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ヨレたスーツと、支える背中──榊圭吾、関西支社時代~あの頃の“課長”は、まだ何も語らなかった
異動の発令は、春の始まり
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三月の終わり、空気にはまだ少し冷たさが残っていた。
けれど窓の外の木々には、芽吹きかけた若葉がちらほらと顔を覗かせていて、
冬の名残と春の気配が同時に社内に漂っていた。
月曜の朝、全体会議が終わる頃、支社長が一枚の紙を手にして立ち上がった。
その仕草が、いつもの業務連絡ではないことを静かに示していた。
「人事より内示が出ましたので、伝達します」
一瞬だけ、会議室がざわついた。
とはいえ、息をのむような緊張というより、何かが始まる予感に似たものだった。
「営業課長、榊圭吾。来月一日付で、本社営業部への異動が決定しました」
誰かが小さく息を飲む音がした。
榊は、自席で腕を組んだまま、特に反応を見せなかった。
無言のまま、軽く頷くだけ。
その様子があまりにもいつも通りで、かえって場の空気が揺らいだ。
「以上です。詳細は後日、各部署へ連絡します」
支社長の声が締めくくられると、あとは静かな時間が流れた。
散会の合図もないまま、人々は椅子の背を鳴らしながら立ち上がっていった。
ざわざわと交わされる会話の中で、誰もが言葉を選びあぐねているようだった。
「課長、本社って……」
近くの社員が榊に声をかける。
榊は、少しだけ口角を上げて言った。
「まあ、流れやな。ここも長くおったし」
それは、本当にただの「流れ」で済ませようとするような声だった。
いつもの、あの何でもないような調子。
気にしていないように見えて、誰よりもその場に馴染んでしまう、榊の話し方だった。
佐倉は、席に座ったまま、その様子を見ていた。
手元の資料には目を落としていたが、意識は完全に榊に向かっていた。
(ほんまに……何も変わらん顔して)
心の中で、ぽつりとつぶやく。
榊はいつだって、何かを受け止めるとき、ほんの少しだけ肩をすくめる癖があった。
今回もそうだった。
「まあ、しゃあないな」とでも言うように、ほんの一瞬だけ肩が揺れて、また元の位置に戻る。
たったそれだけ。
けれど、その動きひとつで、佐倉の胸は妙にざわついた。
春は、別れの季節だという。
だが、こんなふうに「日常の続きのように」別れが告げられることがあるなんて、思ってもみなかった。
榊は、最後まで、何も言わない人なんだろう。
不満も、寂しさも、期待も、口にせずに背負っていく。
黙って受け入れて、背中で見せて、淡々と歩いていく。
(それが、この人なんやな)
佐倉は立ち上がり、会議室を出る列に加わった。
後ろを振り返れば、榊の背中が見える。
もう何度も見てきたはずのその後ろ姿が、今日は少しだけ遠くに見えた。
何も変わっていないようで、何かが変わり始めている。
そんな気がして、心がそわそわと落ち着かなかった。
春の始まりの空気は、やけに静かだった。
その静けさが、いっそう榊の言葉の少なさを際立たせる。
(本社か……)
それが何を意味するのか、佐倉にはまだうまく想像ができなかった。
でも、この人がここからいなくなるという事実だけは、はっきりと心に刺さった。
廊下を歩く榊の足取りは、何ひとつ変わらなかった。
けれど、佐倉の中では、何かが音もなく揺れ始めていた。
けれど窓の外の木々には、芽吹きかけた若葉がちらほらと顔を覗かせていて、
冬の名残と春の気配が同時に社内に漂っていた。
月曜の朝、全体会議が終わる頃、支社長が一枚の紙を手にして立ち上がった。
その仕草が、いつもの業務連絡ではないことを静かに示していた。
「人事より内示が出ましたので、伝達します」
一瞬だけ、会議室がざわついた。
とはいえ、息をのむような緊張というより、何かが始まる予感に似たものだった。
「営業課長、榊圭吾。来月一日付で、本社営業部への異動が決定しました」
誰かが小さく息を飲む音がした。
榊は、自席で腕を組んだまま、特に反応を見せなかった。
無言のまま、軽く頷くだけ。
その様子があまりにもいつも通りで、かえって場の空気が揺らいだ。
「以上です。詳細は後日、各部署へ連絡します」
支社長の声が締めくくられると、あとは静かな時間が流れた。
散会の合図もないまま、人々は椅子の背を鳴らしながら立ち上がっていった。
ざわざわと交わされる会話の中で、誰もが言葉を選びあぐねているようだった。
「課長、本社って……」
近くの社員が榊に声をかける。
榊は、少しだけ口角を上げて言った。
「まあ、流れやな。ここも長くおったし」
それは、本当にただの「流れ」で済ませようとするような声だった。
いつもの、あの何でもないような調子。
気にしていないように見えて、誰よりもその場に馴染んでしまう、榊の話し方だった。
佐倉は、席に座ったまま、その様子を見ていた。
手元の資料には目を落としていたが、意識は完全に榊に向かっていた。
(ほんまに……何も変わらん顔して)
心の中で、ぽつりとつぶやく。
榊はいつだって、何かを受け止めるとき、ほんの少しだけ肩をすくめる癖があった。
今回もそうだった。
「まあ、しゃあないな」とでも言うように、ほんの一瞬だけ肩が揺れて、また元の位置に戻る。
たったそれだけ。
けれど、その動きひとつで、佐倉の胸は妙にざわついた。
春は、別れの季節だという。
だが、こんなふうに「日常の続きのように」別れが告げられることがあるなんて、思ってもみなかった。
榊は、最後まで、何も言わない人なんだろう。
不満も、寂しさも、期待も、口にせずに背負っていく。
黙って受け入れて、背中で見せて、淡々と歩いていく。
(それが、この人なんやな)
佐倉は立ち上がり、会議室を出る列に加わった。
後ろを振り返れば、榊の背中が見える。
もう何度も見てきたはずのその後ろ姿が、今日は少しだけ遠くに見えた。
何も変わっていないようで、何かが変わり始めている。
そんな気がして、心がそわそわと落ち着かなかった。
春の始まりの空気は、やけに静かだった。
その静けさが、いっそう榊の言葉の少なさを際立たせる。
(本社か……)
それが何を意味するのか、佐倉にはまだうまく想像ができなかった。
でも、この人がここからいなくなるという事実だけは、はっきりと心に刺さった。
廊下を歩く榊の足取りは、何ひとつ変わらなかった。
けれど、佐倉の中では、何かが音もなく揺れ始めていた。
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