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ヨレたスーツと、支える背中──榊圭吾、関西支社時代~あの頃の“課長”は、まだ何も語らなかった
送別会のあと
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送別会の終わり際、店内にはいまだ笑い声が残っていた。
「課長、ほんま本社行っても忘れんといてくださいよ」
「向こうの女子社員のハート、すぐさらっていくんちゃいます?」
冗談混じりの言葉に、榊は口の端をゆるく上げながら「あるわけないやろ」と返していた。
笑いながら、グラスを乾かす仕草はいつも通りに自然で、特別な場であることをまるで感じさせない。
テーブルの上には飲み残しのグラスと、串から外された焼き鳥の皿が散らばっている。
誰もそれを片付けようとはせず、みんながその場の余韻に浸っていた。
佐倉は、ずっとその様子を黙って見ていた。
笑いながら箸を持つ榊の手元、さりげなく水を飲む横顔、そのひとつひとつを見逃すまいとしていた。
(この空間で、この人がいなくなるのか)
そう思うと、どこか現実味がなくて、ただ座っているだけで胸の奥がざわついた。
解散の声がかかると、徐々に人の流れが外へ向かっていく。
「次どうします?」「もう一軒?」と浮かれた声が飛び交う中、佐倉はなぜか立ち上がれずにいた。
グラスをひとつ、もう一度傾けて、空になったのを確認する。
酔ってはいない。けれど、どこか頭の中が霞がかったようにぼんやりしていた。
席を立とうとしたとき、ふと視線の先に榊の姿が見えた。
ほかの社員たちと少し距離を取り、タバコを取り出して一歩だけ外に出たところだった。
その背中を追うように、佐倉は出口に向かった。
外は夜風が思ったより冷たくて、酔いの残った体にしみるようだった。
「……課長」
声をかけると、榊は肩越しにこちらを見て、ほんの少しだけ眉を上げた。
「おう。お前、帰らんのか?」
「みんな、駅の方に流れていきましたけど……俺は、ちょっとだけ」
言葉が続かなかった。喉の奥に何かが引っかかったような感覚。
榊は肩をすくめて、ポケットにしまったタバコを取り出さなかった。
ふたり並んで歩き出す。
いつもより少し遅い足取りで、駅までの道をゆっくり進んだ。
酔いの回った街の喧騒が遠ざかり、ビルとビルの隙間に冷えた夜気が降りていた。
しばらく無言のまま歩いて、ようやく佐倉が口を開いた。
「……最後に、ちゃんと挨拶しときたくて」
それだけだった。
それしか言えなかった。
本当は、もっとたくさん言いたいことがあったはずだった。
感謝も、尊敬も、好きという感情すらも、全部伝えたかった。
けれど、口を開いたら言葉が溢れてしまいそうで、こぼれる前に押しとどめた。
榊は、少しだけ笑った。
それは、いつものように肩の力を抜いた微笑みだった。
「律儀やなあ、お前は。もう十分やで」
そう言って、佐倉の肩にふっと視線を落としただけで、また前を向いた。
夜風が吹き、榊の髪が少し乱れた。
整えられていないその髪すらも、今夜はやけに目に焼きつく。
(この人、ほんまに行ってしまうんや)
心の中で何度もそう思いながら、佐倉はただ隣を歩いた。
言わないまま、気持ちを抱えたまま、歩き続けた。
言えないのではなく、言わない選択をしたのだと、どこかで気づいていた。
言ってしまえば、すべてが終わってしまう気がした。
榊の背中は、変わらず穏やかで、少しだけ遠かった。
その背中を見ているだけで、十分だった。
触れられないままでいい、と思えるほど、確かに在るものだった。
駅の灯りが見えてきたころ、佐倉は立ち止まった。
「……気ぃつけて、行ってください」
その言葉に、榊は「おう」とだけ返した。
それが、この夜のすべてだった。
佐倉はひとり、改札の反対側へ歩き出した。
背中を向けるのが、こんなに名残惜しいとは思わなかった。
けれど、振り返ることはなかった。
