229 / 343
奏太さん、もっと近くにいてもいいですか~不器用で優しい君の、はじめての夜
あの日より、少しだけ近い距離で
しおりを挟む
平日の喧騒が抜けきらない週末の午後。けれど水族館の中は、音を吸い込んだような静けさに包まれていた。佐倉は、薄暗い照明と青い光に照らされた通路を、ゆっくりと歩いていた。
横に並ぶ瀬戸は、いつものスーツ姿ではなく、白いシャツの上に薄手のネイビーのパーカーを羽織っている。肩幅のある体格にまだ少し着慣れていない私服。けれど、そのぎこちなさすらも、この場所では妙に馴染んでいた。
「クラゲ、好きなんです」
突然、瀬戸が言った。
佐倉は一歩先を歩いていた足を止め、横顔を見た。クラゲの水槽の前に立つ瀬戸の頬に、青白い光がふわりと映っている。
「なんで?」
「…ゆっくり動いてて、きれいで。流されてるみたいで、でもちゃんと自分の意思もあって」
その言葉に、佐倉はふっと笑った。
「よう分からんけど…らしいな、お前」
「そうですか?」
瀬戸は、視線をクラゲから逸らさないまま、問い返してきた。
その静かな横顔を見つめながら、佐倉は胸の奥に、小さな泡のようなものが浮かび上がるのを感じていた。
付き合う前、瀬戸とこうしてプライベートで出かけるなんて想像もしなかった。あの日のことを思い出す。仕事帰りにふとした流れで並んで帰った夜。あのとき、何も始まっていなかったはずの気持ちが、なぜか居心地よくて、忘れられなかった。
(付き合ってからの“はじめて”やもんな…)
その言葉が心の中に浮かんできて、佐倉は少し照れくさくなった。
「奏太さん」
不意に名前を呼ばれ、反射的に顔を向けると、瀬戸がこちらを見ていた。
「こうやって会うの、なんか……特別に感じます」
その言葉は、どこか不器用で、それでもまっすぐだった。
佐倉は言葉に詰まりそうになる。目をそらそうとして、けれどやめた。代わりに、小さく笑った。
「…そやな。なんか、不思議な感じするわ」
会話はそれきりだった。だが、水槽の前に立ち、再びクラゲを見つめるふたりの間には、言葉では表せない温度が生まれていた。
クラゲが、ゆっくりと、ただ漂っている。浮遊感のあるその姿に、時間の流れが緩やかになる。
そのときだった。
瀬戸の手が、佐倉の手にそっと重なった。
動作はあまりにも自然で、躊躇がなかった。
佐倉は驚いて、けれど手を引こうとは思わなかった。むしろ、手のひらに感じた温もりに、どこか安心した。
少しだけ間を置いて、佐倉はその手を、指先までしっかりと包むように握り返した。
瀬戸がそっと息を吐くのが聞こえた。
「…嫌じゃなかったですか」
「……あほか」
それだけ言って、佐倉は前を向いた。顔が熱いのをごまかすように、少しだけ口元を歪める。
瀬戸は何も言わず、ただ静かに隣を歩いた。繋いだ手が、ぎゅっと力を込める。
ふたりの歩幅が揃っていく。水族館の照明が、青くゆらめく波のようにふたりを包んでいた。
人の少ない館内は、まるでふたりだけの世界のようだった。
遠くで子どもの笑い声が聞こえた。けれど、それすらも、どこかぼんやりとしていて、現実の輪郭を曖昧にしていた。
この手を、離したくないと思った。
恋人になって、初めての休日。水族館という空間が、ふたりの距離を、少しだけ近づけてくれた。
今はまだ、照れくさい。でも、こうして少しずつ、確かめていければいい。
佐倉は、指を絡めるように、もう一度そっと力を込めた。
瀬戸は、わずかに笑った。口元がほころぶのを、佐倉は見逃さなかった。
その笑顔が、なんだかとても、嬉しかった。
横に並ぶ瀬戸は、いつものスーツ姿ではなく、白いシャツの上に薄手のネイビーのパーカーを羽織っている。肩幅のある体格にまだ少し着慣れていない私服。けれど、そのぎこちなさすらも、この場所では妙に馴染んでいた。
「クラゲ、好きなんです」
突然、瀬戸が言った。
佐倉は一歩先を歩いていた足を止め、横顔を見た。クラゲの水槽の前に立つ瀬戸の頬に、青白い光がふわりと映っている。
「なんで?」
「…ゆっくり動いてて、きれいで。流されてるみたいで、でもちゃんと自分の意思もあって」
その言葉に、佐倉はふっと笑った。
「よう分からんけど…らしいな、お前」
「そうですか?」
瀬戸は、視線をクラゲから逸らさないまま、問い返してきた。
