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ヨレたスーツと、支える背中──榊圭吾、関西支社時代~あの頃の“課長”は、まだ何も語らなかった
報告書を置いて、逃げた
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プリンターの音が、やけに大きく響いた。
あの短い印字音が、なにかを決定づけてしまったようで、佐倉は思わず息を止めた。
印刷トレイに吐き出されたA4の一枚。
書類タイトル「発注数の誤入力に関する報告」。
自分の名前、案件番号、宛先——榊課長。
それを手に取ったとき、体温が一気に下がった気がした。
わずかな紙の重みが、鉛のように感じられる。
手のひらに汗がにじみ、指先に紙が貼りつく。
あとは渡すだけ。
たったそれだけ。
けれど、その“それだけ”が、佐倉にとっては深い谷のように思えた。
視線の先に、榊の姿があった。
打ち合わせ資料を広げ、別部署の主任と何かを話している。
手振りは控えめで、声もいつも通り落ち着いていた。
周囲に溶け込むように、けれど確かに“支社の空気”の軸になっている男の姿だった。
直接、手渡すにはあまりに大きな壁があった。
一歩踏み出す勇気は、とうに底をついていた。
佐倉は小さく息を吸い、歩き出した。
自分の足音が、妙に大きく感じられる。
すれ違った同僚が、軽く会釈して通り過ぎる。
佐倉はその目をまっすぐ見ることができなかった。
榊のデスクに到着する。
本人はまだ会話の最中だった。
こっちを見る気配もない。
それでよかった。
いま、目が合ってしまったら、きっと足がすくんでしまう。
報告書を、そっとデスクの端に置く。
置くというより、滑り込ませるように。
書類がデスクマットに触れる音すら聞こえそうなほど、静かな動作だった。
ほんのわずかな、数秒の行為。
けれど、佐倉には長い時間を要したように感じられた。
心臓が痛いほど脈打っている。
鼓膜が自分の呼吸音を拾っている。
何かを言おうとして、言葉にならなかった。
ただ一歩、二歩と、榊のデスクから離れる。
歩きながら、背中に榊の視線がある気がした。
それはただの被害妄想かもしれない。
けれど、確認する勇気はなかった。
コピー機の横をすり抜けて、ロビーに出る。
上着だけを手に取り、タイムカードの機械を横目に見ながら、裏手の非常階段へ向かう。
足音は慎重に。誰にも気づかれないように。
まるで、なにか悪いことをした子どものように、静かに廊下を渡った。
エレベーターには乗らなかった。
扉が閉まるまでの間、誰かと目を合わせるのが怖かった。
それに、階段を使ったほうが、動いている実感を得られた。
重たい鉄の扉を押し開けて、コンクリートの階段を一段ずつ登る。
靴音が硬く響き、それが自分の罪を責めているように思えた。
三階、四階、五階。
どんどん高くなるほどに、息が上がる。
けれど、それすらちょうどよかった。
身体が疲れれば、余計なことを考えなくて済む。
屋上のドアを開けると、冷たい風が顔に吹きつけた。
空は、どこまでも灰色だった。
雲が厚く、遠くのビルの輪郭もぼやけている。
少し離れたベンチに歩み寄り、背もたれに背中をあずける。
呼吸を整えようと深く息を吸ったが、喉がうまく開かない。
それでも吐き出すように息を漏らすと、少しだけ肩の力が抜けた。
鳥の声が聞こえた。
どこか遠くの街路樹にいるのだろうか。
車の音、バイクのエンジン音、人々の話し声。
いつもは耳に入らない音たちが、今日は妙に鮮やかだった。
佐倉は膝を引き寄せ、腕で抱えるようにしてうずくまった。
吐き気は収まらない。
けれど、吐くものもなかった。
何度も心の中で自分に問う。
なぜ、あの場で言えなかったのか。
なぜ、きちんと謝れなかったのか。
なぜ、自分はこんなにも弱いのか。
榊はまだ報告書を読んでいないかもしれない。
すでに気づいているかもしれない。
明日には上に報告が上がるだろうし、責任の所在もはっきりする。
そのとき、自分は堂々としていられるだろうか。
胸を張って、「すみませんでした」と言えるのだろうか。
風が冷たい。
頬がかすかに痛む。
でも、それくらいの痛みのほうが落ち着く気がした。
佐倉は小さくつぶやくように言った。
「……やってもうたな、ほんま」
