誰と寝ても、俺はいなかったー性のどこにも属せなかった俺が、たった一人にだけ愛された夜

中岡 始

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身体だけが満たされていた夜

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シーツの中、かいは背を向けたまま、浅く目を開けていた。まだ明けきらぬ室内には、ぼんやりとした薄明かりが差し込んでいる。カーテンの隙間から漏れた街灯の残光が、隣に眠る人の肩を淡く照らし、その穏やかな寝息を浮かび上がらせていた。

その人がどんな顔をしているか、もう楷は見ていなかった。見る気にもなれなかった。満たされたように緩んだ頬、やわらかく開かれた唇、それらを思い出すだけで、胸の奥にうっすらと膜のようなものが張る。自分もああして眠れたらいいのに、とすら思わない。ただ、早く朝になってほしいとだけ願っていた。

汗ばんだ背中に、シーツの冷たさがしみ込んでくる。身体の表面は確かに熱を持っていたが、心のほうはずっと冷えたままだった。相手の指が自分をなぞり、唇が触れ、熱が交差し、達する瞬間すらあったはずなのに、今その余韻は、どこにも感じられない。むしろ、何かを削がれたような疲労感が胸に広がっていた。

こんなふうに達しても、何も変わらないと思った。
俺の中身は、どこにもいなかった。
触れられていたのは、ただの“身体”だった。

視線を天井に向けた。白いクロスの継ぎ目が、ただまっすぐ延びている。それを眺めていると、まるで自分の輪郭がそこに吸い込まれていくような錯覚に陥る。耳の奥では、シャワーの水音がかすかに聞こえていた。上の階か、それとも隣の部屋か。水が流れ、排水溝を叩く音。それだけが、この部屋の静けさにリズムを刻んでいた。

楷は、そっとベッドを出た。できるだけ物音を立てないよう、足の裏で床をなぞるようにして、バスルームへ向かう。ドアを閉めるときも、取っ手をゆっくり押さえて音が響かないように気を配った。まるで、自分がここにいることを消し去ろうとするかのようだった。

シャワーをひねると、すぐにぬるい水が降り注いだ。熱くなるまでの数秒間、その冷たさに身を晒しながら、楷は目を閉じた。首筋を伝う水の感触が、かえって自分の温度を思い出させるようだった。やがて、湯気がゆるやかに上がり始め、鏡が薄く曇っていく。

曇った鏡の中に、輪郭のぼやけた自分の顔が映る。濡れた髪が額に貼りつき、目の下のくぼみがはっきりと浮き上がっていた。頬骨の下には薄く影が差し、唇の輪郭も濡れてやけに赤い。けれど、それが“自分”だという実感が、どこにもなかった。

鏡越しに見える顔に、楷は何の感情も抱けなかった。綺麗だと誰かに言われたとしても、それはきっと“仮の姿”にすぎない。どれだけ肌を撫でられても、どんなふうに腰を引かれても、その奥にあるものには、誰も触れてくれないのだと思った。

流れていく。精液も、汗も、
ほんとは心も、こんなふうに洗い流せたらよかったのに。

湯の温度を少し上げた。肩に当たる水流が、次第に重くなる。音も大きくなって、思考を打ち消してくれる。目を閉じて、何も考えないようにした。昨夜のことも、ベッドの中で繰り返された言葉も、どれも聞き流すようにして。自分に向けられた快楽の言葉は、いちいち思い出すほどの価値もなかった。

息を吸って、長く吐いた。浴室の白いタイルが、蒸気でにじんで見える。足元に流れていく湯の跡が、まるで自分の抜け殻を洗い流しているようだった。

バスタオルで髪と身体を拭きながら、楷はぼんやりと空を見上げた。浴室の小窓から見える外はまだ暗く、空には低く雲がかかっていた。今日もきっと雨が降るのだろう。傘を持ってきていたかどうか、思い出せない。けれど、それを煩わしいとも思わなかった。濡れてしまうなら、それで構わないとすら感じた。

バスローブを羽織り、再びベッドルームに戻る。相手はまだ眠っていた。シーツから覗く肩が、呼吸に合わせてゆっくり上下している。気持ちよさそうに眠る顔。その顔を楷は直視しないまま、静かに衣服を身につけていった。

ワイシャツの下にキャミソールを着て、ボタンを留める。ネクタイを締めるとき、指が一瞬だけ止まった。どの位置で結ぶのが正解なのか、分からなくなったのだ。ぴったりと首元まで締めてしまえば、呼吸が浅くなる。けれど、緩めすぎると“男らしさ”が滲みすぎる。ほんのわずかな差が、自分をどちらかに傾けてしまう気がして、楷は迷った。

最終的に、ややゆとりを持たせた結び方を選んだ。ジャケットを羽織り、淡く色を差した唇をもう一度確認して、鏡の前に立つ。そこに映るのは、どこから見ても完璧な会社員の姿だった。だが、その眼差しの奥には、何の熱もなかった。

最後に、ベッドのほうをちらりと見た。シーツの乱れた白と、眠る相手の吐息だけが、そこにあった。楷は何も言わず、何も残さず、部屋を出た。

エレベーターに乗る前、ホテルのロビーの鏡にもう一度だけ自分を映す。だが、その姿もやはり、現実感に乏しかった。シャワーで洗い流したはずの記憶が、どこか皮膚の奥でまだうずいている。あれほど激しく抱かれていたのに、今、自分には何も残っていないことが、むしろ鮮明だった。

外は小雨だった。傘も差さず、駅までの道を歩く。冷たい雨粒が、首筋に一筋滑り落ちる。それさえも、何かを確かめるような感触だった。

楷は、駅の階段を上がりながら、心の奥にぽっかりと空いた穴を感じていた。
それは、いつから在ったものだったのか。
それとも、昨夜の“行為”によって、より深まっただけなのか。

どちらでもよかった。大切なのは、そこに“俺”がいなかったということだけだった。
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