今のまま、この距離のまま、記憶に残したかった。
夜の風が頬を撫でて、遠くで電車の音が響いた。
ふたりの間に残ったものは、言葉にならなかった想いだけだった。
「課長、ほんま本社行っても忘れんといてくださいよ」
「向こうの女子社員のハート、すぐさらっていくんちゃいます?」
冗談混じりの言葉に、榊は口の端をゆるく上げながら「あるわけないやろ」と返していた。
笑いながら、グラスを乾かす仕草はいつも通りに自然で、特別な場であることをまるで感じさせない。
テーブルの上には飲み残しのグラスと、串から外された焼き鳥の皿が散らばっている。
誰もそれを片付けようとはせず、みんながその場の余韻に浸っていた。
佐倉は、ずっとその様子を黙って見ていた。
笑いながら箸を持つ榊の手元、さりげなく水を飲む横顔、そのひとつひとつを見逃すまいとしていた。
(この空間で、この人がいなくなるのか)
そう思うと、どこか現実味がなくて、ただ座っているだけで胸の奥がざわついた。
解散の声がかかると、徐々に人の流れが外へ向かっていく。
「次どうします?」「もう一軒?」と浮かれた声が飛び交う中、佐倉はなぜか立ち上がれずにいた。
グラスをひとつ、もう一度傾けて、空になったのを確認する。
酔ってはいない。けれど、どこか頭の中が霞がかったようにぼんやりしていた。
席を立とうとしたとき、ふと視線の先に榊の姿が見えた。
ほかの社員たちと少し距離を取り、タバコを取り出して一歩だけ外に出たところだった。
その背中を追うように、佐倉は出口に向かった。
外は夜風が思ったより冷たくて、酔いの残った体にしみるようだった。
「……課長」
声をかけると、榊は肩越しにこちらを見て、ほんの少しだけ眉を上げた。
「おう。お前、帰らんのか?」
「みんな、駅の方に流れていきましたけど……俺は、ちょっとだけ」
言葉が続かなかった。喉の奥に何かが引っかかったような感覚。
榊は肩をすくめて、ポケットにしまったタバコを取り出さなかった。
ふたり並んで歩き出す。
いつもより少し遅い足取りで、駅までの道をゆっくり進んだ。
酔いの回った街の喧騒が遠ざかり、ビルとビルの隙間に冷えた夜気が降りていた。
しばらく無言のまま歩いて、ようやく佐倉が口を開いた。
「……最後に、ちゃんと挨拶しときたくて」
それだけだった。
それしか言えなかった。
本当は、もっとたくさん言いたいことがあったはずだった。
感謝も、尊敬も、好きという感情すらも、全部伝えたかった。
けれど、口を開いたら言葉が溢れてしまいそうで、こぼれる前に押しとどめた。
榊は、少しだけ笑った。
それは、いつものように肩の力を抜いた微笑みだった。
「律儀やなあ、お前は。もう十分やで」
そう言って、佐倉の肩にふっと視線を落としただけで、また前を向いた。
夜風が吹き、榊の髪が少し乱れた。
整えられていないその髪すらも、今夜はやけに目に焼きつく。
(この人、ほんまに行ってしまうんや)
心の中で何度もそう思いながら、佐倉はただ隣を歩いた。
言わないまま、気持ちを抱えたまま、歩き続けた。
言えないのではなく、言わない選択をしたのだと、どこかで気づいていた。
言ってしまえば、すべてが終わってしまう気がした。
榊の背中は、変わらず穏やかで、少しだけ遠かった。
その背中を見ているだけで、十分だった。
触れられないままでいい、と思えるほど、確かに在るものだった。
駅の灯りが見えてきたころ、佐倉は立ち止まった。
「……気ぃつけて、行ってください」
その言葉に、榊は「おう」とだけ返した。
それが、この夜のすべてだった。
佐倉はひとり、改札の反対側へ歩き出した。
背中を向けるのが、こんなに名残惜しいとは思わなかった。
けれど、振り返ることはなかった。
今のまま、この距離のまま、記憶に残したかった。
夜の風が頬を撫でて、遠くで電車の音が響いた。
ふたりの間に残ったものは、言葉にならなかった想いだけだった。
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