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第4章『おそろいのマグカップ』
それ、もしかして彼氏?
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午後三時を過ぎたころ、フロアの空気がわずかに緩む。
それぞれが作業の合間にコーヒーを淹れたり、メールの返信を済ませたり、手を止めてストレッチをしたりと、静かなゆらぎが生まれる時間帯だった。
理玖も一息つくために、給湯スペースへと足を運んだ。
片手に持っていたのは、例のマグカップ。白磁に金のラインがさりげなく入った、やたらと馴染んでしまっている“俺印マグ”。
中身はもちろんブラック。香りを楽しむには、紙カップよりも格段にいい。
大樹の言葉どおりだった。それが少し悔しい。
コンロ横のカウンターに体を預けながら、理玖はマグを両手で包んで、ゆっくりと一口飲んだ。
深みのある苦味と、鼻を抜ける香りが確かに違う。
こういう些細な違いに気づくあたり、やっぱり自分は年を取ったなと思う。
「主任」
背後から声をかけられて、理玖はほんの少し肩をすくめた。
振り返ると、チームメンバーの一人、杉本沙耶が紙カップを片手に笑って立っていた。
歳は理玖より五つ下。朗らかで空気が読めて、ほどよく図々しい。
部内の潤滑油的存在で、理玖に対しても気安く話しかけてくる数少ない女性社員だ。
「珍しいですね。こんなとこで主任がコーヒー飲んでるの」
「たまたまだ」
「そのマグ、見たことないですけど。新調ですか?」
理玖は少しだけ手元を引き、何でもない顔を装って答えた。
「…ああ。なんか、よく分からないけど、置かれてたんだ」
「へえ?」
沙耶の目がすっと細くなる。
「置かれてたって、誰が?」
「中村が…あいつが。俺の分も買ったとかで、勝手に置いてきた」
「あー」
沙耶は何かを察したように大きくうなずいた。
「ってことは、やっぱりあの色違いのやつ、おそろいなんですね」
「違う。いや、おそろいではあるが、意図的じゃない。たぶん」
「意図的じゃない“おそろい”?」
「いや、ちょっと待て。正確には、あいつが自分のと俺のと両方持ってきて、そのうえで、まあ…気を利かせたというか…」
言いながら、自分の説明がどんどん苦しくなっているのを感じた。
沙耶は目を丸くして、その様子をじっと見つめてくる。
「主任、めっちゃ早口になってますよ。珍しい」
「……そうか?」
「うん。それに、否定の仕方が下手。というか、否定できてない」
理玖は言葉に詰まり、無言でマグを口元に持っていった。
「それ、もしかして彼氏?」
からかうような声ではあったが、沙耶の目は意外とまっすぐだった。
理玖はコーヒーを飲み下してから、ゆっくりと答えた。
「……違う」
「ふーん」
沙耶はそれ以上何も言わず、持っていた紙カップを傾ける。
わずかに残ったコーヒーを飲みきって、軽く肩をすくめた。
「でも、主任。最近、よく笑うようになりましたよね」
それだけ言い残して、沙耶は振り返らずにそのまま自席へ戻っていった。
理玖はしばらく、その背中を見送っていた。
マグの縁に指先を添えて、再び口をつける。
ブラックの苦味が、先ほどよりも遠く感じた。
笑うようになった、なんて。
自分では、全然気づかなかった。
意識して笑おうとしたわけでもない。
むしろ、仕事中は余計な感情を表に出さないようにしてきたつもりだった。
でも、確かに最近──
大樹の言葉に、行動に、表情に、思わず笑ってしまうことが増えた気がする。
無防備な間の抜けた言動や、唐突な褒め言葉。
目を見て話してくるあのまっすぐな態度。
ひとつひとつに振り回されて、気づけば口元が緩んでいた。
それを、周囲に見抜かれていたという事実が、今さらながらに恥ずかしい。
理玖は肩を落とし、マグを持ったまま給湯スペースを後にした。
通路を歩きながら、また考えてしまう。
おそろいのマグ。
あれを置かれた瞬間も、なんだかんだで受け入れてしまった自分。
それを誰かに指摘されたとき、否定しきれずに言葉を詰まらせた自分。
そして──笑っていると言われたとき、自分の胸の奥が少しだけ、嬉しかったこと。
それが何を意味するのか、まだ言葉にするには早い。
でも、たしかに何かが変わり始めている。
それだけは、もう否定できなかった。
それぞれが作業の合間にコーヒーを淹れたり、メールの返信を済ませたり、手を止めてストレッチをしたりと、静かなゆらぎが生まれる時間帯だった。
理玖も一息つくために、給湯スペースへと足を運んだ。
片手に持っていたのは、例のマグカップ。白磁に金のラインがさりげなく入った、やたらと馴染んでしまっている“俺印マグ”。
中身はもちろんブラック。香りを楽しむには、紙カップよりも格段にいい。
大樹の言葉どおりだった。それが少し悔しい。
コンロ横のカウンターに体を預けながら、理玖はマグを両手で包んで、ゆっくりと一口飲んだ。
深みのある苦味と、鼻を抜ける香りが確かに違う。
こういう些細な違いに気づくあたり、やっぱり自分は年を取ったなと思う。
「主任」
背後から声をかけられて、理玖はほんの少し肩をすくめた。
振り返ると、チームメンバーの一人、杉本沙耶が紙カップを片手に笑って立っていた。
歳は理玖より五つ下。朗らかで空気が読めて、ほどよく図々しい。
部内の潤滑油的存在で、理玖に対しても気安く話しかけてくる数少ない女性社員だ。
「珍しいですね。こんなとこで主任がコーヒー飲んでるの」
「たまたまだ」
「そのマグ、見たことないですけど。新調ですか?」
理玖は少しだけ手元を引き、何でもない顔を装って答えた。
「…ああ。なんか、よく分からないけど、置かれてたんだ」
「へえ?」
沙耶の目がすっと細くなる。
「置かれてたって、誰が?」
「中村が…あいつが。俺の分も買ったとかで、勝手に置いてきた」
「あー」
沙耶は何かを察したように大きくうなずいた。
「ってことは、やっぱりあの色違いのやつ、おそろいなんですね」
「違う。いや、おそろいではあるが、意図的じゃない。たぶん」
「意図的じゃない“おそろい”?」
「いや、ちょっと待て。正確には、あいつが自分のと俺のと両方持ってきて、そのうえで、まあ…気を利かせたというか…」
言いながら、自分の説明がどんどん苦しくなっているのを感じた。
沙耶は目を丸くして、その様子をじっと見つめてくる。
「主任、めっちゃ早口になってますよ。珍しい」
「……そうか?」
「うん。それに、否定の仕方が下手。というか、否定できてない」
理玖は言葉に詰まり、無言でマグを口元に持っていった。
「それ、もしかして彼氏?」
からかうような声ではあったが、沙耶の目は意外とまっすぐだった。
理玖はコーヒーを飲み下してから、ゆっくりと答えた。
「……違う」
「ふーん」
沙耶はそれ以上何も言わず、持っていた紙カップを傾ける。
わずかに残ったコーヒーを飲みきって、軽く肩をすくめた。
「でも、主任。最近、よく笑うようになりましたよね」
それだけ言い残して、沙耶は振り返らずにそのまま自席へ戻っていった。
理玖はしばらく、その背中を見送っていた。
マグの縁に指先を添えて、再び口をつける。
ブラックの苦味が、先ほどよりも遠く感じた。
笑うようになった、なんて。
自分では、全然気づかなかった。
意識して笑おうとしたわけでもない。
むしろ、仕事中は余計な感情を表に出さないようにしてきたつもりだった。
でも、確かに最近──
大樹の言葉に、行動に、表情に、思わず笑ってしまうことが増えた気がする。
無防備な間の抜けた言動や、唐突な褒め言葉。
目を見て話してくるあのまっすぐな態度。
ひとつひとつに振り回されて、気づけば口元が緩んでいた。
それを、周囲に見抜かれていたという事実が、今さらながらに恥ずかしい。
理玖は肩を落とし、マグを持ったまま給湯スペースを後にした。
通路を歩きながら、また考えてしまう。
おそろいのマグ。
あれを置かれた瞬間も、なんだかんだで受け入れてしまった自分。
それを誰かに指摘されたとき、否定しきれずに言葉を詰まらせた自分。
そして──笑っていると言われたとき、自分の胸の奥が少しだけ、嬉しかったこと。
それが何を意味するのか、まだ言葉にするには早い。
でも、たしかに何かが変わり始めている。
それだけは、もう否定できなかった。
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