽葵には、大学に入ってから知り合った友人・壬生奏明がいる。少し冷たそうな第一印象から周りの学生に遠巻きにされている奏明に、とある提案をしてみると、衝撃的な一言が返ってきて…?
【完結】取り柄は顔が良い事だけです
pino
BL
昔から顔だけは良い夏川伊吹は、高級デートクラブでバイトをするフリーター。25歳で美しい顔だけを頼りに様々な女性と仕事でデートを繰り返して何とか生計を立てている伊吹はたまに同性からもデートを申し込まれていた。お小遣い欲しさにいつも年上だけを相手にしていたけど、たまには若い子と触れ合って、ターゲット層を広げようと20歳の大学生とデートをする事に。
そこで出会った男に気に入られ、高額なプレゼントをされていい気になる伊吹だったが、相手は年下だしまだ学生だしと罪悪感を抱く。
そんな中もう一人の20歳の大学生の男からもデートを申し込まれ、更に同業でただの同僚だと思っていた23歳の男からも言い寄られて?
ノンケの伊吹と伊吹を落とそうと奮闘する三人の若者が巻き起こすラブコメディ!
BLです。
性的表現有り。
伊吹視点のお話になります。
題名に※が付いてるお話は他の登場人物の視点になります。
表紙は伊吹です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる