恋をあきらめた美人上司、年下部下に“推し”認定されて逃げ場がない~「主任が笑うと、世界が綺麗になるんです」…やめて、好きになっちゃうから!

中岡 始

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第4章『おそろいのマグカップ』

主任専用、俺印マグカップ

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朝の出勤ラッシュを抜けて、ようやく涼しいオフィスに足を踏み入れた瞬間、理玖は既に疲れを覚えていた。  
湿度を含んだ空気が肌にまとわりつく七月。早朝の気温はすでに夏の気配を孕んでいて、ブラックコーヒーでも飲まなければ、頭も体も切り替わらない。

理玖は自席に鞄を置き、手慣れた動作でデスク脇のキャビネットを開いた。  
だが、そこにいつもの紙カップはなかった。代わりに見慣れない白磁のマグが、ひっそりと鎮座していた。

口元がわずかに引きつる。

持ち上げてみると、ほどよい重さと質感。ふちにだけほんのり色がついていて、ぱっと見は無地だが、底にうっすらと金色のラインが入っている。  
控えめで、上品で、まるで理玖の趣味を熟知した誰かが選んだようなセンスだった。

違和感の正体に気づいたのは、その数秒後だった。  
ちょうど隣の島に、大樹が同じ形のマグを手に持って現れたのだ。

そのマグは色違い。理玖の白磁に対し、大樹のは淡いグレー。ふちの色も反転している。

理玖が声をかける前に、大樹の方から無邪気な笑顔を浮かべて近づいてきた。

「おはようございます、主任。あ、気づきました?」

「これ…なんだ」

「マグカップです」

「それは見れば分かる。どうして俺の席にある」

「主任、ブラック派じゃないですか。この素材、香りが逃げにくいんですよ。しかも保温性も高い。紙カップより断然美味しく飲めます」

まるで通販番組のような口調だったが、大樹は真顔だった。

「いや、そういうことじゃなくて」

「カフェスペースに持って行けば洗えるし、使い勝手いいですよ。俺のと色違いなんで、間違えないように気をつけてくださいね」

そこまで言って、にっこりと笑う。

理玖は完全に言葉を失った。

机の上に何か私物を増やすのは、あまり好きではない。誰かに見られたり、聞かれたり、余計な話題の種になるのが面倒だった。  
にもかかわらず、あまりにも自然な流れで“おそろい”のマグカップが導入されてしまっている。

しかも理由がいちいち筋が通っているから、突き返すのもためらわれる。

「……別に、ありがたくはあるが」

「よかったです。主任が気に入ってくれなかったら、俺が二つ使おうと思ってました」

理玖はその言葉に苦笑しそうになるのをこらえて、目線をマグに戻した。

確かに手になじむ。悪くない。  
だが、問題はそこではない。

なんで“おそろい”がこんな自然に成立してるんだ。

マグのくぼみを指先でなぞりながら、理玖は内心で頭を抱えた。

声を上げて否定するほどのことではないが、これがもし周囲にバレたら…と考えるだけで胃がきしむ。

しかしその心配は、すでに現実になりつつあった。

背後の女子社員たちのささやき声が聞こえる。

「ねえ、主任のマグカップ、あれ見た?」「うん、なんか中村くんのと色違いじゃなかった?」「え、もしかして……」「ええ、なに、あれ、かわいい…」

あっという間に、噂が水面に落ちた小石のように広がっていく。

理玖はため息をついた。

大樹はというと、聞こえているはずなのにまったく気にする素振りも見せず、机に向かって書類を開いていた。  
あくまで自然体。その振る舞いが、さらに状況をややこしくしている。

理玖はマグを机の奥にそっと押しやり、パソコンを起動した。  
何事もなかったかのように、淡々と仕事を始めようとする。

しかし、視界の端にちらちらと映る白磁のマグが、しつこく存在を主張してくる。

このささやかな物体ひとつで、朝の空気がこんなにも騒がしくなるとは思っていなかった。

だが、本当に問題なのは、周囲の視線ではなかった。

ふと、マグを見つめる大樹の横顔が脳裏によみがえる。  
あの時の笑顔。言葉の抑揚。なぜか、妙に胸の奥に残っている。

気づけば、そのマグにいつものブラックを注ぎながら、香りが確かに少し違う気がして、負けたような気分になる。

何気ない風を装って、そっと生活に入り込んでくる。  
大樹は、本当にそういうのが上手い。

そして、自分がそれを拒みきれずにいることが、なにより厄介だった。
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