曇った空の下、誰にも聞かれないように、誰にも届かないように。
それでもその言葉には、確かな悔しさがにじんでいた。
あの短い印字音が、なにかを決定づけてしまったようで、佐倉は思わず息を止めた。
印刷トレイに吐き出されたA4の一枚。
書類タイトル「発注数の誤入力に関する報告」。
自分の名前、案件番号、宛先——榊課長。
それを手に取ったとき、体温が一気に下がった気がした。
わずかな紙の重みが、鉛のように感じられる。
手のひらに汗がにじみ、指先に紙が貼りつく。
あとは渡すだけ。
たったそれだけ。
けれど、その“それだけ”が、佐倉にとっては深い谷のように思えた。
視線の先に、榊の姿があった。
打ち合わせ資料を広げ、別部署の主任と何かを話している。
手振りは控えめで、声もいつも通り落ち着いていた。
周囲に溶け込むように、けれど確かに“支社の空気”の軸になっている男の姿だった。
直接、手渡すにはあまりに大きな壁があった。
一歩踏み出す勇気は、とうに底をついていた。
佐倉は小さく息を吸い、歩き出した。
自分の足音が、妙に大きく感じられる。
すれ違った同僚が、軽く会釈して通り過ぎる。
佐倉はその目をまっすぐ見ることができなかった。
榊のデスクに到着する。
本人はまだ会話の最中だった。
こっちを見る気配もない。
それでよかった。
いま、目が合ってしまったら、きっと足がすくんでしまう。
報告書を、そっとデスクの端に置く。
置くというより、滑り込ませるように。
書類がデスクマットに触れる音すら聞こえそうなほど、静かな動作だった。
ほんのわずかな、数秒の行為。
けれど、佐倉には長い時間を要したように感じられた。
心臓が痛いほど脈打っている。
鼓膜が自分の呼吸音を拾っている。
何かを言おうとして、言葉にならなかった。
ただ一歩、二歩と、榊のデスクから離れる。
歩きながら、背中に榊の視線がある気がした。
それはただの被害妄想かもしれない。
けれど、確認する勇気はなかった。
コピー機の横をすり抜けて、ロビーに出る。
上着だけを手に取り、タイムカードの機械を横目に見ながら、裏手の非常階段へ向かう。
足音は慎重に。誰にも気づかれないように。
まるで、なにか悪いことをした子どものように、静かに廊下を渡った。
エレベーターには乗らなかった。
扉が閉まるまでの間、誰かと目を合わせるのが怖かった。
それに、階段を使ったほうが、動いている実感を得られた。
重たい鉄の扉を押し開けて、コンクリートの階段を一段ずつ登る。
靴音が硬く響き、それが自分の罪を責めているように思えた。
三階、四階、五階。
どんどん高くなるほどに、息が上がる。
けれど、それすらちょうどよかった。
身体が疲れれば、余計なことを考えなくて済む。
屋上のドアを開けると、冷たい風が顔に吹きつけた。
空は、どこまでも灰色だった。
雲が厚く、遠くのビルの輪郭もぼやけている。
少し離れたベンチに歩み寄り、背もたれに背中をあずける。
呼吸を整えようと深く息を吸ったが、喉がうまく開かない。
それでも吐き出すように息を漏らすと、少しだけ肩の力が抜けた。
鳥の声が聞こえた。
どこか遠くの街路樹にいるのだろうか。
車の音、バイクのエンジン音、人々の話し声。
いつもは耳に入らない音たちが、今日は妙に鮮やかだった。
佐倉は膝を引き寄せ、腕で抱えるようにしてうずくまった。
吐き気は収まらない。
けれど、吐くものもなかった。
何度も心の中で自分に問う。
なぜ、あの場で言えなかったのか。
なぜ、きちんと謝れなかったのか。
なぜ、自分はこんなにも弱いのか。
榊はまだ報告書を読んでいないかもしれない。
すでに気づいているかもしれない。
明日には上に報告が上がるだろうし、責任の所在もはっきりする。
そのとき、自分は堂々としていられるだろうか。
胸を張って、「すみませんでした」と言えるのだろうか。
風が冷たい。
頬がかすかに痛む。
でも、それくらいの痛みのほうが落ち着く気がした。
佐倉は小さくつぶやくように言った。
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それでもその言葉には、確かな悔しさがにじんでいた。
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