オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?

中岡 始

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ヨレたスーツと、支える背中──榊圭吾、関西支社時代~あの頃の“課長”は、まだ何も語らなかった

手ぶらで来たくせに、全部わかってる顔してた

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屋上のドアが軋む音を立てて、ゆっくりと開いた。

その音だけで、佐倉の背筋がわずかに強張る。  
誰も来ないと思っていた。いや、誰にも見つかりたくなかった。  
けれど、自分の逃げ場所は、やはり誰かに届いていたのだと、その一音で悟った。

コンクリートの床を踏む、革靴の音。  
その歩幅はせかせかしていなくて、むしろ間合いをはかるように、一定のリズムで近づいてきた。

佐倉は顔を上げられないまま、膝を抱いた姿勢を崩さなかった。

「お前、えらい飛ばしたなあ。けっこうな額や」

声が、すぐ隣から降ってきた。

静かで、抑揚もなくて、怒気なんてひとかけらもなかった。  
だからこそ、逆に心がざわつく。

佐倉は返事をしなかった。できなかった。  
ただ俯いたまま、両腕に顔を埋めて、息を殺すように身じろぎもせずにいた。

榊は、それ以上なにも言わずに、佐倉の隣に腰を下ろした。

ベンチが軋む。  
肘が、ほんの少しだけ触れるか触れないかの距離。  
榊はポケットから両手を出すと、太ももの上に置いて、上体をわずかに反らせた。  
目線の先には、曇り空が広がっている。

何も持たず、何も言わず。  
書類も注意も言い訳も、何一つ手にしていないのに、  
その姿だけで、すべてを“知っている”のだと伝わってくる。

「まあ、しゃーない」

ぽつりと落とされたその一言に、佐倉の胸がふっと緩んだ。

それは、許されたという言葉でもなく、慰めでもなかった。  
でも、責める言葉でもなかった。

ただ、そのままを受け止めてくれるような、重くなく、軽くもない、不思議な響き。

肩の奥から、じんと熱が広がってくる。

涙が出るほどのことじゃない。  
誰も怒っていない。何も壊れていない。

それなのに、まぶたの裏がひどく痛かった。

佐倉は、目元を腕の裾でそっと拭った。

「ほんまやったらな、一緒に謝りに行くとこやけど」

榊は言葉を続けた。

「今日は昼抜いて業者に連絡して、先方にも納得してもろたわ。納品数も、なんとか間に合う。まあ、ちょっと調整つけたけどな」

佐倉は顔を上げることができなかった。

榊は、それでも淡々と話す。

「せやから、次はちゃんと俺に言え。ひとりで抱え込んだら、ほんまにややこしなる」

「……はい」

かすれた声で、それだけを返す。

榊はふっと笑ったような気配を見せて、言った。

「すまんって言葉、使いすぎると軽くなるで」

佐倉は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。  
けれど、そこに咎めるような響きはなかった。  
ただ、心のどこかをそっと叩かれるような、やわらかい警告のような気がした。

「……でも、言わせてください。すみませんでした」

今度は、はっきりとそう言った。

榊は何も答えなかった。  
ただ、再び空を見上げていた。

ふたりのあいだに、沈黙が流れる。  
それは気まずくもなければ、居心地の悪いものでもなかった。  
話さなくてもいいという空気。  
無理に詰め込まなくていいという安心。

佐倉は目元をぬぐいながら、隣の榊の横顔をちらりと見た。

シャツの襟元は少し緩み、首筋に浮いた微かな髭の影が、曇り空の下でやけに男くさく見えた。  
ネクタイはいつもよりゆるく、胸ポケットに折りたたまれたメモ用紙がのぞいている。  
まるで、なにかに追われているようで、でも全然急がない。  
全体的にヨレていて、だけど、どこか“整って”いた。

こんな大人がいるんだ、と佐倉は思った。

ちゃんとしていないのに、信頼できる。  
だらしないように見えるのに、支えてもらえる。  
なにひとつ押しつけてこないのに、ちゃんと“受け止めてもらえた”と感じる。

こんなふうに怒られなかったのは、初めてだった。

「……ありがとうございました」

改めて言葉にしたとき、自分の声が少しだけ震えているのに気づいた。

榊はやはり、何も言わなかった。

けれど、その無言の横顔が、佐倉には十分な答えに思えた。

風が、ふたりの間を吹き抜ける。  
少しだけ湿気を含んだ春の風。

ベンチのそば、コンクリートの床に鳩が一羽、舞い降りていた。  
何かを探すように首を傾け、しばらくしてまた空へと飛び立っていった。

佐倉は、ようやく少しだけ、背筋を伸ばすことができた。
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