その静かな横顔を見つめながら、佐倉は胸の奥に、小さな泡のようなものが浮かび上がるのを感じていた。
付き合う前、瀬戸とこうしてプライベートで出かけるなんて想像もしなかった。あの日のことを思い出す。仕事帰りにふとした流れで並んで帰った夜。あのとき、何も始まっていなかったはずの気持ちが、なぜか居心地よくて、忘れられなかった。
(付き合ってからの“はじめて”やもんな…)
その言葉が心の中に浮かんできて、佐倉は少し照れくさくなった。
「奏太さん」
不意に名前を呼ばれ、反射的に顔を向けると、瀬戸がこちらを見ていた。
「こうやって会うの、なんか……特別に感じます」
その言葉は、どこか不器用で、それでもまっすぐだった。
佐倉は言葉に詰まりそうになる。目をそらそうとして、けれどやめた。代わりに、小さく笑った。
「…そやな。なんか、不思議な感じするわ」
会話はそれきりだった。だが、水槽の前に立ち、再びクラゲを見つめるふたりの間には、言葉では表せない温度が生まれていた。
クラゲが、ゆっくりと、ただ漂っている。浮遊感のあるその姿に、時間の流れが緩やかになる。
そのときだった。
瀬戸の手が、佐倉の手にそっと重なった。
動作はあまりにも自然で、躊躇がなかった。
佐倉は驚いて、けれど手を引こうとは思わなかった。むしろ、手のひらに感じた温もりに、どこか安心した。
少しだけ間を置いて、佐倉はその手を、指先までしっかりと包むように握り返した。
瀬戸がそっと息を吐くのが聞こえた。
「…嫌じゃなかったですか」
「……あほか」
それだけ言って、佐倉は前を向いた。顔が熱いのをごまかすように、少しだけ口元を歪める。
瀬戸は何も言わず、ただ静かに隣を歩いた。繋いだ手が、ぎゅっと力を込める。
ふたりの歩幅が揃っていく。水族館の照明が、青くゆらめく波のようにふたりを包んでいた。
人の少ない館内は、まるでふたりだけの世界のようだった。
遠くで子どもの笑い声が聞こえた。けれど、それすらも、どこかぼんやりとしていて、現実の輪郭を曖昧にしていた。
この手を、離したくないと思った。
恋人になって、初めての休日。水族館という空間が、ふたりの距離を、少しだけ近づけてくれた。
今はまだ、照れくさい。でも、こうして少しずつ、確かめていければいい。
佐倉は、指を絡めるように、もう一度そっと力を込めた。
瀬戸は、わずかに笑った。口元がほころぶのを、佐倉は見逃さなかった。
その笑顔が、なんだかとても、嬉しかった。
44
あなたにおすすめの小説
【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】
紫紺
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。
相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。
超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。
失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。
彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。
※番外編を公開しました(2024.10.21)
生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。
※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。
エリート上司に完全に落とされるまで
琴音
BL
大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。
彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。
そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。
社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。
今日もBL営業カフェで働いています!?
