恋をあきらめた美人上司、年下部下に“推し”認定されて逃げ場がない~「主任が笑うと、世界が綺麗になるんです」…やめて、好きになっちゃうから!

中岡 始

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第1章『その男、笑顔で距離ゼロ』

笑顔の奥に、何を見てるんだ

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定時を少し過ぎた頃、社内は一斉にざわめきを帯び始めた。  
パソコンを閉じる音、椅子の軋み、廊下を行き交う足音。  
一日の終わりを迎える準備が、空気ににじむように広がっていく。

理玖も、ようやく一区切りをつけて、端末をシャットダウンした。  
デスクの上を整え、資料を揃え、帰り支度を淡々と進める。  
チームメンバーには軽く会釈をして、特に言葉を交わすこともなくエレベーターホールへと向かった。

この時間、オフィスビルのエレベーターは混雑することも多いが、今日はなぜか誰の姿もなかった。  
ボタンを押して、待つ間の静けさが心地よい。日中の会話もノイズも、すべてがひとつ後ろに退いたように感じられる瞬間。

けれど、それは一人きりだったならの話だ。

「お疲れさまでした、主任」

背後からかけられた声に、理玖は反射的に振り返った。

そこには、大樹がいた。  
鞄を肩にかけ、スーツのジャケットを腕にかけている。少しだけ前髪が乱れていて、今日一日を懸命に過ごした気配があった。

「君も今、上がるのか」

「はい。ちょうど終わったので」

特に驚きもせず、当たり前のような調子で彼は返してくる。  
まるで、理玖がここにいると知っていたような、そんな自然な空気をまとっていた。

エレベーターのドアが開く。

理玖が先に乗り、大樹もそれに続いた。中には誰もいない。  
自動で閉まる扉の音が、静かに響く。

ふたりきりの密室。数秒の沈黙。  
理玖は視線を正面に向けたまま、口を開いた。

「……仕事には、もう慣れたか?」

「はい。主任がちゃんと教えてくれるので、助かってます」

「教えたつもりは、あまりないけどな」

「でも、見て覚えるのが大事だって言うじゃないですか」

その口調は穏やかで、どこかくすぐったい。  
理玖は目を伏せたまま、息をひとつ吐いた。

「そう言ってもらえるなら…うまくやれてるってことかもな」

本心ではなかった。ただの相づちのようなものだ。  
けれど、大樹はすぐに、否定するように言った。

「違います。本当にそう思っただけです」

不意に、理玖は横顔を向ける。  
大樹はまっすぐに理玖を見ていた。あの、いつもの笑顔を浮かべて。

けれど、その笑顔の奥にあるものが、今日はほんの少しだけ、違って見えた。

何かを隠しているような、それでいて隠しきれていないような、揺らぎ。  
曖昧ではない。けれど、明確な意図も見せない。  
ただ、静かに見つめている。その視線の奥に、感情のようなものが確かに灯っている。

理玖は言葉を飲み込んだ。

軽口を叩くには、空気が静かすぎた。  
冗談で返すには、視線が強すぎた。

大樹は、そのまま言葉を継がずに、ゆっくりと正面に視線を戻す。  
エレベーターの階数表示が、下へと進んでいく。  
わずかな機械音と、ふたり分の呼吸音だけが空間に漂っていた。

一階に到着すると、ドアが開く。

ふたりとも言葉を交わさずにロビーへと歩き出す。  
夜の空気が、ガラス越しにうっすらと滲んで見えた。

理玖は、その隣を歩く大樹の姿を横目で捉えながら、ふと考える。

彼の笑顔は、いつも変わらないようでいて、少しずつ違う表情を見せる。  
今日のそれには、ほんの僅かな重みがあった。

もしかしたら、何かを伝えようとしていたのかもしれない。  
あるいは、ただの思い過ごしかもしれない。

だとしても──

あの目は、俺のことを見透かしているようで、少し怖い。

自分が抱えている過去。まだ誰にも明かしていない感情。  
言葉にできずにしまい込んだものまで、あの目には映っている気がしてならなかった。

ロビーの自動ドアが静かに開く。  
夜風が頬をかすめる。春のはじまりを知らせるような、柔らかい風。

理玖はそのまま、無言で歩き出した。  
隣にいる大樹もまた、何も言わずに、その歩幅を合わせてくる。

言葉にしないことが、時に一番雄弁なこともある。  
そんな静かな余韻の中で、ふたりの歩みは、夜の街へと溶け込んでいった。
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