オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる～ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか？

君が他人にモテるなんて、聞いてない〜ヨレ課長、初めてのモヤモヤ嫉妬

信じてないんですか

玄関の鍵が回る音に、榊はキッチンで振り返った。  
ちょうど夕食の片づけを終えたところだった。  
薄暗いリビングにはまだテレビの音もなく、照明だけが柔らかく床を照らしていた。

陽翔はスーツのまま「ただいま」と声をかけ、靴を脱いで部屋に入る。  
榊はカウンター越しに顔を出して、軽く顎を上げる。

「うまくいったんか」

その問いに、陽翔は一歩も立ち止まらず、ジャケットを脱ぎながら答えた。

「話しました。ちゃんと断りました」

その言葉には、どこか張りつめたような響きがあった。  
日常の一部のように発せられたはずのやり取りなのに、空気が一瞬、揺れたような気がした。

榊は水気を拭いた手を腰に当て、わずかに目を細める。

「そうか。……えらいな」

それは本心からの言葉だった。  
何の含みもなく、ただ誠実に向き合った陽翔を、素直に褒めたつもりだった。

けれど、次の瞬間、陽翔の動きが止まった。

キッチンカウンターの手前で立ち尽くし、視線だけを榊に向けている。  
その表情は、張りつめた糸が切れる直前のようだった。

「……俺の気持ち、信じてないんですか？」

静かな言葉だった。  
けれど、その音は榊の胸にまっすぐ刺さった。

「ずっと、ずっと課長にだけは伝わってると思ってたのに」

陽翔の声が少しだけ震えた。  
怒鳴るような声ではない。  
だが、感情があふれてしまいそうなその響きに、榊は何も返せなかった。

「俺、ちゃんと選びましたよ。  
　誰に好かれても、誰に褒められても、  
　俺が信じたいのは、課長の言葉だけだったんです」

榊は動けなかった。  
言葉を紡ごうとして、喉の奥で引っかかる。

陽翔は息を整えながら、けれど止まらずに続ける。

「他の誰かが俺のこと見ててくれても、それは嬉しいですよ。  
　でも、課長が見てくれてなかったら、俺には意味がないんです」

その言葉には、抑えきれない想いがにじんでいた。

「誰にどう思われてもいい。  
　でも、課長だけには、ちゃんとわかっててほしかったんです」

陽翔の目には、怒りというより、失望が浮かんでいた。  
その奥には、伝えたはずのものが届いていなかったという痛みが、くっきりと刻まれていた。

榊は唇を動かしかけて、やめた。

今さら何を言っても、うわべになる気がしてならなかった。

「……」

沈黙が、またふたりの間に落ちた。

陽翔はもう一言も発せず、ゆっくりと背を向けて、浴室のほうへと歩き出した。  
その背中に、榊は手を伸ばすこともできなかった。

視線だけが、彼の去っていく姿を追っていた。  
その手にはまだ、夕食で使った食器の温もりが残っていた。  
けれど、いまはそれがやけに遠く、何の意味もないもののように思えた。

あの言葉たちは、まっすぐすぎた。  
陽翔が何を賭けて伝えたかを思えば、榊の胸の奥がじわりと締めつけられた。

本音を、聞いてやれなかった。  
受け止めることすら、避けてしまっていた。

ふたりで暮らして、日々を積み重ねてきたのに。  
大切にしていたはずの気持ちを、いつのまにかこぼしていた。

榊はその場から動けず、リビングの時計の秒針だけが無情に進んでいく音を聞いていた。