卵丸
BL
ブラック企業の会社に嫌気がさして、退職した沢良宜 篤は給料が高い、男だけのカフェに面接を受けるが「腐男子ですか?」と聞かれて「腐男子ではない」と答えてしまい。改めて、説明文の「BLカフェ」と見てなかったので不採用と思っていたが次の日に採用通知が届き疑心暗鬼で初日バイトに向かうと、店長とBL営業をして腐女子のお客様を喜ばせて!?ノンケBL初心者のバイトと同性愛者の店長のノンケから始まるBLコメディ
※ 不定期更新です。
またのご利用をお待ちしています。
あらき奏多
BL
職場の同僚にすすめられた、とあるマッサージ店。
緊張しつつもゴッドハンドで全身とろとろに癒され、初めての感覚に下半身が誤作動してしまい……?!
・マッサージ師×客
・年下敬語攻め
・男前土木作業員受け
・ノリ軽め
※年齢順イメージ
九重≒達也>坂田(店長)≫四ノ宮
【登場人物】
▼坂田 祐介(さかた ゆうすけ) 攻
・マッサージ店の店長
・爽やかイケメン
・優しくて低めのセクシーボイス
・良識はある人
▼杉村 達也(すぎむら たつや) 受
・土木作業員
・敏感体質
・快楽に流されやすい。すぐ喘ぐ
・性格も見た目も男前
【登場人物(第二弾の人たち)】
▼四ノ宮 葵(しのみや あおい) 攻
・マッサージ店の施術者のひとり。
・店では年齢は下から二番目。経歴は店長の次に長い。敏腕。
・顔と名前だけ中性的。愛想は人並み。
・自覚済隠れS。仕事とプライベートは区別してる。はずだった。
▼九重 柚葉(ここのえ ゆずは) 受
・愛称『ココ』『ココさん』『ココちゃん』
・名前だけ可愛い。性格は可愛くない。見た目も別に可愛くない。
・理性が強め。隠れコミュ障。
・無自覚ドM。乱れるときは乱れる
作品はすべて個人サイト(http://lyze.jp/nyanko03/)からの転載です。
徐々に移動していきたいと思いますが、作品数は個人サイトが一番多いです。
よろしくお願いいたします。
今度こそ、どんな診療が俺を 待っているのか
相馬昴
BL
強靭な肉体を持つ男・相馬昴は、診療台の上で運命に翻弄されていく。
相手は、年下の執着攻め——そして、彼一人では終わらない。
ガチムチ受け×年下×複数攻めという禁断の関係が、徐々に相馬の本能を暴いていく。
雄の香りと快楽に塗れながら、男たちの欲望の的となる彼の身体。
その結末は、甘美な支配か、それとも——
背徳的な医師×患者、欲と心理が交錯する濃密BL長編!
https://ci-en.dlsite.com/creator/30033/article/1422322
相性最高な最悪の男 ~ラブホで会った大嫌いな同僚に執着されて逃げられない~
柊 千鶴
BL
【執着攻め×強気受け】
人付き合いを好まず、常に周囲と一定の距離を置いてきた篠崎には、唯一激しく口論を交わす男がいた。
その仲の悪さから「天敵」と称される同期の男だ。
完璧人間と名高い男とは性格も意見も合わず、顔を合わせればいがみ合う日々を送っていた。
ところがある日。
篠崎が人肌恋しさを慰めるため、出会い系サイトで男を見繕いホテルに向かうと、部屋の中では件の「天敵」月島亮介が待っていた。
「ど、どうしてお前がここにいる⁉」「それはこちらの台詞だ…!」
一夜の過ちとして終わるかと思われた関係は、徐々にふたりの間に変化をもたらし、月島の秘められた執着心が明らかになっていく。
いつも嫌味を言い合っているライバルとマッチングしてしまい、一晩だけの関係で終わるには惜しいほど身体の相性は良く、抜け出せないまま囲われ執着され溺愛されていく話。小説家になろうに投稿した小説の改訂版です。
合わせて漫画もよろしくお願いします。(https://www.alphapolis.co.jp/manga/763604729/304424900)
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!
中岡 始
BL
社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。
無表情・無駄のない所作・隙のない資料――
完璧主義で知られる凛に、誰もが一歩距離を置いている。
けれど、新卒営業の谷町光だけは違った。
イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。
毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、
凛にだけ距離感がおかしい――そしてやたら甘い。
「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」
戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。
けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、
どこか“計算”を感じ始めていて……?
狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ
業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる